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2012年6月30日 (土)

足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦

 

延元元年・建武三年(1336年)6月30日、足利尊氏から京都奪回を試みた新田義貞後醍醐天皇方が敗北する京都合戦がありました。

・・・・・・・・

建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いて、後醍醐(ごだいご)天皇反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)・・・

天皇側につく新田義貞(にったよしさだ)らに敗れて(1月27日参照>>)九州へ落ち延びていた尊氏が、延元元年建武三年(1336年)5月態勢を整えて(3月2日参照>>)再度上洛・・・

これを湊川(みなとがわ)で迎え撃った義貞ら天皇軍でしたが、大軍を誇る足利軍の前に忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)自刃(2007年5月25日参照>>) ・・・義貞も撤退を余儀なくされます(2012年5月25日参照>>)

形勢不利と見た後醍醐天皇は、またまた比叡山へと身を寄せますが、この時、同行した天皇家の方々は、後伏見院(第93代)花園院(第95代=後伏見天皇の弟)豊仁親王(後の光明天皇=後伏見天皇の第2皇子)・・・後伏見院の第1皇子である光厳(こうごん)だけは、比叡山には行かず、東寺に移りました。

そう、光厳院は、未だ鎌倉に幕府のあった時代に、笠置山で挙兵した後醍醐天皇が敗れて隠岐へ流された時(3月7日参照>>)に、幕府によって擁立された天皇で、あの六波羅探題(ろくはらたんだい)消滅の時に、北方を務める北条仲時(なかとき)のそばにいた天皇ですから・・・(5月9日参照>>)

その後、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が再び皇位につくにあたって廃位させられたという経緯があった事から、今回、九州から上洛する尊氏にも、新田義貞追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を下しているのです(4月26日参照>>)・・・そりゃ、一緒に比叡山へは行けませんわな。

・・・で、この光厳院の東寺入りを大いに喜び、東寺を皇居とした尊氏・・・つまり、後醍醐天皇とは別の皇統を抱く、コチラも官軍という事になるわけで、この光厳天皇は北朝初代の天皇ですね。

こうして、京都を制圧した尊氏に対して、比叡山へと去った天皇方は、その後、2度に渡って京都への進攻を試みますが、いずれも失敗に終わり・・・

しかし、ここに来て、比叡山の呼びかけに応えた興福寺が天皇方として参戦・・・士気高まる兵士たちを見て力を得た義貞は、延元元年建武三年(1336年)6月30日3度目の京都進攻をはかったのです。

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舞台となった京都・東寺

本隊と別働隊の2手に分かれて進み、攻撃の合図を見計らう両者・・・しかし、不意に北白河に上がった火の手を、攻撃の合図と勘違いした別働隊は、未だ本隊が動いていないにも関わらず、一気に、東寺の南大門へ押し寄せます。

この時、尊氏の本隊は、坂本からやって来る義貞本隊を迎え撃つべく態勢を取っていたため、東寺は大騒ぎとなりますが、そこに、尊氏の近臣・土岐存孝の息子・悪源太が現われ、一気に敵を蹴散らし、別働隊はやむなく撤退・・・

しかし、そうとは知らぬ義貞は、「攻撃予定の時刻が来た」とばかりに2万の軍勢を率いて攻撃を開始・・・迎え撃つ尊氏軍は20万(たぶん、太平記はオーバーに言ってます)

両者入り乱れる激戦の中で、「今日の合戦が尊氏への雪辱を果たす一戦」と考える義貞が、自ら先頭に立って敵陣深く分け入り
「この矢、受けてみろや!」
と、声高々に名乗りを挙げて、矢を放つと、それが尊氏の近くに着弾・・・

これを見た尊氏も・・・
「俺が挙兵したんは、何も、天皇家を倒そうと思てるわけやない!
義貞をやっつけたいと思ての事・・・アイツとの一騎打ちは俺の望むところや!
さぁ、この門を開けんかい!撃って出たんゾ!」

と・・・

すわっ! 大将同士の一騎打ち!!!
しかし、さすがに、これは周囲の重臣たちに止められ・・・

そうこうしているうちに尊氏軍の勇将・土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)の軍勢が周囲の敵を蹴散らしながら、一気に鬨(とき)の声を挙げた事で、激戦の中で散り々々になっていた足利軍が、一つ所に集結し、義貞らを取り囲んだのです。

「もはや最期の戦い」
と、心に決めて、大軍の中に撃って出る義貞・・・・

この激戦で、後醍醐天皇の隠岐脱出に貢献し、楠木正成結城親光(ゆうきちかみつ)千種忠顕(ちぐさただあき)らとともに三木一草(さんぼくいっそう)と称されて天皇の寵愛を受けていた名和長年(なわながとし)討死しました。

もちろん、義貞も、覚悟を決めます。

・・・と、その時、どこからともなく、後醍醐天皇から賜った衣を切った物を笠符(かさじるし=戦闘時に敵・味方を識別するためにつける目印)とした兵の集団が馳せ参じ、敵兵を追い立てます。

このドサクサにまぎれて、何とかその場を脱出した義貞・・・命からがら、坂本へと引き返す事になります。

この敗北を受けて、協力を誓っていた興福寺は離反・・・周囲を制圧されて補給路を断たれた比叡山は、兵糧の確保もままならなくなり、やがて、和睦を打診して来る尊氏に後醍醐天皇の心は揺れ動く事となるのですが、そのお話は、8月15日のページでどうぞ>>
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2012年6月29日 (金)

老いてもなお…『甲子夜話』を著した松浦静山

 

天保十二年(1841年)6月29日、『甲子夜話』の作者として知られる肥後平戸藩・第9代藩主の松浦静山が82歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

本名は松浦清(まつらきよし)と言いますが、後に静山と号した事から、苗字の松浦と静山を合わせた松浦静山(まつらせいざん)の名前が有名なので、本日は、静山さんと呼ばせていただきます。

松浦静山は、本来なら、第9代平戸藩主を継ぐべきだった父=政信が早世したため、急きょ、第8代藩主であった祖父誠信(さねのぶ)養嗣子となって、その後を継ぐ事になりました。

とは言え、幼い頃は、体が弱く、病気がちだった静山・・・それ故、祖母に、このうえなく可愛がられるおばあちゃんっ子だったようですが、成長して体が丈夫になると、ワル仲間とつるみだし・・・

実は、静山は、長男ではあるものの、母が側室だったので、まさか、将来、自分が藩主になるなんて思ってもみなかったのですね。

しかし、さすがのお祖母ちゃん・・・そこをピシャリと、『意馬心猿』の絵図を静山に見せて諫め、不良仲間から引き離したと言います。

『意馬心猿(いばしんえん)とは、「走り回る馬や騒ぎ立てる猿のように落ち着かない心」の事・・・その様子を仏画にした物を見せて
「人間、このように欲望のままに生きてはイカン!」
と諭したわけです。

やがて藩主になる時も、この祖母は、10項目に及ぶ注意書きを静山に渡し、藩主としての心得を教えたと言いますから、なかなかのスーパーバァチャンです。

こうして安永四年(1775年)3月、16歳にして藩主の座についた静山でしたが、その頃の平戸藩は、大変な財政難でした。

そこで静山・・・身分にとらわれず適材適所に有能な人物を抜擢する一方で、経費を節減するための行政改革を行って倹約を徹底させました。

また、農民の農業離れを防ぐため、貧農への補助を厚くして、備蓄米や金銭、農具の貸出などを行って税収アップを図ります。

さらに、藩校=維新館を建設して、後世の人材育成にも尽力・・・ちなみに、この「維新」という言葉は、古代中国の『詩経(しきょう)の中の一説「維(こ)れ新(あらた)なり」=すべての事が改まって新しくなるという意味から取った物で、明治維新の維新とは出典は同じですが無関係です。

・・・で、この静山の改革が、ことごとく成功して落ち着きをみせた文化三年(1806年)、47歳にして、息子の(ひろむ)に家督を譲って隠居・・・ここから、静山の第2の人生が始まります。

文政四年(1821年)の11月甲子(きのえね:十干と十二支については【庚申待ち】>>のページで)の日に書き始めたので『甲子夜話(かっしやわ)と名づけられた膨大な随筆の執筆活動です。

静山は、これ以降、約20年に渡って、様々な事を書き綴りますが、その内容は、ちょうど田沼意次(10月2日参照>>)から松平定信(6月19日参照>>)へと移行する政治の話から、諸大名や旗本、同僚の武士たちの武勇もあれば失敗談もあり・・・

また、若き頃に自由奔放な生活をしていた事で味わった底辺の庶民たちの日常などを、
「僕が小さい頃の話やねんけど…」
「僕が、まだ若い頃にはな…」
「こないだ、こんな事があってんけど…」
「僕が、チョイと小耳に挟んだ話やねんけど…」

てな、感じで、まさに、現代のブログが如く、自らが体験した事や誰かから聞いた話などを書き残してくれています。

おかげで、現在では、当時の人の風俗や暮らしぶり、考え方などを知る貴重な資料となっています。

もちろん、著作は、この『甲子夜話』だけではなく、
『学剣年表』『剣談』など剣術の事を書いた物・・・
『平戸考』『百人一首解』などの文芸著書などなど・・・

・・・と、剣術の本を書いてるくらいなんだから、さぞや・・・と思いきやビンゴ!!

