可愛い子には旅を…鎌足の息子=定恵の留学
白雉四年(653年)5月12日、中臣定恵が、遣唐使として唐に旅立ちました。
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定恵(じょうえ)・・・飛鳥時代の僧です。
出家して、このお名前になるのですが、もとのお名前が中臣真人(なかとみのまひと)と言い、あの乙巳(いっし)の変&大化の改新(6月12日参照>>)の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)=後の藤原鎌足の長男です。
日本の歴史上に君臨する藤原氏の基礎を作る、あの藤原不比等(ふひと)に、お兄さんがいたなんて!
私も、長い事知りませなんだ・・・
それにしても、「真人」って名前・・・真=マコトの人、完全無欠の人、ってスゴイ名前です。
弟の不比等だって「他に比べられないほど(スゴイ)」って意味ですから、鎌足父ちゃんは、スゴイ名前をつけるのが好きだった父ちゃんなのかも・・・
とにかく、この真人兄ちゃんと弟・不比等は、かなり年齢が離れていますので、この長男が生まれてからしばらくの間は、鎌足父ちゃんとしては、そんなスゴイ名前をつけたくなるくらい、ものすごく可愛がっていたわけで・・・
とは言え、この定恵さん(ややこしいので、ここからは定恵の名で呼ばせていただきます)・・・多くの謎に包まれた人です。
なんせ、史料が少ないうえに、残ってる史料によって言ってる事が違ってたりするので・・・だからこそ、教科書にドド~ンと載ったり、大々的に扱われる事が無く、あまり知られていないのかも知れませんね。
まずは、母親がはっきりしません。
一般的には、複数の史料にある車持国子君(くるまもちくにこぎみ)の娘とされますが、『日本書紀』では阿部氏の娘となってます。
しかも、そこに共通するのは、この車持の娘であっても阿部氏の娘であっても、どっちにしても、その奥さんは、第36代孝徳天皇の寵妃であった女性を賜ったと・・・
昔々のこういうケースの場合、女性はすでに妊娠している事が多々あって、つまりは、お腹の子供ごと賜る・・・現在の常識では、ちょっと理解し難いですが、当時の常識としては「高貴な人の子供を自分の子供にできる名誉な事」なわけで・・・
と、なると、この定恵さんの父親は鎌足ではなく、孝徳天皇の可能性も否定できないわけです。
ちなみに、弟・不比等のお母さんも、第38代天智天皇(一緒に大化の改新した中大兄皇子)から賜った寵妃なので、こっちも、ご落胤説が濃厚です。
・・・で、そんな長男を、鎌足は出家させ、しかも「遣唐使として唐(中国)に留学させよう」ってんですから、なかなかの決意っぷりです。
なんせ、枝分かれしているとは言え、鎌足の中臣氏は、古代より神事や祭祀を司る神官の家系なわけで、仏教ドップリの渡来系かも知れない蘇我(そが)氏とはワケが違います。
そんな蘇我氏でさえ、たった一人の長男を出家させて遣唐使にしようとは思わなかったのに、むしろ、仏教の導入に反対していた側の中臣のあととりを・・・
これには、「天皇の子供だから・・・」=つまりは、自らの実子じゃないので、愛情が薄かったから・・・なんて事も言われたりしますが、私としては、それこそ、現代の常識を持ち込み過ぎだと思います。
生まれた赤ちゃんが、皆、無事に成人するとは限らないこの時代・・・自分の子供なら、本人が頑張れば、それだけたくさん子供を授かる事ができ、無事に成人する人数も多くなるわけですが、高貴な人の子供を賜る機会はそうそう無いわけで、
もし、定恵さんが、本当に孝徳天皇の子供ならば、むしろ、その名誉に報いるべく、かえって大切に育てねばならないと思うのです。
なので、実子であろうが無かろうが、おそらくは、大切に育てたであろう長男を、遠き大陸に留学させるにあたっては・・・これには、やはり、父として相当な決意がいった事と思います。
なんせ、あの小さな遣唐使船で海を渡るのは危険極まりない行為・・・確かに、朝鮮半島との関係が悪化してルート変更(4月2日参照>>)してからの後半の遣唐使の危険度よりは、未だ、安全なルートだったですから、ちょっとはマシだったかも知れませんが、やっぱり、それでも命がけです。
しかも、この時、定恵は、わずか11歳・・・次男の不比等は、まだ生まれてません。
しかし、鎌足父ちゃんは、その名前に勝るとも劣らない聡明で優秀な完全無欠の長男に、藤原氏(まだ中臣ですが…)の未来を全面的に託すべく、一大決心をして留学させたのだと思います。
