鎌倉討幕…新田義貞の挙兵
元弘三年(1333年)5月11日、鎌倉幕府軍から後醍醐天皇方へ転身した新田義貞が小手指原合戦に撃って出ました。
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ブログ開設以来、これまでの6年間、ここらあたりの事を、あまり書いていなかったせいで、このところ鎌倉幕府の終盤&南北朝の時代のネタが多くなってしまっていますが、もう少々、おつきあいを・・・
なんせ、まるでドラマの場面展開のように刻々と状況が変わり、西に目を向けていれば、その間に東で・・・と、めまぐるしく変化していくもので・・・
まずは、ここまでを時系列で整理すると・・・
これまで、何度も討幕計画を立てては潰されていた後醍醐(ごだいご)天皇が、悪党(主君・領地を持たない武士)楠木正成(くすのきまさしげ)の助力を得て笠置山にて挙兵・・・元弘の変を勃発させるも失敗に終わり(9月28日参照>>)、赤坂城で奮戦していた正成が、城を脱出したのが元弘元年(1331年)10月21日・・・(10月21日参照>>)
捕えられた後醍醐天皇が隠岐へ流されたのが翌・元弘二年(1332年)3月7日・・・(3月7日参照>>)
その8ヶ月後の11月・・・先の元弘の変の時に笠置山から脱出していた後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王が再起を図って吉野山に立て籠り、全国に向けて討幕の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)を発すると、まもなく、行方をくらませていた正成が赤坂城を奪回して、翌・元弘三年(1333年)の1月には、天王寺の戦いで六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)
そして、これを受けた幕府が派遣した大軍が、正成の籠る千早城に攻めよせるのが閏2月5日の事・・・(2月5日参照>>)
その閏2月の下旬には、あの後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事から、幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを派遣・・・
しかし、4月16日に京に入った高氏は、ここで後醍醐天皇方に転身し、逆に六波羅探題を攻撃(5月7日参照>>)・・・続く5月9日には、六波羅探題の北方を務めていた北条仲時(なかとき)らが自刃し、探題は消滅します(5月9日参照>>)。
・・・で、先の閏2月5日に千早城に攻めよせた幕府軍が、結局、城を落とせず、包囲を解いて撤退するのが5月10日という事になります。
と、長い前フリになりましたが、本日、書かせていただくのは、この間の新田義貞(にったよしさだ)の動き・・・
以前書かせていただいたように、この時の義貞は、はじめ、正成の籠る千早城の後方支援として派遣されていた幕府軍の一員でした。
とは言え、あの源頼朝の直系の将軍が、わずか3代で絶え(1月27日参照>>)、今やお飾りの公家将軍のもとで鎌倉幕府の実権を握る執権=北条家は平家の血筋・・・
かたや義貞は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の嫡流=源氏の棟梁としてのプライドもあり、こうして、北条家の配下にいる事に、モンモンとした日々を送っていたわけで・・・
そこで、義貞は、千早城を囲む一員として動く中、執事の船田義昌(ふなだよしまさ)を呼び寄せて、密かに、その心の内をうち明けます。
「この状況を見る限り、幕府崩壊も、そう遠い事やない。
俺は上野(こうずけ=群馬県)へ帰って、討幕の旗を挙げようと思うんやけど、それには天皇家の人の命令が必要や。
なんとか、官軍の看板を取得できんもんやろか」
すると義昌・・・
「幸いな事に大塔宮が、この山中に潜んでおられるようなんで、この義昌がなんとかして、令旨をいただいて参りましょう」
と、心強い返事・・・
大塔宮(おおとうのみや・だいとうのみや)とは、かの護良親王の事で、この時、先の呼びかけに応じて集まった野武士集団を率いて、正成を支援すべく、千早城周辺の山や谷に潜んで、道路を破壊したりのゲリラ戦を展開していたのです。
しばらくたって・・・義貞のもとに現われた義昌・・・なんと、彼が手にしていたのは、大塔宮の令旨ではなく、後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)だったのです。
これが、千早城攻防戦、真っただ中の3月11日の出来事でした。
思いがけず、最高の物を手に入れた義貞・・・すぐさま仮病を使って戦線を離脱し、領国に帰って準備に取り掛かります。
と、こうして密かに準備していたはずだったんですが・・・
そうとは知らない執権=高時が、このタイミングで、義貞の領地である新田庄の世良田郷に、六万貫という高額の軍資金を要求・・・
怒った義貞が、この高時からの使者を斬っちゃった事から、逆に幕府が激怒・・・義貞と、その弟の脇屋義助(わきやよしすけ)の討伐命令を発します。
これを受けて、一族内で協議した結果、義貞らは、「朝敵(国家の敵)征伐」の大義名分のもと、幕府に、堂々と反旗をひるがえす決定をしたのでした。
かくして、西の京都では、あの高氏が六波羅探題を攻撃中の5月8日、義貞は生品明神(いくしなみょうじん=群馬県太田市)にて、討幕の旗揚げをし、鎌倉に向かって出発・・・
この時、わずか150騎だった軍勢・・・そこに、あの高氏の息子=千寿王(せんじゅおう=後の義詮)が加わります。
そう、高氏が京都に進発した時は、未だ、北条の配下として後醍醐天皇を討伐するための軍だったわけで、そのために、高氏は妻子を鎌倉に残したまま、京に向かった(4月16日参照>>)・・・そこを、千寿王は、うまく鎌倉脱出に成功して、新田軍に合流したというワケ・・・
