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2012年4月30日 (月)

室町幕府初代将軍=足利尊氏…死す

 

正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、室町幕府初代将軍=足利尊氏が54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

今更言うまでも無い有名人の足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・

このブログでも度々紹介させていただいて、たぶん、これからも頻繁に登場していただく事になると思いますが、

そんな個々の出来事の一つ一つは、【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして、その生涯をサラ~~ッとご紹介しますと・・・

八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)から8代めの源氏の血筋を引き継ぎぐ尊氏が、鎌倉幕府の執権として権勢を奮う北条氏に不満をつのらせていたところ、同じ思いを持つ後醍醐(ごいだいご)天皇楠木正成(くすのきまさしげ)新田義貞(にったよしさだ)らが登場・・・ともに力を合わせて鎌倉幕府を倒します。

しかし、その後、後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)が公家優先の政治だった事から、源氏の棟梁として反発して京に攻め上り、楠木正成や新田義貞を倒して京を制圧したところで負けを認めた後醍醐天皇が、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇に譲位してめでたしめでたし・・・

と思いきや、吉野へと脱出した後醍醐天皇が、そこで別の政権=南朝を打ち立て、尊氏の北朝と対立(12月21日参照>>)・・・ここに南北朝時代が始まる・・・
となるわけですが、

こうしてみると、尊氏という人は、武士のリ-ダー&源氏の棟梁としての強い意思を持ち、常に勇猛果敢に決戦に挑んでいった豪快なイメージを抱きがちですが、

意外や意外・・・
実際には、かなり繊細な心の持ち主で、常に迷い、決断に困ると、その場から逃げたくなるような気の小さな人・・・まぁ、良いように解釈すれば、それだけやさしくて良い人だったという事なのしょうけど・・・

足利尊氏は、最初「高氏」と名乗ってますが、これは、鎌倉幕府・第14代執権の北条高時「高」で、後に尊氏に改名するのは、後醍醐天皇の尊治(たかはる)「尊」・・・

これを見ても、何となくその雰囲気を察してしまいますが、上下関係を重んじる律儀な人でもあり、建武の新政後に後醍醐天皇と戦う事になった時も、初めは
「天皇に弓引くのは本意にあらず」
と言って、一旦は寺に籠ってしまうくらいの人でした。

京都の清水寺には、尊氏が書いた願文が残っているそうですが、
「この世は夢のごとく…」
で始まるこの文は、一見、あの藤原道長♪この世をば わが世とぞ思ふ♪(1月16日参照>>)みたいな、わが世の春を謳歌している感じなのか?と思いきや、そうではなく、

「この世の、幸運やええ事は、皆、弟の直義(ただよし)に譲って、はよ出家したいわぁ」
って事らしいです。

武将にありがちな「俺が征夷大将軍になって天下取ったんねん」てな気持ちは、尊氏さんには無かったと思われますが、一方では、源氏の棟梁としての責任感という、個人の願望とは別の物が尊氏の中にはあったのです。

強いカリスマ性を持つリーダーを慕って集まって来る武将たちの期待に応え、「コイツらを幸せにしたらなアカン!」という責任感が、本来の尊氏が個人的に望む穏やかな暮らしをヨシとせず、結果的に、波乱万丈の人生へと導いていったのでしょう。

そんな人生の波乱は、晩年になってもおさまる事はありませんでした。

それこそ、「早く、全部を任せて、自分は引退したい」と思うほどの信頼を寄せていた弟=直義とは『観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>) で敵対する事になり、以前はいいサポート役だった高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)もおかしな事になり・・・

亡くなる3年前の延文元年(正平十年・1355年)に起きた東寺合戦では、南朝側についた息子=直冬(尊氏の次男で直義の養子になっていた)本陣を尊氏自らが攻めるという事も・・・

確かに、ともに暮らした事の無い認知だけしたお妾さんの子ではあった直冬とは言え、息子は息子・・・仲間に頼られただけで何とかしてやりたくなる尊氏の性格から察するに、齢50を過ぎた晩年になって、息子に弓を向ける事は、やはり辛かったのではないかと思います。

しかも、この東寺合戦が、一進一退の市街戦となった事で、これまでの戦いですでに大半は焼失していた京の町を、さらに焦土と化してしまいました。

その頃の都の様子を『太平記』では、
「離々(りり)たる原上(げんじゃう)の草、累々たる白骨、叢(くさむら)に纏(まと)はれて、有りし日の都の迹(あと)とも見えず成りにければ…」
と書いています。

それは、もはや朝の炊事の煙一筋も立たなかったとか・・・以前書かせていただいたあるお公家さんの都落ちのお話(10月27日参照>>)も、『太平記』のこの部分で登場します。

それこそ、私が想像する通りの責任感の固まりのような尊氏さんであったなら、このような都の状況を、どのような思いで見ていた事でしょう。

やがて延文三年(正平十三年・1358年)・・・その時は、静かにやって来ます。

以前より、背中にできていた悪性の腫瘍・・・一説には、先の直冬との合戦で受けた傷のところにが腫れて治らなかったとも言われるその腫れものが、この4月20日頃から、いよいよ悪くなり、数々の名医が呼ばれて治療するも、いっこうに快復せず・・・

果ては陰陽師や高僧を呼んでの祈祷まで行いますが、日に日に尊氏の容態は悪くなるばかり・・・

最後には、側近や看護の女官までが、皆、涙をこらえながら、ただ見守るだけの状態となり・・・

延文三年(正平十三年・1358年)4月30日午前4時(太平記の表記は四月二十九日寅の刻)・・・尊氏は54歳にして、ついに、その生涯を閉じたのです。

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天龍寺・後醍醐天皇聖廟(多宝殿)としだれ桜

京都・嵐山にある天龍寺は、この尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建てたもの・・・(10月5日参照>>)

その壮大な伽藍は、
「天皇に弓を引く事はできない」という個人の思いと、
「部下のためにはヤルしかない」という責任感とのハザマで揺れ動いた尊氏の苦悩の大きさを物語っているような気がします。
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2012年4月28日 (土)

豊島泰経と照姫…石神井城の伝説

 

文明九年(1477年)4月28日、大田道灌が豊島泰経の籠る石神井城を攻撃しました。

・・・・・・・

東京都練馬区にある石神井公園(しゃくじいこうえん)・・・

関西在住の私は、まだ行った事が無いのですが、聞くところによれば、石神井池三宝寺池を中心に四季折々の花々が咲き、グランドや野外ステージもあるステキな公園で、会の真ん中とは思えない静けさのある憩いの場所として都民に親しまれているようですね。

とは言え、この公園のおおもとは、室町時代に周辺を支配していた豊島(としま)の居城=石神井城(しゃくじいじょう)・・・戦国の城の宿命とは言え、この場所が戦場となった事も、かつてはありました。

時は、まさに戦国の幕開けの頃・・・

そもそもは・・・南北朝動乱のために、本拠地が関東でありながら、京都で幕府を開く事になってしまった室町幕府=足利氏は、足利尊氏の嫡男=義詮(よしあきら)の家系が京都にて代々将軍職を務める一方で、鎌倉公方として四男・基氏(もとうじ)を派遣し、この基氏の家系が関東を治める事とし、その公方を補佐する役職として関東管領(かんとうかんれい・当初は執事)を置きました(9月19日参照>>)

しかし、案の定・・・京の都より遠く離れた関東では、やがて、その公方が独り歩きしはじめ、幕府中央とは一線を置く独立国家のようになってしまったため、第6代将軍の足利義教(よしのり)が関東管領と協力して、第4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)葬り去ったわけです永享の乱:2018年2月10日参照>>)が、

今度は、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)勝手に公方を名乗って関東で大暴れ・・・「勝手に名乗られちゃ困る」と、正式な公方を派遣するも、乱れる現地では、正式な公方が鎌倉に入れない・・・と、もはやワチャワチャ状態となる関東一帯・・・

Ootadoukan600この頃、関東管領職をあずかっていたのが、扇谷(おうぎがやつ)上杉山内(やまのうち)上杉の両上杉家で、そのうちの扇谷上杉家の執事大田道灌(どうかん)でした。

一方の山内上杉家の執事を勤めていたのが長尾家だったのですが、文明五年(1473年)に、その長尾家の当主・長尾景信が亡くなった時に後継ぎ問題に山内上杉顕定(あきさだ)が介入・・・嫡男を押しのけて、強引に弟の忠景(ただかげ)に、家督を継がせようとしたのです。

当然の事ながら、怒り爆発なのは、本来なら家督を継ぐはずだった嫡男の長尾景春(かげはる)です。

早速、勝手に公方を名乗ってるあの成氏と組んで武蔵鉢形城(はちがた・埼玉県)にて挙兵・・・その名も「長尾景春の乱」を起こしました。

当初は、家は違えど同じ立場の執事同志という事で景春に同情的だった道灌でしたが、やはり、主君=関東管領を補佐するという本来の職務を全うする決意をし、結局は景春と敵対して乱を鎮圧する道を選びます。

一方・・・お待たせしました!

やっと出て来た、本日の主役である石神井城の11代城主・豊島泰経(としまやすつね)・・・彼は、ここで景春についたのです。

泰経が、景春を支持した理由は定かではありませんが、もともと豊島家が長尾家の配下だったとも、あるいは、道灌が築城した江戸城(4月8日参照>>)が、泰経の石神井城を脅かす位置にあった事に反発したとも言われます。

かくして始まったのが文明九年(1477年)4月13日の江古田(えこだ)沼袋(ぬまぶくろ)戦い・・・(4月13日の後半部分参照>>)

この戦いで大敗し、弟の泰明(やすあき)まで失った泰経は、何とか石神井城まで逃げ帰り、道灌に対して降伏を申し出ますが、道灌が、その降伏の条件として出したのが、城の破却・・・

しかし、何日か経っても、泰経が城の破却に着手する様子が無かった事から、「実際には降伏する気がない」と見た道灌は、文明九年(1477年)4月28日石神井城に総攻撃を開始したのです。

自然の要害である三宝寺池を挟む台地に建つ石神井城は、なかなかの堅城ではありましたが、ご存じのように、戦国屈指の名将である道灌からの総攻撃を受けた以上、それは時間の問題・・・やがては窮地に陥ってしまいます。

「もはや、これまで!」
覚悟を決めた泰経は、家宝の『黄金の鞍』を白馬に乗せ、城壁の真横にあった崖から三宝寺池めがけて飛び込みました。

馬とともに池に沈んでいく泰経・・・それを見た娘の照姫が、その後を追って入水自殺をはかり、ここに平安時代から続く武蔵の名族=豊島氏は滅亡したのです。

ところが、いつのほどからか、夜になると、泰経・父娘がその身を投げた三宝寺池から、宝石か?黄金か?と見まごうばかりの眩しく怪しい光が発せられるとの噂がたちます。

やがて、池のほとりには泰経と照姫の塚が建てられ供養されますが、その後も「怪しい光を見た」「照姫の幽霊を見た」という噂が絶える事は無かったとか・・・

・・・と言いたいところですが、これは、あくまで伝説・・・

道灌側の史料では、泰経はこの石神井城では死なず、うまく脱出した後、小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)にて再起を試みますが、再び敗れて逃走・・・つまり、泰経は、いつ死んだかわからない状況のまま、表舞台から姿を消す事になっているそうです。

なので、正史としては、そのご命日もわかっていないという状況です。

ただし、上記の霊的現象の伝説は、地元では有名な話として長きに渡って語り継がれていたらしく、明治の頃には、池に沈んだ『黄金の鞍』を探そうと、池に潜った人までいたとか・・・

まぁ、塚もある事ですし・・・現在では、照姫の悲劇をしのぶ『照姫まつり』というイベントも毎年開催されるらしいので、ひょっとしたら、ひょっとするのかも・・・ 
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2012年4月27日 (金)

長崎を開港した日本初のキリシタン大名・大村純忠

 

天正七年(1579年)4月27日、肥前大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄託しました。

・・・・・・・・

備前(佐賀県)島原の戦国大名=有馬晴純(ありまはるずみ)の次男=大村純忠(すみただ)が、大村家の養子となったのは、わずか4歳の時でした。

当時、島原半島には、いくつかの氏族があったものの、多くは、未だ小さな国人・・・しかし、有馬氏だけは、島原半島一帯に誇る勢力を持つトップクラスの大名であった事から、彼ら小さな国人たちは、この有馬氏に従属するような形で均衡を保っておりました。

そんな中での天文七年(1538年)、その有馬氏が、更なる勢力拡大を図って、隣国の大村氏に送り込んだのが純忠・・・将来、この大村家の当主となってもらって、有馬氏傘下を確実の物にしようというわけです。

とは言え、純忠を養子に迎えた大村純前(すみあき)にも、すでに、3歳になる実子の貴明(たかあきら)がいて、本来なら、この子が大村氏の後継ぎなわけですが、この養子縁組は、その実子を武雄領主の後藤純明(すみあきら・すみあき)への養子に出してまで結ばれた、ちょっと強引な物でした。

おそらくは、大村氏としては、大きな勢力の有馬氏の力に屈して、しぶしぶ受けた養子縁組・・・この事は、貴明もちろん、大村の家臣たちの心にも、深く刻まれた事でしょう。

Oomurasumitada300_2 やがて天文十九年(1550年)、17歳になった純忠は、大村氏の家督を継ぎ18代当主となりますが、上記の通り、周囲は敵だらけの状況で、それは、純忠のこれからにも、大きく圧しかかって来る事となります。

ところで、彼が当主となった天文十九年(1550年)と言えば・・・

そう、その前年に鹿児島に上陸したイスパニアのキリスト教宣教師=フランシスコ・ザビエル(7月3日参照>>)せっせと布教活動をしていた頃・・・

ザビエル以来、更なる宣教師を乗せたポルトガル船がやって来るようになりますが、その中心地となっていたのが、隣国の松浦氏が領土とする平戸港・・・

純忠は、そんな平戸の様子を見て、いち早く、その利に気づきます。

宣教師が日本にやって来るのは、なにも、布教目的だけではありません。

そこには、巨万の富を産む貿易という物もついて来ます。

しかも、松浦氏は、貿易で大儲けするにとどまらず、最新鋭の武器をいち早く輸入し、その国力もグングンと拡張している様子・・・これは、黙って見てるわけにはいきません。

そこで、純忠・・・当時、豊後(ぶんご=大分県)に滞在していたコスメ・デ・トーレス神父に書状を送ります。

「ウチの領地内にある横瀬浦を開港しますんで、こっちに来てもらえまへんやろか?
布教活動にも便宜を図りますし、商売にも大きく貢献しますよって…」

と・・・

そんな働きかけをしていたおりもおり・・・天の助けか神の思し召しか、

平戸にて商売をしていたポルトガル人が、取引のトラブルで殺傷されてしまうという事件が起こります。

当然の事ながら、ポルトガル人が平戸を敬遠しはじめ、「ならば・・・」と、横瀬浦にやって来るようになり、たちまちのうちに、横瀬浦は外国貿易の中心となっていくのです。

永禄六年(1563年)には、純忠自身も、家臣=25名とともに洗礼を受けドン・バルトロメオの名を授かり、日本初のキリシタン大名となったのです。

ポルトガル人を特別待遇とし、宣教師の布教活動を保証し、領民にもキリスト教を推進し・・・と、純忠が様々な優遇措置をとった事で、大村領は、日本で最も多くのキリスト教徒が住む町として大いに発展しますが、それは、同時に、これまでの仏教や日本の神教を圧迫する事でもあるわけで、そこには当然、反発も生まれます。

しかも、冒頭に書いたように、大村氏の家臣の多くは、養子に出された貴明こそが本来の主君と思っている者も少なくないわけで・・・

永禄七年(1564年)・・・そんな彼らが、純忠を廃して貴明を迎えようと蜂起・・・もちろん、当の貴明もこれに乗っかり、さらに、近隣の龍造寺氏や松浦氏の援助も受けて勢いづいた彼らは、反乱軍として乗り込み、横瀬浦を占領して焼き払ってしまいました。

しかし、純忠はめげません。

永禄十一年(1568年)に、横瀬の変わりとばかりに、まずは福田浦を開港した後、2年後の永禄十三年(1570年)には、長崎を開港したのです。

そう、当時は未だ、人もまばらな漁村だった長崎を・・・です。

ここから後、この長崎が、日本の中で、最も外国に近い場所として、近代に至るまでの様々な文化の発信基地となるのは、皆さまご存じの通り・・・そのおおもとを造ったのが純忠さんなんですね~

もちろん、先の反乱軍の火種が根絶されたわけではありませんので、その後も、幾度となく反乱分子の襲撃を受ける長崎ですが、その度に純忠は守りぬきまた。

・・・で、冒頭に書いた通り、
天正七年(1579年)4月27日には、長崎・茂木をイエズス会に寄託し、更なる発展を遂げて行く長崎港・・・

そんな純忠は、天正十年(1582年)に、日本人初の公式ヨーロッパ訪問使節となった天正遣欧少年使節(6月20日参照>>)を派遣する大名の1人にも名を連ねています。

ちなみに、この時、正使の役目を担った千々石(ちぢわ)ミゲルが、純忠の甥っ子です。

ただ、ご存じのように、まもなく、キリスト教徒にとっては苦しい時代となります。

豊臣秀吉九州征伐(11月25日参照>>)では、純忠は、秀吉に従った事で所領を安堵されて生き残りますが・・・

そう、天正十五年(1587年)6月19日に発せられる秀吉の『切支丹(キリシタン)禁止令』(6月19日参照>>)・・・ここから、時代は大きく変わっていくのですが、

幸か不幸か・・・そのわずか1ヶ月前の天正十五年(1587年)5月18日、純忠は55歳で病死しました。

もう少し生きていたなら、この先の長崎の発展とともに、キリスト教徒への仕打ちも見る事になりますが、それを見ずに逝く事が、良かったのか悪かったのか・・・それこそ、神のみぞ知るところであります。
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2012年4月26日 (木)

いよいよ上洛…足利尊氏・大宰府を出発!

