東郷平八郎…最期の時
昭和九年(1934年)5月30日、日露戦争時の連合艦隊司令長官として知られる軍人・東郷平八郎が88歳で、この世を去りました。
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元薩摩藩士で、後に海軍軍人となる東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の初陣は16歳の時・・・文久三年(1863年)に起こった、あの薩英戦争(7月2日参照>>)でした。
その後の函館戦争では、軍鑑:春日に乗船して各地で転戦し(3月25日参照>>)、維新後は海軍に出仕しました。
その後、明治四年(1871年)に留学生に選ばれ、明治十一年(1878年)までイギリス留学しますが、これが、彼の運命の転機でもありました。
そうです。
あの西南戦争(9月24日参照>>)が明治十年(1877年)に起こっています。
もし、この時、東郷が鹿児島にいたら、ともに戦っていたかも、そして、戦いに散っていたかも知れませんが、留学中だったおかげで、そうはなりませんでした。
帰国後は海軍での職務経験を積んでいく事になりますが、日清戦争において、それほどの恩賞を与えられていないところを見れば、その頃は、けっこう地味な存在だったのかも知れません。
その後、明治三十六年(1903年)、日露戦争の危機が叫ばれる中で、連合艦隊司令長官に平八郎が任命された時、明治天皇の
「なぜ、彼を?」
という質問に、海軍大臣の山本権兵衛が、
「彼は、運の良い男ですから…」
と答えた話は有名ですね。
さらに、日露戦争での活躍は、もはや言うまでもなく、皆さまご存じ・・・最も有名なのは、やはり日本海海戦の東郷ターンでしょうか?(5月27日参照>>)
戦後は、明治三十八年(1905年)から海軍軍令部長や東宮御学問所総裁を歴任する中で、明治三十九年(1906年)には日露戦争の功績により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与され・・・さらに、明治四十年(1907年)には伯爵となり、大正二年(1913年)には元帥、大正十五年(1926年)には大勲位菊花章頸飾を受章・・・と、華やかな表舞台を歩きます。
しかし、そんな平八郎さんにも老いは訪れます。
それこそ、その死に際して、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載されて、大きな反響を呼んだように、もはや神格化されつつあった平八郎にも、平等に、その最期の時はやってきます。
平八郎の片腕でもあり、その広報係でもあった小笠原長生(おがさわらながなり)の日記には、昭和八年(1933年)の大晦日に、平八郎の息子=彪(ひょう)が、突然、彼のもとを訪れた事が書かれているそうです。
大晦日のクソ忙しい時の訪問に、「ただ事ではない」と思って面会したところ、案の定、「(平八郎に)喉頭がんの診断が下され、余命は時間の問題である」という事を聞かされます。
病名は、長生を含め、ごくわずかな人にしか知らされませんでしたが、翌年には88歳になる平八郎のために用意されつつあった米寿の祝いもキャンセルされ、それからは治療に専念する事となります。
かつて平八郎が総裁を務めた東宮御学問所の唯一の卒業生である昭和天皇も随分と心配され、
「何かあったら、深夜でも報告をするように」
とおっしゃった事から、
その治療には、天下の名医チームによる最新かつ最高の治療が、惜しみない治療費を以って行われる事となりましたが、だからといって、絶対に快復するものでもないのは、皆が承知するところ・・・
そんな中、平八郎の最後の望みは、6年前に神経痛を患って以来、病床についている奥さんをお見舞いする事でした。
間もなく、周囲のお膳立てにより、その舞台が用意されます。
平八郎の病室の襖が開けられ、その向こうにあるもう一枚の襖も開けられると、そこには、同じように横たわった妻=テツさん・・・
そう、二人は、一間を隔てて、面会を果たしたのです。
もはや、言葉も発する事も叶わない病状だったものの、二人はしっかりと見つめ合っていたと言います。
それから間もなくの昭和九年(1934年)5月29日、平八郎は軍人最高の栄誉である侯爵となり、午後には、その事を伝える天皇の使者が訪れたその夜・・・医師団によって、親族が病室に呼ばれました。
すでに、かすかな意識となっていた平八郎は、息子さん&娘さんらに手をかざし、しきりに何かを話そうとしますが、それを聞きとる事はできず・・・やがて昏睡状態となり、翌朝=昭和九年(1934年)5月30日午前7時、一門親族など、多くの人に見守られながら、あの世へと旅立ったのでした。
軍人でありながら、多くの人に見守られて畳の上で死ねる事は、おそらく、平八郎にとっても幸せだった事でしょう。
この日、来たる6月5日に、日比谷公園にて国葬とする事が決定されました。
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コメント
5月27日は海軍記念日でしたね。
東郷さん、初陣が薩英戦争というのが凄いです。連合艦隊の司令長官に就任する前は舞鶴鎮守府長官で、引退前の閑職という感じ。それを急遽、抜擢した権兵衛さんも偉大です。
人事を尽くした後で、あとは「運」が左右する。確かに、東郷さんには理屈だけでは計れない、何ものかが付いてますね。
投稿: レッドバロン | 2012年6月 1日 (金) 10時55分
レッドバロンさん、こんばんは~
「運の良い男」というのはあるでしょうね。
なんとなく、戦国武将にも通じる物があります。
投稿: 茶々 | 2012年6月 2日 (土) 00時06分