前田利家の妻・まつの江戸下向の謎
慶長五年(1600年)5月17日、亡き前田利家の妻=芳春院が江戸に出発しました。
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亡き前田利家の妻=芳春院(ほうしゅんいん)・・・ご存じ、まつさんの事です。
「利家とまつ」は、かつては主役を飾った事もあり、戦国が舞台のドラマには、ほとんど登場する事で、もはやあらためてご紹介するまでもない有名ご夫婦・・・私としても書きたい事柄が複数ある方なのですが、今回は、やはり、この江戸行きを中心に・・・
ただ、今回の江戸への出立は、本日の17日以外に、5月20日説もあるのですが、とりあえずは今日の日づけでお話を進めさせていただきたいと思います。
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そんな利家とまつとは切っても切れない関係にあるのが、あの豊臣秀吉とおね(ね・ねね)夫婦・・・
そもそも、織田信長の配下として、ダンナ同志が同僚で嫁同志が親友となれば、家族ぐるみどころか、親戚よりも深いつき合いをしていた事は察しがつくわけですが、未だ下っ端だった秀吉とおねが結婚する際に、利家とまつが、その仲人をやった話は有名ですよね(8月3日参照>>)。
こうして、親しい関係を続けていた両者が、さらに親しくなるのは、あの豪姫(ごうひめ)・・・
豪姫は、利家×まつ夫婦の四女として生まれながらも、未だ実子のいない秀吉×おね夫婦の養女となった姫ですが、秀吉は、この豪姫の事を「男なら関白にしたいくらいだ!」と、大いに気に入り、溺愛していたと言い、彼女の結婚相手となった宇喜多秀家(うきたひでいえ)も、それまで以上に大事にしましたからね(5月23日参照>>)。
秀吉が関白に就任して豊臣の姓を賜ってからは、利家は、秀吉の前官職と姓の二つを継承して羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)となって、まさに、2人三脚の政治運営を行う一方で、まつは、おねとともに、奥向きの事を一手に引き受けてこなしていました。
豊臣政権にとって、まつが特別な存在である事がわかるのが、有名な、あの醍醐(だいご)の花見です(4月7日参照>>)。
この時、女性の行列の順番=輿次第では・・・
1番:北政所=おね
2番:西の丸殿=淀殿(茶々)
3番:松の丸殿=京極龍子
4番:三の丸殿=信長の六女で蒲生氏郷の養女
5番:加賀殿=利家の三女・摩阿姫(まあひめ)
そして、この後の6番目に来るのが「大納言殿御内」=まつです。
ご覧の通り、妻でも側室でも無い女性は、彼女1人です。
これには、「5番目の摩阿姫の後見人という立場での出席では?」とも考えられますが、それならそれで、摩阿姫以外の姫たちにも、それぞれ、後見となる立場の身内か乳母がつき従うはずですが、そんな人たちはいません。
なので、やはり、これは、まつが「豊臣家の一員として6番目にいる」と考えるか、あるいは、「豊臣配下の全大名夫人の代表として」しか考えられないわけで、いずれにしても特別なのです。
この時、盃を回す順番を争って、淀殿と龍子がモメた有名な一件でも、まつが、おねとともに仲裁に入って、見事治めているあたりも、その重要度がわかるという物です。
それが一転するのが、慶長三年(1598年)8月の秀吉の死(8月9日参照>>)と、翌年の3月の夫=利家の死(3月3日参照>>)・・・
この時、秀吉の遺言に従って、すでに利家の跡目を継ぎ、大坂城にて、秀吉の遺児=豊臣秀頼の傅役(もりやく)を務めていた利家×まつの嫡男=前田利長(としなが)ですが、父=利家の亡くなったその日の夜に起こった石田三成襲撃事件(3月4日参照>>)などのゴタゴタで、父の葬儀にさえ出席できないほどに大坂城を離れられない状況だったと言います。
ところが、その後、徳川家康が大坂城西の丸に入って政務の監督的役割をするようになると、利長は、突然、秀頼の傅役という立場を放棄して、加賀金沢に戻ってしまうのです・・・これが、慶長四年(1599年)の8月28日の事でした。
家康の行動そのものは、秀吉の遺言通りで、この時点では、決して「豊臣をないがしろにして自分が天下を取るための行動」では無かったわけですので、このタイミングでの突然の帰国理由としては、その采配の振るい方の細かな部分に、利長にとって腑に落ちないところがあったのでは?とも言われますが、
一方では、利長に帰国を勧めたのは家康自身であって、表向きは、あまりに忙しい利長の労をねぎらうという形にして、この後の展開を待っていたのでは?とも言われますね。
なんせ、この先、事態は急展開します。
利長が大坂城を去った、わずか10日後の9月9日・・・豊臣政権・五奉行の1人の増田長盛(ましたながもり)が、家康のもとを訪れ、
「同じく五奉行の一人である浅野長政や、大野治長(はるなが)・土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている」
と、密告したというのです。
土方雄久とは、まつの甥っ子とされる人物・・・しかも、『譜牒餘録』によれば、