 

延元元年・建武三年(1336年)4月26日、多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が、京を目指して大宰府を出発しました。

・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)に反発して反旗をひるがえし、京へと攻め上った足利尊氏・・・(12月11日参照>>)

しかし、一旦、京を制圧するも、駆けつけた新田義貞楠木正成北畠顕家(あきいえ)らの後醍醐天皇方に破れ(1月27日参照>>)やむなく、九州へと落ち延びました。

その九州で体勢を立て直し、多々良浜の戦いに勝利した尊氏(3月2日参照>>)・・・

一方、天皇側では、義貞が尊氏追討に少々手間取ってる間に、西国の諸将の中から、勝利で勢いづく尊氏への寝返り組が続出します。

これに危機感を抱いた後醍醐天皇は、ここで東国までもが尊氏の味方となってしまっては一大事!!とばかりに北畠顕家を鎮守府将軍として奥州に派遣し、一方の義貞には尊氏追討の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を下しました。

これを受けた義貞は、児島高徳(こじまたかのり)とともに、畿内と西国の要所である播磨(はりま=兵庫県南西部)で、尊氏側につきながらものらりくらりと衝突をかわしていた赤松則村(あかまつのりむら・円心)を攻めたてます。

最初は少々手間取ったものの、義貞&高徳の連携プレーによる陽動作戦で、赤松軍を熊山(くまやま=岡山県赤磐)に誘い込み、その間に手薄となった要所=船坂山(ふなさかやま=兵庫と岡山の境にある峠)を落としました。

難攻不落と言われたこの場所を落とした事で、天皇側は、堰を切ったように中国地方への進攻していきます

一方、九州で着々を勢力を拡大しながらも、未だ上洛の時かどうかの判断を決めかねていた尊氏・・・

Asikagatakauzi600 そこへ、かの赤松則村の三男=則祐(そくゆう)が馳せ参じて、
「是非とも上洛を!!」
と、望んだ事で、気持ちが固まります。

かくして建武三年(延元元年・1336年)4月26日京を目指して、大宰府を出発した尊氏・・・

5月1日には、安芸(あき=広島県)厳島に到着し、そこで3日間の参籠を行って勝利を祈願していると、

その最終日に、尊氏のもとに光厳院(こうごんいん=北朝初代の天皇)院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)が届き、これによって、ますます心は奮起します。

早速、弟の直義(ただよし)20万騎の大軍をつけて陸路にて東に向かわせ、自らは7500余艘の大船団とともに、海路にて東を目指します。
(*今回の数字的な物は、すべて太平記の言い分です)

この時、尊氏は、船中で不思議な夢を見ます。

南の方角から、輝く光に包まれた観世音菩薩が飛んできて、船の舳先に留まり、つき従う二十八部衆が様々な武器をを持って、それをお守りする・・・

ふと目覚めると、実際に、山鳩が1羽飛んできて、尊氏の船の屋形の上に留まりました

これを勝利の兆しと確信する尊氏・・・

一方、陸路を進む直義軍は、5月15日、30万騎の大軍を擁して天皇方にくみしていた福山城を落としました。

この報告を受けた義貞は、一旦、摂津(大阪府)まで後退し、陸路&海路の両方の足利軍を一気にぶっ潰す迎撃作戦を練りますが、この間にも、「尊氏上洛」のニュースを聞いた諸将の寝返りは留まらず・・・

新田軍と同盟を結んでいた者たちも、どんどんと、その場から立ち去ってしまい、やがて、義貞が兵庫に着いた頃には、わずか2万ほどの軍勢しか、そばにいませんでした。

これを心配した後醍醐天皇は、楠木正成を呼び寄せて「義貞と協力して、尊氏を迎撃せよ」との命令を下します。

そこで、正成が一つの作戦を提案します。

「まずは、後醍醐天皇には、一旦、比叡山へと退いてもらい、兵庫に行った義貞を再び京へ呼び戻した後、敵軍を京都市中におびき入れ、新田&楠木連合軍で、それを取り囲み、四方から猛攻をしかけて討ちのめす・・・
てな作戦はいかが?」

と・・・

ところが、この作戦は、坊門宰相清忠(ぼうもんのさいしょうきよただ)反対によって却下されてしまいます。

「天皇たる者が、敵を恐れて都を退くなど、そのプライドが許さん!」
という事らしい・・・

ここで、正成は、次の合戦が運命の戦いになる事を覚悟したと言います。

「此の上はさのみ異儀を申すに及ばず」
(もう、どない言うでもムダなんや・・・)

静かに、そう答えた正成は、5月16日・・・500騎の手勢とともに、義貞の待つ兵庫へと向かったのでした。

次は、いよいよ、楠木父子のあの名場面ですが・・・そのお話は、5月16日の【楠木正成&正行~桜井の別れ】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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2012年4月25日 (水)

生涯7回…「引っ越し大名」松平直矩の泣き笑い

 

元禄八年(1695年)4月25日、徳川家康の曾孫で、姫路藩主村上藩主日田藩主山県藩主白河藩・・・って、エエィややこしい!

なんしか、越前松平家・第2代当主の松平直矩が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

そうなんです・・・

本日の主役=松平直矩(なおのり)さん・・・その生涯で7回も引っ越ししています。

もちろん、この時代の藩主という立場ですから、引っ越しって言っても、たんに住みかを引っ越しする引っ越しではなく、国替えというヤツです。

それは、まず、父=直基(なおもと)の時代から・・・

この直基さん・・・ご存じ、結城秀康(ゆうきひでやす)五男です。

・・・と、結城秀康と聞くと「あぁ…なるほど」と思われる方も多いでしょう。

これまでにも書かせていただいている通り、この秀康さんは、徳川家康の次男でありながら、なぜか、いつも、徳川家から冷たくあしらわれる傾向にある人・・・

それは、家康が、我が子であるにも関わらず、なぜか秀康を嫌ったから・・・とも、
あの小牧長久手の戦い終了後に人質として豊臣秀吉のもとに送られ、そこから結城家に養子に出されて結城家を継いだ事で、もはや他家の人物として扱われたから・・・とも、

当の秀康も、それを理解していたのか、徳川家から松平姓を名乗る事が許された後も、決して名乗る事は無く、生涯、結城の姓で通した・・・なんて事も言われていますね(11月21日参照>>)

なので、実際に松平姓を名乗るようになるのは、秀康の息子たちから・・・って事になるのですが、以前書かせていただいたように、秀康の長男である松平忠直(つまり直基の兄)も、第2代将軍=徳川秀忠(家康の三男)と正室=(ごう・江与)の間に生まれた勝子というスーパーエリートの嫁を迎えながらも、なんだか不幸な汚名を着せられちゃってます(6月10日参照>>)

まぁ、今回の直矩さんの父=直基さんの場合は、稀代の暴君の汚名を着せられなかっただけでもマシなのかも知れませんが、このお父さんの代だけで、4回も国替えさせられてます。

まずは、その結城秀康が松平に復したあとに、そのままになっていた結城氏の家督を継いだ直基ですが、その後、越前(福井県)勝山1回目の国替え・・・

次に越前大野2回目・・・ちなみに、今回の主役=直矩さんは、この越前大野時代に生まれてます。

ほんで、3回目出羽山形4回目播磨(兵庫県)姫路・・・まぁ、徐々に加増されているのでヨシと思わなきゃやってられませんが・・・

ところが、この4回目の播磨姫路への転封から、わずか2ヶ月後・・・父=直基は45歳で病死してしまいます。

Matudairanaonori140 それは康安元年(1648年)・・・直矩は、未だ5歳という幼さでした。

・・・で、幕府としては、姫路という重要な場所に幼い藩主を置く事をヨシとしなかったのでしょうね、

なんせ、姫路は、畿内と中国地方を結ぶ要所、徳川の身内として、西国の外様大名に睨みをきかせなきゃならない場所ですから・・・

結局、翌年に、その生涯では3回目、藩主としては初めての国替えで、越後(新潟県)村上藩に・・・

成人して、ようやく姫路に戻されたのが寛文七年(1667年)・・・直矩=26歳の時でした。

ところが、その4年後に起こったのが、親戚である越後高田藩のお家騒動・・・

この越後高田藩というのは、先の忠長さんの息子=光長が藩主を務めていた所・・・先に書いた通り、忠長は、直矩のお父さんの兄なので、つまりは直矩の従兄弟が光長なわけですが、この光長の1人息子が、男子がないまま亡くなってしまった事で、光長の甥っ子同志で、後継者をめぐる争いが起こったのです。

直矩は、この時、一族の1人として仲裁役に入っていたのですが、この越後騒動(6月21日参照>>)が、、予想以上に長引くドロドロ劇となってしまったために、その責任を取らされて閉門(一家で自宅謹慎)となってしまいました。

翌年には閉門は許されたものの、減封となり、天和二年(1682年)に、生涯5回目、藩主として3回目の国替え豊後(大分県)日田(ひた)に・・・

4年後には減封の罪が許されて、3万石加増される事になりますが、加増はうれしいものの、またまた引っ越しなわけで、貞享三年(1686年)に出羽山形へ・・・これが、生涯6回目、藩主で4回目の国替え・・・

さらに6年後の元禄五年(1692年)に、これまた5万石の加増はうれしいけど、陸奥(むつ=福島県)白河藩に、生涯7回目、藩主で5回目のお引っ越しとなります。

上記の通り、かの越後騒動にからむ国替え以外は、姫路から村上の横すべりが1回だけで、あとは加増なのだから、ありがたいっちゃぁありがたいわけですが、一説によれば、(その藩の規模にもよるものの)藩の引っ越しには、当時、最低でも1万両以上の費用が必要だったなんていう推測もありますから、何度もの転封は、藩の財政を圧迫する結果となり、最後の白河藩への引っ越しの頃には、藩は、かなりの借金をかかえ、すでに財政破たんしていたとも言われます。

とにもかくにも、この最後の白河藩で15万石の藩主となった直矩は、あの越後騒動で減ったぶんを、ようやく取り戻し、もとの姫路と同じの15万石に戻ったわけで、直矩さんも、「これで、やっと落ち着ける~」とホッとすると同時に、「よっしゃぁ~、借金返すど!」と、新たな気持ちで張り切っていたかも知れませんね。

ところが・・・
その、わずか4年後・・・

領国から江戸へと向かっていた旅の途中で体調を崩した直矩は、江戸に到着後も快復する事なく、元禄八年(1695年)4月25日江戸藩邸にて54歳の生涯を閉じました。

他に例のない転封劇から『引っ越し大名』とあだ名される直矩さん・・・

草葉の陰から
「好きでやっとったん、ちゃうワイ!」
という叫びが聞こえて来そうです。
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2012年4月24日 (火)

名君か否か?茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり

 

文政元年(1818年)4月24日、出雲松江藩の第7代藩主で茶人としても知られる松平治郷が68歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

出雲(島根県)松江藩の6代め藩主=松平宗衍(むねのぶ)の次男として生まれた松平治郷(はるさと)が、父の隠居を受けて第7代藩主の座についたのは明和四年(1767年)・・・わずか17歳の時でした。

しかも、この父の隠居というのが、ちょいとワケあり・・・

なんせ、この時、父は38歳・・・本来なら、まだまだ藩主として頑張れる年齢だったわけですが、それを、ある事の責任をとる形で、言わば「隠居させられた」・・・

その「ある事」というのが、松江藩の財政難・・・それも、もう破たん寸前のギリギリのとこまで来ちゃってました。

とは言え、さすがに、たった17歳で借金大国を背負わされてしまっても、治郷1人で何ができるわけもありませんから、そこは、責任とって隠居したとは言え、父が後見人となって支え、家老の朝日茂保(しげやす=丹波)を仕置き役に据え、藩政改革に乗り出します。

Matudairaharusato600_2 まずは、川の開削や砂防など治水工事を行っての農業改革・・・

繁殖産業では、木綿に加えて朝鮮人参など、より価値の高い物を推進し、特に、大根島で生産された朝鮮人参は、国外に輸出できるほどになり、藩の大きな収入源となりました。

また、松前塗り出雲焼きなどの発展にも力を入れて名工の育成にもあたりました。

さらに、厳しい倹約令を出し、多すぎる役人のリストラも断行・・・ただし、同時に年貢も値上げしてるので、庶民から見れば、手放しで万々歳ってわけにもいきませんでしたが・・・

こうして、藩の財政改革を進める一方で、茶の道での才能を発揮していく治郷さん・・・

まずは、松江藩茶道頭正井道有(どうゆう)小堀遠州の流儀を習い、次に(わ)び茶を極め、さらに、将軍家の数寄屋頭伊佐幸琢(こうたく)に師事し石州(せきしゅう)を学びました。

それでも、まだ足らず、19歳の時には天真寺(東京都港区)大巓(だいてん)禅師に弟子入りし、3年間に渡って禅の修行を積んだ後、不昧(ふまい)と号しました。

ちなみに、この治郷さん・・・後に、石州流を基礎にした不昧流という独自の流派を立ちあげるほどになるので、時には松平不昧の名で紹介される事もあります。

ところで、上記の通り、質素倹約を推しすすめている松江藩ですので、茶道を学ぶにあたっては、藩主と言えど贅沢は好みません。

彼が20歳の時に著したという『贅事(むだごと)なる書物では、
「千利休や武野紹鷗(じょうおう)の頃の侘び茶の精神に戻れ!」と称し、持ちによる名器の買いあさりや、贅沢な茶会などを痛烈批判・・・

♪釜ひとつ 持てば茶の湯は なるものを
  よろずの道具 好むはかなしさ ♪

という歌も詠んじゃってます。

うんうん・・・さすがは一流茶人の治郷さん・・・侘びってますねぇ~

・・・と言いたいところですが、人間、生活に余裕ができると、その価値観も変わるものなんですかね~~

これまでの様々な財政改革で、見事、借金地獄から抜け出した松江藩・・・いや、それどころか、懐ホクホクの好景気となったは良いが、その途端に治郷は、名器買いに走りはじめるのです。

500両の茶入れに、300両の茶碗・・・
それは「世の中の名器は、皆、俺が買うたる!」
と豪語するほどの勢いだったとか・・・

今も残る『道具帳』によれば、その数は518点にものぼるそうで、昔に言ってた事とは180度の豹変ぶりです。

まぁ、これも、ご本人の言い分によれば
「千年の後に、名と物の形代(かたしろ)を残さんがため…」

つまり、良い物を後世に残すためには、しっかりとした管理をせねばならないわけで、自らがそれを管理する、今で言う博物館的なつもりだったという事かも知れませんが・・・

しかし、それで、せっかく回復した藩の財政が、またまた窮地に陥るほどの収集ぶりだったのですから、ちょっと考え物ですね。

ただし、これも、治郷さんの味方をするならば、財政が潤って藩が強くなれば、即座に幕府から警戒されるこのご時世なので、幕府の目をかわすために名器買いに走ったという説もあり・・・

なので、治郷さんの評価は賛否両論です。

財政は建てなおしましたが、税金は高いし、結局、その財政もまた悪くなるわけですし・・・

とは言え、治郷が大成した不昧流の茶道から発展した様々な風流な文化・・・特に、和菓子は、この平成の日本でも松江市はトップクラスの技術と伝統があります。

現在、日本に数多くある「小京都」と呼ばれる場所の中でも、本場の京都の次に金沢、そして3番手に来るのが松江だと言われます。

今に伝わる松江の雅な文化は、この治郷さんなくしては語れないほどなのですよ。

文政元年(1818年)4月24日・・・すでに隠居して長男の斉恒(なりつね)に家督を譲っていた治郷は、静かに、その生涯を閉じます。

「わが流儀立つべからず、諸流皆我が流」

自分とこの流派がいくら大成したからと言っても、「自分とこだけがスゴイ!」と驕りたかぶるのではなく、いつも、他の流派の良いところはしっかりと認めていたという治郷・・・

そこには、完全無欠の名君よりは、ちょっと劣るけど魅力的な、彼なりの「侘び」の精神があったのかも知れません。
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2012年4月23日 (月)

日清戦争の後の「三国干渉」のこと

 

明治二十八年(1895年)4月23日、4月17日に締結された下関条約について、ロシア・ドイツ・フランスの3ヶ国の公使が異義を申し立てました。

教科書にも出て来る『三国干渉』というヤツですね。

・・・・・・・・・

明治二十七年(1894年)7月から約10ヶ月に渡って繰り広げられた日清戦争は、明治二十八年(1895年)4月17日の下関条約の締結によって終結を迎えました。

くわしくはそれぞれのページで・・・

しかし、その条約締結から、わずか5日後の明治二十八年(1895年)4月23日、その下関条約の中にある「遼東(りょうとう)半島の割譲」について、ロシア・ドイツ・フランスの3ヶ国の公使が異義を申し立てて来たのです。

早速、政府は、アメリカイギリスイタリアの各駐在公使に対して、日本に味方してくれるよう働きかけますが、未だ列強との絆は、そう強くないこの時期・・・各国は、「日本の味方にもならない代わりにアチラにもつかない」と、中立の立場に立つ事を約束してくれるだけでした。

さて、どうする???