なんと剣術は田宮流新陰術心形刀流の免許皆伝、他にも弓道柔術馬術砲術などを習得しているというツワモノでした。

それでいて、美人画を集めるのが趣味というオチャメな部分も・・・

やがて、天保十二年(1841年)6月29日静山は82歳でこの世を去りますが、晩年になっても、改革をことごとく成功させた政治手腕や剣術の腕前に見る武勇など、そのスルドさは、まったく衰えていなかったようです。

そんな静山の晩年の逸話があります。

水戸の、あの徳川斉昭(なりあき)が、ある時、信濃松代藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)と、下野黒羽藩主・大関増業(おおせきますなり)(3月19日参照>>) 、そして静山の3人を自宅に招いて会談した時、「その記念に」と絵心のある近臣に、3人揃った肖像画を描かせて、自ら、その絵を『三勇図』と名づけました。

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『三勇図』(松浦史料博物館蔵)…左が大関、真ん中が真田、右が静山です。

そして儒学者であり静山の友人でもあった佐藤一斎に、代讃(画に書き込む詩や文章の代筆)を頼むのですが、その書き加えられた一文は・・・

『老驥伏櫪可畏也(ろうきふくれきかいなり)
「老いた馬が厩(うまや)に伏してる…おそるべし」

もはや年老いて、枯れ木のような見た目ををかもし出しているのもかかわらず、その中に秘めている闘志が恐ろしい・・・という事のようです。

さすがは静山さん・・・最後まで、若き日の精神を持っていたようです。
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2012年6月28日 (木)

勤皇の先駆者・高山彦九郎~謎の自刃

 

寛政五年(1793年)6月28日、寛政の三奇人として知られる江戸時代の思想家・高山彦九郎が自刃しました。

・・・・・・・・・

「寛政の三奇人」奇人とは、今で言う「奇人変人」の奇人では無く、「特に優れた人物」という事・・・

民を救うべき政治論を唱えた林子平(しへい)
海防の重要性を説いた蒲生君平(がもうくんぺい)
そして、
今回の高山彦九郎(ひこくろう)正之です。

Dscf1465a700 京都の三条大橋の東側のたもとに、土下座しているように見える(実際には御所を拝礼している)けっこう目立つ銅像がある事で、名前をご存じの方も多いと思いますが・・・

上野(こうずけ=群馬県)に生まれ、少年時代に『太平記』を読んで勤皇に目覚めた彦九郎は、18歳の時に家出・・・各地を転々としながら、その勤皇思想に磨きをかけていきます。

ただ単に家出して、そこらへんでウロチョロしてるだけなら、人間、成長する事はなかなかに難しいですが、彼の場合は、しっかりとりた思想があり、目標を以っての各地巡歴・・・

名所旧跡を巡りながら、有名な人物や賢者と称される人々と会い、様々な議論を重ねて、自分自身を成長させていったのです。

その交友関係は広く、
寛政の三博士の1人=柴野栗山(しばのりつざん)や、
あの頼山陽(らいさんよう)の父=頼春水(らいしゅんすい)
儒学の大家=細井平洲(ほそいへいしゅう)
水戸学で知られる藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)の父=藤田幽谷(ゆうこく)
『解体新書』(3月4日参照>>)でお馴染の前野良沢(りょうたく)
などなど・・・

京都に滞在した時は、第119代光格(こうかく)天皇に拝謁するチャンスにも恵まれ、ますます勤皇思想を篤くする彦九郎ですが、そんな彼の思想が、幕府の警戒を生んでしまいます。

そう、以前書かせていただいたように、この光格天皇は、江戸開幕以来、久々に、「幕府に物申す」天皇です(11月18日参照>>)

もちろん、そこには、そのページに書いた「御所千度参り」現象に見る幕府体制の揺らぎや、そこをうまく突いた「尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)でのゴタゴタなど、幕府崩壊を予感させるような出来事が起こっていたわけで、その尊号一件に関わっていた中山愛親(なるちか)とも親しかった事から、やはり彦九郎も警戒されたのです。

そんな中でも、各地を巡歴する旅を行っていた彦九郎は、寛政三年(1791年)、京都を離れ、九州へと旅立ちます。

彼にとっては初めての九州ですが、出発前には、薩摩藩や肥後熊本藩への公卿からの伝言を預かっていたという彦九郎・・・そう、これは、九州各地に勤皇思想を教え&広める旅だったのですね。

若い頃は、巡歴の旅で、有名な思想家に会って、自らの思想を高めていた彦九郎ですが、もはや、その巡歴の旅は、勤皇思想を説く立場にあったのです。

小倉から久留米に入り、熊本では有名な思想家たちと論議を交し、次に向かった鹿児島・・・しかし、ここで関所の通過を拒否されてしまいます。

薩摩の学者=赤崎海門(かいもん=禎幹)などに会う事はできましたが、薩摩藩の江戸屋敷にいる面々の警戒に遭い、やむなく、夢半ばであきらめ、日向(宮崎)を経由して、再び熊本へと戻って来ました。

しかも、このあたりからは、幕府の監視もつくようになり、もはや、京都に戻るのも身の危険を感じるような状況になっていたようです。

そんな中でも久留米藩家老の有馬主膳が彦九郎の強い味方であり、城下の医師・森嘉膳宅にいつも身を寄せていた事から、寛政五年(1793年)6月19日、またまた、嘉膳の家にご厄介になりに訪れた彦九郎・・・

しかし・・・
嘉膳の日記によれば、すでに、この時に彦九郎の様子がおかしかったとか・・・

その風貌が異様に変化し、指で歯を鳴らしたりして落ち着かない様子・・・「具合が悪いのか?」と聞くと「暑いだけや」と答えたとか・・・

とりあえず、その場で脈をとり、落ち着く感じの薬を与えて静養させる事に・・・

しかし、滞在から1週間ほど過ぎた6月27日・・・今まで書きためていた日記や、親しい人から贈られた手紙などを、突然、破り始めた彦九郎・・・

「何をするんや!」
と、嘉膳が、門弟の長野十内と二人で慌てて止めに入ると
「狂気也」
と答え、また、指で歯を鳴らしたと言います。

「日頃書きためた日記を末梢してしまうなんてもったいないやん。
僕に預けてくれたら、1冊の本にしたるのに…」

と嘉膳が言うと、
「恨みを残さんためにも、破り捨てたほうがええねん!」
と、また破ろうとします。

そこで、十内が、
「後々、誰かが、アンタの行動を謀反やって言うた時、これらが無くなってたら、どないして無実を証明したらええねん!」
と言うと、ふと、彦九郎の手が止まり、黙って破り捨てるのをやめたのだとか・・・

薬を与えると落ち着いたので、何かと忙しい嘉膳と十内は、少しだけ彦九郎の部屋を離れましたが、その間に、彼は切腹を決行していたのです。

再び部屋に戻って、切腹した彦九郎を発見した二人・・・彦九郎は、二人をそばに呼び寄せると、紙に書いた辞世の句を渡しながら、
「自分が、日頃、忠義やと思ってやった事が、不義や不忠となってしもた。
天が俺を狂わせたんや。
天下の人に宜しく伝えとってな」

と・・・

嘉膳がケガの治療をしようとすると、一旦は拒否しますが、嘉膳が、
「医者がケガ人を見て治療せぇへんかったら、俺が罪に問われる」
と言うと、素直に治療を承諾し、
「ほな、体を京都と上州(生まれ故郷)の方角に向けてくれや」
と・・・