なんせ、この定恵を出家させた時の師匠というのが、慧隠(えおん)という僧で、23年間もの長い留学経験があり、現在の政権で国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として活躍する旻(みん)(10月11日参照>>)などと並び称される、当時の最高頭脳だった人ですから・・・
息子に、最高の教育者をつけた鎌足なら、きっと、その留学先にも最高の場所を想定し、最高かつ最新の文化を学んでくるよう準備させたはず・・・
おそらくは、次世代を担う最高の政治家になって戻って来る事を期待して、心を鬼にして(出家=縁を切る意味も含まれてますので…)息子を送りだしたに違いありません。
こうして定恵は、白雉四年(653年)5月12日、第2回遣唐使(8月5日の第1回参照>>)として旅立ったのです。
現地に着いた彼は、父の期待通りに勉学に励みます。
なんせ、彼が、長安(ちょうあん=唐の首都)で弟子入りしたのは神泰(じんたい)法師という、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記の三蔵法師)が西域から持ち帰った経典の数々を中国語に訳す係を、唐の玄宗(げんそう)皇帝から託されていた人・・・つまり、コチラも当時の最高頭脳の僧だったワケで・・・
そんな人から教えてもらい、おそらくは、その経典の翻訳作業もその目で見たでしょうし・・・そりゃ、ついて回るだけでも、かなりの勉強になりますよ。
こうして12年に渡る留学生活を有意義に過ごした定恵・・・
天智天皇四年(665年)の9月、立派な23歳の青年に成長して無事、帰国します。
彼が、父の期待通りの優秀な人物に成長していた事がうかがえるのは、その帰国の途中に朝鮮半島を経由して帰って来るところ・・・
そう、あの白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)があったのが、その帰国の2年前の天智天皇二年(663年)ですから・・・
個人的な思い込みかも知れませんが、この2年前の戦いを意識して朝鮮半島に寄って来たんじゃないかな?なんて考えたりします。
とにかく、無事の帰国・・・良かった良かった・・・
しかし、世の中、うまく行かないものです。
なんと、定恵は、帰国から、わずか3ヶ月後に病死してしまうのです。
一説には、そのあまりの優秀さを危険視した大陸or半島の住人が毒殺したなんて噂もあるようですが、冒頭に書いた通り、定恵の史料は少なく、この亡くなった時期でさえ諸説あるので、そこのところは、想像の域を出ない物です。
この時、彼が留学中に生まれていた弟=不比等は、わずか7歳・・・
この先、父=鎌足も死に、政争で後ろ盾を失った不比等が、一から身を起こして、再び政治のトップに躍り出る(8月3日参照>>)事を知ってる身としては、
この時、優秀な兄ちゃんが生きていたら、不比等の人生はどんな物だったんだろう?
なんて、想像を膨らませてしまいますね。
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コメント
すごいblogを発見しちゃった~。
これからちょくちょくお邪魔します。
投稿: MARIRINN | 2012年5月14日 (月) 09時36分
MARIRINNさん、ありがとうございます。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2012年5月14日 (月) 15時08分
歴史が好きなだけじゃなくて人間関係を頭の中でイメージして浸りこむことができないとこんなにいいブログはかけないですよねぇ。
きっと茶々さんとお酒とか飲んだら楽しいんだろうなぁ♪
投稿: 春 | 2012年5月31日 (木) 21時45分
春さん、ありがとうございます。
実は、私はお酒を1滴も飲めないのですが、友人には
「飲んでる人より、酔うてるみたい」
と言われます(*´v゚*)ゞ
シラフではしゃげます( ̄0 ̄)ノ(キッパリ!)
投稿: 茶々 | 2012年6月 1日 (金) 02時25分
へーそうなんですか!
歴史の話とか茶々さんから生で聞いたら楽しいだろうなぁ♪
投稿: 春 | 2012年6月 1日 (金) 10時19分
春さん、こんばんは~
逆に、果てしなく続いて、迷惑がられるかも…(笑)
そのはけ口が、このブログです(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年6月 2日 (土) 00時04分