毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦
天正六年(1578年)5月14日、毛利方の杉原盛重の陣から上月城に大砲が撃ち込まれました。
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山陰地方に、その勢力を誇った尼子氏が、安芸(あき=広島県)の毛利元就(もとなり)の前に倒された月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)攻防戦・・・(11月28日参照>>)
当主の尼子義久以下、3兄弟が幽閉され、事実上、尼子氏は滅亡したわけですが、それに納得できない家臣の山中鹿介(鹿之介)幸盛が、京都にてすでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦(4月18日参照>>)する中、
当時、破竹の勢いで中国地方に勢力をのばして来ていた織田信長に謁見し、信長の毛利攻めの一員となったのは、天正元年(1573年)の事でした。
この頃、信長の中国攻めを任されていたのが、羽柴(後の豊臣)秀吉・・・勝久&鹿介以下、尼子氏の残党たちは、この秀吉の付属軍となって働きます。
やがて、天正五年(1577年)12月・・・秀吉が、宇喜多直家(うきたなおいえ)配下の上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)を攻略した事から、勝久ら尼子氏は、この上月城の守りを命じられました。
この上月城は、秀吉の進軍によってすでに信長配下となっている播磨(兵庫県)と、備前&美作(みまさか=岡山県)との国境に位置する城で、言わば、対・毛利の最前線・・・
ここに、毛利によって月山富田城を落とされた彼ら尼子氏を配置して、尼子氏残党の復讐心をあおる一方で、尼子氏を滅ぼしたつもりの毛利へは嫌なけん制球となるという見事な采配でした。
しかし、もちろん、配下の城を奪われた直家も黙ってはいません。(2月17日参照>>)
翌・天正六年(1578年)2月、直家は、すぐさま上月城を攻撃・・・わずかな尼子の残党だけしかいなかった上月城は、あっという間に奪回され、勝久らは、一旦、秀吉のいる姫路城へと避難します。
もちろん、今度は、秀吉が黙っていません。
すぐさま援軍を引き連れて、翌月には、再び、上月城を奪回します。
これを知った毛利輝元(元就の孫)が、信長との対決には、まず、尼子の残党を倒してから・・・とばかりに、上月城を包囲したのは4月の事でした。
で、今度は、それを知った秀吉が、上月城に籠る尼子勢を援助すべく、上月城近くの高倉山に本陣を構えたのが、天正六年(1578年)5月4日の事(5月4日参照>>)。
とは言え、上記の5月4日のページに書かせていただいたように、この時の秀吉は、離反した別所長治(べっしょながはる)の三木城(兵庫県三木市)攻防戦の真っ最中(3月29日参照>>)・・・救援のために、ここ上月城まで出張って来ましたが、その三木城への攻撃も緩めるわけにはいきません。
かと言って、信長本人も石山本願寺との合戦の正念場に差し掛かった頃で(9月30日参照>>)、コチラも畿内を離れるわけにも行かず・・・
って、事で、結局、この上月城は見捨てられ、翌月には秀吉も三木城攻防戦へ戻ってしまうのですが、そのお話は、先ほどの5月4日のページ>>で見ていただくとして、本日、ご紹介するのは『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』に登場する、この上月城攻防戦での、ちょっとおもしろいエピソード・・・
冒頭に書かせていただいた通り、
天正六年(1578年)5月14日、毛利方の杉原盛重(もりしげ)の陣から上月城に大砲が撃ち込まれ、尼子側にも死傷者がでました。
この時代・・・命中率が低く、どちらかと言えば、脅かす程度の効果しかない大砲ではありましたが、撃ってるうちには1発くらいは当たる物で、この日、まぐれでピンポイントに命中した事から、尼子勢は大いに驚き、怯え、城内の士気は下がるばかりでした。
そこで鹿介・・・
「誰か、あの高台に設置されてる大砲を、谷底に落として来いや!
ほんで、谷底で10人くらいが待ち構えといて、その大砲を奪うねん!
奪った大砲で砲撃して、このワシが毛利を撤退さしたるさかいに・・・」
と・・・
・・・で、この日の夜・・・
「我こそは!」と名乗り出た数十人が、重盛の陣へ夜襲をかけます。
たまたま、なぜか、「この日は夜襲は無いだろう」と油断していた重盛の陣営は、急襲に驚き、ほとんど戦わずしてその場から撤退してしまいました。
もちろん、そのスキに尼子勢は、かの大砲を谷へと引きずり降ろしますが、そこへ毛利の援軍が到着・・・夜襲をかけた数十名は、大砲をほっぽらかして、慌てて退散します。
返って来た彼らを迎えた鹿介は、
「大砲をそのまま、そこにほってくるやなんて・・・なんやカッコ悪いやんけ!」
と、少々お怒り気味・・・
「何とかして、こっちへ持って来んかい!」
と、彼らにゲキを飛ばします。
急いで、谷に落ちた大砲を探しに向かう尼子勢・・・
まもなく、見つけて、
「よっこらしょ、よっこらしょ」
と、上月城内に運び込もうとするのですが、間もなく城内・・・というところで、またしても毛利勢に見つかってしまいます。
なんせ、相手は多勢ですから、見つかってしまったら勝ち目は無い・・・で、結局、尼子勢は、またしても大砲をほっぽり出して、城内で退散・・・
結局、毛利勢の手で、大砲は再びもとの位置にもどされて、チャンチャン・・・てな話なのですが・・・
そもそも、
大砲を首尾よく奪ったとして・・・
尼子側に、その大砲を扱える兵士はいたのか?
この大砲に使える弾薬は確保してあったのか?
・・・と、突っ込みどころ満載のお話で、血で血を洗う攻防戦のさ中に、力が抜けるようなエピソードですが、逆に、ひとりひとりの表情が生き生きと伝わって来る気がして、個人的には、こういうお話は大好きなのです。
上月城攻防戦の一場面として、ご紹介しました。
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コメント
月山富田城といい、上月城といい、名前は優雅なお城ですね。しかし、惨烈を極めた毛利・尼子の長きにわたる仁義なき戦い。
いよいよ最終段階に、何ともまあ、力の抜ける大砲争奪戦やってたものですね。茶々さまの大阪弁によって、更にとぼけ味が増してます。
投稿: レッドバロン | 2012年5月16日 (水) 18時18分
レッドバロンさん、こんばんは~
戦いでほのぼのというのも何ですが、ホント、ほのぼのしてます。
投稿: 茶々 | 2012年5月17日 (木) 00時43分