そして、京都の方角を向いて柏手を打ち、そのままの姿勢で動かなかったとか・・・

やがて検視に来た役人に、自刃の理由を聞かれると
「狂気」
と、ひと言だけ答えたのだそうです。

かくして、日づけが変わった寛政五年(1793年)6月28日午前4時頃・・・高山彦九郎は46歳の生涯を閉じました。

そう、実は、彼の死には、今以って謎が多いのです。

自刃の理由には、かの「尊号一件」を成しえなかった事に悲観したとか、薩摩での交渉がうまく行かなかった事に失望したとか、様々に語られますが、それこそ、彦九郎の心の内は彦九郎のみぞ知るところ・・・

しかし、寸前のところで、破られずに残った彼の日記は、吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)をはじめ、この先に維新という一大事業を成し遂げる多くの勤皇の志士たちに影響を与える事になります。

その勤皇思想から、戦前は、二宮尊徳(10月6日参照>>)楠木正成(5月25日参照>>)と並んで、修身の教科書で英雄として賞賛された高山彦九郎・・・

今は、その名を知る人も少なくなりましたが、勤皇の先駆けとして突っ走った彼には、自分自身の有名無名より、多くの後輩たちが維新を成し得た事こそが、自らの生きた証であり、誇れる物であった事でしょう。
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2012年6月27日 (水)

灰になっても…大野治胤の壮絶最期

 

元和元年(慶長二十年・1615年)6月27日、大坂方の大野治胤が堺の町を引き回されたのちに処刑されました。

・・・・・・・・・

ご存じ、大坂夏の陣・・・

元和元年(慶長二十年・1615年)5月8日に、大坂城は炎に包まれて落城し、豊臣秀吉の後を継いでいた秀頼(2007年5月8日参照>>)、その母・淀殿(2009年5月8日参照>>)自害・・・ここに豊臣家は滅亡しました。
(もっとくわしくは【大坂の陣の年表】>>からそれぞれのページでどうぞ)

その後、勝者となった徳川家康による戦後処理は大変厳しい物でした。

家康は底した残党狩りを行い、しばらくの間は、一日につき50人~100人という人数の人たちが、毎日ひっ立てられて処刑されていたと言います。

以前から、度々、このブログで発言させていただいているように、私個人的には、大坂の陣に至るまでの豊臣と徳川は、一般的に言われているような「家康ボロ勝ち」の雰囲気では無かったと思っています。

一般的には、関ヶ原で西軍が負けた事によって豊臣家は徳川配下の一大名に成下がり、勝利した家康がほぼ天下を掌握して、征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた事になってますが、私としては、それは後世の徳川家の言い分で、実際には、この大坂の陣で家康が勝利するまでは、むしろ、豊臣家の方が権威を持っていたのではないか?とさえ思っています。
(くわしくは
関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係】>>
【秀吉が次世代に託した武家の家格システム】>>
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>
【家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事】>>
など、ご覧ください)

だからこそ、大坂の陣で勝利した家康は、徹底的に残党狩りを行い、豊臣方を根絶やしにしなければならなかったのだと思います。

そんな中で、落城時に大坂城を脱出した人たち・・・

落城から4日後の5月12日には秀頼の娘が捕縛され(2008年5月8日参照>>) ・・・さすがに、女の子は尼になる事で命は取られませんでしたが・・・

5月15日には長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が斬首(5月15日参照>>)

5月21日には佐野道可(どうか)こと内藤元盛が切腹(5月21日参照>>)

5月23日には、秀頼の息子で、わずか9歳の国松が斬首されています(10月17日参照>>)

そう、つい先日書かせていただいたように、落城時に脱出した主要人物の中で、逃げ切った?のは明石全登(あかしたけのり・景盛)ただ一人とも言われています(2012年5月8日参照>>)

さらに、脱出組ではなくても・・・
5月27日には増田長盛(ましたながもり)が自害し(5月27日参照>>)6月11日には古田織部(おりべ)が切腹(6月11日参照>>)・・・もはや、例え徳川方であっても、ちょっとでも疑わしき人は、生きてはいられない状況だったのでしょうか?

そんな中、やはり、落城する大坂城から脱出を図ったのが、本日の主役・大野治胤(はるたね)・・・彼は、合戦の時に大坂城内を仕切っていた大野治長(はるなが)です。

ご存じのように治長は、淀殿の乳母だった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子・・・つまり、淀殿とは乳兄弟の間柄で、その信頼を一身に受けており、大坂の陣当時、城内の主軸となっていた人で、秀吉の遺言により、秀吉亡き後には家康と結婚する事になっていた淀殿を奪った(12月16日参照>>)なんて話も・・・故に、もし秀頼の父親が秀吉で無かった場合に、真っ先に、本当の父親として名前が挙がる人(8月3日参照>>)でもあります。

そんな大野兄弟は、乳母の息子以外に、はっきりした出自のわからないところもありつつも、この大坂の陣において活躍した事は確か・・・

ご存じのように、長兄の治長は、秀頼&淀殿に最後まで従い、ともに自刃して果てますし、次男の治房(はるふさ)は、かの国松を警固するという重要な役目を任されて、ともに大坂城を脱出しています・・・結局は捕縛されて処刑されてしまいますが・・・
(ただし、四男の治純は徳川方です…(4月19日参照>>)

・・・で、そんな大野兄弟の三男の治胤さん・・・すぐ上の兄・治房とともに、秀頼の小姓として仕えていましたが、なかなかに個性的な人で、周囲とぶつかる事が多く、一時は道賢(どうけん=道犬)と号して、何やらフラフラしていた時代もあったとか・・・

なので、文献によっては大野道賢あるいは大野道犬という名で登場する場合もあります。

大坂冬の陣では、豊臣方の水軍の指揮を任されていたと言いますが、天候不順により思うような成果が出せず、野田福島の合戦(11月29日参照>>)で手痛い敗北を喰らってしまいます。

この事で、やはり同じ野田福島の合戦の時に遊郭に遊びに行っていて砦を奪われてしまった薄田隼人(すすきだはやと=兼相)(5月6日参照>>) とともに、「橙武者(すっぱい橙は食べるより正月飾りに使う事から、見かけ倒し的な意味)なんて、ありがたくないニックネームを頂戴する事となってしまいました。

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新鴫野橋から見た大阪城天守閣

やがて訪れた大坂夏の陣・・・ここでは、塙団右衛門(ばんだんえもん)とともに、4月29日の樫井の戦い(4月29日参照>>)に出陣した治胤ですが、その途中で、通過した堺の町を焼き打ちにしてしまった事が、彼の死に様を変えてしまう事になるのです。

その樫井の戦いでは、団右衛門が討死する中、とか大坂城に逃げ帰った治胤でしたが、結局、徳川方の総攻撃によって大坂城は落城・・・

城から脱出して、京都方広寺に隠れていたものの、やがて発見されて捕縛・・・

そう、ここで、堺の町衆が、治胤の身柄を引き渡してくれと願い出るのです。

先の樫井の戦いを前にした焼き打ち・・・この焼き打ちで堺の町は焦土と化し、多くの一般市民も巻き添えを喰っていたのです。

この時の炎で家族を失った者たちの恨みは、当然の如く治胤に注がれるわけで・・・

かくして元和元年(慶長二十年・1615年)6月27日堺の町を引き回された後、処刑される治胤・・・

一説には、引き回しの後に京都三条河原で斬首されたと言いますが、一方では壮絶な最期を物語る逸話も残っています。

その伝説によれば、近くの浜辺の並松広場という場所にて、堺の町衆によって火あぶりの刑に処せられたと・・・

渦巻く炎は、治胤の体どころか磔(はりつけ)られた柱さえも黒コゲにしてしまうほどの勢いで燃え盛り、やがて一つの炭の固まりとなって火は消えます。

その時、炭と化した治胤の遺体を確認しようと1人の男が近づいたところ、いきなり治胤の体が動き、その者の脇差を引き抜いて、近くの者の腹に一突き!!!

