戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡
昨日は、福井県に行っておりました。
日本の桜百選に選ばれている足羽川沿いの桜も楽しみにしていたんですが、残念ながら、昨日は、まだつぼみ・・・まぁ、「城巡りメインのお前には桜は見せてやらん!」という神様のちょっとしたイタズラだったのかも知れませんが・・・
もちろん、現在の福井の中心である福井城址や越前北ノ庄城址なども巡ったのですが、そのお話はおいおいさせていただくとして、今日は、やはり、これまでズ~っと行きたいと思っていて、やっと行けた
一乗谷朝倉氏遺跡のお話を・・・
★写真や地図は、すべて、クリックすると大きく見られますので、見難いようでしたら大きくしてね
・‥…━━━☆
南北朝の時代に、管領家・斯波(しば)氏配下の朝倉氏が一乗谷城に本拠を構えた事から徐々に発展し、最盛期には、あの堺と同等の1万人の人口をかかえる城下町となっていた一乗谷…
そんな朝倉氏の戦国5代・朝倉義景(9月24日参照>>)の時代・・・
義景と同盟を結んでいた北近江(滋賀県)の戦国武将・浅井長政に、妹のお市を嫁がせて味方につけた織田信長が朝倉氏を攻撃・・・(4月26日参照>>)
しかし、この時、朝倉との同盟を重視した長政は、逆に反・信長の立場となり(4月27日参照>>) 、それは、「信長+家康」VS「義景+長政」の姉川の合戦(6月28日参照>>)へと発展します。
ここで手痛い敗北を受けながらも絶えた浅井・朝倉でしたが、その3年後の天正元年(1573年)8月、信長は再び浅井長政の小谷城を攻めます。
援軍として出陣し、小谷城の近くまで来た義景でしたが、主力を北へと転進させた織田軍に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いで敗北し(8月14日参照>>)、そのまま本拠の一乗谷に攻め込まれて天正元年(1573年)8月20日に義景は自刃・・・ここに朝倉氏は滅亡します(8月20日参照>>)。
その間にも織田軍の攻撃を受けていた一方の浅井長政も、続く8月28日(30日とも)に自刃・・・浅井氏も滅亡を遂げました(8月29日参照>>)。
・・・で、ご存じのように、勝利した信長から、浅井の旧領・近江3郡を任されたのが羽柴(豊臣)秀吉(3月19日参照>>)、朝倉の旧領・越前を任されたのが柴田勝家です。
先日のお城の話(4月6日参照>>)のところで書かせていただいたように、この頃は城の役目の転換期・・・戦う山城の小谷城を賜った秀吉が、商業の発展を重視して琵琶湖に面した長浜に拠点を移すように、勝家も、朝倉の本拠であった一乗谷ではなく、福井の平野部に城を築城します。
しかし、ご存じのように、勝家は賤ヶ岳で秀吉に破れ・・・やがて、その秀吉の後に天下を取った徳川家康が、かつての北ノ庄城の敷地を含む広大な場所に城を構築し、次男の結城秀康に越前福井を治めさせます(11月21日参照>>)。
これが福井城・・・つまり、一乗谷城・北ノ庄城・福井城・・・この三つの城は、時の流れによってバトンタッチされた、同じ越前福井を統治するお城なわけですね。
現在の福井城址には、県庁と県警が建ってますが、思えば、これが最も正当な城跡使用例・・・歴史好きとしては、縄張りがわかりやすく整備されていたり、模擬天守が復元されたりしてるのもウレシイものですが、思えば、明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)で藩主が知藩事となり、その後の廃藩置県(7月14日参照>>)で知藩事が県知事になり・・・
考えようによっちゃぁ、今もなお、地方自治と治安維持の本拠がここにあるのですから、建物や統治者が変われども、結城秀康の時代から、同じ業務が同じ場所で運営されてる・・・「これはこれで感激するなぁ」と、そんな思いに浸りながらも、今回の城巡りの足は、一路、一乗谷へ・・・
・・・で、上記のように、勝家が平野部に北ノ庄城を築いた事で、その後、かの一乗谷は忘れ去られた存在となりました。
それは、まるで、戦国の神様が、現代の歴史好きに大いなるプレゼントを残してくれたような・・・
そうなんです。
近年になって発掘されるまで、ほぼ、信長に焼かれた時そのままの状態で土に埋もれていた朝倉氏遺跡は、「戦国のポンペイ」と呼ばれるほど見事に往時の姿のままで発見されたのです。
現在、「特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」と、国からの3重の指定を受けている一乗谷朝倉氏遺跡が、京都の金閣寺や銀閣寺や醍醐寺三宝院などと同格の特別史跡に指定されている理由は、ここが、戦国山城・領主の館・城下町のすべてが同一状態で残る唯一の史跡だからなのです。
私の中で初回となった今回の一乗谷史跡見聞では、あまり時間が取れなくて全部で2時間程度の短い見物でしたが、「そっくりそのまま埋もれていた」という事は、こんなにもスゴイ物なのか?と感動しきりの有意義な時間となりました。
たとえば・・・
山際に重臣の屋敷が立ち並んでいた街並みの一部が、出土した遺構の上に復元されている部分があるんですが・・・
この写真・・・街並みの入り口付近の「のれんのかかってる家」のあるあたりから奥を見た様子ですが、土塀にさえぎられて、道の奥のほうが見えなくなっているのがわかりますか?
ところが、それを反対側の奥のほうから入り口付近を見た場合・・・先の写真で右手前にあった「のれんの家」が、しっかりと見えますね?
