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2012年5月18日 (金)

奈良時代にやって来たインド僧…菩提僊那

 

天平八年(736年)5月18日、東大寺の大仏建立に尽力したインド僧菩提僊那が大宰府に上陸しました。

・・・・・・・・・

菩提僊那(ぼだいせんな)・・・

天平時代の僧ですが、上記の通り、日本人ではありません。

古代インドの四姓制度の最上位である婆羅門(バラモン)の出身で、そのお名前も、サンスクリット語だとボーディセーナと発音します。

平成の今でも、画家を志す人は「パリに行きたい」、ミュージシャンを志す人は「ロンドンに行きたい…」と思うように、この時代に仏教を志した人の常として、日本人僧なら、まず、「仏教の本場=中国で、その教えを学びたい」と思い、その後は、さらに「発祥の地であるインドに行きたい!」と思う物です。

時代は少し後になりますが、国内ではこれ以上ない出世をしていながら老いた母を置いてまで海を渡った成尋(じょうじん)(2月2日参照>>)や、数奇な人生を歩んだ高丘(たかおか)親王(1月27日参照>>)なんて、まさにそうですね。

・・・と、これは日本人から見た発想ですが、それが仏教発祥の地であるインドから見たら・・・

そう、たとえば・・・
日本でそのワザを極めた柔道家は、「海外で真の柔道を教えたい」、あるいは、「遠い外国に、どのように伝わっているのかを、この目で見たい!」と思うかも知れません。

菩提僊那の最初の旅は、そんな発想からなのかも知れません。

一説には、「彼は、中国の仏教聖地=五台山(ごだいさん)にあった文殊菩薩に会いたかったのだ」とも言われていますが、とにもかくにも、あのシルクロードを旅し、ヒマラヤ山脈を越えて、遠く中国までやって来たのです。

そして、当時、都であった長安(ちょうあん=現在の西安)崇福寺(そうふくじ・すうふくじ)というお寺に滞在し、そこを拠点に僧としての活動を続けていたと言われますが・・・

そんな彼の運命が変わるのは、733年(天平五年)・・・

この時、遣唐使として中国に渡って来ていた日本人たちと出会うのです。

この時の彼らは、中臣名代(なかとみのなしろ)副使として派遣された回の人たちだったと言いますので、まさに天平五年(733年)に派遣された第10回遣唐使ですね(4月2日参照>>)

・・・で、親しくなった彼らから、「ぜひとも日本で正しい仏教を広めてほしい」と懇願された菩提僊那・・・

もちろん、彼は悩んだでしょう。

この時代の日本なんて、おそらく中国でもあまり知られていないだろうし、インド育ちの菩提僊那にとっては、まさに、初耳の見知らぬ国であった可能性大です。

しかし、この時の彼は、まだ30歳を過ぎたばかり・・・そんな不安より、新たなる地での経験のほうに賭けたのかも知れません。

唐の僧やベトナムの僧らとともに、海を渡った菩提僊那は、天平八年(736年)5月18日九州は大宰府に到着したのです。

当然ですが、教発祥の地出身の僧が日本に上陸するのは初めてですから、ものすンごい歓迎を受けるわけで、平城京では、あの行基(ぎょうき・ぎょうぎ)(2月2日参照>>)に迎え入れられ、新築されたばかりの大安寺にて僧坊を与えられます。

残念ながら、この大安寺が、その後に幾度も火災に遭ってしまった事から、この大安寺での菩提僊那の暮らしぶりの記録という物が皆無なので、その様子をうかがい知る事はできませんが、

おそらくは、日本の皆が「天竺(てんじく)」として憧れたかの地の話を、若い僧たちに言って聞かせていた事でしょうね。

やがて、天平勝宝三年(751年)には、僧としての最高位である僧正(そうじょう)を贈られる菩提僊那・・・おそらくは、時の聖武天皇信頼も厚かったのでしょう、

Naranodaibutucc 翌・天平勝宝四年(752年)のあの大仏開眼では導師(どうし=法要の中心となる僧)を務め、開眼の・・・まさに、その目を入れるという大役をこなしています。

ちなみに、この時の開眼に使われた筆は、現在も、あの正倉院(6月21日参照>>)に大切に保管されているのですが、

ちなみのちなみ、更なる余談としては、あの源平の戦いで炎上(12月28日参照>>)した後、文治元年(1185年)に大仏は再建され、この最初の開眼に使われた正倉院の筆が、この時の2度目の開眼にも使用されているのですが、この時、この筆を使って目を入れた人が、今が旬のはみだし皇子こと後白河法皇(3月5日参照>>)・・・って事で、ちょっとした豆知識でした。

スンマセン、ちょっと話がソレました(;´▽`A``

こういった経緯から菩提僊那は、聖武天皇、行基、そして良弁(ろうべん)(3月14日参照>>)とともに、大仏建立に尽力した人物として東大寺四聖の1人と称される存在となります。

天平勝宝五年(753年)には、お馴染の中国の高僧=鑑真和上(がんじんわじょう)が来日(12月20日参照>>)していますが、おそらくは、その後も、唯一の婆羅門僧正として、民衆から、そして多くの僧から崇拝されていた事でしょう。

こうして、24年という歳月を日本で過ごした菩提僊那・・・

天平宝字四年(760年)2月25日、大安寺にて、彼は、西方を向いて合掌したまま、57歳の生涯を閉じたと言います。

最後には、その西方遠くにある故郷の景色が、その瞼に浮かんだやも知れません。

不安に満ちた見知らぬ国にやって来て、仏教の発展に尽くした彼のような存在なくしては、現在の日本の仏教も無かったのかも・・・感謝です。
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コメント

奈良・東大寺の水煙の前に立つと、遠く長安の都からシルクロードを超えて、日本は世界文明と繋がっているのを実感します。

♪一人じゃないって、素敵なことね♪ (古くて、スミマセン、天地真理さんの歌です)

日本を訪れた恐らくは最初で最後のバラモンのお坊さまでしょう。本当にご苦労さまです。

国際と国風が適度に交代し、今の日本があるのでした。

投稿: レッドバロン | 2012年5月20日 (日) 17時30分

レッドバロンさん、こんばんは~

ホントですね~
今でさえ見知らぬ外国に行くのは勇気のいる事…まして、そこに骨をうずめようなんて…
ありがたいです。

投稿: 茶々 | 2012年5月20日 (日) 23時23分

!!(゚ロ゚屮)屮
そんんあことがあったんですね

投稿: とま | 2013年8月18日 (日) 17時53分

とまさん、こんばんは~

鑑真は有名ですが、その前にインドのお坊さんが来日していたとは、驚きますね~

投稿: 茶々 | 2013年8月18日 (日) 23時18分

茶々様

鑑真を検索してたどり着きました。
永井路子さんの「氷輪」を読みました。
鑑真や如宝他の多くのお弟子さんが、受戒を広めるために10年もかけて渡来したこと。
鑑真が大僧都を解任され東大寺を追い出された後も、唐招提寺の創建に多大な尽力をしたことを知り、他国のためにそこまでやるかと感動しました次第です。
一日一歴で飛鳥時代~平安時代についての事例も
お願いいたします。

投稿: 山根秀樹 | 2021年2月19日 (金) 09時54分

山根秀樹さん、こんばんは~

最近は戦国モノが多いですが、もともと奈良時代のお話も大好きなんです。

コメント、ありがとうございました。
今後も、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2021年2月20日 (土) 03時38分

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