戦争の終了直後という事で、首脳陣それぞれが忙しいさ中、とりあえず集まったメンバーに明治天皇を迎えての御前会議が開かれますが、やはり、どう考えても、日本の行く道は三つの内の一つ・・・

●例え戦争になったとしても、この異義を拒絶か、
●異義を受け入れて、遼東半島を返すか、
●列国会議を開いて問題処理にあたるか、

この中では、究極の選択を避けるべく、「列国会議を開くのが妥当」という意見も多かったようですが、一方では徹底抗戦を叫ぶ声もありました。

なんせ、列国会議を開けば、当然、その席で、それぞれの国の利害関係が入り乱れてトンデモない話し合いに展開する事も予想され、結局は、下関条約も無かった事にされる危険性もあり・・・

こうして、会議に会議を重ねて話し合われた結果・・・三国干渉と清国との事を別物として、三国が異義を申し立てる遼東半島の事のみを譲る事とし、

5月5日
「日本帝国政府は露・独・仏三国政府の友誼(ゆうぎ)ある忠告に基づき奉天半島(遼東半島)を永久に占領する事を放棄する事を約す」
との回答を決定したのでした。

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教科書でお馴染のビゴーの風刺画…列強の仲間入りをすべく、新入りの挨拶する日本(横浜開港資料館蔵)

当然の事ながら。この結果に世論は沸騰し、マスコミも「せっかくの三国のご好意なのだから、国民もそれに酬いないとね」なんて事を、皮肉たっぷりに書きますが、いかんせん、国力のほとんどを日清戦争につぎ込んでしまった日本には、列強を相手に対抗する力は残っておらず、しばらくの間は現状に耐え抜いて、力の回復にまい進するしかありませんでした。

しかも、これで、東アジアの情勢はますます複雑になってしまいました。

ドイツが山東半島に、イギリスが九竜半島に、フランスは広州湾に、アメリカはハワイに・・・それぞれが触手を伸ばしはじめ、果ては、かの遼東半島にロシアが手を出したひにゃ・・・

こうして、日本全体が『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)=「成功を得るために、今は苦労に耐える」のスローガンのもと、ロシアと敵対していく事となります。
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2012年4月21日 (土)

いよいよ始まる長篠城・攻防戦

 

天正三年(1575年)4月21日、武田勝頼が三河長篠城の奥平信昌を包囲しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、長篠設楽ヶ原の戦いですね。

本来は、まず、このあたりからお話せねばならないところを、織田鉄砲隊VS武田騎馬隊・激突のあの日の事から、ついつい先に書いちゃったもので、順番がアレで、内容もかぶり気味すが、こ容赦のほど・・・m(_ _)m

・‥…━━━☆

そもそもは、未だ甲斐(山梨県)武田信玄が健在な時代・・・

後に長篠城主となる奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は、長篠城の北西にある作手(つくで=亀山)を本拠とする武将で、父=奥平貞能(おくだいらさだよし)とともに武田に臣従しておりました。

ところが、天正元年(1573年)4月12日の信玄の死をキッカケに・・・と言っても、これまでにも書かせていただいているように、信玄の死はしばらくの間は公表されていなかった(4月16日参照>>)ワケですが、ご存じのように、それまで、あの三方ヶ原(12月22日参照>>)に代表されるように、「このまま上洛するのか?」と思われる雰囲気で西に進んでいた武田軍が、野田城攻防戦(1月11日参照>>)の後、いきなりの撤退を開始した事には、誰だって「アレ?」と思うわけで・・・当然、その不信感と動揺は、武田の家臣にも、そして周囲の戦国武将にも走るわけです。

そんな中で、かねてから徳川家康の包囲を受けていた武田配下で三河(愛知県東部)側の最前線の位置にある長篠城が開城されます。

比較的アッサリと開城してしまった事で、長篠城主の菅沼正貞(すがぬままささだ)は、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼から「徳川への内通」を疑われてしまいますが、この時、同時に内通を疑われたのが奥平貞能・・・

ところが、実は、貞能は本当に内通していたのです。(9月8日参照>>)

いや、実際には、上記の信玄の死が本当かどうか知りたい家康が、それを確かめるべく、水面下で貞能に接近して来ていたという感じでしょうか。

家康と接触できた貞能はそれをキッカケに、「家中の様子から信玄の死は確実である」事を家康に報告しただけでなく、家康の長女=亀姫長男=貞昌との婚約を成立させ、完全に徳川配下となる事を表明・・・一族を率いて作手城を退去し、家督を貞昌に譲りました。

これに応えるかのように家康は、徳川傘下となった貞昌を、改修工事を済ませた新たな長篠城の城主に迎えて守らせたのです。

もちろん、勝頼とて、その状況をそのまま見過ごすわけにはいきません・・・いや、逆に、勝頼は偉大なる父を越えようとしてか、積極的に隣国に進攻して来ます。

その年の10月には家康の居城・浜松城近くまで迫ったり、翌・天正二年(1574年)正月には、織田信長配下の美濃(岐阜県)明智城を落としたり、さらに、その5月には、父=信玄も落とせなかった高天神城をも陥落させたのです。

かくして天正三年(1575年)3月下旬・・・勢いづく勝頼は、1万5000という大軍を率いて南下を開始し、天正三年(1575年)4月21日この長篠城を包囲したのです。

守る奥平勢は250人・・・徳川から派遣されている傭兵を合わせても、わずかに500人ほどの守りでした。

5月8日・・・いよいよ、大軍による本格的な攻撃が開始されます。

やがて11日には、長篠城の野牛門(やぎゅうもん)に迫った武田軍が猛攻撃を仕掛け、あわや城内に!!という場面もありましたが、城兵は城壁から岩石を落としたり、巧みな弓矢で抵抗し、何とか防ぎました。

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武田の猛攻に耐える長篠城の様子…「長篠合戦図屏風」部分(犬山城白帝文庫蔵)

しかし、多勢に無勢はもう、わかりきった事・・・いくら踏ん張れど、30倍の兵力差はいかんともし難く、13日には、城内になだれ込んだ武田勢に食糧庫を破壊されてしまいます。

長期にわたる籠城戦に耐え抜いて、徳川の援軍を待つつもりだった貞昌の思惑は、この食糧庫の破壊でぶっ潰されてしまい、もはや長篠城は風前の灯となります。

どうする?貞昌・・・と言っても、降伏して開城する事をヨシとしないのであれば、長篠城の現状を家康に報告し、一刻も早い援軍の到着をお願いするしか道は無い・・・

ここで史上最強の伝令=鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が、家康のいる岡崎へ走ります。

さぁ、ここからは続きをどうぞ

 

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2012年4月20日 (金)

長良川の戦い~斎藤道三の最期

 

弘治二年(1556年)4月20日、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三が、クーデターを決行した長男・義龍と戦って討死した長良川の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存じ、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公として有名な斎藤道三(どうさん)・・・

Saitoudousan600 主家を乗っ取り、次々と名前を変えて、一介の油売りから一国一城の主になる様は痛快でおもしろく、戦国下剋上の見本とされる方ではありますが、現在では、これは道三とその父、親子2代の物語であるというのが定説(1月13日参照>>)となってはいます。

まぁ、それでも、その人気や魅力は変わらないですが・・・

・・・で、そんなこんなで美濃(岐阜県)を制した道三ではありましたが、以前から確執があった嫡男=義龍(よしたつ)が、弘治元年(1555年)10月22日、道三から可愛がられていた二人の弟を殺害して居城の稲葉山城を占拠(10月22日参照>>) ・・・そう、クーデターを決行したのです。

これを聞いた道三は、稲葉山城下を焼き払って裸城にした後、自らは長良川を越えて、鶴山(もしくは鷺山)に陣を置き、家臣たちに参陣を呼び掛けます。

ところが、その呼びかけに応えて道三のもとに馳せ参じたのは、わずかに2700・・・

一方、当然の事なから、息子の義龍も、同時に諸将に声をかけているわけですが、コチラに集まったのは、道三の6倍以上にあたる1万7500人・・・

先の10月22日のページにも書きましたが、どうやら、義龍という人は、かなり人望が厚かったようで・・・逆に、道三は、これまで主家を乗っ取ってのし上がって来た人・・・家臣の中には、その乗っ取られた主家の家臣も、まだ、いるわけですからね。

この数字の差を知った道三・・・「明日は合戦か!」という日に、遺言状をしたためます。

これが、ご存じの、あの織田信長への「美濃を譲る」と記した書状です(4月19日参照>>)

この書状の真偽はともかく、信長には、道三の娘である濃姫(帰蝶)が嫁いでいますから・・・長男がクーデターを起こして次男&三男を手にかけた以上、「娘婿を頼る」という事も、確かにあったでしょうね。

もちろん、信長もそれに応えて出陣する事はするのですが、この時の信長は、未だ尾張(愛知県西部)一国も統一できていない状況ですから、彼が留守にすれば、義龍に同調した織田一族の誰かが、そのスキを狙って動いて来るわけで・・・

かくして迎えた弘治二年(1556年)4月20日・・・

稲葉山城を出た義龍が長良川の南岸に軍を移動させるのを見た道三は、その北岸に陣取り、いよいよ火蓋が切られます。

歴然たる数の差に、ある程度の覚悟を決めて、前日には遺言状を書いた道三ではありますが、そこは数々の死闘をくぐり抜けて来た戦国のマムシ・・・

たとえ、こっちの数が少なかろうとも、相手の義龍は未だ戦い慣れていないはず・・・

「そこを突いて、前衛を崩したなら、相手は慌てて本隊を繰り出して来るに違いない!!
そこを、生け捕りにしたる」

その思惑の通り、緒戦は道三の軍が戦いを有利に進めていきます。

しかし、一陣・二陣を切り崩せども、義龍の中備・後備は少しも乱れず、左右の旗本たちも、見事に列を崩さぬまま・・・徐々に、徐々に前へと進み、やがて川を越えて対岸へとたどりつき、こうなると、またたく間に、道三軍は壊滅状態となります。

『武将感状記』によれば、
ここに来て、道三は初めて、これまで愚息扱いしていた義龍の器量を認識したと言います。

「もはや、今日、討死すると覚悟を決めた・・・
おそらく、この先、義龍は、隣国からの攻めにも耐え、この斉藤家を守り抜く事やろ。
俺は、死んでも怨めへんゾ。
もともと、義龍を憎かったわけやないし・・・
アイツの器量を見抜かれへんかった俺がアホやった。
家のためと思て弟の方に家督を譲ろうと思ったんやが、それがアカンかったんやな」

と、ポツリと話し、戦いの中に呑みこまれていったと言います。

やがて長良川河畔で討ち取られた道三の首は、鼻を削がれた無残な姿で河原に晒されたと言いますが、それには、『翁草』に、こんな逸話が残ります。

この長良川の戦いの少し前・・・義龍は、幾人かの家臣を集めて
「今日、父・道三に会うたら、どうしたもんやろ?」
と尋ねます。

なんせ、相手は義龍にとって父、居並ぶ家臣たちにとっても主君なわけですし・・・

すると杉先(長井忠右衛門)なる者が進み出て
「生け捕りにしましょう」
と言います。

さずがに、真っ向から敵対するのは忍びなく、生け捕りにして、その後トコトン話し合い、納得づくで隠居してもらって、義龍が後を継ぐ・・・
「禍(わざわい)転じて福となす・・・って事もありまっさかい、ウマイ事おさまるかも知れまへん」
という杉先の言葉に、思わず義龍も納得・・・

かくして決戦のさ中、向こう岸に渡った杉先は、道三の姿を捕えます。

「危害を加えるつもりはありません!ただ和睦を勧めに!!」
と、心で叫びながら、あまたの敵をかいくぐって道三の近くに寄る杉先・・・

ところが、そこに小牧源太なる者が後ろから走って来て、杉先を押しのけるように前へと進み、有無を言わさず道三の両足を斬ったかと思えば、すかさず、その首を取ってしまったのです。

やむなく杉先は、その時のドサクサにまぎれて、鼻を削ぎ落して持ち帰ります。

やがて河原での首実検・・・小牧が義龍の前に進み出て、その首を奉げると、義龍は「これはいかに!!」と、驚きを隠せない様子・・・

そこに杉先・・・
「せめてものお印にと、お鼻を戴いて参りました」
と、涙を流しながら、義龍の前に差し出したのです。

この後、杉先は、髪をおろして高野山に入ったとの事・・・

この逸話の真偽のほどは定かではありませんが、一般的には、「鼻を削がれた無残な首が河原に晒され…」というところだけが語られるので、父子と言えど容赦の無い戦国の世の厳しさを痛感するわけですが、この『翁草』の逸話をみると、義龍にとっても、斉藤家のための苦汁の決断だったのかな?という気持ちになりますね。
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2012年4月19日 (木)

かりそめの講和が破れ大坂夏の陣へ…

 

元和元年(慶長二十年・1615年)4月19日、徳川家康が大野治純に長兄=大野治長の様子を問わせました。

・・・・・・・・・・・

元和元年(慶長二十年・1615年)と言えば・・・ご存じ、大坂夏の陣ですね。

あの関ヶ原で反対勢力を一掃し、ほぼ天下を手中に治めた徳川家康が、222万石あった所領を摂津河内和泉の65.7万石へと減封されて一大名に成下がった豊臣秀頼に、最後の鉄槌をお見舞いした戦い・・・

という印象が強いですが、度々申し上げている通り、私個人的には、これは、この後、勝ち組となった徳川の言い分で、実際には、この大坂の陣が始まる頃でも、まだ豊臣の天下であり、あくまで家康は豊臣配下の中での一番の実力者という位置だったと思ってますが、そのお話をし出すと、また長くなっちゃいますので、本日のところは、とりあえず通説通りに、お話を進めさせていただきますが・・・

★くわしくはコチラを見てくだされm(_ _)m
 関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係>>
 秀吉が次世代に託した武家の家格システム>>
 ついでに:家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係>>

・・・で、
事の発端は、慶長十九年(1614年)7月、秀頼が京都の方広寺に寄贈した鐘に書かれた銘文にイチャモン(7月21日参照>>)をつけた家康が、その5日後には大仏の開眼供養の延期(7月26日参照>>)を決定し、その弁明に訪れた片桐且元(かたぎりかつもと)を軽くあしらいながら無理難題の最後通告・・・(8月20日参照>>)

「そんな無理難題、聞けるかい!」←by豊臣方
と、始まったのが大坂冬の陣なわけですが、
今福・鴫野の戦い(11月26日参照>>)
野田・福島の戦い(11月29日参照>>)
のあと、
真田丸の攻防(12月14日参照>>)で、多くの戦死者を出してしまった家康は、ここから力攻めをやめて、ジワジワ心理作戦に変更・・・昼夜を問わず定期的に鬨(とき)の声を挙げさせたり大砲を撃ち込んだり・・・やがてその一発がたまたま天守閣に命中した(12月16日参照>>)事がキッカケとなって和睦交渉が始まり・・・

・・・と、この時、和睦交渉にあたったのが、秀頼の母である淀殿の妹で、徳川秀忠の奥さんの江の姉である初=常高院(じょうこういん)だったのは、皆さまご存じの通り・・・(12月19日参照>>)

で、この講和の条件として、初が、「惣構えから二の丸に至る防御施設の破壊」というのを了解してしまう事は、このあとの歴史を知ってる者からすれば、完全なる失敗なわけですが、上記のページにも書かせていた通り、何かしらの条件を呑まないと講和が成立しない中で、「所領減らされるのもイヤ」「淀殿が江戸城に行くのもイヤ」「雇った浪人たちを処罰するのもイヤ」となれば、他にやりよう無かったワケで・・・

もちろん、この掘の破却についても、以前は、
「講和の条件では外堀を埋めるだけのはずだったのが、徳川方が約束を破り、あれよあれよと言う間に、内堀まで埋めてしまって、大坂城は裸城になった」
と言われて来ましたが、

ここ最近では
「上記のような逸話は後世に造られた物で、もともと始めっから、本丸だけを残して、城の施設はすべて取り壊す事となっていて、豊臣方の者たち自らが埋め戻し工事を行っていた」
という説も浮上しています。

そう、この掘の埋め立てに関してでさえ、まだまだ謎が多いんですね。

Dscf0009a800
大阪城・空堀…現在のは徳川の大阪城ですが、掘りを埋めるってこんな感じ?もうちょっと、完全に平な感じなのかな?

