足利高氏の六波羅探題攻撃…守る北条仲時
元弘三年(1333年)5月7日、篠村に布陣していた足利高氏が、京をめざして出立しました。
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源頼朝が開いた鎌倉幕府ですが、頼朝直系の将軍はわずか3代で絶え、その後は、公家から迎えたお飾りの将軍のもと、執権として北条氏が事実上の実権を握っていました。
やがて、第14代執権=北条高時(たかとき)の時、政権を朝廷に取り戻すべく挙兵した第96代後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、元弘の変に破れ(9月28日参照>>)、隠岐へと流されます(3月7日参照>>)。
しかし、その1年後の元弘三年(1333年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が各地の反幕府勢力をまとめて吉野山に立て籠り、再び倒幕ののろしを挙げると、先の戦いで行方不明になっていた楠木正成も千早城にて挙兵・・・(2月5日参照>>)
このタイミングで隠岐から脱出し、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った後醍醐天皇が(2月24日参照>>)、京に攻め上るとの噂を耳にした高時は、討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の足利尊氏)を京都に派遣・・・しかし、すでに、その心の内が倒幕に傾いている高氏は、戦場となっている京都南部(4月8日参照>>)の八幡(やわた)&山崎には向かわず、北部の篠村(京都府亀岡市)に陣取り、その心の内を後醍醐天皇に告げたのでした。
・・・と、4月16日のページでは、ここまでこ紹介させていただきました(くわしくは2012年4月16日のページで>>)
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この時、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)の北方を務めていたのは、第13代執=北条基時(もととき)の息子=北条仲時(なかとき)、南方を務めていたのが一門の北条時益(ときます・北条政村の流れ)でした。
大軍を率いて京に入った高氏の参戦に、一旦は士気挙がる六波羅勢でしたが、その高氏が戦場をスルーして篠村に陣取り、宴会ばかり開いている事に、その空気を察し、またたく間に、士気が下がってしまいます。
しかも、高氏とともに上洛して、山崎にて奮戦していた幕府方総司令官の名越高家(なごえたかいえ=北条一門なので北条高家とも)が討死したというニュースも、そこに舞い込んで来て、ますます、空気は悪くなるばかり・・・
一方の高氏のもとには、近隣諸国から次々と応援の武士団がやって来て、コチラは士気も最高潮に・・・
かくして元弘三年(1333年)5月7日、高氏は京を目指して篠村を出立します。
篠村八幡宮に祈願書を納め、新たに戦勝を誓う高氏・・・ここ篠村は、高氏の母=上杉清子の故郷でもありました。
途中、大江山を越えたあたりで、一対の山鳩が源氏の白旗の上を舞います。
「おぉ、これこそ八幡大菩薩の使い!」
とばかりに、ますます士気が高まる高氏軍は、出立の時に2万だった兵も、京に到着する頃には5万にも増えていたとか・・・(んなアホな!相変わらず『太平記』は盛っとるなぁ)
こうして、京に入る足利軍・・・そこに、赤松則村(あかまつのりむら)や千種忠顕(ちぐさただあき)の軍勢も加わり、四方から一気に攻め込みます。
一方の六波羅勢は、手勢を三手に分けて各地で応戦・・・よく戦いますが、なんせ、もともと多勢に無勢・・・しかも、敗色が濃くなるに従って、戦線を離脱する逃亡者の数が増えて行き、状況悪化に拍車がかかります。
最終的に六波羅の城塞に籠る形となった彼ら・・・夜になると、ますます脱落者が後をたたなくなり・・・結局、周囲に残る兵は、わずか1000騎にまで落ち込んだとか・・・
夜も更けて、明日からの作戦を練る六波羅では、仲時の家臣=糟谷宗秋(かすやむねあき)が提案します。
「もはや、わずか1千騎では太刀打ちできません。
かと言って、名もなき野郎に討たれるのもくやしい・・・
ここは一つ、光厳天皇と上皇をお連れして、一旦関東へと退き、時を見て再起を図る事にしましょうや。
瀬田まで行って、佐々木時信と合流したなら、その先の見通しも明るいですよって…」
と・・・
この意見を受け入れて、関東へと下る決意をした北条仲時&時益・・・
この時、仲時は、ともにいた妻に言います。
「ともに地の果てまで・・・と思とったけれど、すでに敵軍は東西の道を塞いでるらしく、わずか1千騎で、それを突破して、関東まで落ち延びる事ができるかどうか・・・
こうなったら、キミは、息子を連れて落ちてくれ!
キミは女で、息子は幼い・・・そんな二人やったら、たとえ敵に見つかっても、見逃してもらえるに違いないさかい」
と、別々に落ち延びる事を提案しました。
しかし、奥さんの返答は「NO!」・・・「私は、ここに残ります」
おそらく、彼女の思いは、
夫とともに東に向かえば足手まといとなる・・・
かと、言って、夫の言うように落ち延びて、敵方の憐みを受けるのもイヤ・・・
ならば、ここ六波羅で、華々しく散ろう・・・
彼女の決意は固く、逆に仲時が言い負かされ、自分の提案を撤回せざるを得ないほどでした。
その名も、出自も記録には残っていない彼女ですが、六波羅探題を任された男の妻としての誇りとプライドは、悲しいほどに感じていたのでしょう。
やむなく、涙ながらに妻子を残して出立する事となった仲時・・・
出立してまもなく、ふと振り返った仲時・・・そこには、すでに火の海に包まれた六波羅館があったと言います。
こうして、数も少なくなった六波羅勢は、一路、近江(滋賀県)へと向かって駒をすすめて行く事になりますが・・・
この続きのお話は、5月9日のページでどうぞ>>
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コメント
児童書の「太平記」を図書館で借りてきました。
投稿: やぶひび | 2012年5月 8日 (火) 13時46分
やぶひびさん、こんにちは~
ひょっとして、このブログの影響で??
それなら、ウレシイです。
投稿: 茶々 | 2012年5月 8日 (火) 16時48分