日本とロシアの架け橋に…一商人・高田屋嘉兵衛
文政十年(1827年)4月5日、江戸時代後期の廻船業者で、ロシアと日本の架け橋となった高田屋嘉兵衛が59歳の生涯を終えました。
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淡路島の農民の子としてうまれた高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、廻船業者になる事を志し、18歳で兵庫へ出て、淡路島と大坂を行き来する船の水夫として働きます。
その後、船頭となって様々な場所へと航海し、徐々に貯めた資金で船を造り、貨物の運搬業で財を成していく中、蝦夷地(北海道)との交易=松前貿易に目をつけて、自ら、北海と大坂を行き来して、蝦夷地経営に乗り出します。
やがて、幕府の役人からの信頼を得た嘉兵衛は、蝦夷地統治営業者の1人となり、幕府の要請で択捉(えとろふ)島へと向かい、その航路と漁場の開発を行ったのです。
地形が複雑だった当時の択捉島では、島民たちは、未だ未開の地さながらの自給自足のような生活を細々と営んでいる状態でしたが、その周辺に17ヶ所もの漁場を開き、住民に漁具や食糧を配給して、ある時は諭し、ある時は励まして漁業を営む事を勧めたのです。
貧しい者には衣食を提供し、病める者には医薬を提供し、文字を持たなかった彼らに、字と言語を教え、果ては道路を開発して険しい山奥まで容易に入って行けるようにも・・・
やがて嘉兵衛の真意を理解した島民たちは大いに働き、それで得た品々を嘉兵衛が松前や大坂に運ぶ・・・もちろん、これで儲けたのは嘉兵衛だけではなく、島民たちの生活もグンと向上した事は言うまでもありません。
そう、嘉兵衛は「自分さえ儲かれば良い」という豪商ではありません。
自分が儲かるには、商品を売る人と買う人の存在が不可欠・・・彼らがいてこそ自分が潤うのだから、ともに向上して行こうという人なのです。
なので、文化三年(1806年)に起きた函館の大火では、率先して被災者の救済に乗り出し、大半が焼けてしまった家屋の再建や道路の復元、植林や田畑の開墾までを自費で行っています。
そんなこんなの文化九年(1812年)・・・
観世丸という船に乗船して国後(くなしり)島近くを航行していた嘉兵衛は、洋上でロシア船・ディアナ号に遭遇・・・いきなり捕えられてしまいました。
実は、これには理由があり・・・
この1年前、ディアナ号が周辺の測量のために千島列島を訪れていた時、松前藩によってディアナ号・艦長のゴローニンら5名が捕えられ、彼らを人質に船への攻撃を受けたという事件があったのです。
危険を感じた副館長のリコルドは一旦ロシアへと戻りますが、その後、カムチャッカあたりで漂流していた摂津の水夫・忠五郎ら5名を救出した事で、彼らを連れて再び国後へ・・・そして、彼らと交換するという条件で「ゴローニンたちを返してほしい」を申し出たのですが、この時対応した国後の官吏が、未だ、ゴローニンたちが幽閉の状態だったにも関わらず、「ゴローニンたちは、死罪となって、もう処刑された」とウソの返答をして取り合わなかったのです。
納得がいかないリコルドは、その真実を確かめるべく観世丸に近づき、嘉兵衛らを拉致したというワケです。
ただし、この1年前の松前藩の態度にも理由がありました。
