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2012年4月30日 (月)

室町幕府初代将軍=足利尊氏…死す

 

正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、室町幕府初代将軍=足利尊氏が54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

今更言うまでも無い有名人の足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・

このブログでも度々紹介させていただいて、たぶん、これからも頻繁に登場していただく事になると思いますが、

そんな個々の出来事の一つ一つは、【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして、その生涯をサラ~~ッとご紹介しますと・・・

八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)から8代めの源氏の血筋を引き継ぎぐ尊氏が、鎌倉幕府の執権として権勢を奮う北条氏に不満をつのらせていたところ、同じ思いを持つ後醍醐(ごいだいご)天皇楠木正成(くすのきまさしげ)新田義貞(にったよしさだ)らが登場・・・ともに力を合わせて鎌倉幕府を倒します。

しかし、その後、後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)が公家優先の政治だった事から、源氏の棟梁として反発して京に攻め上り、楠木正成や新田義貞を倒して京を制圧したところで負けを認めた後醍醐天皇が、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇に譲位してめでたしめでたし・・・

と思いきや、吉野へと脱出した後醍醐天皇が、そこで別の政権=南朝を打ち立て、尊氏の北朝と対立(12月21日参照>>)・・・ここに南北朝時代が始まる・・・
となるわけですが、

こうしてみると、尊氏という人は、武士のリ-ダー&源氏の棟梁としての強い意思を持ち、常に勇猛果敢に決戦に挑んでいった豪快なイメージを抱きがちですが、

意外や意外・・・
実際には、かなり繊細な心の持ち主で、常に迷い、決断に困ると、その場から逃げたくなるような気の小さな人・・・まぁ、良いように解釈すれば、それだけやさしくて良い人だったという事なのしょうけど・・・

足利尊氏は、最初「高氏」と名乗ってますが、これは、鎌倉幕府・第14代執権の北条高時「高」で、後に尊氏に改名するのは、後醍醐天皇の尊治(たかはる)「尊」・・・

これを見ても、何となくその雰囲気を察してしまいますが、上下関係を重んじる律儀な人でもあり、建武の新政後に後醍醐天皇と戦う事になった時も、初めは
「天皇に弓引くのは本意にあらず」
と言って、一旦は寺に籠ってしまうくらいの人でした。

京都の清水寺には、尊氏が書いた願文が残っているそうですが、
「この世は夢のごとく…」
で始まるこの文は、一見、あの藤原道長♪この世をば わが世とぞ思ふ♪(1月16日参照>>)みたいな、わが世の春を謳歌している感じなのか?と思いきや、そうではなく、

「この世の、幸運やええ事は、皆、弟の直義(ただよし)に譲って、はよ出家したいわぁ」
って事らしいです。

武将にありがちな「俺が征夷大将軍になって天下取ったんねん」てな気持ちは、尊氏さんには無かったと思われますが、一方では、源氏の棟梁としての責任感という、個人の願望とは別の物が尊氏の中にはあったのです。

強いカリスマ性を持つリーダーを慕って集まって来る武将たちの期待に応え、「コイツらを幸せにしたらなアカン!」という責任感が、本来の尊氏が個人的に望む穏やかな暮らしをヨシとせず、結果的に、波乱万丈の人生へと導いていったのでしょう。

そんな人生の波乱は、晩年になってもおさまる事はありませんでした。

それこそ、「早く、全部を任せて、自分は引退したい」と思うほどの信頼を寄せていた弟=直義とは『観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>) で敵対する事になり、以前はいいサポート役だった高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)もおかしな事になり・・・

亡くなる3年前の延文元年(正平十年・1355年)に起きた東寺合戦では、南朝側についた息子=直冬(尊氏の次男で直義の養子になっていた)本陣を尊氏自らが攻めるという事も・・・

確かに、ともに暮らした事の無い認知だけしたお妾さんの子ではあった直冬とは言え、息子は息子・・・仲間に頼られただけで何とかしてやりたくなる尊氏の性格から察するに、齢50を過ぎた晩年になって、息子に弓を向ける事は、やはり辛かったのではないかと思います。

しかも、この東寺合戦が、一進一退の市街戦となった事で、これまでの戦いですでに大半は焼失していた京の町を、さらに焦土と化してしまいました。

その頃の都の様子を『太平記』では、
「離々(りり)たる原上(げんじゃう)の草、累々たる白骨、叢(くさむら)に纏(まと)はれて、有りし日の都の迹(あと)とも見えず成りにければ…」
と書いています。

それは、もはや朝の炊事の煙一筋も立たなかったとか・・・以前書かせていただいたあるお公家さんの都落ちのお話(10月27日参照>>)も、『太平記』のこの部分で登場します。

それこそ、私が想像する通りの責任感の固まりのような尊氏さんであったなら、このような都の状況を、どのような思いで見ていた事でしょう。

やがて延文三年(正平十三年・1358年)・・・その時は、静かにやって来ます。

以前より、背中にできていた悪性の腫瘍・・・一説には、先の直冬との合戦で受けた傷のところにが腫れて治らなかったとも言われるその腫れものが、この4月20日頃から、いよいよ悪くなり、数々の名医が呼ばれて治療するも、いっこうに快復せず・・・

果ては陰陽師や高僧を呼んでの祈祷まで行いますが、日に日に尊氏の容態は悪くなるばかり・・・

最後には、側近や看護の女官までが、皆、涙をこらえながら、ただ見守るだけの状態となり・・・

延文三年(正平十三年・1358年)4月30日午前4時(太平記の表記は四月二十九日寅の刻)・・・尊氏は54歳にして、ついに、その生涯を閉じたのです。

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天龍寺・後醍醐天皇聖廟(多宝殿)としだれ桜

京都・嵐山にある天龍寺は、この尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建てたもの・・・(10月5日参照>>)

その壮大な伽藍は、
「天皇に弓を引く事はできない」という個人の思いと、
「部下のためにはヤルしかない」という責任感とのハザマで揺れ動いた尊氏の苦悩の大きさを物語っているような気がします。
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コメント

悪役ってイメージがあったけど。大河ドラマは真田広之さんでしたね。

投稿: やぶひび | 2012年4月30日 (月) 21時32分

やぶひびさん、こんばんは~

戦前は、正成=忠臣、尊氏=賊軍、でしたからね~
でも、おっしゃる通り、あのドラマでイメージが変わりました。

投稿: 茶々 | 2012年5月 1日 (火) 00時53分

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