こうして見物人を1人道連れにした直後、治胤の体は灰のようにパラパラと崩れ落ちたのだとか・・・

さすがに、そのままには信じ難い壮絶な最期ですが、この話は江戸中期に成立した『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)にも登場し、どうやら、武士たちの間ではまことしやかに語られていたようです。

あまり史料の多くない治胤さんですが、その死に様は、多くの人の心に刻まれたという事なのでしょう。
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2012年6月26日 (火)

世界一有名な日本庭園…龍安寺の石庭が完成

 

明応八年(1499年)6月26日、応仁の乱で焼失していた龍安寺の方丈が細川政元の援助により再建・・・有名な石庭が完成しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と言っても詳細は不明なんですがね・・・

今回、龍安寺を再建した細川政元(まさもと)さん(6月23日参照>>)・・・そのお父さんは、あの応仁の乱東軍の大将だった細川勝元です。

その勝元さんが、室町幕府の管領だった時代に、平安時代の貴族・徳大寺家の山荘を譲り受けて妙心寺義天を開山に招いて創建したのが龍安寺(りょうあんじ)です。

つまり、龍安寺は妙心寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属するお寺)なのですね。

しかし、ご存じのように、「焼失を免れたのは千本釈迦堂だけ」と言われるくらいに京都市中を焦土と化して市街戦を展開した応仁の乱(5月28日参照>>)で、この龍安寺も焼失してしまいます。

ちなみに余談ですが、応仁の乱で千本釈迦堂(大報恩寺)だけが無事だったのは、西軍の大将であった山名宗全(そうぜん=持豊)(3月18日参照>>)の祖父の氏清を祀るお堂が境内にあった事で、宗全が「お前ら、ここ焼いたら承知せんゾ!」と特別の睨みを効かせていたらしく、都中が焼け野原となった中で、千本釈迦堂だけがポツンと建っていたと言われています・・・ま、柱に刀傷は残ってますが・・・

・・・で、その東軍の将だった勝元の息子である政元が資金を提供し、明応八年(1499年)6月26日龍安寺の方丈が再建されたわけですが、例の有名な石庭が、この方丈の庭園なので、詳細は不明ではあるものの、おそらく、この石庭も、その時に完成したんじゃないか?って事なのです。

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龍安寺・石庭…ちなみにうしろの築地塀は奥の角にいくほど低くなっていて、遠近法による錯覚で庭を広く見せる工夫がされています。

石庭は、いわゆる枯山水庭園と呼ばれる物ですが、実際の水を使わずに、石組や樹木で島や山を表し、小石や砂で海や川を、石や砂の波紋で水の流れを表した庭園で、平安時代から鎌倉時代に流行した池をめぐる回遊式庭園が造られる一方で、室町時代頃から、特に禅宗のお寺で盛んに造られた庭園です。

流行した背景には、この頃に侘びさびの精神が好まれた事と、ちょうど同じ頃に流行した中国生まれの山水画の雰囲気を庭で表現しようとしたのでは?と言われています。

龍安寺の方丈にある石庭は、幅22m、奥行10mほどの敷地内に白砂を敷きつめ、そこに15個の石が、7つ、5つ、3つに固まって配置されています。

なので、古くから「七五三の庭」と呼ばれたりもしたそうです。

この15個の石は、すべてを同時に見る事ができず、見る場所によって見え方が違う・・・

「いったい、この庭は何をあらわしているのだろう?」
と、縁側に座って物思いのふける、恰好のテーマを投げかけていて、今では、その縁側のふちがすっかりすり減っていて、いかに、多くの人が、ここで物思いにふけったかが想像できます。

しかし、おそらく、いくら時間を費やしても、その答えは出て来ない・・・なんせ、見る角度によって見え方が違うし、見る人によっても感じ方が違う・・・

とは言え、それを言いかえれば、「答えが無い」というのが答え・・・

すべての物に、絶対や正解や完全があるわけではなく、ひょっとしたら、永遠に答えの出ない物、完成形にならない物に対して、無理やり完成させて答を出そうと焦らずに、「そういう物も世の中にはある」という事を悟らせようという、作者の魂胆かも知れません。

と言っても、その昔は、この龍安寺の石庭も、それほど有名ではありませんでした。

もちろん、龍安寺は大きなお寺ですし、豊臣秀吉など、歴代の権力者にも保護されて来ましたから、知ってる人は知ってる由緒正しきお寺だったわけですが、昭和五十年(1975年)に日本を訪れたイギリスエリザベス女王が、また、哲学者として知られるサルトルが、この石庭を見学して、その見事さを絶賛!!!

そのニュースを聞いた日本人が、改めて日本の美を再確認したばかりか、世界に配信された事で、この龍安寺の石庭は、世界一有名な日本の庭園となりました。

今では、龍安寺を訪れるほとんどの方が石庭を見に来る状況となってますが、石庭だけを見て帰っちゃった方・・・いませんか?

非常にもったいないですよ!

この龍安寺には、池を中心にした、見事な回遊式庭園もあります。

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龍安寺・池回遊式庭園

この庭園は、戦国時代に龍安寺を保護した、かの秀吉が「自分の許可なく木を切るな!」なんて事を言ってたくらい大のお気に入りだった庭園なのです。

四季折々に咲く花々に彩られる庭は、特にハスの花が有名で、水面に咲くピンクの花と、岸辺から水面に映り込むツツジやアヤメのコラボは、言葉にできないほどです。

龍安寺に行った時は、石庭の前で物思いにふけった後、是非とも、池の周りを1周してから、帰ってくださいね。

*龍安寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「きぬかけの道」でどうぞ>>
 .

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2012年6月25日 (月)

日本美術の救世主=フェノロサと岡倉天心

 

明治十七年(1884年)6月25日、フェノロサと岡倉天心が法隆寺夢殿の救世観音を調査しました。

・・・・・・・・

ハーバード大学で政治経済を学んだアーネスト・フェノロサが、先に来日していた動物学者=エドワード・シルヴェスター・モースの紹介で日本にやって来たのは、明治十一年(1878年)の25歳の時でした。

明治の初めに新政府が、外国に追いつき追い越せとばかりに、積極的に西洋文化を取り入れようと外国から招いた、いわゆるお雇い外国人の1人ですね。

Fenollosa600 来日後は、東京大学にて政治経済や哲学を講義する毎日で、彼は決して美術の専門家ではありませんでしたが、もともと油絵やデッサンの経験もあった事から、いつしか、日本美術の独特な雰囲気に魅了されていくようになるのです。

しかし、ご存じのように、明治初年の日本は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐・・・

維新の中で近代化&欧米化が推し勧められ、襖絵や錦絵などは美術的価値の無い物として二束三文で売り払われたのが現実でした。

神仏が分離された後に、天皇家に通じる神道は良かったものの、仏教に対しては廃絶運動なども起こり仏閣は徹底的に破壊される憂き目に遭ったのです。

しかし、すぐに、その弊害に気づいた明治新政府は、明治四年(1871年)に『古器旧仏保存方』を発令して、近畿地方を中心とした文化財調査を行ったりしたおかげで、そんな風潮は、わずか数年で見直されはじめますが、今現在でも、たとえば、「鹿児島県には重要文化財に指定される仏像が1体も無い」という結果になってしまうほど、特に勤皇運動が激しかった場所には、多くの傷跡を残した出来事でした。

以前、「一時期、この日本に奈良県が無かった」というお話を書かせていただいた時の、荒廃した奈良の姿も、この頃のお話・・・(11月4日参照>>)

・・・で、そのページでも書かせていただいたように、そんな奈良県復活の救世主とも言える人物となったのが、このフェノロサと、当時は、彼の通訳兼助手をしていた文部省職員の岡倉天心(てんしん)(10月15日参照>>)だったのです。

日本美術に深い関心を寄せたフェノロサは、助手の天心とともに、全国の古寺を訪ねて美術品や宝物の調査に当たったのです。

そんな中で訪れたのが、奈良県斑鳩(いかるが)にある法隆寺・・・

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法隆寺・夢殿

法隆寺の中の夢殿という建物には、古くから救世観音菩薩立像(くぜかんのんぼさつりつぞう)という仏像が安置されていましたが、この仏像は、布でぐるぐる巻きの覆われた秘仏で、寺の僧侶さえ、その姿を見た事が無く、「その布を外せは、この世が終わる」という言い伝えがあり、誰も、その布を外した事が無いというシロモノでした。

現に、その16年前に、1度調査しようとしたところ、一転にわかにかき曇り、雷鳴が轟いた事で、中止となっていたのでした。

天変地異を恐れて断わり続ける僧侶らを説得し、何とか、秘仏を開く事になったのが、明治十七年(1884年)6月25日・・・

いよいよ布を開く段階になると、恐れた僧侶たちは姿を消したと言いますが、ぐるぐる巻きの覆われた布の中から現われたその姿は、見事に黄金に輝く、すばらしい仏様でした。

聖徳太子の姿をうつしたという仏様は、独特の神秘的な中に、やさしくも厳しい表情を浮かべ、飛鳥時代の人々の思いが伝わって来る・・・その感動を抑えきれないフェノロサと天心でした。

もちろん、この世の終わりが訪れる事もありませんでした。

それどころか、
改めて、日本美術のすばらしさと、それを保護し、未来へと残して行かねばならない大切さを痛感する二人・・・

以来、二人が調査に当たった社寺は60ヶ所以上、美術品・宝物は440品目に及ぶと言います。

以後、彼らの尽力によって、近代的な文化財保護と修復・修理の体制が、急速に整備されていく事は言うまでもありません。

まさに、日本美術を救ったお二人なのです。

*現在、救世観音は、春と秋の2回、特別公開が行われます。
くわしい行き方は、本家HP
奈良歴史散歩「いかるがの里」でどうぞ>>
 .

