長良川の戦い~斎藤道三の最期
弘治二年(1556年)4月20日、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三が、クーデターを決行した長男・義龍と戦って討死した長良川の戦いがありました。
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ご存じ、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公として有名な斎藤道三(どうさん)・・・
主家を乗っ取り、次々と名前を変えて、一介の油売りから一国一城の主になる様は痛快でおもしろく、戦国下剋上の見本とされる方ではありますが、現在では、これは道三とその父、親子2代の物語であるというのが定説(1月13日参照>>)となってはいます。
まぁ、それでも、その人気や魅力は変わらないですが・・・
・・・で、そんなこんなで美濃(岐阜県)を制した道三ではありましたが、以前から確執があった嫡男=義龍(よしたつ)が、弘治元年(1555年)10月22日、道三から可愛がられていた二人の弟を殺害して居城の稲葉山城を占拠(10月22日参照>>) ・・・そう、クーデターを決行したのです。
これを聞いた道三は、稲葉山城下を焼き払って裸城にした後、自らは長良川を越えて、鶴山(もしくは鷺山)城に陣を置き、家臣たちに参陣を呼び掛けます。
ところが、その呼びかけに応えて道三のもとに馳せ参じたのは、わずかに2700・・・
一方、当然の事なから、息子の義龍も、同時に諸将に声をかけているわけですが、コチラに集まったのは、道三の6倍以上にあたる1万7500人・・・
先の10月22日のページにも書きましたが、どうやら、義龍という人は、かなり人望が厚かったようで・・・逆に、道三は、これまで主家を乗っ取ってのし上がって来た人・・・家臣の中には、その乗っ取られた主家の家臣も、まだ、いるわけですからね。
この数字の差を知った道三・・・「明日は合戦か!」という日に、遺言状をしたためます。
これが、ご存じの、あの織田信長への「美濃を譲る」と記した書状です(4月19日参照>>)。
この書状の真偽はともかく、信長には、道三の娘である濃姫(帰蝶)が嫁いでいますから・・・長男がクーデターを起こして次男&三男を手にかけた以上、「娘婿を頼る」という事も、確かにあったでしょうね。
もちろん、信長もそれに応えて出陣する事はするのですが、この時の信長は、未だ尾張(愛知県西部)一国も統一できていない状況ですから、彼が留守にすれば、義龍に同調した織田一族の誰かが、そのスキを狙って動いて来るわけで・・・
かくして迎えた弘治二年(1556年)4月20日・・・
稲葉山城を出た義龍が長良川の南岸に軍を移動させるのを見た道三は、その北岸に陣取り、いよいよ火蓋が切られます。
歴然たる数の差に、ある程度の覚悟を決めて、前日には遺言状を書いた道三ではありますが、そこは数々の死闘をくぐり抜けて来た戦国のマムシ・・・
たとえ、こっちの数が少なかろうとも、相手の義龍は未だ戦い慣れていないはず・・・
「そこを突いて、前衛を崩したなら、相手は慌てて本隊を繰り出して来るに違いない!!
そこを、生け捕りにしたる」
その思惑の通り、緒戦は道三の軍が戦いを有利に進めていきます。
しかし、一陣・二陣を切り崩せども、義龍の中備・後備は少しも乱れず、左右の旗本たちも、見事に列を崩さぬまま・・・徐々に、徐々に前へと進み、やがて川を越えて対岸へとたどりつき、こうなると、またたく間に、道三軍は壊滅状態となります。
『武将感状記』によれば、
ここに来て、道三は初めて、これまで愚息扱いしていた義龍の器量を認識したと言います。
「もはや、今日、討死すると覚悟を決めた・・・
おそらく、この先、義龍は、隣国からの攻めにも耐え、この斉藤家を守り抜く事やろ。
俺は、死んでも怨めへんゾ。
もともと、義龍を憎かったわけやないし・・・
アイツの器量を見抜かれへんかった俺がアホやった。
家のためと思て弟の方に家督を譲ろうと思ったんやが、それがアカンかったんやな」
と、ポツリと話し、戦いの中に呑みこまれていったと言います。
やがて長良川河畔で討ち取られた道三の首は、鼻を削がれた無残な姿で河原に晒されたと言いますが、それには、『翁草』に、こんな逸話が残ります。
この長良川の戦いの少し前・・・義龍は、幾人かの家臣を集めて
「今日、父・道三に会うたら、どうしたもんやろ?」
と尋ねます。
なんせ、相手は義龍にとって父、居並ぶ家臣たちにとっても主君なわけですし・・・
すると杉先(長井忠右衛門)なる者が進み出て
「生け捕りにしましょう」
と言います。
さずがに、真っ向から敵対するのは忍びなく、生け捕りにして、その後トコトン話し合い、納得づくで隠居してもらって、義龍が後を継ぐ・・・
「禍(わざわい)転じて福となす・・・って事もありまっさかい、ウマイ事おさまるかも知れまへん」
という杉先の言葉に、思わず義龍も納得・・・
かくして決戦のさ中、向こう岸に渡った杉先は、道三の姿を捕えます。
「危害を加えるつもりはありません!ただ和睦を勧めに!!」
と、心で叫びながら、あまたの敵をかいくぐって道三の近くに寄る杉先・・・
ところが、そこに小牧源太なる者が後ろから走って来て、杉先を押しのけるように前へと進み、有無を言わさず道三の両足を斬ったかと思えば、すかさず、その首を取ってしまったのです。
やむなく杉先は、その時のドサクサにまぎれて、鼻を削ぎ落して持ち帰ります。
やがて河原での首実検・・・小牧が義龍の前に進み出て、その首を奉げると、義龍は「これはいかに!!」と、驚きを隠せない様子・・・
そこに杉先・・・
「せめてものお印にと、お鼻を戴いて参りました」
と、涙を流しながら、義龍の前に差し出したのです。
この後、杉先は、髪をおろして高野山に入ったとの事・・・
この逸話の真偽のほどは定かではありませんが、一般的には、「鼻を削がれた無残な首が河原に晒され…」というところだけが語られるので、父子と言えど容赦の無い戦国の世の厳しさを痛感するわけですが、この『翁草』の逸話をみると、義龍にとっても、斉藤家のための苦汁の決断だったのかな?という気持ちになりますね。
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コメント
親子でも確執があった?来月は「こどもの日」ですが、今の父子はどうでしょう?
投稿: やぶひび | 2012年4月21日 (土) 12時08分
やぶひびさん、こんばんは~
>今の父子は…
反抗期の確執を、親がうまく受け止められれば良いんですけどね。
投稿: 茶々 | 2012年4月22日 (日) 01時02分