かりそめの講和が破れ大坂夏の陣へ…
元和元年(慶長二十年・1615年)4月19日、徳川家康が大野治純に長兄=大野治長の様子を問わせました。
・・・・・・・・・・・
元和元年(慶長二十年・1615年)と言えば・・・ご存じ、大坂夏の陣ですね。
あの関ヶ原で反対勢力を一掃し、ほぼ天下を手中に治めた徳川家康が、222万石あった所領を摂津・河内・和泉の65.7万石へと減封されて一大名に成下がった豊臣秀頼に、最後の鉄槌をお見舞いした戦い・・・
という印象が強いですが、度々申し上げている通り、私個人的には、これは、この後、勝ち組となった徳川の言い分で、実際には、この大坂の陣が始まる頃でも、まだ豊臣の天下であり、あくまで家康は豊臣配下の中での一番の実力者という位置だったと思ってますが、そのお話をし出すと、また長くなっちゃいますので、本日のところは、とりあえず通説通りに、お話を進めさせていただきますが・・・
★くわしくはコチラを見てくだされm(_ _)m
●関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係>>
●秀吉が次世代に託した武家の家格システム>>
ついでに:家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係>>
・・・で、
事の発端は、慶長十九年(1614年)7月、秀頼が京都の方広寺に寄贈した鐘に書かれた銘文にイチャモン(7月21日参照>>)をつけた家康が、その5日後には大仏の開眼供養の延期(7月26日参照>>)を決定し、その弁明に訪れた片桐且元(かたぎりかつもと)を軽くあしらいながら無理難題の最後通告・・・(8月20日参照>>)
「そんな無理難題、聞けるかい!」←by豊臣方
と、始まったのが大坂冬の陣なわけですが、
今福・鴫野の戦い(11月26日参照>>)、
野田・福島の戦い(11月29日参照>>)、
のあと、
真田丸の攻防(12月14日参照>>)で、多くの戦死者を出してしまった家康は、ここから力攻めをやめて、ジワジワ心理作戦に変更・・・昼夜を問わず定期的に鬨(とき)の声を挙げさせたり大砲を撃ち込んだり・・・やがてその一発がたまたま天守閣に命中した(12月16日参照>>)事がキッカケとなって和睦交渉が始まり・・・
・・・と、この時、和睦交渉にあたったのが、秀頼の母である淀殿の妹で、徳川秀忠の奥さんの江の姉である初=常高院(じょうこういん)だったのは、皆さまご存じの通り・・・(12月19日参照>>)
で、この講和の条件として、初が、「惣構えから二の丸に至る防御施設の破壊」というのを了解してしまう事は、このあとの歴史を知ってる者からすれば、完全なる失敗なわけですが、上記のページにも書かせていた通り、何かしらの条件を呑まないと講和が成立しない中で、「所領減らされるのもイヤ」「淀殿が江戸城に行くのもイヤ」「雇った浪人たちを処罰するのもイヤ」となれば、他にやりよう無かったワケで・・・
もちろん、この掘の破却についても、以前は、
「講和の条件では外堀を埋めるだけのはずだったのが、徳川方が約束を破り、あれよあれよと言う間に、内堀まで埋めてしまって、大坂城は裸城になった」
と言われて来ましたが、
ここ最近では
「上記のような逸話は後世に造られた物で、もともと始めっから、本丸だけを残して、城の施設はすべて取り壊す事となっていて、豊臣方の者たち自らが埋め戻し工事を行っていた」
という説も浮上しています。
そう、この掘の埋め立てに関してでさえ、まだまだ謎が多いんですね。
大阪城・空堀…現在のは徳川の大阪城ですが、掘りを埋めるってこんな感じ?もうちょっと、完全に平な感じなのかな?
私個人的には、徳川方にいろんな史料が末梢されてると睨んでます。
だからつじつまの合わない事がいっぱいあるのではないかと・・・
まぁ、謎解きはディナーの後・・・じゃなく、何回もディナーを食べたいずれかの日に書ける事を目標としながら、更に話を進めますが・・・
こうして、結ばれた講和も、結局、わずか3ヶ月後の慶長二十年(1615年)3月15日・・・「大坂方が伏見に放火して回った」「大坂方が再び浪人をかき集めている」との噂立っている事を受けた京都諸司代の板倉勝茂(いたくらかつしげ)が、「大坂方に謀反の兆しあり」と家康に報告した事で新展開となります。
これについての家康の追及に対して、早速の3月24日、大坂城にいる大野治長(はるなが)の使者が、駿府を訪れますが、家康は納得せず・・・
今度は、将軍・秀忠と連名で
「秀頼が大坂城を出て大和(奈良県)か伊勢(三重県)に国替えするか」
もしくは
「現在いる浪人者すべてを放逐するか」
の究極の選択を迫ります。
講和の条件をまったく無視した無理難題に困惑する大坂方をよそに、家康は、「名古屋城主をやってる息子の徳川義直(よしなお)の結婚式に出る」と言って駿府を出発・・・
その翌日には、治長の使者が
「秀頼と淀殿の国替えはできない」
との返事を持って家康のもとを訪れると、家康はひと言・・・
「ほな、しゃぁないな~」
と・・・
このあと、
「みんな、鳥羽伏見に集結してや~」と4月6日に諸将に呼びかけた家康は、続く4月12日の息子の結婚式に出席した後、駿府へは戻らず、そのまま西へ・・・
一方、江戸城を出て結婚式に出席していた秀忠も西へ・・・
両者は、4月18日と4月21日、相次いで京都に入りました。
こうして、いよいよ大坂夏の陣の火蓋が切られるワケですが、本日の元和元年(慶長二十年・1615年)4月19日の「家康が大野治純(はるずみ)に兄・治長の様子を…」って話ですが・・・
実は、大坂の陣において、大坂城内で最も秀頼&淀殿の近くにいて重要な役割をしていた治長は、去る4月9日、大坂城内の楼門のそばにて、何者かの闇討ちに遭い重傷を負っていたのですね。
・・・で、この治純という人は、治長の一番下の弟なんですが、幼い時に豊臣から徳川への人質に出されていたため、この時は、家康に仕えていたわけです。
そんな彼に、家康は・・・
「兄ちゃんのケガの具合、どないな様子か聞いて来いや」
と・・・
あぁ、狸爺ぃの顔が目に浮かぶ~
(家康ファンの皆さま、今回ばかりはお許しを)
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