幕末の動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫
明治二年(1869年)4月9日、幕末の仙台藩士で、渡米の詳細な記録を残すなどして活躍した玉蟲左太夫が、獄中で切腹しました。
・・・・・・・・・
これまでも、何度も書かせていただいていますが・・・
まこと幕末という時代は、ご本人の気持ちとはうらはらに、藩の動向により命を落とす事になる運命の方が多い事・・・
本日ご紹介する玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)さんも、その1人・・・
文政六年(1823年)に仙台藩士・玉蟲伸茂の子として生まれた左太夫は、藩校・養賢堂に学んだ後、24歳で江戸に出て林復斎(はやしふくさい)の私塾に入り、ここで、働きながら儒学などを勉強・・・塾長までこなす優秀さを発揮していきます。
その後、35歳の安政四年(1857年)には、函館奉行の堀利煕(ほりとしひろ)に仕えた事から、掘とともに樺太(からふと)や蝦夷(えぞ)を調査・視察して回り、その時の克明な記録を残しています。
そう、左太夫は、かなり筆が立つ・・・文才がある人だったんです。
以前、勝海舟の咸臨丸のお話のところで、一行がサンフランシスコに到着してからの珍道中や、初めての外国で体験した様々な事を書かせていただきましたが(2月26日参照>>)、この記録を残した人が左太夫なのです。
例のアメリカの議会を見て
「およそ4~50人が席について、一人が立ち、大声で手まねなどしてののしり合っていて、一段高い場所にいる副統領が意見を聞いて決定する様は、さながら魚市場のようである」
と、議会を魚市場に例えるくだりは、「まさに、的を射てる」って感じですよね~
さすが文才!!
この時の渡米は日米修好通商条約批准(ひじゅん・署名された条約に対し、国家として正式に同意する事)のための渡米・・・
正使が新見正興(しんみまさおき)、副使が村垣範正(むらがきのりまさ)、監察(目付け)が小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(4月6日参照>>) だったアレ・・・左太夫は新見の従者として乗船してました。
ちなみに、軍艦・ポーハタン号に乗船した彼らを護衛する役目で渡米したのが咸臨丸で、コチラは木村芥舟(きむらかいしゅう)が副使で、その木村の従者が福沢諭吉・・・勝海舟は艦長格でした。
そんな左太夫の記したアメリカ見聞録=『航米日録』には、まったく言葉も通じなければ習慣も違う外国人の姿に驚き戸惑いながらも、彼らの良きところをしっかりと見抜く素直さを持ち、むしろ、その良きところは武士の社会でも見習うべきという柔軟な心を持つ左太夫の性格が垣間見えます。
たとえば、そのポーハタン号の船内では、
『船将の前といえども、ただ冠を脱するのみにて、礼拝せず…』
一介の水兵が上官の前でも、帽子を取るだけで、ごたいそうな礼拝をする事はなく、また、上官もそれを求めずに同僚のように接する事でお互いの情が深く交わり、イザという時には力を合わせてお互いを救う・・・
また、不幸にして水兵が亡くなった時には、艦長までもが、その葬儀に出席して、まるで親しい友人が死んだ時のように涙を流す姿を目の当たりにした左太夫は、
『わが国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず。あたかも鬼神のごとし。これに順じて少しく位ある者は大いに威焔を張り下を蔑視し、情交かえってうすく凶事ありといえども悲嘆の色を見ず。大いに彼と異なる』
と、日本との違いに感激し、
「礼法が厳し過ぎるよりも、むしろ、礼法を薄くして情の交わりを厚くしたほうが、部下は“この人のために頑張ろう!”って気持ちになるんじゃないの?」
てな事を書いています。
また、嵐の夜にも全く動じず、テキパキと働く水兵たちを見て・・・
一方の自分たちは200年もの平和が続いたために何事も古い習慣にこだわり、何か事が起きれば、あたふたとするばかりで、結局、何もできない・・・
『翌日に至りて赧顔に堪えず』=「嵐が去った翌日は、恥ずかしくてたまらなかった」
と、なんだか、ここ70余年の平和を謳歌している平成の私たちにも耳が痛いような事も書き残しています。
さらに現地に着いてからも、今後の日本の発展のためにも、「学校や病院を見学させて欲しい」と希望する左太夫に対して、保守的な上官たちは、
「お土産を購入する事ばかりにやっきになって、市民との交流にも関心を示さない」
と、不満ムンムンです。
そんなんですから、当然と言えば当然・・・左太夫の内面は、これまで自分が理想として信じて疑わなかった封建的な武士道精神から、少し違った近代的な物の考え方へと変化していくのです。
しかし、そんな彼の気持ちとはうらはらに、幕末という時代はいよいよ佳境へと突入し、左太夫とて例外なく、その大きな波に呑まれていく事となります。
帰国後に、先の見聞録をまとめて藩に提出し、その後も、その文才を活かして、他藩や外国の情報を収集して膨大な記録を残すという仕事をこなしていた左太夫でしたが、その帰国から8年後の慶応四年(1868年)春・・・江戸城は無血開城とあい成り(3月14日参照>>)、江戸城を手に入れた新政府軍は、さらに北へと進んでいきます(4月25日参照>>)。
そんな中で・・・
