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2012年4月27日 (金)

長崎を開港した日本初のキリシタン大名・大村純忠

 

天正七年(1579年)4月27日、肥前大村純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄託しました。

・・・・・・・・

備前(佐賀県)島原の戦国大名=有馬晴純(ありまはるずみ)の次男=大村純忠(すみただ)が、大村家の養子となったのは、わずか4歳の時でした。

当時、島原半島には、いくつかの氏族があったものの、多くは、未だ小さな国人・・・しかし、有馬氏だけは、島原半島一帯に誇る勢力を持つトップクラスの大名であった事から、彼ら小さな国人たちは、この有馬氏に従属するような形で均衡を保っておりました。

そんな中での天文七年(1538年)、その有馬氏が、更なる勢力拡大を図って、隣国の大村氏に送り込んだのが純忠・・・将来、この大村家の当主となってもらって、有馬氏傘下を確実の物にしようというわけです。

とは言え、純忠を養子に迎えた大村純前(すみあき)にも、すでに、3歳になる実子の貴明(たかあきら)がいて、本来なら、この子が大村氏の後継ぎなわけですが、この養子縁組は、その実子を武雄領主の後藤純明(すみあきら・すみあき)への養子に出してまで結ばれた、ちょっと強引な物でした。

おそらくは、大村氏としては、大きな勢力の有馬氏の力に屈して、しぶしぶ受けた養子縁組・・・この事は、貴明もちろん、大村の家臣たちの心にも、深く刻まれた事でしょう。

Oomurasumitada300_2 やがて天文十九年(1550年)、17歳になった純忠は、大村氏の家督を継ぎ18代当主となりますが、上記の通り、周囲は敵だらけの状況で、それは、純忠のこれからにも、大きく圧しかかって来る事となります。

ところで、彼が当主となった天文十九年(1550年)と言えば・・・

そう、その前年に鹿児島に上陸したイスパニアのキリスト教宣教師=フランシスコ・ザビエル(7月3日参照>>)せっせと布教活動をしていた頃・・・

ザビエル以来、更なる宣教師を乗せたポルトガル船がやって来るようになりますが、その中心地となっていたのが、隣国の松浦氏が領土とする平戸港・・・

純忠は、そんな平戸の様子を見て、いち早く、その利に気づきます。

宣教師が日本にやって来るのは、なにも、布教目的だけではありません。

そこには、巨万の富を産む貿易という物もついて来ます。

しかも、松浦氏は、貿易で大儲けするにとどまらず、最新鋭の武器をいち早く輸入し、その国力もグングンと拡張している様子・・・これは、黙って見てるわけにはいきません。

そこで、純忠・・・当時、豊後(ぶんご=大分県)に滞在していたコスメ・デ・トーレス神父に書状を送ります。

「ウチの領地内にある横瀬浦を開港しますんで、こっちに来てもらえまへんやろか?
布教活動にも便宜を図りますし、商売にも大きく貢献しますよって…」

と・・・

そんな働きかけをしていたおりもおり・・・天の助けか神の思し召しか、

平戸にて商売をしていたポルトガル人が、取引のトラブルで殺傷されてしまうという事件が起こります。

当然の事ながら、ポルトガル人が平戸を敬遠しはじめ、「ならば・・・」と、横瀬浦にやって来るようになり、たちまちのうちに、横瀬浦は外国貿易の中心となっていくのです。

永禄六年(1563年)には、純忠自身も、家臣=25名とともに洗礼を受けドン・バルトロメオの名を授かり、日本初のキリシタン大名となったのです。

ポルトガル人を特別待遇とし、宣教師の布教活動を保証し、領民にもキリスト教を推進し・・・と、純忠が様々な優遇措置をとった事で、大村領は、日本で最も多くのキリスト教徒が住む町として大いに発展しますが、それは、同時に、これまでの仏教や日本の神教を圧迫する事でもあるわけで、そこには当然、反発も生まれます。

しかも、冒頭に書いたように、大村氏の家臣の多くは、養子に出された貴明こそが本来の主君と思っている者も少なくないわけで・・・

永禄七年(1564年)・・・そんな彼らが、純忠を廃して貴明を迎えようと蜂起・・・もちろん、当の貴明もこれに乗っかり、さらに、近隣の龍造寺氏や松浦氏の援助も受けて勢いづいた彼らは、反乱軍として乗り込み、横瀬浦を占領して焼き払ってしまいました。

しかし、純忠はめげません。

永禄十一年(1568年)に、横瀬の変わりとばかりに、まずは福田浦を開港した後、2年後の永禄十三年(1570年)には、長崎を開港したのです。

そう、当時は未だ、人もまばらな漁村だった長崎を・・・です。

ここから後、この長崎が、日本の中で、最も外国に近い場所として、近代に至るまでの様々な文化の発信基地となるのは、皆さまご存じの通り・・・そのおおもとを造ったのが純忠さんなんですね~

もちろん、先の反乱軍の火種が根絶されたわけではありませんので、その後も、幾度となく反乱分子の襲撃を受ける長崎ですが、その度に純忠は守りぬきまた。

・・・で、冒頭に書いた通り、
天正七年(1579年)4月27日には、長崎・茂木をイエズス会に寄託し、更なる発展を遂げて行く長崎港・・・

そんな純忠は、天正十年(1582年)に、日本人初の公式ヨーロッパ訪問使節となった天正遣欧少年使節(6月20日参照>>)を派遣する大名の1人にも名を連ねています。

ちなみに、この時、正使の役目を担った千々石(ちぢわ)ミゲルが、純忠の甥っ子です。

ただ、ご存じのように、まもなく、キリスト教徒にとっては苦しい時代となります。

豊臣秀吉九州征伐(11月25日参照>>)では、純忠は、秀吉に従った事で所領を安堵されて生き残りますが・・・

そう、天正十五年(1587年)6月19日に発せられる秀吉の『切支丹(キリシタン)禁止令』(6月19日参照>>)・・・ここから、時代は大きく変わっていくのですが、

幸か不幸か・・・そのわずか1ヶ月前の天正十五年(1587年)5月18日、純忠は55歳で病死しました。

もう少し生きていたなら、この先の長崎の発展とともに、キリスト教徒への仕打ちも見る事になりますが、それを見ずに逝く事が、良かったのか悪かったのか・・・それこそ、神のみぞ知るところであります。
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コメント

この後、島原の乱に続くですね。☆久々に日経新聞を見たら、「等伯」と言う小説が連載中でした。秀吉さんと龍山公(近衛前久)が伏見城の絵を「等伯」に任せるか否か。前久さんが「-言うとんのや」「-黙っときなはれ」なんて言うかな?

投稿: やぶひび | 2012年4月28日 (土) 10時20分

やぶひびさん、こんにちは~

やっぱり、お公家さんは、麻呂的な言葉づかいなのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 14時37分

こんにちは。地元の話題なので、出てきました。興味深く読ませていただきました。横瀬浦等についても、いずれ紹介する予定です。

一つ「大村純前」の読み方に違和感があったので調べてみました。地元の郷土誌、大村市の刊行物等見てみましたが、「すみあき」が正しいようです。

投稿: 高来 | 2012年4月28日 (土) 15時01分

高来さん、こんにちは~

>「すみあき」が正しいようです。

そうなんですか?
ずっと「すみさき」だと思ってました。

ありがとうございます。
早速、訂正させていただきます。

投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 15時38分

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