私個人的には、徳川方にいろんな史料が末梢されてると睨んでます。
だからつじつまの合わない事がいっぱいあるのではないかと・・・

まぁ、謎解きはディナーの後・・・じゃなく、何回もディナーを食べたいずれかの日に書ける事を目標としながら、更に話を進めますが・・・

こうして、結ばれた講和も、結局、わずか3ヶ月後の慶長二十年(1615年)3月15日・・・「大坂方が伏見に放火して回った」「大坂方が再び浪人をかき集めている」との噂立っている事を受けた京都諸司代の板倉勝茂(いたくらかつしげ)が、「大坂方に謀反の兆しあり」と家康に報告した事で新展開となります。

これについての家康の追及に対して、早速の3月24日、大坂城にいる大野治長(はるなが)の使者が、駿府を訪れますが、家康は納得せず・・・

今度は、将軍・秀忠と連名で
「秀頼が大坂城を出て大和(奈良県)か伊勢(三重県)に国替えするか」
もしくは
「現在いる浪人者すべてを放逐するか」
究極の選択を迫ります。

講和の条件をまったく無視した無理難題に困惑する大坂方をよそに、家康は、「名古屋城主をやってる息子の徳川義直(よしなお)の結婚式に出ると言って駿府を出発・・・

その翌日には、治長の使者が
「秀頼と淀殿の国替えはできない」
との返事を持って家康のもとを訪れると、家康はひと言・・・
「ほな、しゃぁないな~」
と・・・

このあと、
「みんな、鳥羽伏見に集結してや~」4月6日諸将に呼びかけた家康は、続く4月12日の息子の結婚式に出席した後、駿府へは戻らず、そのまま西へ・・・

一方、江戸城を出て結婚式に出席していた秀忠も西へ・・・

両者は、4月18日4月21日相次いで京都に入りました。

こうして、いよいよ大坂夏の陣の火蓋が切られるワケですが、本日の元和元年(慶長二十年・1615年)4月19日「家康が大野治純(はるずみ)に兄・治長の様子を…」って話ですが・・・

実は、大坂の陣において、大坂城内で最も秀頼&淀殿の近くにいて重要な役割をしていた治長は、去る4月9日大坂城内の楼門のそばにて、何者かの闇討ちに遭い重傷を負っていたのですね。

・・・で、この治純という人は、治長の一番下の弟なんですが、幼い時に豊臣から徳川への人質に出されていたため、この時は、家康に仕えていたわけです。

そんな彼に、家康は・・・
「兄ちゃんのケガの具合、どないな様子か聞いて来いや」
と・・・

あぁ、狸爺ぃの顔が目に浮かぶ~
(家康ファンの皆さま、今回ばかりはお許しを)
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2012年4月18日 (水)

文禄の役~休戦協定と加藤清正

 

文禄二年(1593年)4月18日、文禄の役で明・朝鮮との間に休戦協定が成立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、豊臣秀吉朝鮮出兵・・・・今もなお、その理由については様々な憶測が飛ぶ戦いですが・・・(3月26日参照>>)(10月23日参照>>)

その1度目の出兵=文禄の役で、文禄元年(1592年)4月13日釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、最初こそ破竹の勢いで北上したものの(4月13日参照>>)、徐々に、反撃を開始する朝鮮政府と民間軍に阻まれ、やがては(中国)からの援軍の参戦もあり・・・

逆に一方の秀吉軍は長旅の疲れも出始め・・・いつしか戦況は泥沼化のこう着状態となります。

明けて文禄二年(1593年)1月26日、なんとか碧蹄館(ビョクジェグァン)戦いに勝利するも、遠い他国で初めての冬を迎えた秀吉軍の諸将の疲れはピークに(1月26日参照>>)・・・もちろん、一番大事な兵糧の確保もままならない状態となります。

ただし、疲れとともに「もう、ええわ!」感を感じていたのは日本側だけではありません。

なんたって朝鮮半島の冬は寒い・・・ここに来て、明&朝鮮軍も、いっこうに進展しない、このこう着状態を脱する方法を模索していたわけで・・・

かくして文禄二年(1593年)4月18日日本側と明&朝鮮との間に休戦協定が交される事となります。

その内容は・・・

  1. 明から講和使節を派遣する 
  2. 明軍が朝鮮から撤退する 
  3. 豊臣勢が漢城(ハンソン)から撤退する 
  4. 朝鮮王朝の2王子と臣従の身柄の返還

以上の4項目でした。

こうして、この後、明からの講和使節が、小西行長石田三成の帰国とともに日本にやって来る事になるのですが、休戦に向けてのモロモロは、また、いずれかの「その日」にお話させていただくとして・・・

休戦協定が結ばれた、まさにその日づけにて、あの加藤清正が現地から、長谷川守知(はせがわもりとも)なる人物に宛てて手紙をしたためています。

この守知という人は、織田信長の側近で茶人や画家として知られた長谷川宗仁(そうにん)の息子で、当時は秀吉の近臣として仕えていた人・・・

おそらくは、守知への手紙と称しながら、
「そばにいる秀吉に現地の現状を伝えたい」
「彼を通じて、今の自分らの状況を知ってほしい」

という気持ちがあったのでしょう。

Kiyomasa0418syozyou600
加藤清正・長谷川守知宛書状(佐賀県立名護屋城博物館蔵)

最初こそ、
「朝鮮王子兄弟と諸官人を日本に連れて行く任務を遂行中!」
と、清正らしく、勇ましい雰囲気をかもし出していますが、

途中からは
「今、都(漢城)を撤退して釜山に向かってるんやけど…」
と切り出し
「俺の動向について、なんか、奉行衆(三成ら)がウソの報告してんのが腹立つねん」
と言い
「この頃は唐人(明・朝鮮軍)の勢いが強まって来てるみたいやけど、それって、俺らが長い戦いで疲れきってるからやねん」
と・・・

最後には、思いのたけを吐露しちゃってます。

あの虎退治の逸話からイメージする猛々しさとは違い、もはや泥沼化して疲弊しきっている現地の現状や、この先の豊臣家内のモメ事(3月4日参照>>)を予感させる内容が赤裸々に語られているところが、なんともおもしろいです。

この手紙の雰囲気だと、たぶん清正さんは、まだ休戦協定の事を知らないのだろうけど、とにかく、帰れる事になって良かったです。

まぁ、帰った後は、ご本人が心配していた通り、三成らの報告(内容は諸説あり)によって、蟄居(ちっきょ=謹慎)処分になってしまう清正さんですが、その事は、また後々考えましょうぞ!
 .

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2012年4月17日 (火)

下関条約締結で日清戦争・講和成立

 

明治二十八年(1895年)4月17日、下関条約が締結され日清戦争が終わりました。

・・・・・・・・

朝鮮半島を巡る、日本と清国(中国)の対立から、明治二十七年(1894年)に勃発した日清戦争・・・

明治維新が成って、近代国家として歩み始めた日本にとっては、初めての本格的な対外戦争・・・一方の清国は「眠れる獅子」と恐れられた大国・・・

ところが、実際に戦いが始まると、世界からは、未だ一人前とは思われていなかった日本が、周囲の予想に反して有利に事を展開していく事となります。

・‥…━━━☆

これまで、このブログで書かせていただいているのは・・・

・・・と、先日は、あの正岡子規(まさおかしき)従軍記者として現地に渡ったお話(4月7日参照>>)をさせていただきましたが、

・‥…━━━☆

実は、日清両国ともに、明治二十七年(1894年)の秋頃から、すでに講和に向かっての話し合いを模索していたのです。

この時、直隷(ちょくれい)総督巡撫(じゅんぶ)兼北洋通商大臣という言わば、清国側の政治と軍の中枢を占める重要な役どころについていたのが李鴻章(りこうしょう)という人物・・・

この10月から、すでに日本側も講和の条件について国内で協議している事を小耳に挟んだ彼は、駐日アメリカ公使エドウィン・ダンを通じて、日本側の陸奥宗光(むつむねみつ)外相にコンタクトをとり、その結果、翌年の1月から広島にて、講和交渉を開始する事が決定されたのでした。

かくして年が明けた明治二十八年(1895年)・・・清国から講和使節が派遣され2月1日には外相の陸奥とともに、首相の伊藤博文とも会見し、事は順調に運ぶ・・・かに見えましたが、

残念ながら、この時の使節が持参した委任状に不備があったため、彼らを、正式な講和の全権大使とみて話し合う事ができず、ここで交渉がストップしてしまいます。

しかも、冒頭のリンクにある通り、この会見の翌日の2月2日には、結果的に日清戦争最後の戦いとなった威海衛(いかいえい)攻略が・・・

この事で、ますます立場が悪くなった清国側は、「もはや李鴻章・本人を全権として日本に派遣するしかない」という結果に至ります。

こうして、李鴻章は、養子の李経方(りけいほう)らを伴い、3月19日門司港に上陸・・・翌日から下関の春汎楼(しゅんぱんろう)にて、講和交渉が開始されたのです。

Syunpanrou400 しかし、交渉はなかなか思うように進みませんでした。

・・・というのも、清国がまず求めたのは「休戦条約の締結」
しかし、日本は、はなから「講和の談判」・・・

その最初の姿勢が違うので、そこから前へ話が進みません。

2回目・3回目と何度も話し合いの場は持たれますが、いっこうに進展なし・・・「もはや休戦を諦めて講和交渉に向かうしかないか…」と、さすがの李鴻章も思った3回目の会議の終了後・・・

事件です。

この3回目の会議のあった24日の夕方・・・宿舎に帰る途中の李鴻章が暴漢に襲われたのです。

幸いケガだけですみましたが、これは完全なる日本側の失態・・・日本は慌てて清国側の姿勢を受け入れる事となり、3月30日に休戦条約が結ばれました。

こうして、とりあえず休戦状態に入った両国・・・翌日からは講和の条件について話し合う事になりますが、日本側が出した条件が、清国側が予想していた物とは大きく違っていたため、李鴻章は、本国と連絡を取りながら、交渉の引き延ばしにかかります。

しかし、休戦したとは言え、それは文字通り休戦なので、この間にも続々と大陸に向けての援軍部隊を派遣する日本・・・

この様子を見て、「このままウダウダ引き延ばしていると更なる決戦となる事は必至・・・」との判断をした李鴻章は、明治二十八年(1895年)4月17日、本国の了解を得たうえで、日本の出した条件を基本とした講和条約に調印したのでした。

★下関条約の主な内容

  • 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス 
  • 清国ハ次ノ土地ナドヲ永久ニ日本国ニ割与ス
     1、奉天
    (ほうてん)省南部ノ地遼東(りょうとう)半島
     2、台湾全島
     3、澎湖
    (ほうこ)列島 
  • 清国ハ康平(こうへい)銀弐億両ヲ日本国ニ支払フベキコトヲ約ス
  • (以下略)

こうして、日清戦争は終結・・・勝利した日本は、これで列強の一角に喰い込むキッカケを掴んだ事になるのですが、一方では、条約調印からわずか5日後の4月23日ロシアドイツフランス3ヶ国の公使が東京の外務省にやって来て、上記の条約の中にある「遼東半島の割譲」について異義を申し立てます。

世に言う『三国干渉』ですが・・・
そのお話は4月23日のページでどうぞ>>
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2012年4月16日 (月)

鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛

 

元弘三年(1333年)4月16日、再び幕府に反旗をひるがえした後醍醐天皇を討伐するため、足利高氏が京に入りました。

・・・・・・・・・・

源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に開いた日本初の武士政権も、合議制の名のもと頼朝直系の将軍はわずか3代で絶え(4月12日参照>>)、その後は名ばかりの将軍を公家から招いて、実質的には、頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)の実家の北条氏が執権として実権を握る事になりました。

やがて正和五年(1316年)、第14代執権に北条高時(たかとき)が就任・・・

ところが、その2年後に第96代天皇として即位した後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)が、現政権に不満を持ち、天皇の親政を目指して密かに画策・・・度々の失敗にもめげず、やがて、楠木正成(くすのきまさしげ)という味方を得た後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)9月、笠置山にて挙兵します(9月28日参照>>)が、残念ながら、赤坂城で奮戦する正成は敗れ(10月21日参照>>)、後醍醐天皇も、翌年の3月に隠岐への流罪となって(3月7日参照>>)弘の変は終結・・・

しかし、その1年後の元弘三年(1333年)閏2月・・・それまで身をひそめていた後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が各地の反幕府勢力をまとめて吉野山に立て籠り、再び倒幕ののろしを挙げると、ナイスなタイミングで、やはり身を隠していた正成が千早城にて挙兵・・・(2月5日参照>>)

もちろん、幕府は千早城に向けて討伐の大軍を送り込みますが、この時、千早城を囲んでいたうちの1人が新田義貞(にったよしさだ)・・・彼は、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)17代めの子孫で清和源氏の総本家筋にあたる名門の出身でしたが、権勢を誇る北条氏の鎌倉幕府のもと、その要請を拒否できずに千早城の背面攻撃に出陣していたのでした。

とは言え、源氏の棟梁たる者が、北条の下で、しかも後醍醐天皇に味方する正成をに相対しているこの現状で良いのか?という思いが義貞にはあり、結局彼は、千早城を落とす事無く、仮病を使って領地の上野(こうずけ・群馬県)へ戻ってしまい、やがては反旗(5月11日参照>>)・・・という事になるのですが・・・

Asikagatakauzi600 そんな義貞と同じような思いを抱いていたのが、もう一人の源氏の御大=足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)でした。

彼は、その八幡太郎義家の3男・義国(よしくに)の次男(または3男)義康(よしやす)8代め・・・義康の4男である義兼(よしかね)北条時政(ときまさ=政子の父)の娘と結婚したのをはじめに、代々に渡って北条氏とも姻戚関係にあったわけですが、一方では義康の奥さんが頼朝の母方の親戚でもあり、源氏の血脈を持つプライドもあり・・・

そんな高氏のもとに、高時からの出陣要請が来たのは、先の千早城攻防戦の真っ最中の頃・・・

そう、息子の護良親王や正成の再起を知った後醍醐天皇が、この機に乗じて隠岐からの脱出を図り、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事から、「鎌倉に向かって討幕軍が派遣される」という噂が流れ、高時が大軍を編成して迎え撃とうと有力外様20名を召集・・・その中の1人に高氏が入っていたわけです。

彼らの使命は、半分は京都の警固を、残り半分が主力として船上山を攻略する事でした。

この時の高氏は、一昨年亡くなった父・貞氏(さだうじ)喪が明けてわずか3ヶ月・・・しかも、高氏自身が病を患ってここしばらくは闘病中で、未だ完全に快復したとは言い難い状態・・・

そんな時に、高時は、何度も何度も出陣要請をして催促して来るのです。

高氏は考えます。

「北条氏は、もともとは桓武平氏と言うても、臣籍に下ったんは遠い昔の話や・・・
けど、俺は清和源氏・・・
血統の高貴さからいったら、俺らのほうが上やねんから、いっぺんぐらいは礼儀をわきまえても良さそうなモンやけど、これほどエラそうに何回も出陣要請してケツ叩くやなんて・・・高時のアホが!
まだ、しつこく言うて来んねやったら、一家全員で上京して、後醍醐天皇の味方になったんねん」

と・・・

もちろん、そんな気持ちは心の内に秘めたまま・・・

やがて、高氏は、一族郎党を連れて上京の決意・・・しかし、これには、さすがの高時も怪しみ、高氏の誓書を要求します。

やむなく、高氏は息子の千寿王(せんじゅおう=後の義詮)と奥さんを、人質として鎌倉に置いたまま誓書を提出・・・3月27日に、弟の直義(ただよし)以下、吉良上杉仁木(につき)細川今川荒川などの一族=約3000騎を率いて鎌倉を出発したのでした。

こうして、幕府の主戦司令官という任務を背負ったままの高氏が入京したのが元弘三年(1333年)4月16日・・・

・・・と、その翌日・・・早くも高氏は、船上山に籠る討幕軍に向かって、彼らに味方する事を約束する密書を送ります。

それを聞いた後醍醐天皇は大いに喜び、すぐさま、これまた密かに討幕の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を与えます。

しかし、そうとは知らぬ幕府軍は、京都の南端の八幡(やわた)山崎にて討幕軍と交戦中
(4月8日参照>>)・・・その間に高氏は、戦場である山崎ではなく、丹波の篠村(京都府亀岡市)へと向かい、準備を整えるのでした。

・・・と、いよいよ鎌倉討幕も佳境に入りますが、そのお話は、やはり高氏が動く5月7日のページでどうぞ>>
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2012年4月15日 (日)

アンケート企画「歴史人物“密着24時”するなら??」の結果発表

 

お待たせしました!