そうです。。。左太夫の所属する仙台藩は、松平容保(まつだいらかたもり)の会津藩(2月10日参照>>)や、河井継之助(かわいつぎのすけ)が家老を務める長岡藩(5月13日参照>>)などと奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成し、新政府に対抗する姿勢を取ります。
しかも、
この同盟結成の影には、藩の命令により動いた左太夫の尽力があればこそ!と言われるくらいの活躍をしました。
ゆえに、仙台藩が新政府に降伏した後は、佐幕派の戦争責任者として捕えられて獄につながれます。
そして明治二年(1869年)4月9日、獄中にて切腹・・・47歳の生涯を閉じたのでした。
生前は、
蒸気機械製造所を建設して水力と火力による物産の増産や、外国人を雇って技術を学んだり、人材を海外に派遣することの必要性を説いていた左太夫・・・
さらに、
富国強兵によって列強と対等に渡り合える日本にすべきと主張し、幕府だけによる政治を批判していた左太夫・・・
これらは、皆、維新後の新政府が求めていた物・・・
しかし、その夢を叶える事無く、佐幕派の一員として散って行った左太夫を思うと、胸が痛みます。
敗戦のさ中で捕縛された時、左太夫は、船でさらに北へと向かう榎本武揚(8月19日参照>>)に合流する途中だったとか・・・
もし、タイムマシンがあって歴史に関与する事が許されるなら、その未来に伸ばした腕を引っ張り上げて、榎本の船へと連れてってさしあげたいくらいの気持ちになってしまいます(もちろんダメですが…)
玉蟲左太夫・・・
彼もまた、幕末に散る惜しい人材の1人です。
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コメント
左太夫さんのような人にこそ、新しい時代を生きて活躍してほしかった…!
幕府や藩に思うトコロも、新体制へ期待することも、きっと数え切れないほどたくさんあった筈なのに、
何故あのような形で命を落とさねばならなかったのか…と思うと本当に胸が痛いです(;_;)
もしもタイムマシンがあったならば、彼の手を引いて現代の霞ヶ関へ…なんて。
投稿: 千 | 2012年4月 9日 (月) 22時05分
千さん、こんばんは~
>彼の手を引いて現代の霞ヶ関へ…
なるほど…
榎本の軍鑑へなんてセコイ事言わずに、いっその事現代へ…
辣腕を奮ってくれそうです。
投稿: 茶々 | 2012年4月 9日 (月) 23時37分
全く関係ないですが、昨日高校の入学式がありました。(笑)
明治政府に参加していたら……、という人ってたくさんいますね。
彼らがいなかったら、戊辰戦争があんなに激戦にならなかったですし。
しかし幕府側でなかったら、留学してあんなに立派な文章も世の中にでることもなかった……。
複雑です。
投稿: ティッキー | 2012年4月10日 (火) 19時20分
ティッキーさん、こんばんは~
おめでとうございます。
新しいスタートですね~
幕末は切ないです(;ω;)
投稿: 茶々 | 2012年4月10日 (火) 21時31分
今の政治家と比べたら、有能な人だと思います。ミサイルが石垣島に飛んできたら?
投稿: やぶひび | 2012年4月12日 (木) 17時34分
やぶひびさん、こんばんは~
ホントです。
幕末のDNAはいったいどこに??
政治家さんには頑張っていただきたいです。
投稿: 茶々 | 2012年4月12日 (木) 20時14分
佐太夫は自分の祖先にあたります。
高校時代に確か「仙台藩帰らざる戦士」だったとおもうけど、佐太夫が主人公の歴史小説を読んだことをおもいだいました。
仙台の坂本龍馬とも呼ぶ歴史研究科もいるほどの新しい考え方を持った佐太夫をもっと生かしたかった思う。
投稿: 玉蟲の末裔 | 2012年4月20日 (金) 21時40分
玉蟲の末裔さん、こんばんは~
維新が成ってからの玉蟲さんが見たかったですね。
ご子孫なら、猶の事、そう思われるでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年4月21日 (土) 02時18分
仙台藩が列藩同盟に加盟した理由は、当時の藩主が伊達宗城の息子を養嗣子にしていたからです。
早々と仙台藩が同盟から降りると同時に、宗城の息子は廃嫡され、その跡を藩主の実子が継承しています。
列藩同盟が瓦解した背景には、奥州諸藩の足軽達が、兵として機能していなかったためではないしょうか。
戦争の最前線に放り出されるのは、いつの世も最下級の兵士です。
奥州諸藩は殊更、身分の低い人間への教育に対して、関心がなかったので、負けるべくして負けたのだと思います。
投稿: Y子 | 2012年12月18日 (火) 21時39分
Y子さん、こんばんは~
実際に、奥州諸藩の足軽が兵として機能していなかったかどうかは微妙ですが、
私としては、高橋是清や鈴木六之助など、足軽や小者身分の子息たちを渡米させて世界情勢を学ばせようとするあたりは、一概に、奥州諸藩が身分の低い者への教育に対して関心がなかったとも思えないのですが…
投稿: 茶々 | 2012年12月19日 (水) 00時30分
ポーハタン号ですよ。
投稿: | 2017年11月15日 (水) 21時47分
アッ!ホントだ~
全然気づいてませんでした(*´v゚*)ゞ
気になって、他のページも確認してみましたが、ここ以外のページでは、ちゃんと「ポーハタン号」になってました。。。
ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2017年11月16日 (木) 00時11分