下関条約締結で日清戦争・講和成立
明治二十八年(1895年)4月17日、下関条約が締結され日清戦争が終わりました。
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朝鮮半島を巡る、日本と清国(中国)の対立から、明治二十七年(1894年)に勃発した日清戦争・・・
明治維新が成って、近代国家として歩み始めた日本にとっては、初めての本格的な対外戦争・・・一方の清国は「眠れる獅子」と恐れられた大国・・・
ところが、実際に戦いが始まると、世界からは、未だ一人前とは思われていなかった日本が、周囲の予想に反して有利に事を展開していく事となります。
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これまで、このブログで書かせていただいているのは・・・
- 明治二十七年(1894年)6月2日
【日清戦争への足音】参照>> - 明治二十七年(1894年)6月9日
【いよいよ日清戦争へ…】参照>> - 明治二十七年(1894年)7月25日
【豊島沖海戦】>> - 明治二十七年(1894年)7月29日
【成歓の戦い】>> - 明治二十七年(1894年)9月16日
【日清戦争~平壌・陥落】>> - 明治二十七年(1894年)9月17日
【制海権を握った黄海海戦】>> - 明治二十七年(1894年)11月21日
【旅順口攻略】>> - 明治二十八年(1895年)2月2日
【威海衛・攻略】>>
・・・と、先日は、あの正岡子規(まさおかしき)が従軍記者として現地に渡ったお話(4月7日参照>>)をさせていただきましたが、
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実は、日清両国ともに、明治二十七年(1894年)の秋頃から、すでに講和に向かっての話し合いを模索していたのです。
この時、直隷(ちょくれい)総督と巡撫(じゅんぶ)兼北洋通商大臣という言わば、清国側の政治と軍の中枢を占める重要な役どころについていたのが李鴻章(りこうしょう)という人物・・・
この10月から、すでに日本側も講和の条件について国内で協議している事を小耳に挟んだ彼は、駐日アメリカ公使=エドウィン・ダンを通じて、日本側の陸奥宗光(むつむねみつ)外相にコンタクトをとり、その結果、翌年の1月から広島にて、講和交渉を開始する事が決定されたのでした。
かくして年が明けた明治二十八年(1895年)・・・清国から講和使節が派遣され、2月1日には外相の陸奥とともに、首相の伊藤博文とも会見し、事は順調に運ぶ・・・かに見えましたが、
残念ながら、この時の使節が持参した委任状に不備があったため、彼らを、正式な講和の全権大使とみて話し合う事ができず、ここで交渉がストップしてしまいます。
しかも、冒頭のリンクにある通り、この会見の翌日の2月2日には、結果的に日清戦争最後の戦いとなった威海衛(いかいえい)攻略が・・・
この事で、ますます立場が悪くなった清国側は、「もはや李鴻章・本人を全権として日本に派遣するしかない」という結果に至ります。
こうして、李鴻章は、養子の李経方(りけいほう)らを伴い、3月19日に門司港に上陸・・・翌日から下関の春汎楼(しゅんぱんろう)にて、講和交渉が開始されたのです。
・・・というのも、清国がまず求めたのは「休戦条約の締結」、
しかし、日本は、はなから「講和の談判」・・・
その最初の姿勢が違うので、そこから前へ話が進みません。
2回目・3回目と何度も話し合いの場は持たれますが、いっこうに進展なし・・・「もはや休戦を諦めて講和交渉に向かうしかないか…」と、さすがの李鴻章も思った3回目の会議の終了後・・・
事件です。
この3回目の会議のあった24日の夕方・・・宿舎に帰る途中の李鴻章が暴漢に襲われたのです。
幸いケガだけですみましたが、これは完全なる日本側の失態・・・日本は慌てて清国側の姿勢を受け入れる事となり、3月30日に休戦条約が結ばれました。
こうして、とりあえず休戦状態に入った両国・・・翌日からは講和の条件について話し合う事になりますが、日本側が出した条件が、清国側が予想していた物とは大きく違っていたため、李鴻章は、本国と連絡を取りながら、交渉の引き延ばしにかかります。
しかし、休戦したとは言え、それは文字通り休戦なので、この間にも続々と大陸に向けての援軍部隊を派遣する日本・・・
この様子を見て、「このままウダウダ引き延ばしていると更なる決戦となる事は必至・・・」との判断をした李鴻章は、明治二十八年(1895年)4月17日、本国の了解を得たうえで、日本の出した条件を基本とした講和条約に調印したのでした。
★下関条約の主な内容
- 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス
- 清国ハ次ノ土地ナドヲ永久ニ日本国ニ割与ス
1、奉天(ほうてん)省南部ノ地遼東(りょうとう)半島
2、台湾全島
3、澎湖(ほうこ)列島 - 清国ハ康平(こうへい)銀弐億両ヲ日本国ニ支払フベキコトヲ約ス
- (以下略)
こうして、日清戦争は終結・・・勝利した日本は、これで列強の一角に喰い込むキッカケを掴んだ事になるのですが、一方では、条約調印からわずか5日後の4月23日、ロシア・ドイツ・フランスの3ヶ国の公使が東京の外務省にやって来て、上記の条約の中にある「遼東半島の割譲」について異義を申し立てます。
世に言う『三国干渉』ですが・・・
そのお話は4月23日のページでどうぞ>>。
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コメント
日清戦争講和条約の日に、石原都知事の尖閣諸島買い取り計画発表。
この日を狙ったのでしょうか?
あるいは、単なる偶然?
投稿: たま | 2012年4月17日 (火) 20時02分
たまさん、こんばんは~
ホントだ!
ニュースでやってましたね~
投稿: 茶々 | 2012年4月18日 (水) 03時17分