つまり、これは、敵から攻め込まれた時、入口付近にいる敵からは、道の奥にいる者たちが見えないにも関わらず、コチラからは、入口から入って来た敵が見えるようになってる・・・
まさに、戦国の街並みがそのままなのですよ!
また、朝倉義景の屋敷跡にある湯殿の跡・・・
山の斜面を利用して荒々しい石組で神仙思想の世界を現した、言わば露天の岩風呂みたいな感じなわけですが、この見事な石組・・・現代人は1mmたりとも動かしてません。
つまり、このまんまの状態で埋まっていたという事・・・あの岡本太郎氏は、この芸術的な石の配置に感動し、2時間も、この前から動かなかったのだとか・・・
ちなみに、その義景の屋敷跡の中心部を上から見ると、こんな感じ・・・
1973年に出土した将棋界を揺るがす日本最古級の将棋の駒は、写真奥の土塁の手前で発見されました。
写真手前に写り込んでいるのは、この上部から滝が落ち込む形式となっている池のある庭園・・・義景が、ここ越前に足利義昭を迎えるために造った庭園と言われています。
・・・と、簡単にご紹介しましたが、本来、この一乗谷の遺跡には山の頂上付近にある山城も含まれているわけで、はっきり言って、例え素人的見物でも、ちゃんと見ようとすれば最低でも1日~2日はかかります。
私自身、もう一度・・・いや、2度3度、じっくりと見てみたいと思っています。
義景邸付近からは城下町が一望できます…内政を重視したという義景さん、「民のカマドは賑わいにけり」とやったのかなぁヽ(´▽`)/
そう言えば、昨日はまだだった桜も、来週は見ごろかなぁ~(またぞろ行くのはムリだけど…)
この4月14日(土)には、越前時代行列が午後1時に福井城址を出発するイベントがあるとか・・・行列では、なんと、柴田勝家に照英さんが、お市の方に井上和香さんが扮するのだそうですよ!
楽しみですね。
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コメント
はじめまして!
毎日楽しく拝見しています。
自分は福井に住んでいるのですが、朝倉氏遺跡は子供の頃に行ったきりでした(自称歴史好きなのですが・・・)。
しかし茶々さんの『戦国のポンペイ』のうたい文句に触発されて今日行ってきました(*゚▽゚)ノ
惜しくも桜は5分咲きぐらいでしたが、町並
みに感動しきりでした( ゚Д゚)
次に行くときは山城のほうに行きたいと思います。
投稿: すす | 2012年4月13日 (金) 17時39分
すすさん、こんばんは~
おぉ、行って来られたのですね。
そうですか…まだ五分咲きでしたか。
見ごろは来週以降ですね。
>次に行くときは山城のほうに…
イイですね~
地元の強みですね!
じっくり、戦国に浸って来てください。
投稿: 茶々 | 2012年4月13日 (金) 18時28分
茶々さまこんばんは。
私の住んでいるところは、
朝倉氏の本貫といわれる地の近くで
「朝倉」という地名もあります。
今回のお話し、とても興味深く読みました。
また、行ってみたいところが一つ増えました。
投稿: hana-mie | 2012年4月14日 (土) 21時55分
hana-mieさん、こんばんは~
但馬の国造日下部氏が、平安時代末期に現在の兵庫県養父の朝倉に移住して、そこから朝倉氏を名乗るようになるので、ひょっとしてそのあたりでしょうか?
なにやら歴史の糸で結ばれているようでワクワクしますね。
投稿: 茶々 | 2012年4月15日 (日) 03時17分
茶々さま
書きっぱなしでお返事が遅くなり
失礼しました。
(ブログは毎日読ませていただいていますが)
そう、おっしゃる通り「養父(市)」です。
天空の城「竹田城」も結構近くです。
まだ行っていないのでぜひ行きたいのですが、
竹田城の観光客は3年前と比べて
4倍以上に急増しているそうで、
ちょっとビビってます…。
投稿: hana-mie | 2012年4月19日 (木) 19時50分
hana-mieさん、こんばんは~
竹田城…そんなに人気なんですか~
私が行った時は、知る人ぞ知る穴場って感じでしたが…
でも、近くなら「夜討ち&朝駆け」で、あの雲海に浮かぶ姿を、人の少ない間に楽しめるのでは?
投稿: 茶々 | 2012年4月19日 (木) 21時43分
茶々さま
>でも、近くなら「夜討ち&朝駆け」で…
そうですよね!
あ~「夜討ち&朝駆け」、ステキな響き♪
もし、いい写真が撮れたら
ご報告します(o^-^o)
投稿: hana-mie | 2012年4月19日 (木) 22時59分
hana-mieさん、
写真、楽しみです~
投稿: 茶々 | 2012年4月20日 (金) 14時03分
一乗谷城跡、三大山城とか言われたりして、(三大はいろいろありますが) 興味はあつたのですか、ポンペイ遺跡のようだったんですね?
実際に近くで噴火があったのかな?
いずれにしろ、おかげで是非とも行きたくなりました!
あかん、茶々さんのサイト巡っていたらいくらでも行きたいところができてしまう!感謝!感謝!
投稿: ひろし | 2016年11月28日 (月) 21時56分
ひろしさん、こんばんは~
「(地中に)そっくりそのまま埋まっていた」という意味で「日本のポンペイ」と称されますが、その原因は噴火ではなく「人々から忘れ去られて地中に埋もれた」です。
どちらも、意図的に破壊されていないところが貴重だと思います。
秀吉時代の大坂城もスッポリ埋まってますが、コチラは意図的に埋めた徳川家の思惑に見事にハメられた大阪人は、江戸250年の間にスッカリ忘れてしもてました(笑)
投稿: 茶々 | 2016年11月29日 (火) 03時25分