さかのぼる事9年・・・文化元年(1804年)に、当時、ロシアの外交官だったレザノフが、日本人漂流民を手土産に長崎を訪れ、日本との通称を求めた事があったのですが、この時の日本は、それを拒絶・・・交渉を諦めたレザノフは、日本人漂流民を返して何事もなく帰って行ったのですが、部下のフォボストフら一部不満を持ったロシア兵が、その帰路で択捉島や樺太に上陸して、放火や略奪をして逃亡したという事があったのです。
そのために、松前藩はロシアを警戒し蝦夷地周辺の警備を強化していたのです。
また、文化五年(1808年)には、オランダ船のフリをしたイギリス船が長崎に入港してスッタモンダとなった有名なフェートン号事件も発生しており、日本全体が外国船に対して強固な姿勢を取っていた時代でした。
とにもかくにも、こうしてロシア船・ディアナ号に乗せられてしまった嘉兵衛・・・
しかし、その態度は、まったく慌てず騒がず・・・しっかりと落ち着いて
「未だ幽閉の身ではありますが、ゴローニンさんたちは、全員生きてはります・・・安心してください」
と告げます。
その堂々たる態度に、ただならぬ人格者と感銘を受けるロシア人たち・・・
しかも、嘉兵衛は、
「・・・と言うても、簡単に、ほな解放しますわってワケにもいきまへんわな。
船の上では何ともできませんよって、なんならこのまま、おたくらの国へ連れてっておくれやす。
そこで、日本の事情を探索したうえで、対策を練りましょうや」
と・・・
とは言え、この時の観世丸には27名の乗組員がいました。
このままロシアへと連れて行かれ、果たして、再び日本に帰って来る事ができるのか??
その命の保証だってありません。
すると嘉兵衛は
「ロシアへ行くのは、僕1人で充分ですさかいに、他の乗組員たちは解放したっておくれやす。」
この態度に、またまた感銘を受けるロシア人たち・・・しかし、さすがにそういうワケには行かず・・・結局、嘉兵衛以下4名がロシアに向かう事になりました。
到着後、リコルドに付き添われてロシアの要人と面会した嘉兵衛は、
「日本は、必ずしも、ロシアを敵とは思ってまへんのや。
事は、あのフォボストフらの択捉や樺太での狼藉に対しての警戒・・・
日本とロシアがちょっとした誤解がもとで、なんやややこしい事になってる事は、ホンマ、嘆かわしい事です。
この誤解を解くためやったら、僕は進んでこの命賭けます。
どうでっしゃろ?
日本との交渉・・・僕に任せてくれはりませんか?」
と、これまた、誠意溢れる熱弁を奮います。
これがロシア人たちの胸に響かないわけがありません。
彼らの信頼を得て、すべてを任された嘉兵衛が、リコルドとともに再び国後に戻って来たのは翌・文化十年(1813年)5月の事でした。
到着後、早速、松前奉行との交渉に挑む嘉兵衛・・・
実は、あの狼藉事件を起こしたフォボストフらは、帰国後、その事がバレでロシアで処罰を受けています・・・つまり、アレは完全に彼らの独断で行った事件・・・
嘉兵衛は、ロシア政府が出した書面を見せながら、ちゃんと、その事を松前奉行に報告します。
あの略奪行為がロシア政府の命令では無かったと知った松前奉行は、即座に弁明書を差し出す事を認め、これをロシア語に訳した物を嘉兵衛に持たせて、ロシア船へと送りました。
幸いな事に、この時のロシア船にはカムチャッカ知事が乗船していた事で、その返答はすぐにもたらされます。
「なんなら、僕(知事)が、自ら函館に行って弁明しますが・・・」と・・・
これには、松前藩側がちょっと驚き!!