「これは、すべて肥前守(ひぜんのかみ=利長)の企てである」
とまで伝えられたのだとか・・・
これを受けた家康は、早速、利長と縁戚関係にある細川忠興(ただおき)にけん制をかけると同時に誓詞を取り、一方で、加賀周辺の大名たちに、その時に向かって備えるようにうながしたのです。
この事を、妹=豪姫の婿=秀家から聞いて、びっくり仰天の利長・・・しかも、その頃には、先鋒として加賀小松城主の丹羽長重(にわながしげ)を向かわせるとの具体的な噂となっていました。
慌てて弁明に奔走する利長・・・その結果、利長の母=つまり、まつを江戸へ下向させる事を約束し、何とか家康の了解を得る事ができ、難を逃れたのでした。
こうして、慶長五年(1600年)5月17日、人質、あるいは証人とも言える形で、まつは江戸に向かう事になるのです。
おかげで、前田家は潰される事なく、江戸時代を通じての加賀百万石へとつながり、まつは、この先、江戸幕府が実施する藩主の妻子を江戸に置く江戸居住制の第1号なんて事も言われていますが・・・
しかし、ちょっと待ったぁ~~
ここに、興味深い書状が現存します。
それは、浜松城主の堀尾忠氏宛てに前田玄以(げんい)・長束正家(なつかまさいえ)そして、先ほどの増田長盛の豊臣三奉行の連名で書かれた慶長五年(1600年)5月13日付けの書状・・・
「羽柴肥前守殿御袋、江戸へ御下りについて、浜松に一夜御泊りの賄(まかな)い用に、米五石、大豆畳石の分、奥村伊予守・村井豊後守両人に相渡されるべく候。恐々謹言」
この文面自体は、何のことは無い、ただの業務連絡・・・「これから江戸に向かうまつが浜松で一泊するので、コレコレの品々を同行してる二人に渡してね」という内容なわけですが・・・
そう、なぜに豊臣家三奉行の連名・・・
前田家の奥様が前田家を救うために江戸に行くのに、なぜに??
この事から、まつは、前田家の人質or証人としてではなく、豊臣政権の人質or証人として江戸に下ったとの見方もあるのです。
先の醍醐の花見のごとく、豊臣の一員とみなされていたのなら、この時のまつが、豊臣政権の大老(傅役)の生母として、豊臣政権を代表して江戸に入った事も充分考えられるわけです。
おそらく、彼女の宿泊準備も浜松城に限った事ではなく、沿線の諸大名すべてに課せられていたはずですしね。
まつは、加賀を出る時・・・
「侍っちゅーもんは家を守るのが一番・・・
私は、年いってるし、覚悟もできてる!
私を思うあまりに、家を潰すような事はあってはならん事や!
いざという時は、この母を捨てなさい!」
と、利長に言い放ったとか・・・
果たして、まつの江戸行きが、前田家の代表であったのか?豊臣政権の代表であったのか?・・・その見方には、まだまだ諸説ありますが、少なくとも、彼女の決意だけは、戦国武将のそれに勝るとも劣らない、見事な決意だった事は確かですね。
そして、まさに、このまつの江戸下向直後に、家康は会津征伐(4月1日参照>>)を開始し、すべてが、天下分け目の関ヶ原に向かって走り始めます。
母から前田家の将来を任された利長は、北陸の関ヶ原=浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)に挑む事になります。
※まつについては、そのご命日に書かせていただいた【利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ】もどうぞ>>
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コメント
なるほど、まつさんは前田家のというより、大阪国の人質として江戸入りしたという説が…
スミマセン、プリンセストヨトミの見過ぎでm(_ _)m
でも、まつさんほどの人ですから(秀吉のブレーンだったりもしたのでしょうか…)、徳川方としては何かとほっとけない存在だったんでしょうね。
投稿: 千 | 2012年5月18日 (金) 12時54分
面白い書証ですね。徳川・豊臣が二重支配の状態で、しかも、政治的には曖昧にしておいた方がよい過渡期であることが、背景事情として考えられますね。一気に体制が変換した訳ではないので。
徳川・豊臣・前田家がそれぞれ、まつさんに対する位置付けが違っていることも考えられます。
明治十年の役においてさえ、当藩は東京にいる殿様の意向を伺ってます。いや、法的には殿様も、家老も、藩もすでに存在してないのですが。体制が変っても、意識はすぐに変わらない場合もあります。
投稿: レッドバロン | 2012年5月18日 (金) 15時42分
千さん、こんばんは~
まつさんは、やはり、豊臣政権で重要な役どころをこなしていたんでしょうね。
>プリンセストヨトミ
こないだテレビでやってましたね。
私も見ました。
投稿: 茶々 | 2012年5月18日 (金) 19時52分
レッドバロンさん、こんばんは~
秀吉亡き後のグレーゾーンの時期ですね。
個人的には、けっこう大阪の陣間際まで、豊臣政権はちゃんと機能していたと私は思っていますので、やはり、豊臣の人として江戸に行ったのかなぁ?と思っちゃいます。
投稿: 茶々 | 2012年5月18日 (金) 19時55分