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2012年6月23日 (土)

小田原攻めで最も悲惨~八王子城の怖い伝説

 

天正十八年(1590年)6月23日、豊臣秀吉による小田原征伐にて、八王子城が陥落しました。

・・・・・・・・・・

天正十八年(1590年)3月より開始された豊臣秀吉による小田原征伐・・・(3月29日参照>>)

その中で、前田利家を総大将とする上杉景勝(かげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らの北国連合隊は、天正十八年(1590年)6月23日に、小田原城の支城である八王子城に猛攻を加え、その日の内に陥落させてしまうわけですが、

この八王子城攻略戦が小田原征伐の中でも、最も悲惨な戦いとなった事は、2009年6月23日のページ>>で書かせていただきましたので、戦いの敬意についてはソチラでご覧いただくとして、

本日は、その後日談・・・というか、

あまりにも悲惨な戦いであった故に語られる様々なウワサ・・・
ちょっと早い、初夏の怪談話という事になるのかも・・・

・‥…━━━☆

もちろん、合戦に、悲惨で無い合戦なんて無いわけで、いつの時も、多くの血が流れるわけですが、この八王子城が特別だったのは、そこに籠城していた人たちの中に、多くの非戦闘員の婦女子が含まれていたという事と、それらの人が、ほぼ全員死亡したという事でしょう。

以前のページでも書きましたように、この小田原征伐の時、八王子城を含む、各支城の城主や精鋭たちは、皆、本城の小田原城を死守すべく、ソチラで籠城していたために、この八王子城に籠城するメンバーも、わずかに残った城兵と、それだけでは足らないために急きょ集められた領民や、その家族で形成されていたのです。

まぁ、以前、【価値観の相違】に関してのページ>>でチョコッと書かせていただいた通り、戦時下では、たとえ女子供であっても、いつでも戦闘員に成り得るのですから、命賭けて戦ってる当事者にとっては、籠城してる以上、全員が戦闘員という考え方もある事は確かですが・・・

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八王子城・絵図

とにもかくにも、急きょ集められ、はなから、豊臣側のプロの戦闘員とは、到底、まともに戦える状況では無かったと思われる八王子城内の籠城組・・・

押し寄せる大軍の中で、落城も間近になった時、この八王子城の城主・北条氏照(北条氏政の弟の正室はじめ、多くの婦女子たちは、
「敵方に捕えられて生き恥をさらし、夫や息子たちの迷惑になってはいけない」
とばかりに、屋敷の建っていた御主殿曲輪の南東に位置する滝へと、次々と身を投げたのです。

その、あまりの人数の多さに、滝から、城下に向かって下って行く城山川の水は、その日から三日三晩、血で赤く染まったとか・・・

それでも死に切れず討ち取られた者は首をはねられ、その首は、小田原城に籠る父や夫の戦意喪失を図るべく、これ見よがしに小田原城外に晒されたと言います。

やがて、それから12日・・・ご存じのように、本城・小田原城が開城されます(7月5日参照>>)

しかし、その後まもなく、いや、すぐに・・・
様々な噂が語られはじめる事になります。

あの日、三日三晩、血で真っ赤に染まった城山川も、いつしか以前の清流となって、また新たな時をきざみます。

しかし、どうした事か・・・
領民が、この川の水で米を研いで焚くと、なぜか真っ赤なご飯ができあがる・・・以来、領民たちは、毎年6月23日になると、赤飯を焚いたと言います。

もちろん、祝いではなく、亡くなった人への鎮魂の意味を込めて・・・

また、陥落後しばらくしてから、この城山川には大量の(ひる)が発生したと言います。

しかも、その蛭は、領民たちが川に入っても何事も起こしませんが、加賀や越後や信濃の出身者が入ると、一斉に足に吸いつき、その血をを吸うのだとか・・・

また、川べりの草むらでは蜘蛛をよく見かけるそうですが、この蜘蛛の中に、子持ちの蜘蛛が多数いて、それは、幼いわが子を抱いて滝へと身を投げた、氏照の側室・お豊の方の生まれ変わりであると言われ、見つけても、決して、殺してはならないのだと言います。

北条の後にこの地を治めた徳川家康によって、八王子城は廃城となりますが、これらの伝説は21世紀になった今も語り継がれ、現在でも、八王子城跡は、何やら不思議な事が起こる心霊スポットとされているそうです。

Uziterukun500b そんなオドロオドロしいイメージを払拭させるべく任務を負って登場したのが、八王子城の宣伝部長「うじてるくん」→

明るく楽しく八王子城をPRしてくれる、いわゆる「ゆるキャラ」です。

私も、城跡や古戦場は大好きで、よく出かけますが、多くの武将たちが命を落としたその場所に立っても、そこが心霊スポットだとか、怖いとかってイメージを抱く事はありません。

以前、京都の養源院で、関ヶ原の時の伏見城攻防戦で壮絶な死を遂げた鳥居元忠(もとただ)(8月1日参照>>)らの血で染まった「血天井」を見学させていただいた時のお話をしましたが(7月19日参照>>)、まさに、それです。

明日をも知れない戦国の世で、大事な物を守るために散っていった彼らの霊は、尊敬の対象でこそあれ、怖がる存在ではなく、国を守るために命を賭ける事は、誇りでこそあれ怨みではないような気がするのです。

一つ歯車が違えば、彼らが勝者となったかも知れない・・・戦乱にあけくれた時代の人々は、勝つ事、負ける事を、もっと冷静に、したたかに見ていたような・・・

そこには、恨みつらみより、もっと大事な、彼らの思いがこもっているような気がしてなりません。

まぁ、苦しい言い訳&勝手な思い込みかも知れませんが・・・
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2012年6月21日 (木)

徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末

 

天和元年(1681年)6月21日、徳川綱吉越後高田藩で勃発した越後騒動の詮議を開始しました。

・・・・・・・・・・・

徳川家康の次男=結城秀康(11月21日参照>>)を祖に67万石を領していた越前北ノ庄(福井藩)でしたが、例の、秀康の息子=松平忠直の一件(6月10日参照>>) で、忠直の息子=松平光長(当時は仙千代)越後高田藩26万石に転封となり、逆に、高田藩だった忠直の弟=松平忠昌越前へと入りました。

とは言え、上記の通り、光長の父は家康の孫であり、母の勝子も、2代将軍=徳川秀忠と正室=(ごう=於江与)の娘ですから、高田藩が御三家に次ぐ名門である事に変わりはないのですが・・・

そんな高田藩は、江戸で暮らし続ける主君に代わって、国家老小栗正矩(おぐりまさのり)荻田主馬(おぎたしゅめ)藩政を取り仕切っておりました。

しかし、その光長の後継ぎ息子=綱賢(つなかた)が、男子をもうけないままで亡くなってしまった事から、後継者問題が勃発します。

この時、光長はすでに60歳・・・この時代、さすがに、これから世継ぎを作るなんて事は到底考えられるはずもなく、後継ぎは、光長の異母弟や甥たちから選ばれる事になるのですが、最終的に絞られた候補者は二人・・・

光長のすぐ下の弟=永見長頼(ながみながより)の息子=万徳丸(綱国)か、2番目の弟=永見長良(ながよし=大蔵)か・・・
(ちなみに、永見は祖父の結城秀康の母方の姓で、弟たちは松平ではなくコチラを名乗っていたとされます)