最新アンケート
「歴史人物に『密着24時』するなら、いつの誰に?
の結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
天正十年(1582年)6月2日の明智光秀がトップでございました。

やはり戦国一のミステリー・・・
しかも、例え信長ファンであっても、「見てみたいのは光秀の行動」「知りたいのは光秀の胸の内」という感じですからね。

今回も、コメントを沢山いただき、大変楽しいアンケートとなりました。

ではでは、
コメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>> (別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
26票
天正十年(1582年)6月2日の明智光秀
やはり、知りたい!事件の真相・・・戦国最大の謎ですからね~
2位
21票
仁安二年(1167年)2月11日の平清盛
もともと興味津々な人であるうえに、大河ドラマの影響も大きかったようですね…
3位
10票
大化元年(645年)6月12日の蘇我入鹿
勝ち組の言い分に塗り固められた歴史の真相を確かめたい!
4位
9票
天正十年(1582年)6月2日の織田信長
こちらも、やはり気になりますからね~昼間の茶会から密着してみたい!
5位
5票
慶長五年(1600年)9月15日の小早川秀秋
慶応三年
(1867年)10月14日の徳川慶喜

戦国と幕末のターニングポイントが同数5位!
7位
4票
天正三年(1575年)5月16日の鳥居強右衛門
天慶二年
(939年)12月19日の平将門

7位はともに興味のあるキャラクターとなりました~かたや汚名挽回にかたや更なる絶賛のために密着したい!
9位
2票
慶長五年(1600年)9月15日の湯浅五助
慶応三年
(1867年)10月13日の岩倉具視

これもまた…戦国と幕末のターニングポイントに助演男優賞を差し上げたいお二人が揃いました。
11位
1票
延元元年(1336年)5月25日の楠木正成
天正十二年
(1584年)11月15日の織田信雄
慶長二十年
(1615年)5月8日の大野治房

それぞれ1票ずつでしたが、その動向をじっくり見てみたいお3人…
14位
0票
天平勝宝三年(751年)3月12日の東大寺の僧
天文十二年
(1543年)8月25日の種子島時堯

残念ながら、この2項目は0票でした…「その日一日密着」という事とは少し違う選択肢だったかも知れませんね(*_ _)人ゴメンナサイ
その他 19票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

明智光秀 ぜひ取材してください(女性/10代/京都)
「やっぱり見たいですよね~」
明智光秀 この日の光秀に密着できる…叶うなら見てみたい…
「歴史好きの夢の24時間ですね~」
織田信長 日本をどのような国にしたかったのか聞いてみたい(男性/40代/広島)
「確かに…ゆっくりとインタビューしてみたいですね」
「その他」 名前がわからないのですが、100年前に日本から送られた桜を植樹した日の米国大統領夫人(男性/30代/千葉)
「毎年、美しく咲いてる様子がニュース番組で報道されてますね」
湯浅五助 関ヶ原のことよりも、吉継さんの人物像について語ってもらいたいなあ(女性/50代/福井)
「吉継さんのファン…多いですよね~」
平将門 どれも捨てがたいですがぜひ胸の内を聞いてみたいです!(女性/30代/静岡)
「本当に王になりたかったのか??知りたいですね。
「その他」 桶狭間の戦いの織田信長(男性/40代/秋田)
「本能寺か桶狭間か…私も迷うところでした。」
「その他」 6月2日前後の秀吉とか見たいかも・・・ホントは知ってたんちゃうん?(男性/30代/福岡)
「中国大返しの離れ業の真相を聞いてみたい!」
「その他」 S20.8/15の昭和天皇 日本をしょったお方のその日(女性/40代/東京)
「あの日の昭和天皇…ちゃんとインタビューできるかしら。自分自身が心配です」
「その他」 宮本武蔵
「う~ん…ついでに佐々木小次郎に会えるところも魅力的ぃ~」
平将門 個人的にとても興味深い人なので24時間以上密着してみたいです(女性/40代/宮城)
「気はやさしくて力持ち…そんな気がします」
鳥居強右衛門 援軍が来る!と言ったときのドヤ顔が見たいです(男性/20代/滋賀)
「ドヤ顔…見たいですね~周囲の武田方の皆々のリアクションも…」
鳥居強右衛門 一応、先祖の家臣なので…(男性/40代/大阪)
「ご先祖様ですか~~それは見てみたいですね~」
その他 今川義元のそばで彼の最後を見たい海道一の弓取りと呼ばれた人物が運で負けたのか、または過信で負けたのか気になるので(男性/20代/東京)
「そうですね~信長側だけじゃなくて、義元側からも取材したいですね。。。
明智光秀 その後の日本史を作った事件。彼の人の胸中にあった真実はどうだったか(男性/60代/東京)
「やはり、心の奥底の真理を知りたい…そこですね。」
明智光秀 日本史上、わたし上、最大の謎+関心事なので(女性/30代/三重)
「おそらく、視聴率もスゴイ事に!!」
その他 天保九年(1838)の調所笑左衛門広郷。密貿易をも含めた薩摩藩の農財政改革の始まり(北海道)
「24時間だけの取材ではなかなか難しそうですが、興味はありますね。」
明智光秀 これは絶対に真相を知りたい!(男性/30代/千葉)
「やはり、知りたいですよね~」
織田信長 新田&初花肩衝を初めとした大名物を堪能した後は、信長様のナマ敦盛 (幸若舞) が観れたら思い残す事は有りません!!(男性/30代/東京)
「♪人生五十年~~♪キラキラのスポットライトを用意して挑みたいです」
明智光秀 大好きな戦国時代の『大事件』and『謎』といったらこれですね!『謎』なので是非 明智光秀に密着して真実が知りたいです!(男性/30代/【海外】)
「謎な部分の解明はやってみたいですね」
蘇我入鹿 この国の一つの柱を確立した一族の粛清だけに、公正なレポートで汚名を晴らしてやりたい(男性/50代/静岡)
「負け組の意見も聞いて、第3者の立場から公平に取材したいですね。」
明智光秀 やっぱり知りたいです。偶然にも今日まで京都に上洛していました。関係のある辺りをウロウロと…(女性/40代/山口)
「上洛は何度してもウキウキしますね~(*´v゚*)ゞ
その他 道鏡事件の和気清麻呂を取材。資料不足とはいえ、呪詛などこの時代は謎な事件が多いです(女性/20代/岐阜)
「道鏡が本当に皇位を狙っていたのか??謎ですね~」
明智光秀 信長を倒した時の気持ちを聞きたい(男性/30代/茨城)
「その後の気持ち…なるほど…動機ばかり気にしていましたが、それも気になりますね。」
明智光秀 判断能力あったのか?(男性/50代/埼玉)
「判断能力ですか…一説には、ちょっと心の病になられていたとも言われますからね。」
その他 榎本軍陸軍奉行並いや新撰組副長 土方歳三の最期ラストサムライの最後をどのように戦ったのか見たい
「榎本さんの船に乗ると、新撰組にも会えますね~(*^.^*)」
明智光秀 真相を探りたいですね(男性/30代/千葉)
「そうですね~やはり…」
明智光秀 なんとなく、不当におとしめられている気がするので…
「最近は、チョコチョコ名誉回復されているようですが、まだまだ…」
蘇我入鹿 蘇我入鹿&蘇我馬子
「おそらく、実際には蘇我王国だったと思うのですが…末梢されちゃってますからね~」
小早川秀秋 本当のところを聞いてみたい(男性/40代/神奈川)
「やはり、この人の心の内を聞いてみたいですね。」
楠木正成 ハラハラドキドキしそう!(男性/30代/福島)
「やはり千早&赤坂城の戦いに密着ですか?ワクワクですね~」
その他 6月2日のタヌキ爺ぃさん・・こっちもホントは知ってたんちゃうん?(女性/40代/奈良)
一番近くにいましたからね~何らかの事を知っていた感もプンプン」
小早川秀秋 私も本当のところを聞いてみたい(男性/40代/【海外】)
「心は決まっていたのか?やはり迷っていたのか?」
その他 日本海海戦の東郷平八郎に密着してみたい(男性/50代/大阪)
「あの東郷ターンは、あったのか??ですね。
織田信長 信長と光秀  迷った。自分的には日本文明が300年遅れた時・・・(男性/50代/長崎)
「ここは迷うところですね~」
その他 坂本龍馬さんが黒船みたとき(女性)
「未だ若き日に目を輝かせている姿…見てみたいですね~」
明智光秀 なにゆえ、あのような事を。。。(男性/40代/愛知)
「やはり、動機が一番知りたいですね。」
織田信長 やっぱりコレ。例え残念な結果でも見てみたいもの。実は相手光秀じゃないかも!(男性/20代/東京)
「相手は光秀じゃないかも…ソレあるんですよね~ブログにも書いてますが、その場合は、光秀に密着していても真相がわからないかも知れませんものね」
その他 歴史神物なので番外編。イザナギのうっふんな夜から鬱憤の三行半、単身娘天照を産むまで密着24時。切ない男女の心を(女性)
「初めての人間らしい神様ですからね」
明智光秀 なんかすごいドラマになりそうです。これ実際にあったら絶対見ると思います!!(女性/10代/千葉)
「私も見ると思います…いやDVDに録画して永久保存!」
明智光秀 真田家の犬伏の密議と迷ったのですが、こっちの方がスケールが大きいと思ったので。(女性/10代/千葉)
「真田家の動向も気になりますが、戦国一の謎ですもんね」
明智光秀 やっぱ理由を聞きたい!(男性/30代/神奈川)
「聞きたいですね~」
その他 西行法師 清盛と同年の生まれでありながらその生き様は対照的。暮らしぶりを是非見てみたい。(男性/60代/大分)
「出家後の生活も垣間見てみたいです。」
平清盛 大河ドラマ検証のため×8
「なぜか、同じ書き込みが8件ありました…アンケートパーツは複数回答が出来ない仕様になってると思いますので、一応、数の通りに合計させていただきました」
平将門 いつも本当に楽しませていただいてます。入鹿さんと悩みましたが…将門様に一票!(女性/40代/東京)
「ありがとうございます…どちらも汚名を晴らしてさしあげたいお二人ですね」
その他 山県昌景 長篠合戦激突前夜から当日に密着でお願いします。武田勝頼の天目山も捨てがたい…(男性/20代/大阪)
「武田ファンとしては長篠と天目山…悩みますね」
平将門 藤原純友さんと、ほんとにお友達だったのでしょうか?そして密約は?(男性/50代/兵庫)
「そうですね、そこが一番知りたいところですね~」
鳥居強右衛門 強右衛門は長篠の戦いにかかせない存在だったから(女性/10代/埼玉)
「そうですね、長篠なら、やはり、「ここの場面を取材したいですね」
ここからは ブログからの投票です
(勝手ながら、投票にノーカウントのコメントは省かせていただきましたので、投票募集のページの方でご確認ください)
その他 醍醐の花見をのぞいてみたいです。(やぶひび)
「秀吉一世一代のイベントですからね~ご一緒するお姫様方も目の保養になります。」
その他 平治の乱での、重盛の晴れ姿(ゆうと)
「御所の庭での悪源太との戦いは絵になりそうです。」
その他 清洲会議の前日の秀吉さんが見たいです。
“人たらし”と呼ばれた秀吉さんが、ちっちゃい子供(三法師)にどうやってご機嫌を取ったのか?
その滑稽過ぎる様子をコッソリと爆笑したい…(笑)(aki-ra)
「なんか、いっぱいオモチャを用意していたようですが、そのあやしっぷりも見てみたいですね。」
明智光秀 6月2日の明智光秀さんに一票。茶々様の仰せのとおり、むしろこっちの方に胸の内を聞いてみたいです。ウチらの親戚筋でもありますので、お話しやすいです。
見てみたいのは信長さんや蘭丸さんですが、あの方の行動様式はよく判りますし、インタビューしても、全然、答えてくれなさそうなんで。(レッドバロン)
「やはり、一番の謎である動機…ですよね~」
その他 やっぱり
坂本龍馬さんです!彼が新しい日本にどんな想いを抱き、行動したのか…彼の素晴らしい行動力に密着してみたいです(^^)(すぅ~)
「夢多き未来について聞いてみたいですね。」
その他 赤穂浪士の討ち入りに密着取材してみたいです!(もちろん、安全な場所から見てるだけ…)
討ち入りにあまりノリ気じゃなかった人も含めた、チーム赤穂の心境に迫ってみたいです。
まぁ、吉良さんの生首などはあまり見たくないですが…(千)
「個人にではなくチームに密着ですね~イロイロ取材したいです。」
平清盛 私は今年の主役、平清盛さんが太政大臣に就任する日に密着してみたいですね~。武士の身分でこの地位まで上り詰めたという彼の興奮と高揚を肌でビシビシ感じてみたいし、彼が思い描いていたであろう(平家が滅亡していなければ見れたかもしれない)その後のビジョンや抱負、天敵(?)後白河天皇のことを正直どう思っていたのか等々、色々聞いてみたいです!あ、大河での松ケン扮する清盛についても(笑)。清盛さんは強面なルックスに反して意外と優しい方だと聞いているので、きっと余程の粗相がない限り快く応じて下さると信じています~。通説で知られている平清盛像が書き換えられるかも?(MIYO)
「確かに…平家物語で植え付けられたイメージが変わるでしょうね。」

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2012年4月13日 (金)

江戸時代のオモシロ夫婦・池大雅とその妻

 

安永五年(1776年)4月13日、江戸時代の画家・書家で、文人画の大成者と賞賛される池大雅が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

そのダイナミックな筆づかいで南画(なんが)の新境地を開いたとされる池大雅(いけのたいが)・・・

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池大雅・筆「楼閣山水図」(東京国立博物館蔵)

享保八年(1723年)に京都の下級役人の家に生まれた大雅は、7歳から中国様式の書を習い始めますが、その習い始めの頃から「神童」と噂されるほどの天才的才能を見せていました。

やがて、室町時代風の画風に西洋の画風を取り入れて描く見事な風景画が高い評価を得る事に・・・以前ご紹介した木村蒹葭堂(きむらけんかどう)(1月25日参照>>)が大雅の弟子という事でも、その有名人ぶりがうかがえます。

とは言え、世に言う「天才」という人は、そういうものなのでしょうか?

この大雅さんも、ちょっと変わったお人だったようで・・・

上記の通り、京都で生まれ育った大雅は、若い頃、祇園さん(八坂神社)の境内に露店を出して、自らの書画など売って生活をしていたわけですが、その同じ境内で茶店を出していた百合という女性が、彼の絵に惚れ込みます。

「兄ちゃん、ステキな絵、描くやないの!」
「へへ…そうっすかぁ」
と、話をするうち、お互いにうち解けあって親しくなり、その百合の娘であった(まち)という女性と結婚する事になります。

当時は真葛原(まくずがはら)と呼ばれていた現在の円山(まるやま)公園あたりで、小さな草庵を結んで暮らす事になった大雅さん夫婦・・・

しかし、この新婚さん・・・実は、しばらくの間、清い関係のままだったのです。

いや、清いどころか・・・大雅は、結婚した新妻に指一本触れずにいたのだとか・・・

やがて、二人の会話や普段の生活やらを垣間見て、その事に気づいた仲人さん・・・驚いて大雅に問いただします。

「なんや、気に入らんところがあるんか?」
「体の具合でも悪いんか?」

と・・・

すると、大雅は
「へぇ~…、結婚ってそんなモンやったんですか~
ほたら、これからは謹んで行わせていただきまっさ」

と、言ったとの事・・・

しかも、この何も無いしばらくの間、奥さんの町は、慌てる事もなく、騒ぐ事もなく、まったく気にしてもいなかったのだとか・・・

そう、実は、天才=大雅も変わった人でしたが、この奥さんも、それに負けず劣らずな女性・・・のんびりしてるというか、物事にこだわらないというか・・・『近世畸人伝』『続俳家奇人談』など、いくつかの文献には、まさに似た者夫婦のオモシロエピソードが残っています。

まぁ、この町も、後に玉蘭(ぎょくらん=玉瀾)と名乗って絵を描いて、画家としても評価されてますので、おそらくは、彼女も天才肌だったのでしょう。

それにしても、この二人・・・
ボケとツッコミではなく、漫才で言えばいわゆるダブルボケ・・・

ある時、家に訪れた客人を
「ちょっと、そこまで見送ってくるわ」
と、自宅を出た大雅さん・・・

なんと、そのまま富士山のふもとまで見送ってしまったのだとか・・・

で、当然の事ながら、しばらく家を留守にして、何日か経って戻って来るわけですが、戻って来た大雅を見ても、奥さんはフツーに
「あ、お帰り~~」
と・・・

「何しててん!」というツッコミも
「エライ長い見送りやなぁ」てなツッコミもなく・・・

また、ある時、
大坂の書画の会に招かれた大雅さん・・・しかし、肝心の筆箱を忘れて家を出てしまいます。

夫が出掛けた後に、家に置き忘れている筆箱に気づいた奥さん・・・
さすがに、慌てて、彼の後を追います。

伏見のあたりでようやく追い付き、筆箱を渡しました。

すると大雅さん、相手の顔をよく見ずに
「ありゃ、どこのどなたか存じませんけど、拾うてくれはって・・・おおきに、ありがとうございました」
と、深々とお辞儀をし、そのままスタスタと大坂方面へ・・・

普通なら
「何言うてんねん!ワタシやろが!」
と突っ込むところですが、さすがは奥さん・・・

「いえいえ…」
と、これまた深々とお辞儀をして大雅を見送ったのだとか・・・

こんな・・・のんびりというか、ほのぼのというか・・・まさにボケ×ボケの二人ですが、その画家としてのポリシーは見事で、どんなに有名になっても、権力や金づくで「絵を描いてくれ」と頼みに来る者は玄関先でシャットアウト・・・

