鎌倉炎上…北条高時・自刃
元弘三年(1333年)5月22日、新田軍の攻撃により鎌倉が炎上・・・北条高時以下北条一門が自決しました。
・・・・・・・・・・
とにもかくにも、事実上北条氏が実権を握る鎌倉幕府に対して、討幕ののろしを挙げた後醍醐(ごだいご)天皇・・・
つき従うは、
吉野山に籠ってゲリラ戦を展開する護良親王(もりなが・もりよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(2月1日参照>>)
千早城にて奮戦する楠木正成(くすのきまさしげ)(2月5日参照>>)
京にて六波羅探題を破った足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)(5月9日参照>>)・・・
そして肝心要の鎌倉を含む関東で挙兵したのが新田義貞(にったよしさだ)でした
(5月11日参照>>)。
途中参加の諸将を含め、大軍に膨れ上がった新田軍は、3手に分かれて、怒涛のごとく鎌倉に攻め寄せます。
・・・と、ご覧の通り、丸々、昨日のお話の続きです。
これまでの経緯については、昨日の【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】>>をご覧いただくか、【鎌倉時代の年表】>>の最後の方の1324年の『正中の変』あたりからピックアップしてご覧くださいm(_ _)m
・‥…━━━☆
こうして市中に突入する新田軍・・・もはや幕府の指揮命令系統は乱れに乱れ、早くも降伏する者、激戦の末に討死する者、「もはやこれまで」と自刃する者が入り乱れる中、館近くに火の手が迫った事を知った第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、北条家菩提寺である葛西ケ谷・東勝寺へと退いたので、命ある者は続々とこの東勝寺へと集まり、境内は幕府側の将兵で溢れんばかりになっていたとか・・・
そんな中で、様々な逸話も生まれます。
幕府軍の猛将=大仏貞直(さだなお)は、自刃した家臣の弔い合戦とばかりに、義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)の大軍に向かって突入し、壮絶な最期を遂げました。
金沢貞将(さだまさ)は、負傷した体で高時を見舞い、もはや何の権威も無い六波羅探題職に任ぜられた後、その辞令を懐に抱えて戦場へと踊り出て討死しました。
六波羅探題北方を務めていた息子=仲時の自刃(再び5月9日参照>>)を、すでに聞いていた父=北条基時(もととき)は、息子を思いながら辞世の1句を、寺の柱に自らの血で書き残します・・・
♪まてしばし 死出の山辺の 旅の道
おなじく越えて うき世語らむ ♪
また、義貞と縁戚関係にあった安東容秀(あんどうようしゅう)は、敵にくみする縁者から送られて来た鎌倉脱出を手引きする手紙を「武士の恥である!」と、その手紙を刀に巻きつけて自刃します。
美談だけではありません。
忠臣だと思われていた武将が、主君父子が自刃した途端、その甲冑をはぎ取ったうえに宝物も奪ってそそくさと逃げる・・・なんて場面もありました。
さらに・・・と、まだまだ、これらの人間ドラマも、一つ一つご紹介したいところなのですが、ページにも書く時間にも限りがあり、本日のところは、お話を先に進めさせていただきます。
そして、いよいよ北条高時、最期の時・・・となるのですが、この高時が自刃するキッカケとなったのは、猛将=長崎高重(たかしげ)の帰還でした。
彼は、ここまで高時の右腕となって活躍してくれた人物・・・今回の新田軍との合戦においても、その最初の最初から、何十回となく出撃し、常に先陣となって激戦をかいくぐって来た人です。
そんな彼が、今生の別れにと高時に会いに来ます。
「今から、一騎打ちで義貞の首を盗って戻って参ります!」
しかし、その猛攻で新田軍に多大なダメージを与えながらも、義貞との一騎打ちの夢叶わず・・・
しばらくして東勝寺に舞い戻って来た高重は、
「いやいや、何とか義貞のアホンダラを一騎打ちで殺ったろ思て探しましたんやけど、いっこうに見つかりませんでしたわ。
ほな、このままザコどもの200や300・・・とも思いましてんけど、大将との約束の時間も迫ってるこっちゃし、諦めて戻って参りましたわ」
そして、
「いかにも高重らしい」
と、この戦況報告を微笑みながら聞く高時に向かって・・・
「ほな、この高重が、先に手本を見せますよってに、あとに続いて来てください」
そう言って、かたわらにあった盃に酒を所望し、3度傾けた後、摂津道準(せっつどうじゅん)の前に盃を置き、腹を掻き切って、
「肴にせよ!」
と、はらわたを手繰りだして壮絶な最期を遂げました。
受け取った道準は
「この肴やったら、どんな下戸(げこ)でも飲まんヤツはおらんやろ」
と、その盃を手に、半分を飲み残し、今度は諏訪直性(すわじきしょう)の前に盃を置いて、彼も切腹しました。
それを受け取った直性は、心静かに3度飲み干し、その盃を高時に前に置き、
「なんや、若い者が、かっこええ芸当をやってくれるやないかい!