しかし、年が離れた弟とは言え、すでに60歳の光長の弟である長良は、もう40歳・・・それに比べて、弟のさらに息子と言えど万徳丸は15歳の伸び盛り・・・

って事で、当時、1番に発言権のあった正矩の強い推しで、世継ぎは万徳丸に決定し、時の将軍=第4代・徳川家綱の一字を取って綱国と名乗りました。

当然、不満が残ったのは長良のほう・・・長良は正矩を恨み、自らの一派を「御為方(おためかた)、正矩一派を「逆意方」と呼んで敵対する事になるのです。

その後、とりあえずは後継者が決定した事で、つかの間の平穏ではありましたが、当然、恨みの炎は消える事無く、やがて延宝七年(1679年)正月とうとう爆発します。

実は、田畑の開墾や殖産興業を推し進め、藩の財政立て直しに腕を奮う敏腕家老の正矩ではありましたが、そのぶん、費用捻出のために増税したり、少しばかり派手好みの生活ぶりだったりした事で、藩内でも、彼の事を快く思わない者も少なからず・・・

しかも、彼は、自らの息子を後継者にしようとしているという噂もあったのです。

そう、正矩の奥さんは光長の妹だったのですね・・・なので、その奥さんとの間にもうけた正矩の息子も、後継者の候補である事になるのですよ。

そんなこんなの不満が溜まった御為方890名が、正矩の隠居を要求する誓詞を、主君=光長に提出・・・しかも、長良を大将に主馬らも従った武装集団・約530名が、正矩の屋敷を取り囲むという騒ぎに・・・

やむなく、正矩は隠居を決意し、家督は息子が継ぐ事としたました。

こうして、延宝七年の騒動は御為方の勝利に収拾がついて・・・と言いたいところですが、まだ、なんやかんやとくすぶってる中、光長は自体の流れを、大老の酒井忠清(さかいただきよ)に報告します。

すると、忠清は
「藩の執政たる者、周りに敵を作るくらいの勢いが無かったらアカンやん・・・それに、もう隠居して慎んでるんやし、良かったやん」
と、正矩を擁護するかのような発言・・・

これを聞いた正矩ら逆意方は勢いづき、
「御為方こそ偽物の忠義やんけ」
と言い始め、これに反発する長良ら御為方が、またぞろ怒涛を組んで藩内で騒ぎを起こし、事態は、またまた混乱状態となります。

再び混乱が起きた事を知った光長は、長良ら御為方の主だった者を江戸に呼び、話を聞こうとしますが、この江戸行きに関しても、江戸にいる同志と連絡を取って、何やら企む長良らに、
「彼ら=御為方の方に騒ぎの原因がある」
と見た忠清は、江戸にやって来た彼ら御為方の面々を、萩藩や松江藩の預かり処分としたのです。

つまり、正矩ら逆意方の逆転勝利となったわけです。

おぉ、これでやっと話は終わるか・・・と思いきや、御為方は、
「これは正矩が、大老にワイロを贈って得た片手落ちの判決」
と言って譲らず、まだまだ、修まりそうにありません。

さらに、ここに来て、大どんでん返しとなる事態が・・・

Tokugawatunayosi600 そう、第4代将軍の家綱が死去し、第5代将軍に、あの徳川綱吉が就任したのです。

ご存じの方も多いでしょうが、亡くなった家綱に子供がいなかった事から、幕府内では、あの鎌倉幕府の時の源実朝(さねとも)(1月27日参照>>)の前例を持ち出して、「公家から将軍を迎えよう」なんて話があったとか無かったとか・・・

今では否定的意見も多い宮将軍の話ですが、これを推していたのが、大老・酒井忠清・・・

しかし、その話が無くなって、第3代将軍=徳川家光の4男=綱吉が、家綱の養子となって第5代将軍になったという事は・・・そう、忠清は、見事に失脚する事になります。

しかも綱吉は、直後に病死した忠清を
「本当に病死したか墓を掘り返して確かめろ」
と墓を暴かせたり、なんだかんだと難くせつけて、酒井家を改易に追い込んでいます。

綱吉にとって、そこまでにっくき忠清が判定した越後のお家騒動・・・そのままにしておくはずがありませんよね。

かくして、事実を再調査するとして、天和元年(1681年)6月21日・・・長良、主馬、正矩らを江戸城大広間に呼びだし、紀伊・水戸・尾張の御三家、忠清に代わって大老となった堀田正俊などの重臣が居並ぶ中、越後騒動の詮議が開始されたのです。

てか、もう結果は見えてるやろ!

案の定、翌日=6月22日に下された裁断は・・・

正矩は切腹、長良・主馬は八丈島への流刑・・・以下、多くの関係者が厳しい処分を受けたほか、藩主の光長も、領地を治める事ができずに家臣同士の騒動を招いたとして、所領を没収のうえ伊予松山藩への預かり、綱国も備後福山藩への預かりとなりました。

しかも、このとばっちりは一門にも・・・以前書かせていただいた従兄弟の松平直矩(なおのり)さんが5回目の引っ越し(4月25日参照>>) となり、同じく従兄弟の松平近栄(ちかよし)3万石から1万5000石に減封となっています。

なんだか、騒動の再調査というより、新将軍の威光を高めるがための再審議だったような・・・
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2012年6月20日 (水)

豊臣秀吉を驚愕させた幻術師:果心居士

 

天正十二年(1584年)6月・・・

1人の男が、豊臣秀吉に召され、大坂城へと赴きました。

かねてより噂のこの男に会いたくてたまらなかった秀吉は、男の言うがままに人払いをし、部屋には二人っきり・・・

「何が始まるのか?」と、ワクワクする秀吉・・・

やがて部屋が暗くなり、その闇の中に1人の女の姿が現われます。

その女の顔がハッキリと見える段階になった途端、秀吉はワナワナと震えだし、体中から汗がほとばしります。

実は、その女性は、秀吉が、未だ若かりし頃、戯れに通りすがりの火遊びをして捨てた・・・しかも、若気の至りで殺してしまった女性だったのです。

若い頃のいち時の過ちとは言え、その女の最期の顔は、秀吉の脳裏から一生離れず、事あるごとに思い起こしては悔やんでおりましたが、それこそ、そんな話、誰にもした事が無かったわけで・・・

「やめろ!はよ。やめんか!」
絶叫する秀吉・・・

女が顔を近づけて来て、怯える秀吉を覗きこむように・・・
「どうかしましたか?」
と、声を発したのは女でも、その声は、かの男の声・・・

慌てて我に返った秀吉・・・
「コイツを殺せ! 生かしとしたらアカン!
すぐに磔
(はりつけ)にするんや!」

哀れ男は、磔柱に縛りつけられ、その日のうちに処刑される事になりましたが、その寸前・・・大勢の役人の前で、その姿を鼠に変えたと思いきや、上空に飛んでいたトンビが、その鼠をくわえて、刑場からおさらば・・・

どこへともなく姿を消したのでした。

・‥…━━━☆・‥…

天正十二年(1584年)6月という事だけで、厳密な日づけがわからないため、とりあえず本日書かせていただきましたが、この摩訶不思議な伝説を残すこの男が、果心居士(かしんこじ)と呼ばれる幻術師であります。

上記の処刑の記述から、この時に死んだという説もあるものの、複数の文献に残る逸話は摩訶不思議な物ばかりで、当然、生年も没年も本名もわからず、架空の人物だとも言われています。

安土桃山時代に成立した説話集『義残後覚』によれば・・・

筑紫(つくし=福岡県西南部)に生まれた果心居士は、一旗あげようと上方へと上り、まずは伏見へやって来たところ、ちょうど薪能が行われいて、「何とか見たいな」と思う反面、周囲は大混雑でよく見えない・・・

「それならば…」
と群衆の最後尾に立って、アゴをグッとひねると・・・なんと、みるみるうちに顔が細長くなっていき、最終的に2尺(1尺=30.3cm)ほどの長さになって、上や下へと移動して無事に薪能を観賞・・・

「60cmて…デカッ!」てか、横で、そんなんされたら、もはや、周りの観客は、薪能どころやありませんがな!!!

