豊島泰経と照姫…石神井城の伝説
文明九年(1477年)4月28日、大田道灌が豊島泰経の籠る石神井城を攻撃しました。
・・・・・・・
東京都練馬区にある石神井公園(しゃくじいこうえん)・・・
関西在住の私は、まだ行った事が無いのですが、聞くところによれば、石神井池と三宝寺池を中心に四季折々の花々が咲き、グランドや野外ステージもあるステキな公園で、都会の真ん中とは思えない静けさのある憩いの場所として都民に親しまれているようですね。
とは言え、この公園のおおもとは、室町時代に周辺を支配していた豊島(としま)氏の居城=石神井城(しゃくじいじょう)・・・戦国の城の宿命とは言え、この場所が戦場となった事も、かつてはありました。
時は、まさに戦国の幕開けの頃・・・
そもそもは・・・南北朝動乱のために、本拠地が関東でありながら、京都で幕府を開く事になってしまった室町幕府=足利氏は、足利尊氏の嫡男=義詮(よしあきら)の家系が京都にて代々将軍職を務める一方で、鎌倉公方として四男・基氏(もとうじ)を派遣し、この基氏の家系が関東を治める事とし、その公方を補佐する役職として関東管領(かんとうかんれい・当初は執事)を置きました(9月19日参照>>)。
しかし、案の定・・・京の都より遠く離れた関東では、やがて、その公方が独り歩きしはじめ、幕府中央とは一線を置く独立国家のようになってしまったため、第6代将軍の足利義教(よしのり)が関東管領と協力して、第4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を葬り去ったわけです(永享の乱:2018年2月10日参照>>)が、
今度は、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が勝手に公方を名乗って関東で大暴れ・・・「勝手に名乗られちゃ困る」と、正式な公方を派遣するも、乱れる現地では、正式な公方が鎌倉に入れない・・・と、もはやワチャワチャ状態となる関東一帯・・・
この頃、関東管領職をあずかっていたのが、扇谷(おうぎがやつ)上杉と山内(やまのうち)上杉の両上杉家で、そのうちの扇谷上杉家の執事が大田道灌(どうかん)でした。
一方の山内上杉家の執事を勤めていたのが長尾家だったのですが、文明五年(1473年)に、その長尾家の当主・長尾景信が亡くなった時に後継ぎ問題に山内上杉顕定(あきさだ)が介入・・・嫡男を押しのけて、強引に弟の忠景(ただかげ)に、家督を継がせようとしたのです。
当然の事ながら、怒り爆発なのは、本来なら家督を継ぐはずだった嫡男の長尾景春(かげはる)です。
早速、勝手に公方を名乗ってるあの成氏と組んで武蔵鉢形城(はちがた・埼玉県)にて挙兵・・・その名も「長尾景春の乱」を起こしました。
当初は、家は違えど同じ立場の執事同志という事で景春に同情的だった道灌でしたが、やはり、主君=関東管領を補佐するという本来の職務を全うする決意をし、結局は景春と敵対して乱を鎮圧する道を選びます。
一方・・・お待たせしました!
