生涯7回…「引っ越し大名」松平直矩の泣き笑い
元禄八年(1695年)4月25日、徳川家康の曾孫で、姫路藩主・村上藩主・日田藩主・山県藩主・白河藩・・・って、エエィややこしい!
なんしか、越前松平家・第2代当主の松平直矩が、54歳でこの世を去りました。
・・・・・・・
そうなんです・・・
本日の主役=松平直矩(なおのり)さん・・・その生涯で7回も引っ越ししています。
もちろん、この時代の藩主という立場ですから、引っ越しって言っても、たんに住みかを引っ越しする引っ越しではなく、国替えというヤツです。
それは、まず、父=直基(なおもと)の時代から・・・
この直基さん・・・ご存じ、結城秀康(ゆうきひでやす)の五男です。
・・・と、結城秀康と聞くと「あぁ…なるほど」と思われる方も多いでしょう。
これまでにも書かせていただいている通り、この秀康さんは、徳川家康の次男でありながら、なぜか、いつも、徳川家から冷たくあしらわれる傾向にある人・・・
それは、家康が、我が子であるにも関わらず、なぜか秀康を嫌ったから・・・とも、
あの小牧長久手の戦い終了後に人質として豊臣秀吉のもとに送られ、そこから結城家に養子に出されて結城家を継いだ事で、もはや他家の人物として扱われたから・・・とも、
当の秀康も、それを理解していたのか、徳川家から松平姓を名乗る事が許された後も、決して名乗る事は無く、生涯、結城の姓で通した・・・なんて事も言われていますね(11月21日参照>>)。
なので、実際に松平姓を名乗るようになるのは、秀康の息子たちから・・・って事になるのですが、以前書かせていただいたように、秀康の長男である松平忠直(つまり直基の兄)も、第2代将軍=徳川秀忠(家康の三男)と正室=江(ごう・江与)の間に生まれた勝子というスーパーエリートの嫁を迎えながらも、なんだか不幸な汚名を着せられちゃってます(6月10日参照>>)。
まぁ、今回の直矩さんの父=直基さんの場合は、稀代の暴君の汚名を着せられなかっただけでもマシなのかも知れませんが、このお父さんの代だけで、4回も国替えさせられてます。
まずは、その結城秀康が松平に復したあとに、そのままになっていた結城氏の家督を継いだ直基ですが、その後、越前(福井県)勝山に1回目の国替え・・・
次に越前大野に2回目・・・ちなみに、今回の主役=直矩さんは、この越前大野時代に生まれてます。
ほんで、3回目が出羽山形、4回目が播磨(兵庫県)姫路・・・まぁ、徐々に加増されているのでヨシと思わなきゃやってられませんが・・・
ところが、この4回目の播磨姫路への転封から、わずか2ヶ月後・・・父=直基は45歳で病死してしまいます。
それは康安元年(1648年)・・・直矩は、未だ5歳という幼さでした。
・・・で、幕府としては、姫路という重要な場所に幼い藩主を置く事をヨシとしなかったのでしょうね、
なんせ、姫路は、畿内と中国地方を結ぶ要所、徳川の身内として、西国の外様大名に睨みをきかせなきゃならない場所ですから・・・
結局、翌年に、その生涯では3回目、藩主としては初めての国替えで、越後(新潟県)村上藩に・・・
成人して、ようやく姫路に戻されたのが寛文七年(1667年)・・・直矩=26歳の時でした。
ところが、その4年後に起こったのが、親戚である越後高田藩のお家騒動・・・
この越後高田藩というのは、先の忠長さんの息子=光長が藩主を務めていた所・・・先に書いた通り、忠長は、直矩のお父さんの兄なので、つまりは直矩の従兄弟が光長なわけですが、この光長の1人息子が、男子がないまま亡くなってしまった事で、光長の甥っ子同志で、後継者をめぐる争いが起こったのです。
直矩は、この時、一族の1人として仲裁役に入っていたのですが、この越後騒動(6月21日参照>>)が、、予想以上に長引くドロドロ劇となってしまったために、その責任を取らされて閉門(一家で自宅謹慎)となってしまいました。
翌年には閉門は許されたものの、減封となり、天和二年(1682年)に、生涯5回目、藩主として3回目の国替えで豊後(大分県)日田(ひた)藩に・・・
4年後には減封の罪が許されて、3万石加増される事になりますが、加増はうれしいものの、またまた引っ越しなわけで、貞享三年(1686年)に出羽山形へ・・・これが、生涯6回目、藩主で4回目の国替え・・・
さらに6年後の元禄五年(1692年)に、これまた5万石の加増はうれしいけど、陸奥(むつ=福島県)白河藩に、生涯7回目、藩主で5回目のお引っ越しとなります。
上記の通り、かの越後騒動にからむ国替え以外は、姫路から村上の横すべりが1回だけで、あとは加増なのだから、ありがたいっちゃぁありがたいわけですが、一説によれば、(その藩の規模にもよるものの)藩の引っ越しには、当時、最低でも1万両以上の費用が必要だったなんていう推測もありますから、何度もの転封は、藩の財政を圧迫する結果となり、最後の白河藩への引っ越しの頃には、藩は、かなりの借金をかかえ、すでに財政破たんしていたとも言われます。
