文禄の役~休戦協定と加藤清正
文禄二年(1593年)4月18日、文禄の役で明・朝鮮との間に休戦協定が成立しました。
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ご存じ、豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・・今もなお、その理由については様々な憶測が飛ぶ戦いですが・・・(3月26日参照>>)・(10月23日参照>>)
その1度目の出兵=文禄の役で、文禄元年(1592年)4月13日に釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、最初こそ破竹の勢いで北上したものの(4月13日参照>>)、徐々に、反撃を開始する朝鮮政府と民間軍に阻まれ、やがては明(中国)からの援軍の参戦もあり・・・
逆に一方の秀吉軍は長旅の疲れも出始め・・・いつしか戦況は泥沼化のこう着状態となります。
明けて文禄二年(1593年)1月26日、なんとか碧蹄館(ビョクジェグァン)戦いに勝利するも、遠い他国で初めての冬を迎えた秀吉軍の諸将の疲れはピークに(1月26日参照>>)・・・もちろん、一番大事な兵糧の確保もままならない状態となります。
ただし、疲れとともに「もう、ええわ!」感を感じていたのは日本側だけではありません。
なんたって朝鮮半島の冬は寒い・・・ここに来て、明&朝鮮軍も、いっこうに進展しない、このこう着状態を脱する方法を模索していたわけで・・・
かくして文禄二年(1593年)4月18日、日本側と明&朝鮮との間に休戦協定が交される事となります。
その内容は・・・
- 明から講和使節を派遣する
- 明軍が朝鮮から撤退する
- 豊臣勢が漢城(ハンソン)から撤退する
- 朝鮮王朝の2王子と臣従の身柄の返還
以上の4項目でした。
こうして、この後、明からの講和使節が、小西行長や石田三成の帰国とともに日本にやって来る事になるのですが、休戦に向けてのモロモロは、また、いずれかの「その日」にお話させていただくとして・・・
休戦協定が結ばれた、まさにその日づけにて、あの加藤清正が現地から、長谷川守知(はせがわもりとも)なる人物に宛てて手紙をしたためています。
この守知という人は、織田信長の側近で茶人や画家として知られた長谷川宗仁(そうにん)の息子で、当時は秀吉の近臣として仕えていた人・・・
おそらくは、守知への手紙と称しながら、
「そばにいる秀吉に現地の現状を伝えたい」
「彼を通じて、今の自分らの状況を知ってほしい」
という気持ちがあったのでしょう。
最初こそ、
「朝鮮王子兄弟と諸官人を日本に連れて行く任務を遂行中!」
と、清正らしく、勇ましい雰囲気をかもし出していますが、
途中からは
「今、都(漢城)を撤退して釜山に向かってるんやけど…」
と切り出し
「俺の動向について、なんか、奉行衆(三成ら)がウソの報告してんのが腹立つねん」
と言い
「この頃は唐人(明・朝鮮軍)の勢いが強まって来てるみたいやけど、それって、俺らが長い戦いで疲れきってるからやねん」
と・・・
最後には、思いのたけを吐露しちゃってます。
あの虎退治の逸話からイメージする猛々しさとは違い、もはや泥沼化して疲弊しきっている現地の現状や、この先の豊臣家内のモメ事(3月4日参照>>)を予感させる内容が赤裸々に語られているところが、なんともおもしろいです。
この手紙の雰囲気だと、たぶん清正さんは、まだ休戦協定の事を知らないのだろうけど、とにかく、帰れる事になって良かったです。
まぁ、帰った後は、ご本人が心配していた通り、三成らの報告(内容は諸説あり)によって、蟄居(ちっきょ=謹慎)処分になってしまう清正さんですが、その事は、また後々考えましょうぞ!
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コメント
茶々さん、こんにちは。貴重な手紙が残っているものですね。
投稿: いんちき | 2012年4月19日 (木) 13時03分
いんちきさん、こんにちは~
ホント、
ハッタリやタテマエが含まれた公式報告ではなく、生の声が聞こえる感じが貴重ですよね。
投稿: 茶々 | 2012年4月19日 (木) 14時41分