名君か否か?茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり
文政元年(1818年)4月24日、出雲松江藩の第7代藩主で茶人としても知られる松平治郷が68歳でこの世を去りました。
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出雲(島根県)松江藩の6代め藩主=松平宗衍(むねのぶ)の次男として生まれた松平治郷(はるさと)が、父の隠居を受けて第7代藩主の座についたのは明和四年(1767年)・・・わずか17歳の時でした。
しかも、この父の隠居というのが、ちょいとワケあり・・・
なんせ、この時、父は38歳・・・本来なら、まだまだ藩主として頑張れる年齢だったわけですが、それを、ある事の責任をとる形で、言わば「隠居させられた」・・・
その「ある事」というのが、松江藩の財政難・・・それも、もう破たん寸前のギリギリのとこまで来ちゃってました。
とは言え、さすがに、たった17歳で借金大国を背負わされてしまっても、治郷1人で何ができるわけもありませんから、そこは、責任とって隠居したとは言え、父が後見人となって支え、家老の朝日茂保(しげやす=丹波)を仕置き役に据え、藩政改革に乗り出します。
繁殖産業では、木綿に加えて朝鮮人参など、より価値の高い物を推進し、特に、大根島で生産された朝鮮人参は、国外に輸出できるほどになり、藩の大きな収入源となりました。
また、松前塗りや出雲焼きなどの発展にも力を入れて名工の育成にもあたりました。
さらに、厳しい倹約令を出し、多すぎる役人のリストラも断行・・・ただし、同時に年貢も値上げしてるので、庶民から見れば、手放しで万々歳ってわけにもいきませんでしたが・・・
こうして、藩の財政改革を進める一方で、茶の道での才能を発揮していく治郷さん・・・
まずは、松江藩茶道頭の正井道有(どうゆう)に小堀遠州の流儀を習い、次に侘(わ)び茶を極め、さらに、将軍家の数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)に師事し石州(せきしゅう)流を学びました。
それでも、まだ足らず、19歳の時には天真寺(東京都港区)の大巓(だいてん)禅師に弟子入りし、3年間に渡って禅の修行を積んだ後、不昧(ふまい)と号しました。
ちなみに、この治郷さん・・・後に、石州流を基礎にした不昧流という独自の流派を立ちあげるほどになるので、時には松平不昧の名で紹介される事もあります。
ところで、上記の通り、質素倹約を推しすすめている松江藩ですので、茶道を学ぶにあたっては、藩主と言えど贅沢は好みません。
彼が20歳の時に著したという『贅事(むだごと)』なる書物では、
「千利休や武野紹鷗(じょうおう)の頃の侘び茶の精神に戻れ!」と称し、金持ちによる名器の買いあさりや、贅沢な茶会などを痛烈批判・・・
♪釜ひとつ 持てば茶の湯は なるものを
よろずの道具 好むはかなしさ ♪
という歌も詠んじゃってます。
うんうん・・・さすがは一流茶人の治郷さん・・・侘びってますねぇ~
・・・と言いたいところですが、人間、生活に余裕ができると、その価値観も変わるものなんですかね~~
これまでの様々な財政改革で、見事、借金地獄から抜け出した松江藩・・・いや、それどころか、懐ホクホクの好景気となったは良いが、その途端に治郷は、名器買いに走りはじめるのです。
500両の茶入れに、300両の茶碗・・・
それは「世の中の名器は、皆、俺が買うたる!」
と豪語するほどの勢いだったとか・・・
今も残る『道具帳』によれば、その数は518点にものぼるそうで、昔に言ってた事とは180度の豹変ぶりです。
まぁ、これも、ご本人の言い分によれば
「千年の後に、名と物の形代(かたしろ)を残さんがため…」
つまり、良い物を後世に残すためには、しっかりとした管理をせねばならないわけで、自らがそれを管理する、今で言う博物館的なつもりだったという事かも知れませんが・・・
しかし、それで、せっかく回復した藩の財政が、またまた窮地に陥るほどの収集ぶりだったのですから、ちょっと考え物ですね。
ただし、これも、治郷さんの味方をするならば、財政が潤って藩が強くなれば、即座に幕府から警戒されるこのご時世なので、幕府の目をかわすために名器買いに走ったという説もあり・・・
なので、治郷さんの評価は賛否両論です。
財政は建てなおしましたが、税金は高いし、結局、その財政もまた悪くなるわけですし・・・
とは言え、治郷が大成した不昧流の茶道から発展した様々な風流な文化・・・特に、和菓子は、この平成の日本でも松江市はトップクラスの技術と伝統があります。
現在、日本に数多くある「小京都」と呼ばれる場所の中でも、本場の京都の次に金沢、そして3番手に来るのが松江だと言われます。
今に伝わる松江の雅な文化は、この治郷さんなくしては語れないほどなのですよ。
文政元年(1818年)4月24日・・・すでに隠居して長男の斉恒(なりつね)に家督を譲っていた治郷は、静かに、その生涯を閉じます。
「わが流儀立つべからず、諸流皆我が流」
自分とこの流派がいくら大成したからと言っても、「自分とこだけがスゴイ!」と驕りたかぶるのではなく、いつも、他の流派の良いところはしっかりと認めていたという治郷・・・
そこには、完全無欠の名君よりは、ちょっと劣るけど魅力的な、彼なりの「侘び」の精神があったのかも知れません。
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コメント
>財政が潤って藩が強くなれば、~
言い訳くさいですね。
そんな余裕があるならかえって目をつけられそうな気がします。
>♪釜ひとつ 持てば茶の湯は なるものを~
精一杯の強がりだと思うと...
萌えます。(*´Д`*)
投稿: ことかね | 2012年4月25日 (水) 12時37分
ことかねさん、こんにちは~
加賀百万石の雅な文化も、幕府の警戒をかわすべくバカ殿を演じた前田利常のおかげで発展したとされてますからね~
それと、同じような感じなのかも…
投稿: 茶々 | 2012年4月25日 (水) 15時53分
逆に ひたすらシブチンで、風雅さの欠片もない松江なんて…。断言しますが、小泉八雲は赴任しませんし、ワタシも寄り付きません。
短期的には殿様の贅沢や道楽と思ったものが、長期投資としては極めて有効…という事例は多いですね。おカネは集中して使わないと、効果が出ないです。
投稿: レッドバロン | 2012年4月25日 (水) 23時09分
レッドバロンさん、こんばんは~
ホントですね~
現在進行形では、ただの流行・ブームとされる物の中にも、後世には伝統として評価される物もある…
あとから気がついても、もう、その大事な物は残っていないかも知れない…
それを思うと、「よくぞ買いあさってくれた」という感じですね。
まぁ、治郷さんの見る目もあったのでしょうが…
投稿: 茶々 | 2012年4月26日 (木) 01時22分