「なんちゅー化け物や!」
「あの世への土産話ができた!」
と周囲は大騒ぎ・・・今ならさしずめTwitterの嵐、あの「バルス」の1秒間に8868ツイートに匹敵するほどの大ごととなり、果ては、薪能の演者までもが、楽屋から出て来て、彼を見る始末・・・

「こうなったら、楽しまれへんし、もう、飽きたし…」
と、掻き消すように姿を隠して、その場を去ったのだとか・・・

また、以前、広島にて借金を踏み倒していた商人に、京の都でバッタリ出会った時は、
「こら、金、返さんかい!」
と迫られるやいなや、自らの顔を、まったく別人の顔に変え、
「人違いですやん」
と言って逃げ切ったり・・・

また、ある時、無双の猛者と称する武士と兵法の話で盛り上がり、
「ならば、その腕を見せてくれ」
という話になり、四方に戸を立てた、いわゆる、密室となった十二畳ほどの座敷に、その武士の弟子7人が果心居士を取り囲む中、いきなり、その姿を消します。

驚いて
「果心居士!」「果心居士!」
と、その名を呼べば
「ここに、おるで~」
と声がする・・・

「縁の下か?」
と、畳をあげて床板はずして確認するも、そこにはおらず・・・

もちろん、周囲は密閉されたままで、座敷にはチリ一つなく・・・

「不思議やなぁ」
と、周囲があきれ返っていると
「…で、さっき、僕の名前呼んでたけど、何か用?」
と、座敷のドまん中に突然登場・・・

「こら、千人おっても、一万人おっても、どうもならんな」
と、その猛者も平伏したとか・・・

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玉箒木(たまははき)に描かれた幻術を披露する果心居士

そんな果心居士が、有名人と接触する事になるキッカケは、あの奈良の名所=猿沢の池・・・

興福寺の参拝者で賑わうこの場所で、巧みな口上で見物人を集めた果心居士は、皆の目の前で、手に持った木の葉を池に向かって投げいれます。

すると、あら不思議・・・その葉っぱは、またたく間に鯉に姿を変え、池を泳ぎ始めたのです。

驚愕する見物人一同ですが、当然、中には、難クセつけるクレーマーもいるわけで・・・

「どんなトリック、つことんねん!」
と、その顔近づけて詰め寄る男の口に、持っていた楊枝を差し出し、そっと前歯をひと撫で・・・すると、男の前歯は、今にも抜け落ちんばかりにブラブラ状態になり、男は慌てて口を押さえます。

と、この様子を見ていたのが、主君=三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)から、大和(奈良県)一国を与えられて、多門城なる城を構築したばかりの松永久秀(12月26日参照>>)・・・

「これは戦術に使える!!」
と思った久秀は、即座に果心居士に声をかけ、自らの多門城に招き入れます。

以後、度々、果心居士を呼び寄せては、その幻術の話やら、兵法の話やらに興じる久秀が、ある時
「数々の修羅場をくぐって来た俺には、怖いもんなんかない!
そんな俺が、本気で怖いと思う物を見せる事できるか?」

と、果心居士に問いかけます。

なんせ、久秀は、あの織田信長から、
「俺より悪人」
と言われた人(10月10日参照>>)ですから・・・

すると、なにやら、「ちょっとゴソゴソするヨ」と、中国は広島生まれのゼンジー北京よろしく、準備にとりかかった途端、にわかに辺りが暗くなり、久秀の目の前に、1人の女・・・

「今夜は、他のオナゴのところにお泊りでしょうか?」
なんと、それは、久秀の浮気を悩みつつ、すでにこの世を去った彼の正室だったとか・・・

って、秀吉のパターンとかぶっとるがな!

・・・で、そんな噂が噂を呼んで、冒頭の秀吉からのお呼び・・・となるわけです

幻術師とも忍者とも言われる果心居士・・・彼は、この術で、どこかの大名のもとに仕官する事を夢見ていたとも言われますが、どうやら、その夢だけは、彼の術を以ってしても叶えられなかったようで・・・

残念ながら、果心居士の存在は、正式な場には登場しない謎の人という事で、歴史の闇の中に消える事となります。
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2012年6月19日 (火)

アンケート企画「関ヶ原の戦いに持って行くとしたら?」の結果発表

お待たせしました!

最新アンケート
「関ヶ原の戦いに、持って行くとしたら??
の結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
と行きたいところですが、予想通り、「その他」がものすごく多くて、それこそ、「持って行きたい物は人それぞれ」って感じではありますが、ある意味、それもオモシロイ「結果」です。

なので、今回の結果発表は、とりあえず「選択肢の中では1位・2位」ってな感じとともに、「その他の楽しい意見をご紹介する」という雰囲気で参りましょう。
 .

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>  (別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
11票
「関ヶ原」(司馬 遼太郎:著)上下巻
実際との違いを確認するもヨシ、ちょいとイタズラ心をそそられるアイテムとして、地味な存在のワリには1位でした。
2位
8票
天体望遠鏡
やはり、「狸のオッチャンの表情を見たい」という事に尽きますね。
3位
4票
自転車(MTB)
携帯電話
懐中電灯
チャッカマン

使い方次第でおもしろくなるアイテムが揃いましたね…特に写真や動画も写せる携帯電話は∞
7位
3票
手持ち花火セット
相手をびっくりさせるアイテムとしては手軽で有効…見つかっても逃げられそうだし。
8位
2票
地図
便利さとともに、「精密な布陣図を作れる」という副産物もあり。
9位
1票
防犯ブザー
三つ葉葵の印籠

軍手

「使い方はあなた次第」なアイテムですね…ま、軍手はケガをしないためには有効です。
12位
0票
バンドエイド
残念ながら賛同を得られませんでした…「こんなので治る傷なんか、へでもないぜ!」てな猛者が多くいたという事でしょう。
その他 32票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他  双眼鏡です。(50代/東京)
「全体を見渡すには天体望遠鏡より双眼鏡かも…ですね」
その他 マキロン。破傷風で亡くなるはずの人たちを助ける。(男性/20代/秋田)
「なかなかに便利です」
その他 ビデオカメラ。戦の実況を撮りたい!(女性/10代/【海外】)
「すごいドキュメンタリーになりそうです」
その他 缶ビール:一杯やりながら...(男性/30代/大阪)
「完全に観戦ムードですが、それが正解かも」
その他 ひねくれた考えでマジックの小道具持って行って両軍を驚かしたいです。 あわよくば歴史に残りそうだし(男性/20代/東京)
「仙人として記録されるかも」
その他 どこでもドア~やっぱりいざとなったら逃げ出さないと!(女性/40代/山口)
「秘密道具はやはり捨て難いですか?

