武田を裏切った穴山梅雪…その運命の分かれ道
天正十年(1582年)3月1日、武田方の駿河江尻城主・穴山梅雪が徳川家康に降りました。
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穴山梅雪(あなやまばいせつ)・・・
本名は、穴山信君(のぶただ・のぶきみ)ですが、出家後の梅雪の名が有名なので、本日は梅雪さんでいきます。
梅雪さんの穴山氏は、甲斐(山梨県)南部の穴山と河内の一部を領地に持つ一族で、もとをただせば、あの武田信玄の武田家と祖先が同じ・・・・
って事で、梅雪の時代にも、武田氏とは深い関係を結んでいました。
なんせ、梅雪のお母ちゃんは、信玄の姉・南松院で、梅雪自身の奥さんも、信玄の娘・見性院(けんしょういん)ですから・・・
そんなこんなで、梅雪も武田の配下として三方ヶ原の戦いの時(10月14日参照>>)も重要な位置で活躍し、信玄亡き後も、後を継いだ武田勝頼のもと、長篠の合戦にも出陣し、親族衆の中でも一目置かれる存在でした。
ところが、その長篠の戦い・・・ご存じのように、武田の分が悪い戦いでした。
この時、戦況をいち早く読んだ梅雪は、鳶ヶ巣山砦が陥落したと見るや本格的な戦いを開始する前に撤退し、江尻城へと戻ってしまうのです(5月21日参照>>)。
戦後は、この勝手な戦線離脱を咎められ、武田の家臣たちの中から「切腹させろ!」なんて声も出ますが、勝頼が、それを押しとどめたと言います。
それだけ、武田家によって重要な親族の一人だったのです。
ただ、それからしばらくの一時期、梅雪の妻子が勝頼のもとに人質として捕らわれていたようなので、勝頼も、彼の内通を危険視していた事は確かですが・・・
しかし、その後も、どうも勝頼と意見が合わない梅雪・・・一方で、石山本願寺との戦いに終止符を打って(11月24日参照>>)、心おきなく武田との抗戦に力を注げるとばかりに甲斐への侵攻(2月9日参照>>)をたくらむ織田信長からは、徳川家康を通じて内通のお誘いが・・・
かくして天正十年(1582年)3月1日・・・家康との交渉の結果、穴山&河内の旧領の安堵とともに、勝頼亡き後は、梅雪の息子・勝千代が武田家宗家を継ぐことを条件に、梅雪は、徳川方に降ったのです(2013年3月1日参照>>)。
この交渉中には、すでに梅雪の心も決まっていたとみえ、仲間の依田信蕃(よだのぶしげ)に、「田中城を家康に明け渡すように」と説得役をかって出たりなんぞしてます(2月20日参照>>)。
寝返りから2日後の3月3日・・・梅雪は、甲斐に侵入する家康の先導者となって勝頼に相対する事となりました。
そして、ご存じのように、その1週間後の3月11日・・・勝頼は妻子、残ったわずかな家臣とともに、天目山にて自刃を遂げ、ここに武田家は滅亡するのです。
●『甲陽軍鑑』ベースの最期(2008年3月11日参照>>)
●『常山紀談』ベースの最期(2012年3月11日参照>>)
梅雪のとった寝返りは、裏切り行為として、その後の汚名となった事は言うまでもありませんが、一方では、この時、同時に武田家を見限った他の離反者とは一線をおく別物との見方もあります。
なんせ、世は戦国・・・親族と言えど穴山氏を名乗ってる以上、梅雪は、穴山氏のトップとして、穴山氏の事を一番に考えるのは当然で、穴山氏が、その後も存続するためと考えれば、いたって正統な行為であるという事・・・
また、ご存じのように、勝頼は、父・信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)(6月24日参照>>)の娘で諏訪御料人(すわごりょうにん)と呼ばれた女性の子で、一時は諏訪の後継ぎとされた人物です。
それに比べ、梅雪は武田の親族で嫁が信玄の娘・・・つまり、梅雪の奥さんの見性院にすれば、「我が子=勝千代こそが武田を継ぐべき」と思っていた可能性もあり、だからこそ、内通の条件に、「息子が武田家宗家を継ぐ」という内容が盛り込まれていたとの見方もできるわけです。
とにもかくにも、ここで、徳川方に降った梅雪・・・
彼が、家康とともに信長に会いに、安土へとやって来たのは、天目山から2ヶ月後の5月15日・・・
信長に謁見した梅雪は金貨を献上・・・反対に、信長からは、旧領の安堵と新領地を与えられ、この日の酒宴は大いに盛り上がったと言います。
この酒宴の準備をしたのが、あの明智光秀・・・とスルドイ方は、お解りですね?