ただし、この時、山伏姿に身をやつして京方面に向かっていた高氏の嫡男=竹若(たけわか)が、高氏謀反のニュースを鎌倉に知らせるために東に向かっていた幕府側の使者に発見されて斬り殺されていますから、後の2代将軍の運命も、危機一髪だったってわけですね。
とは言え、新田&足利・・・源氏の両巨頭の合流は、多くの味方の参戦を産み、翌・9日には、総勢2万7千騎もの大軍に膨れ上がっていました。
こうして元弘三年(1333年)5月11日早朝・・・新田軍は武蔵の小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)に進軍し、幕府軍との壮絶な騎馬戦を展開しました。
・・・が丸1日かかっても決着がつかず・・・夜明けを待って再開された再びの激戦では見事、新田軍が勝利し、幕府軍は分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで撤退します。
しかし、そこは幕府・・・
即座に新たな援軍を派遣して、5月15日には形勢逆転・・・新田軍は大きく撤退する事となりました。
実は、「ここで幕府が更なる追撃を行えば、義貞本人を討ち取る事ができたはずだ」と『太平記』は言います。
「是ぞ平家の運命の尽きぬる処(ところ)のしるし也(なり)」
ここで、追撃しなかった事が、北条の滅亡という運命を決定づけたのだと・・・
そう、一旦は、この15日の敗北に落ち込んでいた義貞が、再び奮起して、鎌倉への猛進撃を再開するわけですが、そのお話は、5月15日の【起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い】でどうぞ>>
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コメント
小手指(こてさし)は変わった地名ですが、東京人は割とよく知ってます。古戦場故ではなくて、西武池袋線の終着駅なので、よくアナウンスしているからですね。
足利の参戦が早まったのは、頭にきて幕府の使者を斬ったせいでしたか。歴史にはこういう偶発性が必ず付いて回りますね。
太平記の時代は東西に渡り、複雑怪奇ですが、登場人物の誰かに興味を持つと、理解が早まるようです。好きこそモノの上手なれ、歴史の勉強も同じですね。関ヶ原合戦の前夜だって、物凄く事態は複雑ですが、諸将のファンは苦にしませんものね。アレです、あれ。
投稿: レッドバロン | 2012年5月12日 (土) 17時59分
レッドバロンさん、こんばんは~
動きがあった同時刻に、一方でも…っていう展開にワクワクしますね。
それこそ、命がけの事なので不謹慎かも知れませんが、時が経っているので大目に見ていただく事に…
投稿: 茶々 | 2012年5月13日 (日) 00時56分
新田義貞さんは、あまり好きになれません。勾当内侍の色香に迷って、出陣を伸ばしています。息子さんの方が好感持てます。
投稿: やぶひび | 2012年5月13日 (日) 13時10分
訂正
足利ではなくて 新田家でした。
♪七里ヶ浜の 磯づたい…はもうちっと先ですが、見せ場ありますよね。
投稿: レッドバロン | 2012年5月13日 (日) 14時16分
小手指、初めて知りました。現在の埼玉県所沢市ですね。西武球場の方です。☆私は「武蔵新田」の新田神社や矢野口の方が身近です。義貞の二男の義興ゆかりの地ですけど。武蔵野の国、広いです。
投稿: やぶひび | 2012年5月13日 (日) 17時35分
レッドバロンさん、こんばんは~
次は、そのお話をさせていただくつもりです。
おっしゃる通り見せ場ですね。
投稿: 茶々 | 2012年5月13日 (日) 22時39分
やぶひびさん、こんばんは~
小手指は、私も名前ちか知りません…東方面にはウトイもので…
義興さんは「神霊矢口の渡し」ですね。
平賀源内のお話とともに、以前、書かせていただきました。
投稿: 茶々 | 2012年5月13日 (日) 22時44分
新田義貞といえば、足利尊氏と源氏嫡流の家柄を争った人物として知れ渡っていますが、これは全て『太平記』の作者が創作した作り話と云われています。
鎌倉幕府の創建期に源頼朝に早々と帰順した足利氏に対し、新田氏は帰順が遅れてしまい、鎌倉幕府での待遇に差異が生じます。討幕当時、尊氏が従五位下前冶部大輔だったのに対し、義貞は無位無官の立場でしたから…
新田氏が鎌倉幕府と上手く付き合っていく手段の1つが足利氏との婚姻を結ぶ事だったようです。
男子には足利氏の女子を、女子には足利氏の男子を結婚させる事で鎌倉幕府の御家人としてその地位を確立した足利氏からの支援を受けていたようです。
その様子が顕著に理解できる例として、足利氏女腹の男子は皆「氏」の名が付けられているんですよね。
これは、烏帽子親=名付け親が足利氏の当主なんだって事を表した証拠であると同時に、新田氏が足利氏の配下(=家臣)になった事を示しています。
義貞自身は「氏」の名が付いていませんが、実は尊氏の兄にあたる高義の「義」の字を付けられたのだそうです。
後鳥羽天皇の即位から後醍醐天皇が建武中興を成すまでの出来事を記した『増鏡』の作者も義貞の事を「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」と紹介しています。
これらの事から、義貞の挙兵は尊氏からの北条氏追討の命令書を受けての挙兵であったのでは?と推測できますね!
投稿: 御堂 | 2012年5月19日 (土) 08時02分
御堂さん、こんにちは~
このあたりのお話は、どうしても「太平記」に頼ってしまいますが、そもそも「太平記」は軍記物ですから、多分の創作が入っている事も確かですね。
おっしゃる通り、尊氏に対して義貞は無位無官ですものね~
後醍醐天皇からの二人に対する扱いも違うようですし…
投稿: 茶々 | 2012年5月19日 (土) 15時16分