なんせ、この知事は前年、アメリカにも行ってる国際派・・・そんな人を上陸させて良いのやら、どうなのやら・・・
「もはや、自分の手に負えない」と判断した松前奉行は上官にお伺い・・・さらにその上にお伺い・・・で、結局、幕府側は
「フォボストフが奪った品々を返還してほしい・・・ただし、もうどこへいったかわからなくなってたら賠償しなくてもいいよ」
と伝えるに留まって、知事が上陸する事は無かったようですが・・・
やがて、その年の秋、ロシア政府の代表として、再びやって来たリコルドは函館に上陸・・・日本官吏・高橋三平らと面会して、ロシア総督の書簡を手渡しながら現段階で見つけた限りの品々を返還し、ここに、レザノフ以来のロシアと日本の誤解&葛藤がすべて解決したのです。
もちろん、かのゴローニン艦長たちも、無事に母国にお帰りになりました。
こうして、再び、一商人に戻った嘉兵衛ですが、この素晴らしき行為が人々の絶賛を浴びた事は間違いなく、阿波藩主などは自らの扶持米を嘉兵衛に与え、臣下の列に加えたのだとか・・・
文政十年(1827年)4月5日、高田屋嘉兵衛は静かにこの世を去りますが、儲けた収入のほとんどを地域発展の公共事業につぎ込んでいた彼には、本人所有の田畑の一つも無かったと言います。
しかし、彼の生きた証は、しっかりと残ります。
現在の函館には、「函館の恩人」として彼の功績を讃える箱館高田屋嘉兵衛資料館があります。
もちろん、彼の故郷=淡路島の洲本市五色町にも、ウェルネスパーク五色=高田屋嘉兵衛公園があり、そこにも資料館があります。
まさに、「故郷に錦」ですね。
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コメント
司馬遼太郎さんの小説でも有名ですが、ホントに江戸期の人々の文明度の高さを感じますね。
「今」が恥ずかしいです。
歩く国難、鳩ポッポはイランに行くと言ってます。このややこしい時に、頼むから止めておくれ。
投稿: レッドバロン | 2012年4月 6日 (金) 02時18分
レッドバロンさん、こんばんは~
司馬遼太郎さんで小説になってるんですか~
恥ずかしながら、小説はまったく読まないので、書店に行っても、そのコーナーに行く事も無く、小説になってるのは知りませんでした。
ホントに…
江戸時代には、すばらしい人たちがたくさん!
このDNAは、まだ残ってるはずなのに…
投稿: 茶々 | 2012年4月 6日 (金) 02時49分
素敵な話ですね、商売人の方でこういう人がいるのに。政治家の方でも人材がでて欲しいですね。
投稿: minoru | 2012年4月 6日 (金) 15時33分
minoruさん、こんばんは~
今の時代は商売人もねぇ…
会社んp金で賭けごとやったり、
損害を隠しまくったり…
大きくなったところは、自分たちの事しか考えてませんからね。
嘉兵衛さんのように、豪商になっても、自分を盛りたててくれた社会への恩を忘れないでいてほしいですね。
投稿: 茶々 | 2012年4月 6日 (金) 18時48分
茶々さま、お返事ありがとうございました。任意の一点ですが、嘉兵衛さんのような人は、おそらく、江戸時代にはさほど珍しくはなかったのではないかと思います。それが文明の力なのですよね。
司馬さんの小説の題名は「菜の花の沖」です。さすがは作家で、いいタイトルを付けますよね。
投稿: レッドバロン | 2012年4月10日 (火) 01時58分
レッドバロンさん、こんばんは~
今日は、ちょっと出掛けておりまして、お返事がおそくなりましたm(_ _)m
「菜の花の沖」っていうんですか…
いいタイトルですね。
投稿: 茶々 | 2012年4月10日 (火) 21時25分
高田屋嘉兵衛さんについては、日本史の教科書に名前が載っていたことくらいしか覚えていませんでした。
偉大な業績を知ることができて良かった!
茶々様に感謝です!
それにしても嘉兵衛さんは、泰然自若にして威風堂々。こんな人物になりたかったなあ…
投稿: とらぬ狸 | 2015年5月 1日 (金) 20時13分
とらぬ狸さん、こんばんは~
江戸時代の商人は、
「自分が頑張って儲けた」
ではなく
「世間様から儲けさせてもらった」
という感覚で、私利私欲に走らず、社会貢献した人が多いですよね。
ホント、尊敬します。
投稿: 茶々 | 2015年5月 2日 (土) 03時25分