この時の宴会で、光秀が用意した魚が腐ってたのなんのって信長さんが激怒して、光秀を殴り倒すシーンがドラマでは多いですが、もちろん、あれはフィクション・・・しかし、例のアノ日は刻々と近づいてるわけで・・・
とは言え、その後、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した梅雪と家康は、21日に京都へ行き、京都見物をした後に29日に堺へ移動して堺を見物・・・
と、この堺見物真っ最中に起こったのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)です。
思えば、この時、中国にいた羽柴(豊臣)秀吉よりも、北陸にいた柴田勝家よりも、はるかに本能寺に近い場所にいた梅雪&家康・・・
信長死すの一報を受けた家康は、はじめは京に上る事を主張しますが、なんせ、今は兵を持たず、堺見物のわずかな手勢のみという事で家臣に説得され、逆に、明智の落武者狩りに遭わぬよう、決死の伊賀越えで、三河へ帰る事になります(6月4日参照>>)。
ここで、運命の分かれ道・・・
東大阪の飯盛山から枚方を抜けた家康に対して、梅雪は、少し北のルート=木津川河畔を通るという別行動をとります。
結局、そのために梅雪一行は、落武者狩に遭い、この木津川河畔(京都府京田辺市)で、天正十年(1582年)6月2日・・・命を落としたのです。
なぜ、梅雪は、家康と別れて行動したのか???
もちろん、真相はわかっておらず、様々な憶測が飛び交います。
梅雪自身が、家康の事を疑っており、ここで袂を分かつ事になった・・・
梅雪一行が、多くの金品を持っていたため、逃亡の道中で、それを家康の家臣に奪われる事を恐れた・・・
また、逆に、家康が梅雪を疑い、暗殺した・・・などとも言われます。
真相もわからぬまま、信長死すの大混乱の中で、命を落としてしまった梅雪・・・思えば、武田の滅亡から、わずか3ヶ月の事でした。
結局、息子の勝千代は、穴山氏は継ぐものの、旧武田の領地は大幅カット・・・しかも、この5年後に、わずか16歳で、疱瘡で急死してしまうため、これも断絶・・・
その後に、家康が、自分の5男・信吉(のぶよし)を送り込んで穴山武田家を継がせるあたりは、なんとも・・・
ただ、こうして、夫にも息子にも先立たれた梅雪の奥さん・見性院が、後に、2代将軍・徳川秀忠の隠し子・保科正之(12月18日参照>>)を、どんなに正室の江から反対されようとも、しっかりと守り育てる気丈さを持ち続けてくれていた事が、戦国を生きた武田の女性らしくて、少しホッとします。
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コメント
茶々さん、こんばんは。勝頼が主人公の小説では、必ずと言っていいほど悪役ですよね。ただ、穴山家の当主としては、というところは納得です。
投稿: いんちき | 2012年3月 1日 (木) 23時04分
いんちきさん、こんばんは~
血で血を洗う戦国ですからね。
裏切りも致し方ないところなのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年3月 1日 (木) 23時30分
梅雪さんは ホンに不運な男で。息子さんも16歳で亡くなっていたのですね。
長篠合戦あたりの進退を見ると、相当に頭が切れた方だ思いますが…。
でも、見性院さんがいたお陰で、名君・保科正之がデビュー出来たのですから。あの世で、少しは慰めになったかと思います。
投稿: レッドバロン | 2012年3月 2日 (金) 00時52分
この人、個人的に気になっている人だったんですよね。武田勝頼から見ると悪役で、自分の存続問題を考えると分からない気がしないでもない~でも、最終的に滅びていることを考えると
下手な裏切りは自分を滅ぼすんですね。生きることは難しい。
投稿: MINORU | 2012年3月 2日 (金) 05時43分
