「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…
元弘三年(1333年)5月23日、後醍醐天皇が京へ向け船上山を出立しました。
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すでに5月12日の段階で、足利高氏(あしかがたかう=後の尊氏)による六波羅探題・陥落(5月9日参照>>)の知らせを受けていた後醍醐(ごだいご)天皇・・・
この時、伯耆(ほうき・鳥取県中部)の船上山(せんじょうざん=鳥取県東伯郡琴浦町)に身を置いていた(2月24日参照>>)後醍醐天皇が、ただちに、京へ向かうかどうかの評定を行うと、周囲は「未だ時期早し」と猛反対・・・
しかし、その後の占いにて吉兆が出た事で行幸を決定したと言います。
かくして元弘三年(1333年)5月23日、京へ向け船上山を出立した後醍醐天皇の行列は、通常の行幸行列とは違い、衣冠(いかん=貴族・官人の宮中での勤務服)でのお供はたった二人・・・高級文官たちも皆が甲冑姿に身を包み、騎乗にて従い、兵士も全員弓矢を装備しての完全武装で行われました。
ちなみに、余談ですが・・・
この時、行列の先陣を務めたのが、後に、高師直(こうのもろなお)の横恋慕悲劇に見舞われる塩冶高貞(えんやたかさだ)(4月3日参照>>)だったそうです。
行列は、5月27日には播磨(はりま=兵庫県南西部)書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)に到着し、翌・28日には法華山(ほっけざん=兵庫県加西市)へ・・・
ここで、天皇方として奮戦していた赤松則村(あかまつのりむら)父子が後醍醐天皇に拝謁すると、
「これも、君らの頑張りのおかげや・・・褒美は望み通りにとらせるよってに・・・」
と、天皇は上機嫌で、即座に禁門の警固という栄職に任じました。
昼ごろには、新田義貞(にったよしさだ)からの北条一族の撲滅と関東平定(5月22日参照>>)の知らせも舞い込み、一同は歓喜に包まれました。
続く6月2日には、兵庫を東に向かう行列を、あの楠木正成(くすのきまさしげ)が7000騎の兵を連れてお出迎え・・・
「こうなったんも、君らの忠義あふれる戦いのおかげやで」
と、天皇が、千早城での武功(2月5日参照>>)について、正成に親しく話すと、
「いえいえ、これも、御君の徳によるもの・・・俺らみたいなモンの計略では、あの囲みを脱する事なんてできませんでしたわ~」
と、正成さんもご謙遜・・・
こうして6月6日に、京都の東寺から二条の宮殿に入った後醍醐天皇・・・
いよいよ、ここから天皇による親政=一連の建武の新政が開始される(6月6日参照>>)わけですが、そのお話は、また後日の「その日」にお話させていただくとして、昨日の鎌倉炎上でのページ(先ほどの5月22日>>のページです)でお話しきれなかった、北条氏と運命を供にした人々の人数に関するお話を・・・
その昨日のページでは、運命を供にした人々の人数を『太平記』の記載通りに書かせていただきました。
『太平記』によれば・・・
「…総(そう)じて其(そ)の門葉(もんえふ)たる人二百八十三人」
「此(こ)の一所(いっしょ)にて死する者、すべて八百七十余人なり」
「鎌倉中(かまくらぢゅう)を考(かんが)ふるに、すべて六千余人なり」
と、北条高時のそばで亡くなった人が283人、
同じ東勝寺(とうしょうじ)境内で亡くなった人が870余人、
鎌倉全体では6000余人というスゴイ人数になっています。
しかし、その舞台となった東勝寺の旧跡では、「腹切りやぐら」と呼ばれる、それらしい場所は現存するものの、これまでに遺骨が発掘された事はなく、調査をしても出土するのは瓦など、寺院があった事を示す物ばかりでした。
それ故に、おそらくは、「戦いの後に、新田軍や僧らによって遺体は別の場所に集められて埋葬されたのであろう」とされ、『太平記』のその数も、「軍記物独特の文学的誇張による物で、実際には、それほど多くは無いだろう」と推測されて来ました。