こら、この年寄りも続かなアカンなぁ・・・
後に続く者は、酒の肴にせぇよ!」
と、腹を十文字に掻き切り、その刀を高時の前に差し置きました。
とは言え、皆が皆、そういう芸当ができるわけでもなく、ともにいた長崎円喜(えんき=高重の祖父)は、少しためらっている様子・・・
というか、この状況を見れば、順番は高時ですから、円喜としては、その動向を見ていた感もなきにしもあらずですが・・・
とにかく、そこに、円喜の孫=長崎新右衛門(しんえもん)が進み出て
「先祖の名を高める事こそが子孫の孝行・・・神様もわかってくれはるやろ!」
と、言いながら、祖父=円喜の腹を2度ほど刺し、自らも、その刀で自害しました。
この新右衛門という人が、わずか15歳の少年・・・この若き武者の見事な自刃を見た高時は、すぐに、その後に続き、自害して果てたのです。
そして、この光景を目の当たりにした居並ぶ諸将は次々と切腹・・・その数は、そばにいた者だけで283人。
やがて、皆々が我先にと腹を切り、館に火を放ったので、その猛火は炎々と燃え盛り、煙は天を覆ったと言います。
結局、死者の数は東勝寺全体では870人・・・鎌倉では6000余人に及んだのだとか・・・
元弘三年(1333年)5月22日、ここに、鎌倉幕府は滅亡します。
と言いたいところですが、ご存じのように、高時は幕府最後の執権ではありませんし、高時の息子をめぐるなんやかんやのお話もしなければならないし・・・と、イロイロと書きたいところなのですが、さすがに、ここまま次のお話にいくわけには行かず・・・
今日のところは、このくらいにしといたろか~by池野めだか師匠
って事でよろしくお願いします。
追記:いつもその数を大幅に盛る『太平記』の上記の死者の数については、このページの続きのお話も含めて、翌日=5月23日のページでどうぞ>>
追記2:鎌倉陥落後、最後に降伏した金剛山の幕府軍については7月9日のページでどうぞ>>
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コメント
高倉健さんの御先祖様、北条篤時もこの時自刃したそうですね。篤時の子は家臣と共に山口へ逃げ延び、その後北九州まで逃げてそこで落ち着き、両替商を営んで地元では名家として知られるようになったとか。健さん、武士って感じですよね。うっとり♡
投稿: Hiromin | 2012年5月22日 (火) 23時24分
「太平記」の時は、北条高時を片岡鶴太郎さんが演じていました。愛妾が小田茜だったと思います。
投稿: やぶひび | 2012年5月22日 (火) 23時46分
Hirominさん、こんばんは~
>高倉健さんの御先祖様が!
知りませんでした。
鎌倉武士のイメージ、ピッタリですよね。
私も…うっとり♡です。
投稿: 茶々 | 2012年5月23日 (水) 00時46分
やぶひびさん、こんばんは~
大河ドラマでの鶴太郎さんの高時、良かったですね。
あの憎たらしい感がすばらしかったです。
投稿: 茶々 | 2012年5月23日 (水) 00時48分
太平記の数字が怪しいのは定評がある?所ですが、それを大いに割り引いても、なお鎌倉武士の潔さよ。
足利幕府や徳川幕府の末期に比べると、えらい違いです。これだけの士風を維持し得て、どうして滅びてしまったのか? かえって、不思議な気持ちになります。
投稿: レッドバロン | 2012年5月23日 (水) 21時26分
足利氏、徳川氏は源氏なので、征夷大将軍になりましたね。幕府の終焉は、武士らしくなかったかも。北条氏、織田氏は平氏。
投稿: やぶひび | 2012年5月23日 (水) 22時40分
レッドバロンさん、こんばんは~
確かに…
足利や徳川の幕府崩壊とは、ちょっと違いますね。
そこが、やはり平氏でしょうか。。。
投稿: 茶々 | 2012年5月24日 (木) 02時39分
やぶひびさん、こんばんは~
レッドバロンさんもおっしゃってましたが、やはり、親兄弟でも争う時は争う源氏と、一族もろともに滅ぶ平氏と、何となく、その違いがわかる気がします。
私としては、どちらがどうというのではなく、どちらも武士の生きざまのような感じがします。
投稿: 茶々 | 2012年5月24日 (木) 02時42分
室町幕府の最後の将軍「足利義昭さん」は評価低いですね。将軍職を辞しても、大名として、生きていたし。
投稿: やぶひび | 2012年5月24日 (木) 09時19分
やぶひびさん、こんにちは~
そう言えば、慶喜さんもそうですね。
武士としての潔さという点では、やはり…
って感じですね。
まぁ、家の存続を第1に考えるのも一理ありますが。
投稿: 茶々 | 2012年5月24日 (木) 15時19分
2016年5/21は鎌倉宮でみたま祭と5/22の宝戒寺に行って徳宗大権現会で北条高時様にお会いしてきました〜ところで護良親王親王はモリヨシシンノウでなくてモリナガシンノウではないですか?
鎌倉宮好きより〜
投稿: 湘南の風 | 2016年5月25日 (水) 21時48分
湘南の風さん、こんばんは~
このブログでは、他のページでも大抵「モリヨシ」と「モリナガ」の両方の振り仮名をつけてるんですが、このページでは「モリヨシ」しか書いてませんでしたね。
たまたま抜けてました…申し訳ないです。
早速「モリナガ」の方も付け足しておきます。
護良親王に限らず、後醍醐天皇の皇子には、ほとんど「良」の字がつくんですが、これを「ヨシ」と読むか「ナガ」と読むかは、決まってなかったと思います。
(なので他の皇子の場合も両方書いてます)
『国史大辞典』で「ヨシ」が主になっているために、学問としての歴史では「ヨシ」が正解としているようですが、現在の高校教科書でも「もりよし」が半分、「もりよし(もりなが)」と両方書かれている物が半分ほどあって、やっぱり決まって無いみたいです。
投稿: 茶々 | 2016年5月26日 (木) 03時30分