勝頼公を主君として、仕えられなかった?長篠合戦で、武田の重臣が戦死したせいもあると思います。
投稿: やぶひび | 2012年3月 2日 (金) 08時20分
レッドバロンさん、こんにちは~
やはり、見性院さんの気丈さには救われます。
投稿: 茶々 | 2012年3月 2日 (金) 13時17分
MINORUさん、こんにちは~
偶然に落武者狩りに襲われたのだとしたら、本当に不運ですよね~
そのために、結局は、勝頼から見ても仇に扱われ、家康から見ても分かれたために死んだ人扱いで、そういう意味でも不運です。
投稿: 茶々 | 2012年3月 2日 (金) 13時20分
やぶひびさん、こんにちは~
勝頼と、信玄以来の重臣との溝は深いですからね~
投稿: 茶々 | 2012年3月 2日 (金) 13時21分
見性院の墓うちの近くの平林寺という寺にあります。
知恵伊豆さんの墓で知られた寺です。
投稿: wani | 2012年3月 2日 (金) 16時39分
waniさん、こんばんは~
由緒あるお寺が、お近くにあるのですね。
もちろん、私は行った事はないのですが、静かで赴きのある場所なのでしょうね…きっと
投稿: 茶々 | 2012年3月 2日 (金) 19時24分
この穴山さんの記事を読んだ後、勝頼の腹違い?の弟仁科盛信の記事を読みました。穴山さんは裏切り、家のための身の振り方?そのあと不運な死に方をして、子孫は早くなくなる。しかし、仁科さんは最後まで勝頼について死んで子孫は現在も続いててるんですよね、すると天は生き方をちゃんと見てくれているのかな?なんて思いました。
投稿: MINORU | 2012年3月 3日 (土) 16時31分
MINORUさん、こんばんは~
そうですね。
考えたら、あの「エイシー」のCMで話題になった明子&仁美ちゃん母子まで続いているんですもんね。
戦国の世とは、かくも未来を変えてしまうものか?と思ってしまいます。
投稿: 茶々 | 2012年3月 3日 (土) 19時01分
こんにちは!
穴山です。。。
仕事場やフェイスブックなどでは
ふつうにあなちゃん、でもあります。
そういえば、穴山氏結末は歴史マニアに有名ですが、
私は理系だったので興味がありませんでした。
武田に対する裏切りや自然断絶は知っていましたが
しかし、こちらの解説を拝見しびっくりしましたが、、
実は穴山氏を繁栄させるとか、本来の武田血統を守る、
とか、梅雪の考えがあったなど、興味を持ちました。
これで、歴史マニアの人の前でも、どうどうと意見が
言える材料が持てたので、非常に感謝いたします。
ところで、穴山氏が武田領をちゃんと確保して、
保科正之がそのまま穴山氏の幹部としてひきついだら、
私の名前になっていました。
では、また解説の続編を期待いたします。。。
投稿: 穴山@横浜 | 2013年8月24日 (土) 13時51分
穴山@横浜さん、こんばんは~
やはり、お名前が「穴山さん」だとそういう話題になったりするのですね~
歴史に「もし」は禁物と言われますが、そう言われると、逆に妄想が膨らみます。
投稿: 茶々 | 2013年8月25日 (日) 02時09分
穴山梅雪の お墓が 京田辺市飯ノ岡にあり 何度となく 参っています。近くに住む者ですが 周辺は平地で木津川の畔、土民より 家康に殺された可能性が高いと考えます。三河までの逃亡資金を梅雪が持っていた、家康が裏切りの不信持っていた等 この辺りは肥沃な土地で土民は考えにくい。
投稿: 真田丸 | 2016年1月11日 (月) 01時19分
真田丸さん、こんばんは~
そうですね。
本文にも書きましたが、梅雪が家康と別ルートをとった理由もよく分かっていませんし…臭いますね。
投稿: 茶々 | 2016年1月11日 (月) 02時37分
こんばんわ
初めてコメント書きます。
毎回毎回楽しみでいつもこっそり楽しみには意見しています。
ところで穴山氏の領地「河内」についてですが、大阪では無く山梨県内の河内だと思いますがいかがでしょうか?