自らの絵を、本当に愛してくれる人のみを見極めて、仕事を受けていたのだとか・・・

それ故、有名であっても、家計は常に火の車の極貧状態・・・

もちろん、夫がフラッと出て行ったきり、何日も帰って来ないのに、嫁は気にもとめず知らんぷり・・・

周囲から見れば、一見仲が悪いように見える夫婦でしたが、時おり、大雅が三味線を弾きながら歌えば、それに合わせて町が琴を弾く・・・という光景が見られたとか・・・

まこと、お似合いのご夫婦・・・きっと、これが、二人の一番良い形だったのでしょう。

安永五年(1776年)4月13日大雅は、静かにその生涯を閉じますが、二人の間に子供がいなかった事を心配してでしょうか・・・大雅は、奥さんのために数百点の作品を描き残して、先に逝ったといいます。
(そこは金になる事を利用するんや!…とツッコミを入れておこう)

物言わぬ数百点の作品・・・
それは、きっと「おおきに!お前のおかげで楽しい人生やったで」と、町に語りかけているに違いありません。
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2012年4月12日 (木)

先進システム?鎌倉幕府の13人の合議制

 

建久十年(正治元年・1199年)4月12日、源頼朝死後の鎌倉幕府が、幕政を将軍・頼家に任せず、北條時政ら13人衆の合議裁決に委ねる事としました。

・・・・・・・・

建久十年(1199年)の正月13日、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が亡くなりました(12月27日参照>>)

一般的には、前年の暮れに落馬したのが原因・・・とされますが、様々な憶測が飛ぶ事でもお解りのように、思いもよらぬ急な死であった事は確かでしょう。

Minamotonoyoriie600 この時、そんな頼朝と妻・北条政子の間には、兄の頼家(よりいえ)と弟の千幡(せんまん=後の実朝)という二人の息子がいたわけですが、弟の千幡は未だ8歳なので、何の問題も無く、2代将軍には兄の頼家がつく事になりますが、
この頼家も、なんだかんだでまだ18歳・・・

そこに、父・頼朝のような政治を求める事が不可能なのは、誰しもが思うところ・・・

そこで建久十年(正治元年・1199年)4月12日、妻・政子とその父・北条時政は、頼家の訴訟親裁権を停止して、幕府内の有力御家人13人による合議制によって政治を取り行う事としたのです。

その13人とは・・・
足立遠元(あだちとおもと)
安達盛長(あだちもりなが)
大江広元(おおえのひろもと)
梶原景時(かじわらかげとき)
中原親能(なかはらのちかよし)
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
八田知家(はったともいえ)
比企能員(ひきよしかず)
北条時政(ほうじょうときまさ)
北条義時(ほうじょうよしとき=政子の弟)
三浦義澄(みうらよしずみ)
三善康信(みよしのやすのぶ)
和田義盛(わだよしもり)
の13人です。

上下関係の厳しい封建的イメージの強い武家社会での合議制・・・うまく行けば、先進的かつ画期的なシステムだったわけですが、そうは問屋が卸さない・・・

そもそも、この合議制を採用したのも、上記の通り、未だ18歳だった頼家が、何とも頼りない、独断専行型の愚将であったために御家人たちからの信頼なかったから・・・なんて言われます。

頼家を愚将とみる人が、よく例に出すのが、この8月に起こった「奥さん横取り事件」・・・

頼家が、上記の13人の中の1人である安達盛長の息子の景盛(かげもり)の奥さんを好きになり、その景盛の出張中に奥さんを取っちゃったという話・・・

なんせ、父の死&将軍就任から、まだ半年ほどしか経ってない時ですからね~

しかも、その事に憤慨した景盛が猛抗議をすると、逆に景盛を処罰するよう命じたのですから・・・

寸前のところで母の政子が立ちはだかり
「景盛を処罰するなら、私を斬ってからにしなさい!」
とタンカを切った事から、頼家が諦めて事無きを得ますが・・・

部下にしてみれば、将軍の命令は絶対なわけで、誰も止められませんわな。

この事件から
「将軍の暴走をとめられるのは母だけ」
ってイメージがついちゃって、政子はどんどん尼将軍の道(7月11日参照>>)に進んで行くわけですが・・・

でも、この事件って、よく見れば、合議制が決定された後の事・・・

一説によれば、家は、政治を思うように出来ないイラ立ちから、ストレスが溜まりまくって、今で言うところの心身症か、自律神経失調症のようなものにかかってしまったと言われていますが、それは、まさに、合議制が原因って事になりますよね?

父の死を受けて、張り切って将軍職を継いだものの、何もしないうちから
「お前は若い」
「まだ、できない」のと言われて、カヤの外に置かれたんじゃ、頑張ろうと思ったって頑張れるものじゃないですからね。

この横恋慕事件だって、そのストレスのはけ口って事もあるわけで、この事件を以って愚将と決めつける事はできないような気がします。

ただ、確かに、(あんなカリスマな父と比べられてもお気の毒ですが)父と比べると劣る所があった事も確かです。

頼朝は、自分の地位を脅かしそうな大豪族をあの手この手で排除して、代わりに小豪族を取りたてる事で御家人たちのレベルを平均化させる手法をとってましたが、頼家もこれにならって、
「五百町を越える領地を持つ者からは、その越えたぶんを没収し、それを五百町に満たない小豪族に分配する」
という、平均化政策を打ち出しますが、

当然の事ながら、領地を減らされる大豪族からの猛反発を受けてあえなく撃沈・・・

実は、頼朝の場合は、得をする小豪族たちに、先に根回しして味方につけて置くという事をやっていた・・・人数的に、はるかに多い小豪族が賛成すれば、わずかの大豪族も、「仕方ない」となって、御家人の平均化となるわけですが、頼家は、その根回しをせずに、先に政策を打ち出しちゃったために、猛反発を喰らう事に・・・

・・・で、結局、それらこれらが重なって、御家人の平均化どころか、御家人同志の中で格差が生まれ、その力関係や上下関係が、よりいっそう、露わになってしまう・・・

御家人は幕府の中で、他者を蹴落として、より力を持つ事ばかりに走り、将軍はリーダシップを発揮する事無く、そんな有力御家人や外戚の動向に左右されるようになってしまうのです。

最初の犠牲者は、頼朝からの信頼が最も篤かった梶原景時・・・頼朝の死から1年も経たないうちに、それこそ、合議制の名のもとに排除され(1月20日参照>>)、次に、頼家の奥さんの実家だった比企能員も排除され(9月2日参照>>) ・・・

結局は、この比企能員の乱が頼家自身の命をも奪う事になってしまい(7月18日参照>>)、さらに、その恨みが、第3代将軍となった源実朝の暗殺へとつながる(1月27日参照>>)という事態になるのですから、いったい、この合議制とは何だったのか?

果たして、この先、頼朝の血をひく将軍がわずか3代で絶えてしまう事を、誰が予想できたでしょうか。

将軍のため、幕府のための合議制が・・・何とも皮肉な物です。
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2012年4月11日 (水)

戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡

 

昨日は、福井県に行っておりました。

日本の桜百選に選ばれている足羽川沿いの桜も楽しみにしていたんですが、残念ながら、昨日は、まだつぼみ・・・まぁ、「城巡りメインのお前には桜は見せてやらん!」という神様のちょっとしたイタズラだったのかも知れませんが・・・

Fukuitizu もちろん、現在の福井の中心である福井城址越前北ノ庄城址なども巡ったのですが、そのお話はおいおいさせていただくとして、今日は、やはり、これまでズ~っと行きたいと思っていて、やっと行けた
一乗谷朝倉氏遺跡のお話を・・・

★写真や地図は、すべて、クリックすると大きく見られますので、見難いようでしたら大きくしてね

・‥…━━━☆

南北朝の時代に、管領家・斯波(しば)氏配下の朝倉氏一乗谷城に本拠を構えた事から徐々に発展し、盛期には、あの堺と同等の1万人の人口をかかえる城下町となっていた一乗谷…

そんな朝倉氏の戦国5代・朝倉義景(9月24日参照>>)の時代・・・

義景と同盟を結んでいた北近江(滋賀県)の戦国武将・浅井長政に、妹のお市を嫁がせて味方につけた織田信長朝倉氏を攻撃・・・(4月26日参照>>)

しかし、この時、朝倉との同盟を重視した長政は、逆に反・信長の立場となり(4月27日参照>>) 、それは、「信長+家康」VS「義景+長政」姉川の合戦(6月28日参照>>)へと発展します。

ここで手痛い敗北を受けながらも絶えた浅井・朝倉でしたが、その3年後の天正元年(1573年)8月、信長は再び浅井長政の小谷城を攻めます。

援軍として出陣し、小谷城の近くまで来た義景でしたが、主力を北へと転進させた織田軍に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いで敗北し(8月14日参照>>)、そのまま本拠の一乗谷に攻め込まれて天正元年(1573年)8月20日義景は自刃・・・ここに朝倉氏は滅亡します(8月20日参照>>)

その間にも織田軍の攻撃を受けていた一方の浅井長政も、続く8月28日(30日とも)自刃・・・浅井氏も滅亡を遂げました(8月29日参照>>)

・・・で、ご存じのように、勝利した信長から、浅井の旧領・近江3郡を任されたのが羽柴(豊臣)秀吉(3月19日参照>>)朝倉の旧領・越前を任されたのが柴田勝家です。

先日のお城の話(4月6日参照>>)のところで書かせていただいたように、この頃は城の役目の転換期・・・戦う山城の小谷城を賜った秀吉が、商業の発展を重視して琵琶湖に面した長浜に拠点を移すように、勝家も、朝倉の本拠であった一乗谷ではなく、福井の平野部に城を築城します。

Dscf1117a800 それが越前北ノ庄城・・・

しかし、ご存じのように、勝家は賤ヶ岳で秀吉に破れ・・・やがて、その秀吉の後に天下を取った徳川家康が、かつての北ノ庄城の敷地を含む広大な場所に城を構築し、次男の結城秀康越前福井を治めさせます(11月21日参照>>)

これが福井城・・・つまり、一乗谷城・北ノ庄城・福井城・・・この三つの城は、時の流れによってバトンタッチされた、同じ越前福井を統治するお城なわけですね。

Dscf1160pa1000 福井城址

現在の福井城址には、県庁県警が建ってますが、思えば、これが最も正当な城跡使用例・・・歴史好きとしては、縄張りがわかりやすく整備されていたり、模擬天守が復元されたりしてるのもウレシイものですが、思えば、明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)藩主が知藩事となり、その後の廃藩置県(7月14日参照>>)知藩事が県知事になり・・・

考えようによっちゃぁ、今もなお、地方自治と治安維持の本拠がここにあるのですから、建物や統治者が変われども、結城秀康の時代から、同じ業務が同じ場所で運営されてる・・・「これはこれで感激するなぁ」と、そんな思いに浸りながらも、今回の城巡りの足は、一路、一乗谷へ・・・

・・・で、上記のように、勝家が平野部に北ノ庄城を築いた事で、その後、かの一乗谷は忘れ去られた存在となりました。

それは、まるで、戦国の神様が、現代の歴史好きに大いなるプレゼントを残してくれたような・・・

そうなんです。
近年になって発掘されるまで、ほぼ、信長に焼かれた時そのままの状態で土に埋もれていた朝倉氏遺跡は、「戦国のポンペイ」と呼ばれるほど見事に往時の姿のままで発見されたのです。

Dscf1178a 現在、「特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」と、国からの3重の指定を受けている一乗谷朝倉氏遺跡が、京都の金閣寺や銀閣寺や醍醐寺三宝院などと同格の特別史跡に指定されている理由は、ここが、戦国山城・領主の館・城下町のすべてが同一状態で残る唯一の史跡だからなのです。

私の中で初回となった今回の一乗谷史跡見聞では、あまり時間が取れなくて全部で2時間程度の短い見物でしたが、「そっくりそのまま埋もれていた」という事は、こんなにもスゴイ物なのか?感動しきりの有意義な時間となりました。

たとえば・・・
山際に重臣の屋敷が立ち並んでいた街並みの一部が、出土した遺構の上に復元されている部分があるんですが・・・

Dscf1188a800 この写真・・・街並みの入り口付近の「のれんのかかってる家」のあるあたりから奥を見た様子ですが、土塀にさえぎられて、道の奥のほうが見えなくなっているのがわかりますか?

Dscf1213a600 ところが、それを反対側の奥のほうから入り口付近を見た場合・・・先の写真で右手前にあった「のれんの家」が、しっかりと見えますね?

 

 .
↓アップで見るとハッキリ・・・
Dscf1213a800  .

つまり、これは、敵から攻め込まれた時、入口付近にいる敵からは、道の奥にいる者たちが見えないにも関わらず、コチラからは、入口から入って来た敵が見えるようになってる・・・
まさに、戦国の街並みがそのままなのですよ!

また、朝倉義景の屋敷跡にある湯殿の跡・・・

山の斜面を利用して荒々しい石組で神仙思想の世界を現した、言わば露天の岩風呂みたいな感じなわけですが、この見事な石組・・・現代人は1mmたりとも動かしてません。

Dscf1285pa900 義景邸・湯殿跡

つまり、このまんまの状態で埋まっていたという事・・・あの岡本太郎氏は、この芸術的な石の配置に感動し、2時間も、この前から動かなかったのだとか・・・

ちなみに、その義景の屋敷跡の中心部を上から見ると、こんな感じ・・・

Dscf1272a800 義景の屋敷跡

1973年に出土した将棋界を揺るがす日本最古級の将棋の駒は、写真奥の土塁の手前で発見されました。

写真手前に写り込んでいるのは、この上部から滝が落ち込む形式となっている池のある庭園・・・義景が、ここ越前に足利義昭迎えるために造った庭園と言われています。

・・・と、簡単にご紹介しましたが、本来、この一乗谷の遺跡には山の頂上付近にある山城も含まれているわけで、はっきり言って、例え素人的見物でも、ちゃんと見ようとすれば最低でも1日~2日はかかります。

私自身、もう一度・・・いや、2度3度、じっくりと見てみたいと思っています。

Dscf1294pa1000 義景邸付近からは城下町が一望できます…内政を重視したという義景さん、「民のカマドは賑わいにけり」とやったのかなぁヽ(´▽`)/

そう言えば、昨日はまだだった桜も、来週は見ごろかなぁ~(またぞろ行くのはムリだけど…)

この4月14日(土)には、越前時代行列が午後1時に福井城址を出発するイベントがあるとか・・・行列では、なんと、柴田勝家に照英さんが、お市の方に井上和香さんが扮するのだそうですよ!

楽しみですね。
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2012年4月 9日 (月)

幕末の動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫

 

明治二年(1869年)4月9日、幕末の仙台藩士で、渡米の詳細な記録を残すなどして活躍した玉蟲左太夫が、獄中で切腹しました。

・・・・・・・・・

これまでも、何度も書かせていただいていますが・・・
まこと幕末という時代は、ご本人の気持ちとはうらはらに、藩の動向により命を落とす事になる運命の方が多い事・・・

Tamamusisadayuu400 本日ご紹介する玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)さんも、その1人・・・

文政六年(1823年)に仙台藩士・玉蟲伸茂の子として生まれた左太夫は、藩校・養賢堂に学んだ後、24歳で江戸に出て林復(はやしふくさい)の私塾に入り、ここで、働きながら儒学などを勉強・・・塾長までこなす優秀さを発揮していきます。

その後、35歳の安政四年(1857年)には、函館奉行堀利煕(ほりとしひろ)に仕えた事から、掘とともに樺太(からふと)蝦夷(えぞ)調査・視察して回り、その時の克明な記録を残しています。

そう、左太夫は、かなり筆が立つ・・・文才がある人だったんです。

以前、勝海舟咸臨丸のお話のところで、一行がサンフランシスコに到着してからの珍道中や、初めての外国で体験した様々な事を書かせていただきました(2月26日参照>>)この記録を残した人が左太夫なのです。

例のアメリカの議会を見て
「およそ4~50人が席について、一人が立ち、大声で手まねなどしてののしり合っていて、一段高い場所にいる副統領が意見を聞いて決定する様は、さながら魚市場のようである」
と、議会を魚市場に例えるくだりは、「まさに、的を射てる」って感じですよね~

さすが文才!!

