日清戦争と正岡子規~従軍記者として…
明治二十八年(1895年)4月7日、日清戦争のさ中、従軍記者として遼東半島に赴く直前の正岡子規が、五百木瓢亭宛てに手紙を書いています。
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幕末の慶応三年(1867年)に生まれ、明治期に活躍した俳人であり歌人であり国語学者である正岡子規(まさおかしき=常規)・・・
ほとんどの教科書に、あの横顔の写真がデデ~ンと載ってる事もあり、もはや正岡子規については説明するまでも無いでしょう。
そんな子規は、同じ愛媛出身で親しい交流もあった五百木瓢亭(いおきひょうてい=良三)が、当時、満州にいた第5師団に随行しながら書いていた従軍日記が、新聞「日本」の紙上で人気を博していた事から、「自分も従軍記者になりたい!」と願い、「日本」主筆の陸羯南(くがかつなん)に猛アピール・・・
この明治二十八年(1895年)の正月に、やっと願いが叶って、3月には近衛師団とともに広島入り・・・そこでしばらく待たされたので、結局、現地へ出立するのは4月10日になるのですが、その3日前の明治二十八年(1895年)4月7日付けで、かの五百木に宛てた手紙が現存しています。
当時の状況としては、国内には日本軍の連戦連勝の報が毎日のように届き、一般市民も大いに関心を持っていましたが、未だ、速報メディアが未発達であったため、その速報の細かな事は、従軍記者による報告と、それをもとに制作された錦絵や版画といった形の物でした。
子規自身も、
「日本軍の連戦連勝で、神国・日本の名は外国人に崇められていると聞いて、大変うれしい」
なんて事を、この頃に書き残していますので、まだ見ぬ現地での事を大いに夢見ていた事でしょうね。
ただ、戦況としては、すでに終盤を迎えていた頃ですね。
日清戦争については、これまで何度か書かせていただいてますので、とりあえず、リンクを表示させていただいときますが・・・
- 明治二十七年(1894年)6月2日
【日清戦争への足音】参照>> - 明治二十七年(1894年)6月9日
【いよいよ日清戦争へ…】参照>> - 明治二十七年(1894年)7月25日
【豊島沖海戦】>> - 明治二十七年(1894年)7月29日
【成歓の戦い】>> - 明治二十七年(1894年)9月16日
【日清戦争~平壌・陥落】>> - 明治二十七年(1894年)9月17日
【制海権を握った黄海海戦】>> - 明治二十七年(1894年)11月21日
【旅順口攻略】>> - 明治二十八年(1895年)2月2日
【威海衛・攻略】>>
この2日の戦いの10日後の2月12日に清国艦隊が白幡を掲げて降伏文書を出した事で休戦状態に入った事・・・
そして、その日の夜に、この戦いの指揮官であった清国軍水師提督・丁汝昌(ていじょしょう)が服毒自殺を図った事も、すでに子規の耳に届いていたようで、今回の手紙にも、その事を書くと同時に、
「いくさ見ずに帰るは、誠に本意なく候」
と、ポツリとホンネを漏らしています。
ただ、休戦状態に入ったとは言え、まだこの時点では講和が成立するかどうかはまったく以って先の見えない状況で、陸軍などは、まだ、この先の決戦を考えて、ここまで温存していた近衛師団と第4師団を派遣する用意をしていたのだとか・・・
子規の手紙の末尾の部分にも、
「総督府は金州(きんしゅう)に進み、近衛・大阪は山海関(さんかいかん)を衝(つ)く筈にて、皆十日前後に出発致し候」
と綴っていて、実際に、この後の4月13日に、総督府は遼東(りょうとう)半島に向けて出征しています。
とは言え、ご存じのように、子規は、もともと病弱な体をおしての従軍・・・1ヶ月後の5月17日には、帰国途中の船の上で血を吐いて重態となり、神戸に上陸後、そのまま病院へ入院してしまいます。
何とかもち直して、その後は故郷の松山で静養生活に入る子規ですが、わずか1ヶ月とは言え、彼にとっては有意義な期間だったと思いたいですね。
と、子規が戻って来るという事は・・・
その1ヶ月の間に、日清戦争の講和が成立するという事になるわけですが、そのお話は、また「その日」の日づけに添ってご紹介したいと思います。
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