とてもあの時代大阪に領地を持てるとは思えないのですが・・・。
投稿: うまぉさん | 2016年1月12日 (火) 19時02分
うまぉさん、こんばんは~
アラまw(゚o゚)w
ホントですね~お恥ずかしい(/ー\*)
先に「甲斐南部」と書いておきながら、無意識で()を打ちこんじゃってましたね~多分…
早速、排除させていただいときました。
また、誤字脱字を発見されましたら、お知らせくださいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2016年1月13日 (水) 01時27分
茶々さん
こんにちは!
初めての投稿に早速お返事ありがとうございます。
(感動しました(笑))
茶々さんの年代を問わない見識の高さと好奇心の高さにこれからも楽しみにしています。
投稿: うまぉさん | 2016年1月13日 (水) 12時02分
うまぉさん、こちらこそ、ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2016年1月13日 (水) 16時15分
新年明けましておめでとうございます。今年は、穴山梅雪のことから始めたいと思いますが、梅雪の人生を大きく変えたのは、1560年(永禄3年)に起きた桶狭間の戦いではないでしょうか。というのは、武田信玄(出家前は、晴信)の嫡男である武田義信が、今川義元亡き後の駿河侵攻に反対して、幽閉された上に自害に追い込まれたことで、梅雪は、武田家に不信感を募らせるようになったのかもしれません。信玄が生きてる間は、おとなしく従うのでしょうが、信玄が死去して、武田勝頼が家督を継いだことで、梅雪は、不満をむき出しにしたような気がします。その一方で、勝頼が天目山の戦いで自害して約2ヶ月後に、本能寺の変が起きて、京都からの帰国の途中で非業の死を遂げたのは、梅雪が、運に見放されたのではないかと思いました。
投稿: トト | 2017年1月 1日 (日) 09時12分
トトさん、明けましておめでとうございますm(_ _)m
巡り合わせで、他家を継いだ勝頼が武田の後継者にならねばならなくなった事は、梅雪に限らず、多くの重臣たちにとっても転換の時でしたね。
何か、梅雪についての研究を始められるのですか?
それは良いですね。
投稿: 茶々 | 2017年1月 1日 (日) 14時11分
穴山梅雪に関する補足ですが、昨年放送されたNHK大河ドラマ「真田丸」で、榎木孝明さんが演じたからです。さらに、今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の時代に関わりがある武将だからです。人というのは、事件や出来事によっては、運命が大きく変わってしまうことがあります。梅雪もその1人だったのではないでしょうか。
投稿: トト | 2017年1月 1日 (日) 15時23分
穴山信君は家康は重用するつもりだったところ、大久保忠世が独断で暗殺した(→その後、家康の意を汲む本多正信・正純と大久保家の確執に繋がった)って説をどこかで聞いた記憶がありますが・・・
三河武士の大半は仇敵である武田旧臣の取り込みには反対で、その怒りが爆発したのが穴山事件だったとかいう話も
とはいえ、一時徳川・武田同盟がなった時、穴山信君・下條氏長らが徳川家との交渉に当たったらしいので、信玄・勝頼二代に渡って不本意な仕事をさせられてきたのは確かでしょうね
投稿: ほよよんほよよん | 2017年1月 3日 (火) 16時44分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
その前後の行動も含め、梅雪の死には謎が多いですね。
投稿: 茶々 | 2017年1月 4日 (水) 03時58分