この時の渡米は日米修好通商条約批准(ひじゅん・署名された条約に対し、国家として正式に同意する事)のための渡米・・・

正使新見正興(しんみまさおき)副使村垣範正(むらがきのりまさ)監察(目付け)小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(4月6日参照>>) だったアレ・・・左太夫は新見の従者として乗船してました。

ちなみに、軍艦・ポーハタン号に乗船した彼らを護衛する役目で渡米したのが咸臨丸で、コチラは木村芥舟(きむらかいしゅう)副使で、その木村の従者が福沢諭吉・・・勝海舟は艦長格でした。

そんな左太夫の記したアメリカ見聞録=『航米日録』には、まったく言葉も通じなければ習慣も違う外国人の姿に驚き戸惑いながらも、彼らの良きところをしっかりと見抜く素直さを持ち、むしろ、その良きところは武士の社会でも見習うべきという柔軟な心を持つ左太夫の性格が垣間見えます。

たとえば、そのポーハタン号の船内では、
『船将の前といえども、ただ冠を脱するのみにて、礼拝せず…』

一介の水兵が上官の前でも、帽子を取るだけで、ごたいそうな礼拝をする事はなく、また、上官もそれを求めずに同僚のように接する事でお互いの情が深く交わり、イザという時には力を合わせてお互いを救う・・・

また、不幸にして水兵が亡くなった時には、艦長までもが、その葬儀に出席して、まるで親しい友人が死んだ時のように涙を流す姿を目の当たりにした左太夫は、
『わが国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず。あたかも鬼神のごとし。これに順じて少しく位ある者は大いに威焔を張り下を蔑視し、情交かえってうすく凶事ありといえども悲嘆の色を見ず。大いに彼と異なる』
と、日本との違いに感激し、
「礼法が厳し過ぎるよりも、むしろ、礼法を薄くして情の交わりを厚くしたほうが、部下は“この人のために頑張ろう!”って気持ちになるんじゃないの?」
てな事を書いています。

また、嵐の夜にも全く動じず、テキパキと働く水兵たちを見て・・・
一方の自分たちは200年もの平和が続いたために何事も古い習慣にこだわり、何か事が起きれば、あたふたとするばかりで、結局、何もできない・・・
『翌日に至りて赧顔に堪えず』「嵐が去った翌日は、恥ずかしくてたまらなかった」
と、なんだか、ここ70余年の平和を謳歌している平成の私たちにも耳が痛いような事も書き残しています。

さらに現地に着いてからも、今後の日本の発展のためにも、「学校や病院を見学させて欲しい」と希望する左太夫に対して、保守的な上官たちは、
「お土産を購入する事ばかりにやっきになって、市民との交流にも関心を示さない」
と、不満ムンムンです。

そんなんですから、当然と言えば当然・・・左太夫の内面は、これまで自分が理想として信じて疑わなかった封建的な武士道精神から、少し違った近代的な物の考え方へと変化していくのです。

しかし、そんな彼の気持ちとはうらはらに、幕末という時代はいよいよ佳境へと突入し、左太夫とて例外なく、その大きな波に呑まれていく事となります。

帰国後に、先の見聞録をまとめて藩に提出し、その後も、その文才を活かして、他藩や外国の情報を収集して膨大な記録を残すという仕事をこなしていた左太夫でしたが、その帰国から8年後の慶応四年(1868年)・・・江戸城は無血開城とあい成り(3月14日参照>>)、江戸城を手に入れた新政府軍は、さらに北へと進んでいきます(4月25日参照>>)

そんな中で・・・
そうです。。。左太夫の所属する仙台藩は、松平容保(まつだいらかたもり)会津藩(2月10日参照>>)や、河井継之助(かわいつぎのすけ)が家老を務める長岡藩(5月13日参照>>)などと奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成し、新政府に対抗する姿勢を取ります。

しかも、
この同盟結成の影には、藩の命令により動いた左太夫の尽力があればこそ!と言われるくらいの活躍をしました。

ゆえに、仙台藩が新政府に降伏した後は、佐幕派の戦争責任者として捕えられて獄につながれます。

そして明治二年(1869年)4月9日獄中にて切腹・・・47歳の生涯を閉じたのでした。

生前は、
蒸気機械製造所を建設して水力と火力による物産の増産や、外国人を雇って技術を学んだり、人材を海外に派遣することの必要性を説いていた左太夫・・・

さらに、
富国強兵によって列強と対等に渡り合える日本にすべきと主張し、幕府だけによる政治を批判していた左太夫・・・

これらは、皆、維新後の新政府が求めていた物・・・

しかし、その夢を叶える事無く、佐幕派の一員として散って行った左太夫を思うと、胸が痛みます。

敗戦のさ中で捕縛された時、左太夫は、船でさらに北へと向かう榎本武揚(8月19日参照>>)合流する途中だったとか・・・

もし、タイムマシンがあって歴史に関与する事が許されるなら、その未来に伸ばした腕を引っ張り上げて、榎本の船へと連れてってさしあげたいくらいの気持ちになってしまいます(もちろんダメですが…)

玉蟲左太夫・・・
彼もまた、幕末に散る惜しい人材の1人です。

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2012年4月 7日 (土)

日清戦争と正岡子規~従軍記者として…

 

明治二十八年(1895年)4月7日、日清戦争のさ中、従軍記者として遼東半島に赴く直前の正岡子規が、五百木瓢亭宛てに手紙を書いています。

・・・・・・・・・・

幕末の慶応三年(1867年)に生まれ、明治期に活躍した俳人であり歌人であり国語学者である正岡子規(まさおかしき=常規)・・・

ほとんどの教科書に、あの横顔の写真がデデ~ンと載ってる事もあり、もはや正岡子規については説明するまでも無いでしょう。

そんな子規は、同じ愛媛出身で親しい交流もあった五百木瓢亭(いおきひょうてい=良三)が、当時、満州にいた第5師団に随行しながら書いていた従軍日記が、新聞「日本」の紙上で人気を博していた事から、「自分も従軍記者になりたい!」と願い、「日本」主筆の陸羯南(くがかつなん)に猛アピール・・・

この明治二十八年(1895年)の正月に、やっと願いが叶って、3月には近衛師団とともに広島入り・・・そこでしばらく待たされたので、結局、現地へ出立するのは4月10日になるのですが、その3日前の明治二十八年(1895年)4月7日付けで、かの五百木に宛てた手紙が現存しています。

当時の状況としては、国内には日本軍の連戦連勝の報が毎日のように届き、一般市民も大いに関心を持っていましたが、未だ、速報メディアが未発達であったため、その速報の細かな事は、従軍記者による報告と、それをもとに制作された錦絵や版画といった形の物でした。

子規自身も、
「日本軍の連戦連勝で、神国・日本の名は外国人に崇められていると聞いて、大変うれしい」
なんて事を、この頃に書き残していますので、まだ見ぬ現地での事を大いに夢見ていた事でしょうね。

ただ、戦況としては、すでに終盤を迎えていた頃ですね。

日清戦争については、これまで何度か書かせていただいてますので、とりあえず、リンクを表示させていただいときますが・・・

この2日の戦いの10日後の2月12日に清国艦隊が白幡を掲げて降伏文書を出した事で休戦状態に入った事・・・

そして、その日の夜に、この戦いの指揮官であった清国軍水師提督丁汝昌(ていじょしょう)服毒自殺を図った事も、すでに子規の耳に届いていたようで、今回の手紙にも、その事を書くと同時に、
「いくさ見ずに帰るは、誠に本意なく候」
と、ポツリとホンネを漏らしています。

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正岡子規・書簡(松山市立子規記念館蔵)
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ただ、休戦状態に入ったとは言え、まだこの時点では講和が成立するかどうかはまったく以って先の見えない状況で、陸軍などは、まだ、この先の決戦を考えて、ここまで温存していた近衛師団と第4師団を派遣する用意をしていたのだとか・・・

子規の手紙の末尾の部分にも、
「総督府は金州(きんしゅう)に進み、近衛・大阪は山海関(さんかいかん)を衝(つ)く筈にて、皆十日前後に出発致し候」
と綴っていて、実際に、この後の4月13日に、総督府は遼東(りょうとう)半島に向けて出征しています。

とは言え、ご存じのように、子規は、もともと病弱な体をおしての従軍・・・1ヶ月後の5月17日には、帰国途中の船の上で血を吐いて重態となり、神戸に上陸後、そのまま病院へ入院してしまいます。

何とかもち直して、その後は故郷の松山で静養生活に入る子規ですが、わずか1ヶ月とは言え、彼にとっては有意義な期間だったと思いたいですね。

と、子規が戻って来るという事は・・・
その1ヶ月の間に、日清戦争の講和が成立するという事になるわけですが、そのお話は、また「その日」の日づけに添ってご紹介したいと思います。
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2012年4月 6日 (金)

戦国から江戸の城の変貌~「城の日」に因んで

 

4月6日は、(し)(ろ)の語呂合わせで「城の日」という記念日なのだそうです。

なので、今日は「お城」について・・・

と言っても、本当は、城と言えば各時代に存在するわけで・・・たとえば、縄文時代の遺跡として有名な吉野ヶ里遺跡には、物見櫓のような高層建造物と柵が復元されていますが、厳密に言えば、ああいうのも城なわけではありますが、

今回は、いわゆる「城」と聞いてイメージするような、戦国から江戸にかけてのお城の変貌について、お話してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・

現在、「城」と聞いてイメージするような形の物のはじまりは、鎌倉時代末期から南北朝にかけて、吉野山周辺を舞台に行われた攻防戦で生まれた山城・・・そう、あの楠木正成赤坂城(10月21日参照>>)千早城(2月5日参照>>)にような城が、そのルーツと言われています。

この場合、平地ではなく、ゲリラ戦に有利な山の上に砦のような城を築き、天然の崖を利用して、上から石や丸太を落としたりして、攻めて来る敵を防ぐ方式で、山そのものにあまり手を加える事はなく、あくまて地形を活かした形に通路や城壁が構築されます。

その後、室町時代の前期には、いち時政権が安定した事もあって、戦う城よりは守護や地頭の居館という意味合いが大きくなり、防御面より便利さを重視した造りになり、主とその家族が居館と周辺の屋敷に住み、配下の半士半農の地侍たちは、それぞれの郷で屋敷を構えて暮らすという形になります。

それが変化するのが、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)以降の下剋上の世の中・・・

乱世に入ったところで、再び防御を重視しなければならなくなった武将は、もともとの居館を本城とし、配下の地侍の屋敷を支城とし、重要な場所に砦を築いて、それぞれをネットワークでつなぐ事で防御を固めます。

ちなみに、支城や砦を構築する基準としては、ほら貝や鐘の音が聞こえる範囲・・・有事の際には、危険を察知した支城や砦からほら貝や鐘が鳴らされ、それを聞いた隣の城が、また鳴らし・・・という具合に、連絡を取ると同時に、その音を聞いた侍が、即座に武装して、決められた場所に集合するという感じです。

なので、この時期の城攻めは、まず、本城と支城の連絡を断つところから開始されますよね?

この頃に、その本城として多く生まれた城が、いわゆる「山城」と呼ばれる物で、独立した山の頂上から斜面にかけて、あるいは連山の峰に、天然の要害を利用して構築されたもの・・・

基本的には南北朝時代の物と変わりませんが、土木技術が発達したぶん、人工的な堀切や土塁などが構築されて、頂上の城に行くまでのルート&分かれ道などが複雑に構成され、防御力がより固くなってます。

一般的は、高低差が100m以上ある山の上に構築された物を「山城」と呼び、代表的な物は、
岐阜城(8月15日参照>>)
小谷城(8月27日参照>>)
観音寺城(10月6日参照>>)
以前ご紹介した福知山の猪崎(いざき)(7月22日参照>>)などは典型的な中世の山城です。

そんな中でも、月山富田城(がっさんとだじょう)(11月21日参照>>)などは、高低差が300mもあったと言いますから、「しょっちゅう通う家臣の身にもなれ!」って感じですが、防御は完璧でしょう。

ちなみに、安土城は分類としては山城ですが、個人的には、いわゆる典型的な山城とは違う気がします。

それは、たぶん、それを造った信長の意図が、他の山城と違うから??・・・以前、書かせていただいたように、この安土城は、後方の観音寺城とセットでは無かったか?と思うからですが・・・(2月23日参照>>)

その話をし出すと長くなりそうなので・・・
ここで、蛇足の豆知識・・・

城と言えば、城壁や土塀の間に垣間見える木々が美しく・・・
♪春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝
(え)分け出(い)でし 昔の光今いづこ ♪
と、「荒城の月」(10月9日参照>>)に歌われるような光景を思い浮かべてしまいますが、その光景は、この後の城から・・・中世の山城には、木はいっさい生えてません。

なんせ、高い木があると、近づいて来る敵が見えませんし、敵の恰好の隠れ場所になってしまいますので、とにかく見晴らし重視・・・なので、おそらく、現在残る城跡からは、想像し難い光景だった事でしょうね。

・・・で、そんな山城にも、やがて変革期が訪れますが、それが、織田信長の台頭です。

以前、「城割」(8月19日参照>>)という物について書かせていただきましたが、信長は、勝ち取ったその場所を平定する時、それまで、その領地に散らばっていた支城や砦を破却し、本城のみを残して、その城下に配下の者を住まわせるという形で、武士たちを、半士半農ではない、常時戦えるプロの戦闘員としました。

そこに残された本城は、戦うための城であると同時に、主の居館でもあり、領地を統治管理する役目(今で言う県庁や都庁)も担う事になります。

さらに、ここらあたりから合戦の主流が野戦から城攻めへと変わって夜襲を警戒せざるを得なくなり、昼夜を問わず守りが固められる事が重要になって来ます。

・・・で、ここで登場するのが、高低差100m前後の山というよりは小高い丘に構築された「平山城」という物・・・

たとえば、先ほど出て来た福知山の猪崎城・・・ここ福知山は、信長の命を受けた明智光秀が攻め落とすまで、塩見氏が統治していた場所で、その猪崎城は塩見氏の本城であり、領内には複数の支城が点在していたわけですが、上記の通り、猪崎城は典型的な戦国山城なので、城下を統治しながら夜襲に備えるには不向き・・・

そこで、塩見氏を倒した光秀は、支城の一つであった横山城が建っていた小高い丘に新たな治めるための城を構築し、残った支城は本城もろとも、すべて破却する事としました。

この時、横山城の場所に建てられたのが現在の福知山城(天守は復元)・・・これが平山城ですね。

この方式は江戸時代まで続き、関ヶ原の後に近江(滋賀県)を与えられた井伊直政も、石田三成佐和山城を潰して、眼下の小高い丘に彦根城を構築しています(2月1日参照>>)

そんな平山城の代表格は、有名な姫路城熊本城岡山城などなど・・・そう、実は、この平山城は、城から城下を一望でき、逆に、城下のどこからでも城を望める事ができる事から、江戸時代初頭でも、まだまだ諸大名からの人気が高かった事から、近世の城のほとんどが、この形式となっているのです。

そして、最後に登場するのが「平城」・・・

近世にればなるほど、築城技術の発達とともに、もはや地形を利用した設計など考えなくても良くなり、どんな場所にでも、思い通りの掘やら土塁やらの防御策を講じる事ができるようになりますから、むしろ、高低差の少ない広大な敷地に計画的な城下町を整備して、そこに、まさに統治のシンボルとも言うべき城郭を築く事になります。

むしろ、ここで重視されるのは、城下町が発展するための物流であり、いざという時のために船を横付けできるほどの水運であるわけで、河口や湖や海に面した平城が構築されるようになったのです。

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銀杏越しに見る大阪城・六番櫓

代表格は、ご存じ、我らが大坂城(8月18日参照>>)や、その大坂城に感激した毛利輝元が築城を決意した広島城(4月15日参照>>)などなど・・・

まさに水というところでは、「忍の浮城」と呼ばれた武蔵忍(おし)(6月16日参照>>)も平城ですね。

・‥…━━━☆

以上、本日は「城の日」という事で、お城の変貌を駆け足で見て参りましたが、歴史に精通されている方にとっては「そんなモン知ってるよ」という内容だったかも知れません。

でも、まぁ、せっかくの「城の日」という事なので、これを機会に新たに見直して見るというのも一興かと・・・
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2012年4月 5日 (木)

日本とロシアの架け橋に…一商人・高田屋嘉兵衛

 

文政十年(1827年)4月5日、江戸時代後期の廻船業者で、ロシアと日本の架け橋となった高田屋嘉兵衛が59歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

淡路島の農民の子としてうまれた高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、廻船業者になる事を志し、18歳で兵庫へ出て、淡路島と大坂を行き来する船の水夫として働きます。

Takadaya500b その後、船頭となって様々な場所へと航海し、徐々に貯めた資金で船を造り、貨物の運搬業で財を成していく中、蝦夷地(北海道)との交易=松前貿易に目をつけて、自ら、北海と大坂を行き来して、蝦夷地経営に乗り出します。

やがて、幕府の役人からの信頼を得た嘉兵衛は、蝦夷地統治営業者の1人となり、幕府の要請で択捉(えとろふ)へと向かい、その航路と漁場の開発を行ったのです。

地形が複雑だった当時の択捉島では、島民たちは、未だ未開の地さながらの自給自足のような生活を細々と営んでいる状態でしたが、その周辺に17ヶ所もの漁場を開き、住民に漁具や食糧を配給して、ある時は諭し、ある時は励まして漁業を営む事を勧めたのです。

貧しい者には衣食を提供し、病める者には医薬を提供し、文字を持たなかった彼らに、字と言語を教え、果ては道路を開発して険しい山奥まで容易に入って行けるようにも・・・

やがて嘉兵衛の真意を理解した島民たちは大いに働き、それで得た品々を嘉兵衛が松前や大坂に運ぶ・・・もちろん、これで儲けたのは嘉兵衛だけではなく、島民たちの生活もグンと向上した事は言うまでもありません。

そう、嘉兵衛は「自分さえ儲かれば良い」という豪商ではありません。

自分が儲かるには、商品を売る人と買う人の存在が不可欠・・・彼らがいてこそ自分が潤うのだから、ともに向上して行こうという人なのです。

なので、文化三年(1806年)に起きた函館の大火では、率先して被災者の救済に乗り出し、大半が焼けてしまった屋の再建や道路の復元、植林や田畑の開墾までを自費で行っています。