とにもかくにも、この最後の白河藩で15万石の藩主となった直矩は、あの越後騒動で減ったぶんを、ようやく取り戻し、もとの姫路と同じの15万石に戻ったわけで、直矩さんも、「これで、やっと落ち着ける~」とホッとすると同時に、「よっしゃぁ~、借金返すど!」と、新たな気持ちで張り切っていたかも知れませんね。
ところが・・・
その、わずか4年後・・・
領国から江戸へと向かっていた旅の途中で体調を崩した直矩は、江戸に到着後も快復する事なく、元禄八年(1695年)4月25日、江戸藩邸にて54歳の生涯を閉じました。
他に例のない転封劇から『引っ越し大名』とあだ名される直矩さん・・・
草葉の陰から
「好きでやっとったん、ちゃうワイ!」
という叫びが聞こえて来そうです。
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コメント
参勤交代も大変なのに。改易も度重ねると、領民も大変だったと思うけど。そういえば、この殿様の姉妹の松姫の菩提寺が茨城県結城にあります。観光スポットになっているようです。
投稿: やぶひび | 2012年4月26日 (木) 07時26分
茶々さん、こんにちは。引っ越しは大変ですよね。昨年、自分もしましたが、大名のは想像できません。ちなみに今日の主人公は家康の孫とありますが、曾孫では?
投稿: いんちき | 2012年4月26日 (木) 13時19分
やぶひびさん、こんにちは~
参勤交代も大変だったでしょうね。
まぁ、そこが幕府の狙いめかも知れませんが…
>この殿様の姉妹の松姫の菩提寺が…
妹(?)さんのお名前は松姫とおっしゃるのですか…
お名前は知りませんでした。
投稿: 茶々 | 2012年4月26日 (木) 14時19分
ぎょえ~!
いんちきさん、ありがとうございます。
結城秀康の息子の息子なので、当然、曾孫です(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年4月26日 (木) 14時22分
引越しと言っても、国中、家来全員(もしくは禄高が下がると、一緒に行けない人もいたのでしょうか?)なので、想像を超える大変さだと思います。それに関する商業や農業の関係者も影響あるのでないでしょうか?私のいる町には日系の車の会社がT社、H社が本社を置いているのですが、数年前までN社もあったそうです。今は内陸のもっと安い町に移ったのですが、子会社、関連の仕事、食堂まで影響を受けたり、この市全体の人口にも影響があったかもしれません。そう考えると大名の国替えって大変ですよね、きっと。自分が一人APT移るのも大変なのに。
投稿: minoru | 2012年4月27日 (金) 08時23分
こんにちは~
昔、引越し大名の笑いという小説で、この人の話を読んだことがあります。後見人は松江藩の松平直政(治郷の先祖)で、奥さんはその娘で、やはりいとこになります。時代劇に出てくるようなお転婆な姫だったとか。
小説では引越しの多さを運命と受け入れ、諦めたように笑っていました。
ところで、秀康の長男は忠長じゃなく忠直ですよ。忠長は駿河大納言では?(笑)
…そういえば、初期に取り潰された不行跡大物親藩大名はみんな忠がつきますよね。忠輝とか。
投稿: おみ | 2012年4月27日 (金) 21時30分
minoruさん、こんばんは~
引っ越しではありませんが、ニュースでやってる「再稼働」や「基地」の問題もそうですね。
もちろん、賛成も反対もそれぞれに重要な理由があって、すぐに答えの出せる物ではありませんが、
インタビューでは「無くなったら働く所が無い」とおっしゃってる町民の方もいらっしゃいますね。
投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 02時26分
おみさん、こんばんは~
おぉ~~っと!!
最近、このテの間違いが多いです(ρ_;)
先の「曾孫→孫」もそうですが、
これも、忠長さんをイメージして「忠長」と書いているのではなく、忠直をイメージしながら、キーボードを打つ手が勝手に「忠長」と打っちゃう…
休養が必要かな??
と、ちょっと反省…(。>0<。)
見つけていただいてありがとうございます。
他にもないか?よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 02時32分
(古い言葉ですが)転勤族の人でも7回の転勤はごくまれですね。公務員の一部は職業上転勤を繰り返すと聞きます。
国許の大店に借金をしたまま移封、と言う事もざらでは?
もしかすると「国替え7回」は江戸時代の最多記録では?
投稿: えびすこ | 2012年4月29日 (日) 08時39分
えびすこさん、こんばんは~
小さな藩まで調べたわけじゃないのでアレですが、たぶん最多じゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2012年4月29日 (日) 18時53分