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2012年4月16日 (月)

鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛

 

元弘三年(1333年)4月16日、再び幕府に反旗をひるがえした後醍醐天皇を討伐するため、足利高氏が京に入りました。

・・・・・・・・・・

源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に開いた日本初の武士政権も、合議制の名のもと頼朝直系の将軍はわずか3代で絶え(4月12日参照>>)、その後は名ばかりの将軍を公家から招いて、実質的には、頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)の実家の北条氏が執権として実権を握る事になりました。

やがて正和五年(1316年)、第14代執権に北条高時(たかとき)が就任・・・

ところが、その2年後に第96代天皇として即位した後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)が、現政権に不満を持ち、天皇の親政を目指して密かに画策・・・度々の失敗にもめげず、やがて、楠木正成(くすのきまさしげ)という味方を得た後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)9月、笠置山にて挙兵します(9月28日参照>>)が、残念ながら、赤坂城で奮戦する正成は敗れ(10月21日参照>>)、後醍醐天皇も、翌年の3月に隠岐への流罪となって(3月7日参照>>)弘の変は終結・・・

しかし、その1年後の元弘三年(1333年)閏2月・・・それまで身をひそめていた後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が各地の反幕府勢力をまとめて吉野山に立て籠り、再び倒幕ののろしを挙げると、ナイスなタイミングで、やはり身を隠していた正成が千早城にて挙兵・・・(2月5日参照>>)

もちろん、幕府は千早城に向けて討伐の大軍を送り込みますが、この時、千早城を囲んでいたうちの1人が新田義貞(にったよしさだ)・・・彼は、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)17代めの子孫で清和源氏の総本家筋にあたる名門の出身でしたが、権勢を誇る北条氏の鎌倉幕府のもと、その要請を拒否できずに千早城の背面攻撃に出陣していたのでした。

とは言え、源氏の棟梁たる者が、北条の下で、しかも後醍醐天皇に味方する正成をに相対しているこの現状で良いのか?という思いが義貞にはあり、結局彼は、千早城を落とす事無く、仮病を使って領地の上野(こうずけ・群馬県)へ戻ってしまい、やがては反旗(5月11日参照>>)・・・という事になるのですが・・・

Asikagatakauzi600 そんな義貞と同じような思いを抱いていたのが、もう一人の源氏の御大=足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)でした。

彼は、その八幡太郎義家の3男・義国(よしくに)の次男(または3男)義康(よしやす)8代め・・・義康の4男である義兼(よしかね)北条時政(ときまさ=政子の父)の娘と結婚したのをはじめに、代々に渡って北条氏とも姻戚関係にあったわけですが、一方では義康の奥さんが頼朝の母方の親戚でもあり、源氏の血脈を持つプライドもあり・・・

そんな高氏のもとに、高時からの出陣要請が来たのは、先の千早城攻防戦の真っ最中の頃・・・

そう、息子の護良親王や正成の再起を知った後醍醐天皇が、この機に乗じて隠岐からの脱出を図り、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事から、「鎌倉に向かって討幕軍が派遣される」という噂が流れ、高時が大軍を編成して迎え撃とうと有力外様20名を召集・・・その中の1人に高氏が入っていたわけです。

彼らの使命は、半分は京都の警固を、残り半分が主力として船上山を攻略する事でした。

この時の高氏は、一昨年亡くなった父・貞氏(さだうじ)喪が明けてわずか3ヶ月・・・しかも、高氏自身が病を患ってここしばらくは闘病中で、未だ完全に快復したとは言い難い状態・・・

そんな時に、高時は、何度も何度も出陣要請をして催促して来るのです。

高氏は考えます。

「北条氏は、もともとは桓武平氏と言うても、臣籍に下ったんは遠い昔の話や・・・
けど、俺は清和源氏・・・
血統の高貴さからいったら、俺らのほうが上やねんから、いっぺんぐらいは礼儀をわきまえても良さそうなモンやけど、これほどエラそうに何回も出陣要請してケツ叩くやなんて・・・高時のアホが!
まだ、しつこく言うて来んねやったら、一家全員で上京して、後醍醐天皇の味方になったんねん」

と・・・

もちろん、そんな気持ちは心の内に秘めたまま・・・

やがて、高氏は、一族郎党を連れて上京の決意・・・しかし、これには、さすがの高時も怪しみ、高氏の誓書を要求します。

やむなく、高氏は息子の千寿王(せんじゅおう=後の義詮)と奥さんを、人質として鎌倉に置いたまま誓書を提出・・・3月27日に、弟の直義(ただよし)以下、吉良上杉仁木(につき)細川今川荒川などの一族=約3000騎を率いて鎌倉を出発したのでした。

こうして、幕府の主戦司令官という任務を背負ったままの高氏が入京したのが元弘三年(1333年)4月16日・・・

・・・と、その翌日・・・早くも高氏は、船上山に籠る討幕軍に向かって、彼らに味方する事を約束する密書を送ります。

それを聞いた後醍醐天皇は大いに喜び、すぐさま、これまた密かに討幕の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を与えます。

しかし、そうとは知らぬ幕府軍は、京都の南端の八幡(やわた)山崎にて討幕軍と交戦中
(4月8日参照>>)・・・その間に高氏は、戦場である山崎ではなく、丹波の篠村(京都府亀岡市)へと向かい、準備を整えるのでした。

・・・と、いよいよ鎌倉討幕も佳境に入りますが、そのお話は、やはり高氏が動く5月7日のページでどうぞ>>
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コメント

尊氏さんのお墓って、等地院でしたよね?行った事あります。

投稿: やぶひび | 2012年4月17日 (火) 13時12分

茶々さん、こんにちは。久々に太平記を読もうかなと思っていたときに、タイムリーな。早速、読みます。

投稿: いんちき | 2012年4月17日 (火) 14時04分

やぶひびさん、こんばんは~

そうです。
金閣寺から龍安寺で向かう途中にあるあのお寺です。

歴代将軍の像もあったと思います。

投稿: 茶々 | 2012年4月17日 (火) 19時04分

いんちきさん、こんばんは~

今回の話の出どころも太平記です。
読みたくなりますよね~

投稿: 茶々 | 2012年4月17日 (火) 19時05分


等持院、私も行きました。周遊式のお庭になっていて、池の畔に尊氏さんの小さな墓石があります。庭石と見間違うほどに目立たなくて、よほど気をつけないと見落とします。以て、尊氏さんのお人柄とセンスが偲ばれます。

歴代将軍の木像は 幕末、尊攘の志士によって御難に。今は修復されています。

投稿: レッドバロン | 2012年4月17日 (火) 21時39分

レッドバロンさん、こんばんは~

行かれたんですか?
確か、夢窓国師作のお庭でしたよね?

勤皇の志士にとっては逆賊ですからね~

投稿: 茶々 | 2012年4月18日 (水) 03時14分

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