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2012年5月10日 (木)

後醍醐天皇を支えた南朝の総参謀:北畠親房

 

正平九年・文和三年(1354年)5月10日、南朝方の参謀として活躍した北畠親房が62歳で亡くなりました。

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これまでもチョコチョコ、そしてこれからも、何度も登場するであろう北畠親房(きたばたけちかふさ)さんですが、本日は、そのご命日という事で、その生涯についてご紹介させていただきます。

村上源氏の流れを汲む8代め=雅家(まさいえ)が、京都の洛北・北畠に居を構えた事から北畠氏と名乗るようになった北畠氏・・・今回の親房は、雅家の曾孫にあたります。

若くして、その才能を発揮していた親房は、第96代後醍醐(ごだいご)天皇の信頼も篤く、その皇子=世良(よよし・ときなが)親王養育係となります。

Kitabataketikafusa400 その聡明さゆえ、父=後醍醐天皇の期待も大きかった世良親王でしたが、残念ながら、若くしてこの世を去ってしまい、親房は、この親王の死をキッカケに出家してしまいます。

なので、その後、後醍醐天皇が行った鎌倉幕府に対する倒幕行動には、タッチせず・・・

彼が再び出仕するのは、建武元年(1334年)の建武の新政(6月6日参照>>)が樹立されてからですが、すでに親房は出家していますので、事実上の力関係はともかく、一応、現時点での北畠のトップは長男の北畠顕家(あきいえ)・・・

って事で、前年に陸奥守(むつのかみ)に就任した息子とともに、後醍醐天皇の皇子である義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)奉じて陸奥へと向かい、東国での地盤固めに徹しておりました。

しかし、まもなく・・・ご存じのように、ともに鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇仲間から、あの足利尊氏離反します(12月11日参照>>)

この危機に、息子とともに畿内へとって返し、一旦は尊氏軍から京を奪回したものの(1月27日参照>>)、その後九州にて態勢をを整えた尊氏軍によって(4月26日参照>>)楠木正成(5月25日参照>>)新田義貞(7月2日参照>>)らが討死・・・後醍醐天皇も幽閉されてしまいます。

この間、吉野や伊勢にて後醍醐天皇勢力の結集に奔走していた親房は、やがて、後醍醐天皇が幽閉先から脱出して(12月21日参照>>)吉野で開いた南朝に従い、尊氏と対抗する事になります。

この頃、東北の軍勢を率いて南朝側の中心的軍事力となっていた息子=顕家でしたが、残念ながら、延元三年(建武五年=1338年)の戦いで戦死してしまいます(5月22日参照>>)

長男の死を受けて、親房は、次男=顕信(あきのぶ)結城宗広(ゆうきむねひろ)らとともに、再び、東国での勢力拡大を図るべく、義良親王&宗良(むねよし・むねなが)親王を奉じて、海路、東北へ向かいました。

が、しかし、船団は途中で暴風雨に遭い、船が散り散りに・・・親王らとはぐれて、単独で目的地のの陸奥に着いた親房は、常陸小田城(茨城県つくば市)を拠点に、以後、約5年間に渡って関東・東北での勢力結集に奔走します。

このつくば在住の時に執筆したとされるのが『神皇正統記(じんのうしょうとうき)です。

Zinnousyoutouki600 これは、神代の頃からの天皇に関する事柄をピックアップし、南朝の正統性を明らかにしようと言う物で、後に後村上天皇に献上されますが、もちろん、後村上天皇だけではなく、南朝そのものに捧げる物で、南朝にとって理論的に強い味方になる物でした。

とは言え、親房が頑張ってその正統性を叫んだとしても、今や、その天皇家が周囲の勢力によって翻弄される時代・・・しかも、ご存じのように、南北朝の動乱は、日に々々北朝有利に傾いていきます。

やがて、反勢力との抗戦に敗れて、小田城を開城し、興国四年(康永二年=1343年)に吉野へと戻った時には、すでに後醍醐天皇は亡くなっており(8月16日参照>>)、かの義良親王が第97代後村上天皇となって、南朝の主となっていましたが、すでに、生前の後醍醐天皇から、「後の事は頼んだで!」と託されていた事もあって、その後は、後村上天皇の右腕となって、南朝の政治や軍事面の中心となった親房・・・

おそらくは、一進一退を続ける南北朝の動向に、気の休まる時も無かった事でしょうが、そんな中での親房の心の支えは、この南朝が唯一正統な皇統として君臨する事・・・

そんな事を夢見ながらの正平九年(文和三年=1354年)5月10日、親房は、一時避難していた賀名生(あのう=奈良県五條市)の地にて、その波乱に満ちた62年の生涯を終えました。

彼の死後、指導的立場の人物を失った南朝は、北朝と抗戦というよりは、和睦の方へと向かっていくのですが、その道のりは、まだまだ長いです。

一方、この親房の三男であった顕能(あきよし)が、伊勢国司として伊勢一帯に勢力を誇り、後に、あの織田信長と相対する戦国の北畠氏(11月25日参照>>)の祖となります。
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コメント

北畠親房さんは 目前の政治的状況をどうすることも出来ませんでしたけれども、「神皇正統日記」という、空恐ろしい時限爆弾を仕掛けました。但し、木っ端みじんにされたのは足利幕府ではなくて、徳川幕府でしたが。

何でもテキトーな日本で徹底的に正統性を貫いた、思想家としては大成功です。以て瞑すべし。

投稿: レッドバロン | 2012年5月10日 (木) 20時27分

レッドバロンさん、こんばんは~

時限爆弾ですか…

親房さんの熱意がこもってますね。

投稿: 茶々 | 2012年5月10日 (木) 20時50分

北畠さんが京都にいたら、かなり状況が変わっていたと思います。公家なのに、武家みたいですね。新田軍も関東にいたし。東京には、ゆかりの地名もありますけど。

投稿: やぶひび | 2012年5月11日 (金) 13時59分

やぶひびさん、こんにちは~

東京に北畠ゆかりの地名が!!
関東に土地勘の無い私でも知っているような有名な場所なのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2012年5月11日 (金) 17時22分

すみません、訂正です。北畠さんは大阪と宇治ですね。戦死した所が地名に残るとは忠臣だったですね。

投稿: やぶひび | 2012年5月12日 (土) 07時34分

やぶひびさん、こんにちは~

そうでしたか…
関東にも縁のある方なので、まだ、知らないゆかりの場所があるなら、どんな所か知りたいな…と、つい、聞いてしまいました。

投稿: 茶々 | 2012年5月12日 (土) 15時19分

松阪で、古事記の素読会をさせていただいてますので、宣長さんと古事記で検索していたところ、貴サイトを拝見させていただきました。

内容が素晴らしいので、
他のページも見させていただいたところ、地元伊勢松阪の國司北畠親房公のことが解り易く書かれていて、感嘆いたしました。

地元民でありながら勉強不足で恥ずかしくおもいました。

お教えいただき、ありがとうございます。

古典を声を出して読むと肚からわかってまいります。そのことから、神皇正統記音読会も最近、させていただいおります。


今後もよろしくお願いいたします。

投稿: おひさま やまとこゝろ 神皇正統記音読会 | 2013年5月15日 (水) 19時06分

おひさま やまとこゝろ 神皇正統記音読会さん、こんばんは~

松阪出身の方では、松浦武四郎さん>>もご紹介させていただいています。
また、読んでくださるとウレシイです。

投稿: 茶々 | 2013年5月16日 (木) 02時13分

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