そんなこんなの文化九年(1812年)・・・
観世丸という船に乗船して国後(くなしり)近くを航行していた嘉兵衛は、洋上でロシア船・ディアナ号に遭遇・・・いきなり捕えられてしまいました。

実は、これには理由があり・・・

この1年前、ディアナ号が周辺の測量のために千島列島を訪れていた時、松前藩によってディアナ号・艦長のゴローニンら5名が捕えられ、彼らを人質に船への攻撃を受けたという事件があったのです。

危険を感じた副館長のリコルドは一旦ロシアへと戻りますが、その後、カムチャッカあたりで漂流していた摂津の水夫・忠五郎ら5名を救出した事で、彼らを連れて再び国後へ・・・そして、彼らと交換するという条件で「ゴローニンたちを返してほしい」を申し出たのですが、この時対応した国後の官吏が、未だ、ゴローニンたちが幽閉の状態だったにも関わらず、「ゴローニンたちは、死罪となって、もう処刑された」とウソの返答をして取り合わなかったのです。

納得がいかないリコルドは、その真実を確かめるべく観世丸に近づき、嘉兵衛らを拉致したというワケです。

ただし、この1年前の松前藩の態度にも理由がありました。

さかのぼる事9年・・・文化元年(1804年)に、当時、ロシアの外交官だったレザノフが、日本人漂流民を手土産に長崎を訪れ、日本との通称を求めた事があったのですが、この時の日本は、それを拒絶・・・交渉を諦めたレザノフは、日本人漂流民を返して何事もなく帰って行ったのですが、部下のフォボストフ一部不満を持ったロシア兵が、その帰路で択捉島や樺太に上陸して、放火や略奪をして逃亡したという事があったのです。

そのために、松前藩はロシアを警戒し蝦夷地周辺の警備を強化していたのです。

また、文化五年(1808年)には、オランダ船のフリをしたイギリス船が長崎に入港してスッタモンダとなった有名なフェートン号事件も発生しており、日本全体が外国船に対して強固な姿勢を取っていた時代でした。

とにもかくにも、こうしてロシア船・ディアナ号に乗せられてしまった嘉兵衛・・・

しかし、その態度は、まったく慌てず騒がず・・・しっかりと落ち着いて
「未だ幽閉の身ではありますが、ゴローニンさんたちは、全員生きてはります・・・安心してください」
と告げます。

その堂々たる態度に、ただならぬ人格者と感銘を受けるロシア人たち・・・

しかも、嘉兵衛は、
「・・・と言うても、簡単に、ほな解放しますわってワケにもいきまへんわな。
船の上では何ともできませんよって、なんならこのまま、おたくらの国へ連れてっておくれやす。
そこで、日本の事情を探索したうえで、対策を練りましょうや」

と・・・

とは言え、この時の観世丸には27名の乗組員がいました。

このままロシアへと連れて行かれ、果たして、再び日本に帰って来る事ができるのか??
その命の保証だってありません。

すると嘉兵衛は
「ロシアへ行くのは、僕1人で充分ですさかいに、他の乗組員たちは解放したっておくれやす。」

この態度に、またまた感銘を受けるロシア人たち・・・しかし、さすがにそういうワケには行かず・・・結局、嘉兵衛以下4名がロシアに向かう事になりました。

到着後、リコルドに付き添われてロシアの要人と面会した嘉兵衛は、
「日本は、必ずしも、ロシアを敵とは思ってまへんのや。
事は、あのフォボストフらの択捉や樺太での狼藉に対しての警戒・・・
日本とロシアがちょっとした誤解がもとで、なんやややこしい事になってる事は、ホンマ、嘆かわしい事です。
この誤解を解くためやったら、僕は進んでこの命賭けます。
どうでっしゃろ?
日本との交渉・・・僕に任せてくれはりませんか?」

と、これまた、誠意溢れる熱弁を奮います。

これがロシア人たちの胸に響かないわけがありません。

彼らの信頼を得て、すべてを任された嘉兵衛が、リコルドとともに再び国後に戻って来たのは翌・文化十年(1813年)5月の事でした。

到着後、早速、松前奉行との交渉に挑む嘉兵衛・・・

実は、あの狼藉事件を起こしたフォボストフらは、帰国後、その事がバレでロシアで処罰を受けています・・・つまり、アレは完全に彼らの独断で行った事件・・・

嘉兵衛は、ロシア政府が出した書面を見せながら、ちゃんと、その事を松前奉行に報告します。

あの略奪行為がロシア政府の命令では無かったと知った松前奉行は、即座に弁明書を差し出す事を認め、これをロシア語に訳した物を嘉兵衛に持たせて、ロシア船へと送りました。

幸いな事に、この時のロシア船にはカムチャッカ知事が乗船していた事で、その返答はすぐにもたらされます。

「なんなら、僕(知事)が、自ら函館に行って弁明しますが・・・」と・・・

これには、松前藩側がちょっと驚き!!
なんせ、この知事は前年、アメリカにも行ってる国際派・・・そんな人を上陸させて良いのやら、どうなのやら・・・

「もはや、自分の手に負えない」と判断した松前奉行は上官にお伺い・・・さらにその上にお伺い・・・で、結局、幕府側は
「フォボストフが奪った品々を返還してほしい・・・ただし、もうどこへいったかわからなくなってたら賠償しなくてもいいよ」
と伝えるに留まって、知事が上陸する事は無かったようですが・・・

やがて、その年の秋、ロシア政府の代表として、再びやって来たリコルドは函館に上陸・・・日本官吏・高橋三平らと面会して、ロシア総督の書簡を手渡しながら現段階で見つけた限りの品々を返還し、ここに、レザノフ以来のロシアと日本の誤解&葛藤がすべて解決したのです。

もちろん、かのゴローニン艦長たちも、無事に母国にお帰りになりました。

こうして、再び、一商人に戻った嘉兵衛ですが、この素晴らしき行為が人々の絶賛を浴びた事は間違いなく、阿波藩主などは自らの扶持米を嘉兵衛に与え、臣下の列に加えたのだとか・・・

文政十年(1827年)4月5日高田屋嘉兵衛は静かにこの世を去りますが、儲けた収入のほとんどを地域発展の公共事業につぎ込んでいた彼には、本人所有の田畑の一つも無かっと言います。

しかし、彼の生きた証は、しっかりと残ります。

現在の函館には、「函館の恩人」として彼の功績を讃える箱館高田屋嘉兵衛資料館があります。

もちろん、彼の故郷=淡路島の洲本市五色町にも、ウェルネスパーク五色=高田屋嘉兵衛公園があり、そこにも資料館があります。

まさに、「故郷に錦」ですね。
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2012年4月 3日 (火)

高師直に横恋慕された塩冶高貞の悲劇

 

興国二年・歴応四年(1341年)4月3日、室町幕府の執事であった高師直の讒言により、謀反の疑いをかけられた塩冶高貞が出雲にて自害しました。

・・・・・・・・・

鎌倉倒幕足利尊氏(たかうじ)側近として活躍し、室町幕府のもとで執事(しつじ)という重要な役職についた高師直(こうのもろなお)・・・

そんな師直の逸話の中でも、超有名な塩冶高貞(えんやたかさだ)奥さんへの横恋慕でありますので、これまでも、師直さんが登場するページ(2月26日参照>>)兼好(けんこう)法師のページ(2月15日参照>>)などにチョコッと書かせていただいているのですが、今回は、さらにくわしく・・・『太平記』に沿ってご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

時は延元四年・暦応二年(1339年)・・・あの後醍醐(ごだいご)天皇崩御され、その後を継いだ第9皇子の後村上天皇のもと、南朝の政務を取り仕切る事になった北畠親房(きたばたけちかふさ)が、北国で踏ん張る脇屋義助(わきやよしすけ=新田義貞の弟)奥州北畠顕信(あきのぶ=親房の次男)九州で勢力を誇る懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)らに、
「亡き後醍醐天皇の遺志を継いで、義戦にまい進しようぜ!」
と、ゲキを飛ばします。

これを受けて間もなく、義助は、北朝側の守護・斯波高経(しばたかつね)が守る黒丸城(福井県福井市)を攻撃し、高経を追いだして黒丸城奪取に成功します。

この報を受けた北朝側は、すぐに海路から後方支援をする部隊の派遣を決定・・・この司令官に任命されたのが、鎌倉時代からの出雲(島根県)の守護職だった塩冶氏塩冶高貞でした。

大役を仰せつかった高貞がせっせと、その準備に励んでいる頃、一方の高師直は長期休養をいただいていて、宴会に明け暮れる毎日・・・

そんな中のある日のイベントで、『源頼政の鵺(ぬえ)退治』(4月10日参照>>)の一段を平家琵琶で聞く会があった時、その後の宴会で、「頼政が鵺を退治した褒美に菖蒲(あやめ)の前という美女を貰った」という話から、その場にいた男どもの間から、
「命がけで退治して、褒美が女1人て・・・やってられへんなぁ」
「ホンマやで、そら、領地の一つも貰わんと・・・」
てな声が出ます。

しかし、女大好きの師直・・・そこは
「いやいや・・・俺は女のほうがええな!俺やったら、領地より美女を選ぶわ」
キッパリと宣言・・・

それを、横で立ち聞きしていた女官が、やにわにしゃしゃり出て
「菖蒲の前も、到底及ばんほどの美しさと評判の後醍醐天皇の縁続きの姫の噂、知ってはりますか???」
と・・・

「美女がいる」と聞いたら、もう、会いたくてたまらない師直・・・

女官から、「その女性はすでに塩冶高貞の妻になっている」と知らされてもなお、その気持ちが修まりません。

そこで、書に関しては右に出る者はいないと評判の吉田兼好ラブレターの代筆を頼みます。

匂い立つほどの香を焚き込めた美しい紙に一世一代の口説き文句を書いてもらって、早速、それを使いの者に持たせて、高貞の妻へと送る師直・・・

しかし、戻って来た使者は、手紙を持ったまま・・・

実は、使いの者が渡した手紙を、奥さんは一旦、手には取ったものの、封も開けずに、そのまま庭に捨てたと・・・それで、「誰かに拾われては困るので、慌てて、それを拾って持って帰って来た」という事だったのです。

Enya600 「クソッ!役たたずの兼好め!」
怒り爆発の師直・・・

それからというもの、かの女官を呼び寄せては、
「1回でええから会わせろ!会われへんねやったら、お前を道連れに死んだる!」
と、女官を脅します。

たまりかねた女官は、奥さんの風呂上がりのスッピンを見せて(当時は濃い白塗り化粧なので)何とか師直の熱を冷まさせようとしますが、それが逆効果に・・・

湯殿から出て来た彼女を見た師直は、その妖艶な姿に昇天・・・気が動転してワケのわからない単語を口走り始めた師直の様子を見た女官は、怖くなって、女官という職業を退職・・・どこへともなく姿を隠してしまいました。

手紙は捨てられるし、知り合いの女官という唯一のつながりも断たれてしまった師直は、
「こうなったら、高貞を失脚させて、嫁はんを奪い取ったれ!」
とばかりに、
「高貞は、幕府転覆の陰謀を企ててまっせ」
尊氏に告げ口したのです。

このチクリの一件を耳にして、身の危険を感じた高貞は、一旦、帰国してから挙兵し、師直を討ってから、幕府に無実を訴えようと、まずは、故郷=出雲へ急ぎます。

夫からの知らせを聞いた奥さんも、家臣たちとともに、5歳になる息子を連れて、別ルートで出雲へ・・・

しかし、これを師直が放っておくはずはなく、すぐさま追手を差し向けます。

高貞はともかく、女子供連れの奥さん一行は、残念ながら、すぐに追手に追い付かれてしまいます。

何とか妻子を乗せた輿(こし)を、近くにあった小屋に隠し、その前で二人を守りながら奮戦する家臣たちでしたが、その守る者も1人減り、2人減り・・・やがてどうしようもなくなったところで、忠臣の八幡六郎という武士が、小屋の前に仁王立ちとなって、高貞一族の1人である山城守宗村(やましろのかみむねむら)に言い放ちます。

「ここで、防いでいる間に、おふたりを刺して、アンタも自害しなはれ~~」

即座に小屋の中に駆け込んだ宗村・・・断腸の思いで、まずは奥さんを刺し、泣き出して母の遺体にすがりつく幼児をしっかりと抱きしめ、その小さな体もろとも、自分自身を貫いて息絶えたのです。

一方、何とか追手をかいくぐって出雲まで到着した高貞・・・しかし、ここで妻子の死を聞かされる事になります。

興国二年歴応四年(1341年)4月3日、知らせを聞いた高貞は、なんと馬から降りる事すらなく、馬上で切腹して果てたのだとか・・・
それも、
七度(ななたび)生まれ変わってでも、師直への怨みを晴らしてやる!」
と叫びながら・・・

・‥…━━━☆

と、『太平記』では、
この後、こんな感じの悪行が重なったために師直は破滅に追い込まれたのだ・・・と、この話を締めくくります。

とは言え、ご存じの通り、この『太平記』自体が、どこまで史実の通りなのか?という問題もあるわけですが、その論議は、また、別の機会にさせていただく事として、

そもそもは、この南北朝時代の確実な史料という物が少ない中での一つのエピソードとして、心に留めておきたい物語ではあります。
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2012年4月 2日 (月)

鎖国の象徴~長崎出島のいま・むかし

 

寛永十八年(1641年)4月2日、徳川幕府が平戸のオランダ人に長崎出島への移住を命じました。

・・・・・・・・・

江戸時代の鎖国の象徴とも言える長崎の出島・・・

まぁ、最近では、完全に国を閉ざしていたわけではなく、ちょっとばかり、交流する国を限定していただけの「縮小」であり、『鎖国』という言葉は相応しくない・・・なんて事も言われますが、

とにかく、ここ長崎に築造された扇型の人工島=出島を窓口にして、交易にやって来るポルトガル人を管理する目的で、寛永十一年(1634年)から2年の歳月をかけて、長崎の有力者によって造られたのです。

形が扇型になった理由は定かではありませんが・・・
時の長崎奉行が、扇を海に取り落としたからとか、
建造の許可を出す時に、将軍・徳川家光が扇を示したからとか、
波の打ち寄せる衝撃を軽減するために形だったとか、
もともと河口に堆積していた土砂が扇の形をしていたとか・・・

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寛文長崎図屏風(長崎歴史文化博物館蔵)に描かれた出島の様子(ピンクの文字は勝手につけ加えました)

そんな出島は、上記のように、民間で造られた物なので、使用するポルトガル人は、土地使用料を支払って利用しておりました。

しかし寛永十六年(1639年)、キリスト教の布教活動と植民地化される事に脅威を持った徳川幕府が、ポルトガルとの交易を断ってポルトガル人を追放したために、いち時は無人状態となっていたのですが、

先ほどの、出島建設に出資した有力者たち・・・
「ええ儲け話や」と思って出資したのに、
「無人になったらやってられへんがな」
とばかりに、幕府に抗議・・・

で・・・幕府が、寛永十八年(1641年)4月2日平戸に住んでいたオランダ人に出島への移住を命じたのです。

以来、武装と宗教的活動を禁止されたオランダ人が、ここに住む事になりました。
(ちなみにオランダ人も年間使用料を支払っての利用です)

基本的には、日本人が公用以外で出島に入る事は禁止され、オランダ人も出島を出る事は許されていませんでしたが、すでに幕府から、医師としての信頼を得ているシーボルト(3月25日参照>>)のような人物は、出島を出る事を許されていましたし、祭りが行われる時は、その見物も(特別席が用意されていたらしい)OKでした。

こうして、約200年に渡って、外国への玄関口として重宝された出島でしたが、ご存じのように、幕末になって開国された事で、その後は、玄関口というよりは、「外国人居留地の一つ」として使用されるようになります。

まぁ、鎖国時代の名残りで、住人はオランダ人が圧倒的に多かったようですが・・・

ところが、それも明治三十二年(1899年)の「居留地撤廃」で、もはや、出島という物の特殊な役目も完全に終わりを告げたのです。

その後は、3度に渡って行われた長崎港湾改良事業によって周囲は埋め立てられ、大正十三年(1924年)には、あの扇の形もすっかり無くなって、長崎市の一部となりました。

なんせ冒頭に書いた通り、民間の物ですから、その時と場合によって所有者の意のままに形を変えていくのは致し方ないところ・・・

しかし昭和二十六年(1951年)、第2次世界大戦が終わった後に、オランダからの強い要請が・・・

まぁ、オランダは戦勝国という事で、その強みもあったのかも知れませんが・・・

とにかく
「出島は、オランダ人にとっては心のふるさと・・・
日本に旅行するオランダ人は、皆、出島を観光する事を楽しみにしているのだから、是非とも、復元してほしい」

という申し入れがあったのです。

そこで、その翌年から、長崎市が土地を買い上げるなどして復元に取り組む事になり、現在では、境界線をはっきりとさせたうえで、中に庭園や街並みなどが復元されて一般公開もされるようになりました。

もちろん、発掘事業は現在も進められており、この先、もっともっと、在りし日の姿に復元されていくのだとか・・・楽しみですね。
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