なんせ、以前の稲村ケ崎のページ(5月21日参照>>)にも書かせていただいたように、新田軍の兵の数も、最初は、たった150騎だったのが、いつの間にか2万7000余騎になり、最終的に鎌倉に突入する時は本隊だけで50万7000余騎(全体で60万7000余騎)という考えられないような数字になってますからね。
ただ、確かに『太平記』での人数には盛りつけがあるのでしょうが、一方では、「一概に、そうも言いきれない」という意見も、これまで数多くありました。
というのは、鎌倉にある九品寺・・・ここは、かの新田義貞が陣を敷いたとされる場所で、戦いの後に戦死者を供養するためにお寺が建立されたとの事ですが、この九品寺の境内には「新田、北条両軍戦死者の遺骨を由比ガ浜よりこの地に改葬す・・・昭和四十年(1965年)」と刻まれた石碑が存在するのだそうです。
そう、実は、東勝寺旧跡とは別の場所で、大量の遺骨が発掘されているのです。
それが、材木座海岸・・・
「鎌倉の海岸に近いところから、よく人骨が出る」という話は、江戸時代の頃からウワサになっていたようですが、それとともに、「昭和十年(1935年)に海岸から多数の人骨が発見されたので、無縁仏として九品寺に埋葬した」という記録があった事から、
その後、昭和二十八年(1953年)から3年かけ、3回に渡って、東京大学人類学教室の鈴木尚(ひさし)教授らによって、本格的な、材木座・鎌倉簡易裁判所予定地の発掘調査が行われたのです。
これに関しては、近年、『材木座町屋発掘調査報告書』なる書簡も出版されているようですが、まだ読んでいないので、あくまで孫引きですが・・・なんと、そこにあった大小32個の穴から910体ぶんの遺骨が発見されたというのです。
しかも、ある穴では全身の骨格が揃っているものの、別の穴では頭骨だけが200体だったり、手足がバラバラの遺骨があったり、刀傷があったり・・・その多くは、犬に噛まれた形跡もある・・・
また、年齢層や性別については、壮年または青年の男子が多く、女性や老人や子供は少ない事もわかっています。
また、同時に鎌倉時代の陶器や宋銭も出土しているし、極楽寺でも同様の遺骨が発見されている・・・
という、これらの結果を得て、
「おそらくは鎌倉時代に大規模合戦があって、多くの犠牲者が放置されたままになっていたと推測され、それに該当する合戦は、この鎌倉幕府滅亡の合戦しかない」
との結果がはじき出されました。
先ほどの石碑の碑文も、この結果を得た「新田、北条両軍戦死者の遺骨を…」という、昭和四十年の段階での書き方なのですね。
だが、しかし・・・
そうです。
まさに、歴史は日々進歩している・・・
その後も、日々、発掘調査が行われ、書きかえられた歴史が、また、書きかえられるのです。
確かに、海岸からは鎌倉時代の出土品とともに、合戦で亡くなった人が多く含まれていたわけですが、その後の調査では、自然死や病死の別の時代の遺骨も発見され、ここが、その合戦の死者だけではなく、長期に渡って埋葬の地とされていた場所であろう事がわかって来たのです。
また、鎌倉全体の発掘調査から、東勝寺周辺を中心に、いくつか焦土と化した地層が発見されているものの、それが全体に及ぶ物では無い事も明らかになって来ました。
という事で、ごく最近の解釈としては、
新田義貞の鎌倉攻めは、「一般市民を巻き込むような大規模な物ではなく、統率のとれた軍隊によるピンポイント攻撃であった」というのが定説となっているようです。
いやぁ、この二転三転こそ、答の無い推理サスペンス・・・歴史の醍醐味です!
もちろん、歴史好きとしては、今、この時も、更なる発見に期待するばかりなのですが・・・
追記:鎌倉陥落後、最後に降伏した金剛山の幕府軍については7月9日のページでどうぞ>>
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