やっと出て来た、本日の主役である石神井城の11代城主・豊島泰経(としまやすつね)・・・彼は、ここで景春についたのです。
泰経が、景春を支持した理由は定かではありませんが、もともと豊島家が長尾家の配下だったとも、あるいは、道灌が築城した江戸城(4月8日参照>>)が、泰経の石神井城を脅かす位置にあった事に反発したとも言われます。
かくして始まったのが文明九年(1477年)4月13日の江古田(えこだ)・沼袋(ぬまぶくろ)戦い・・・(4月13日の後半部分参照>>)
この戦いで大敗し、弟の泰明(やすあき)まで失った泰経は、何とか石神井城まで逃げ帰り、道灌に対して降伏を申し出ますが、道灌が、その降伏の条件として出したのが、城の破却・・・
しかし、何日か経っても、泰経が城の破却に着手する様子が無かった事から、「実際には降伏する気がない」と見た道灌は、文明九年(1477年)4月28日、石神井城に総攻撃を開始したのです。
自然の要害である三宝寺池を挟む台地に建つ石神井城は、なかなかの堅城ではありましたが、ご存じのように、戦国屈指の名将である道灌からの総攻撃を受けた以上、それは時間の問題・・・やがては窮地に陥ってしまいます。
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた泰経は、家宝の『黄金の鞍』を白馬に乗せ、城壁の真横にあった崖から三宝寺池めがけて飛び込みました。
馬とともに池に沈んでいく泰経・・・それを見た娘の照姫が、その後を追って入水自殺をはかり、ここに平安時代から続く武蔵の名族=豊島氏は滅亡したのです。
ところが、いつのほどからか、夜になると、泰経・父娘がその身を投げた三宝寺池から、宝石か?黄金か?と見まごうばかりの眩しく怪しい光が発せられるとの噂がたちます。
やがて、池のほとりには泰経と照姫の塚が建てられ供養されますが、その後も「怪しい光を見た」「照姫の幽霊を見た」という噂が絶える事は無かったとか・・・
・・・と言いたいところですが、これは、あくまで伝説・・・
道灌側の史料では、泰経はこの石神井城では死なず、うまく脱出した後、小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)にて再起を試みますが、再び敗れて逃走・・・つまり、泰経は、いつ死んだかわからない状況のまま、表舞台から姿を消す事になっているそうです。
なので、正史としては、そのご命日もわかっていないという状況です。
ただし、上記の霊的現象の伝説は、地元では有名な話として長きに渡って語り継がれていたらしく、明治の頃には、池に沈んだ『黄金の鞍』を探そうと、池に潜った人までいたとか・・・
まぁ、塚もある事ですし・・・現在では、照姫の悲劇をしのぶ『照姫まつり』というイベントも毎年開催されるらしいので、ひょっとしたら、ひょっとするのかも・・・
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コメント
照姫まつり?…うーむ、ちと便乗臭いですね。
武士は頼まれても化けて出ませんが、お姫様なら地元サービスでしょうがないか?
ピーひゃら おっとっと♪ 江戸に進駐してきた薩長ダンブクロ、もとい維新の功臣は大名・旗本屋敷を接収して、古井戸に幽霊の話でもオマケに付いてると 大喜びしたらしいですよ。そういうの、憧れだったのですね。
英国では ロンドン・ゴーストマップなるものを嬉しそうに売ってます。
投稿: レッドバロン | 2012年4月29日 (日) 16時35分
レッドバロンさん、こんばんは~
>古井戸に幽霊の話でもオマケに付いてると 大喜びしたらしい
今でこそ、「心霊スポット」なんて言われて忌み嫌われる雰囲気ですが、明治の頃には、むしろ、それこそが「由緒正しい証拠」という扱いだったのかも知れませんね。
まぁ、負けた武将一家が、いちいち化けて出てたら、京都は化け物だらけで歩けませんけどね。
投稿: 茶々 | 2012年4月29日 (日) 19時02分
はじめまして、へたれ中年(ちょっと変わったHNですがごめんなさい)と申します。
私も羽柴さんと同じ関西在住ですが、かなり以前に石神井公園の近くに住んでいたことがあり、思わずコメントを書かせていただきました。
もっとも、その頃は小さな子供でしたので、城跡だったことも知らず、歴史的背景も知らず、三宝池でザリガニ釣りばかりしていました(笑)。
大人になって城跡を見に行った時には、大きな土塁を見て、「子供の頃はこんなもの全然気が付かなかったな」と感動したものです。
御迷惑でなければちょくちょくお邪魔させていただきます。
投稿: へたれ中年 | 2012年4月29日 (日) 19時30分
へたれ中年さん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
>「子供の頃はこんなもの全然気が付かなかったな」
私もです。
遠足を含め、よく遊びに行った玉手山遊園という場所に、江戸時代に建てられた大坂夏の陣の戦没者の慰霊碑があった事を、つい最近知りました。
感動しますよね。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2012年4月30日 (月) 01時02分