天体望遠鏡

選択肢の中ではこれしかない。(男性/30代/千葉)
「表情の変化も読み取れ創ですからね。」
「関ヶ原」
上下巻
小早川さんの陣中に届けてみたい(男性/50代/埼玉)
「東軍につくのをやめるかも…てな事になったらエライこってす!」
その他 拡声器、ハウリングで敵を驚かせる(?)もまたよし(男性/30代/大阪)
「伝令役に抜擢されるかも…です」
その他 カロリーメイト(男性/40代/三重)
「栄養の確保は大事ですね」
天体望遠鏡 敵陣の様子が見たいので望遠鏡でお願いします。(男性/20代/滋賀)
「やっぱり狸のオッチャンですか?それとも…ミッチャンの方?」
その他 被り物!(馬とか仏像とかの) それをかぶって高笑いしながら合戦最中のド真ん中を駆け抜けたい!(女性/40代/千葉)
「あの怖いヤツですか??確かに、皆が道を開けそうです」
その他  ラジコンヘリ(カメラ付き) やっぱこれでしょう!?(男性/40代/愛知)
「様々な角度から…くれぐれも矢には気をつけてください」
自転車 小回りが効いて便利(40代/東京)
「あっちこっちの陣を回るには、これが1番かも。。。
その他 焼き肉♪笹尾山でバーベキュー。『手柄をたてたらこれが食べれる!』(女性/40代/奈良)
「まずはミッチャンと一献…って、戦う前に酔うてまいますがな」
その他 カメラで撮影したい(男性/50代/岐阜)
「密着した画像をよろしく!!」
「関ヶ原」
上下巻
あとで、大幅改訂版が出ることうけあいです。(男性/60代/東京)
「実録!!てな冠で再出版…なんてね。」
防犯ブザー 裏切りにブ~・・・を(男性/60代/兵庫)
「秀秋ちゃんには、最高の音量で…」
その他 虫除けスプレー
「ある意味、軍手よりも大事かも知れません…旧暦の9月なら虫は多いです」
携帯電話 写真を撮りつつ、録音機能で武将たちの声を保存。(女性/10代/千葉)
「最近の携帯は多機能ですからね~こんなモン使うか!と思った機能が意外に役立ったりして…」
その他 カップ麺 腹が減ったら戦ができぬ!!まさにコレ(男性/20代/静岡)
「やっぱ、ラ王ですか?トヨエツもいて欲しい(。・w・。 )」
携帯電話 もちろん動画撮影機能付き!(男性/40代/岡山)
「携帯電話は何事にも即戦力になりますはなぁ
その他 筆ペン&サイン色紙で! 西軍と東軍のオールスターのサイン(花押)が欲しい!「なんでも鑑定団」でいくらになる?(男性/30代/福井)
「1枚で全員集合のヤツにして破格の値段に!売ったら終わりなので自分用のも欲しい」
その他 ピクニックセット。笹尾山でお弁当広げて観戦と洒落込みたいですね。バーベキューも捨てがたいです。(女性)
「ちょっと遠目の場所なら、安心して見物できそうです。」
その他 ヘリがダメなら人が乗れる巨大凧。材料は店で買えるし、戦況が一目でわかる。後はどうやって揚げるか(笑)(男性)
「白影さんにあげてもらいましょう!」
「関ヶ原」
上下巻
石田三成に売ってみたい。読む時間がないので、ダイジェスト版の方がいいな。(男性/50代/兵庫)
「確かに、普通に読んでると戦いが終わってしまいます」
その他 歴史を変えられないという前提ならデジカメで、松尾山のお方が大砲でビビっている様を撮りましょう。(女性/30代/三重)
「意外に肝が据わってたかも知れませんが、密着取材はしてみたい!」
その他 water水…水分補給だけでなく傷口を洗える。にわか保健室の先生にでもなろうかな。(女性/50代/福井)
「それが水だという説明に労力がいりそうです…変なモン傷口に掛けんな!って怒られたりして…」
「関ヶ原」
上下巻
予言できるかも(男性/40代/広島)
「言った通りになれば軍師として雇われるかも…でも、歴史が変わっちゃイカンです。」
「関ヶ原」
上下巻
前もって小早川秀秋の寝返りを予習する。万全の対策を!(女性/20代/大阪)
「ミッチャンにこっそり教えるわけですね…歴史が変わりそうでコワイ( ̄◆ ̄;)」
その他 カップラーメンとかどうですか(女性)
「やっぱり、ラ王ですって!」
その他 デジカメ 歴史的瞬間をパチリ!(女性/40代/京都)
「そして、後でゆっくり眺めながら浸る…至福の時ですな」
その他 「正露丸」「お腹壊したらこれ飲んでね」と治部少に渡す。(男性/40代/神奈川)
「“ありがとう、なんてやさしいんだ君は”って恋が生まれるかも…戦国なら男性同士もメジャーです」
自転車  いろいろな陣を見て回りたいですね。(男性/30代/千葉)
「そうです!そうです!実際に陣を見て回るなら、これが1番ですね。
その他 行きたくないです。むしろ見学のが良いです(男性/10代)
「歴史を変えてはいけないので、やはり見学にしときましょうか」
その他 ビデオカメラ(男性/40代/秋田)
「思い出を永遠に…最近のはズームが効いてますから、武将のアップも可能かも」
天体望遠鏡 敵方の動きをいち早く察知できそうなので。(女性/30代)
「そばに読唇術のできる人がいれば鬼に金棒!」
その他 鉄人28号
「神戸の?それともホンモノ??いずれにしても、連れてっただけで、戦闘自体が中断されそうです」
その他 「腕時計」。コンパスとしても有効。諸事何時如何なる折にも示し合わせ、好機を創出すると思えましょう。(男性/60代/東京)
「ヌフフフ…名探偵コナンで、時計による方角の見方を知りましたね」
その他 銭と言いたいところですが、近所のお店で簡単には手に入らないので、運動靴。(男性/50代/大阪)
「瞬足を持ってって、いち早く走る!ですか」
「関ヶ原」
上下巻
他には何かの歴史書でもよい。「今日は何の日」を読ませてあげたい。(男性/50代/石川)
「“今日は何の日”を…ですか?うれし恥ずかし…と言いながら、誰に読んでもらいたいかを考える…(*´v゚*)ゞ」
その他 布陣図(女性/20代)
「じっくりと見比べて…」
携帯電話 合戦の模様をパシャパシャ撮りたいですねっ|′艸`●)(女性/10代/埼玉)
「後で、スライドショーにしてじっくりと観賞したいです。」
その他 バナナ…?すぐ栄養になるし、戦にはぴったりだと思います(*゚▽゚)ノ(笑)(女性/10代/千葉)
「手軽に栄養の取れる食品ですね。手も汚れないし、汁も飛ばないので良いです」
その他 デジカメを 持っていきたいです。(男性/40代/大阪)
「やはり、1番はコレですかね?この思い出だけで1生生きていけそうです」
ここからは ブログからの投票です
(勝手ながら、投票にノーカウントのコメントは省かせていただきましたので、投票募集のページの方でご確認ください)
その他 腹が減っては戦が出来ぬ!ってコトで、インスタントラーメン=カップヌードル!!!!。
戦国武将も携帯食には頭を悩ませたそうですから、カップヌードルを自軍の大将に見せたら、その後のオボエも良くなるでしょう。
あと選択肢に有った、三つ葉葵の印籠は逆に危険材料になりかねません。
東軍に紛れ込むには効力があるかも知れませんが、西軍にとっ捕まった時には、コ奴…斯様な印籠を所持するとは家康に縁の有る者に違いない、首を持って行けば出世は間違いないナンテ云われて、討ち取られてしまいかねません。(マー君)
「やっぱり、まずは御食事でしょうか…東軍にて印籠からサッと薬を出したら、どうなるんだろう?」
その他 拡声器
歴史は変えられないので、松尾山のあの野郎を、西軍の皆さんにせめて思いっきり罵ってもらいたい。
「金吾、この野郎ォ!」「天道が許さん!」
「死めえ!」

buy)大谷刑部、宇喜多秀家、石田三成の皆さんでした。(レッドバロン)
「大谷さんに1番に叫ぶ順番をさしあげてください」
その他 腹が減っては戦は出来ぬ!
に関する物を投票してみました。
>拡声器
武将たちの声が宇宙まで届きそうです(笑)月のウサギもかぐや姫も思わず目を真ん丸にしそうです(笑)(Ikuya)
「干し飯というのも1度食べてみたいものです…たぶん固いでしょうけど」
その他 その他で、マメカラに一票です。歌の力で…無理ですね。(ひろ
「いや、歌は世界を救うかもしれません…ただし、マイクの取り合いで新たなる戦闘が…」

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2012年6月18日 (月)

600万アクセスの感謝とともに大河ドラマ「平清盛」の事

 

こんにちは~、
いつも、当ブログに訪問くださり、ありがとうございます。

「今日は何の日?徒然日記」
管理人・羽柴茶々です!

もちろん、今日が初めてというお方も、これを機会に、ご贔屓の端くれに加えていただければ、幸いでございますが・・・

おかげ様で、本日、朝起きたら、このブログのアクセス数が、通算:600万HITを越えておりました。

500万アクセスを達成してから、わずか4ヶ月・・・ザッと計算して、1日:7000~8000のアクセスをいただいている事になります。

手前味噌ながら、【このブログの歩み】>>で振り返って、初日の12アクセスから考えますと、夢のような数字です。

特に、今年に入ってからは、1日のアクセス数が1万を越える日も多々あり・・・それもこれも、いつも遊びに来てくださってる皆さまの、ご支援のたま物と感謝しておりますm(_ _)m

とは言え、以前よりお越しの皆様はお察しの通り、今年に入ってからの、更なる大きな伸びは、かの大河ドラマ「平清盛」の影響も大いに含まれております。

毎年、大河ドラマの影響を少なからず受けるこのブログですが、それをキッカケに常連さんになってくださる方もおられ、管理人:茶々としては、NHK様に足を向けて寝る事はできない今日この頃であります。

それ故、
「これは、ブログにも、変な感想は書かれへんなぁ」
と、思っていましたが、どうして、どうして、
ここ数回=保元の乱に突入するあたりからは、特に、そんな感情抜きにして、正直、すばらしい出来だと思います。

確かに、清盛のキャラの突然の変化には、少々ツッコミたいところではありますが、それが例の「テコ入れ」というヤツかも知れませんし、キャラが変わったからこそ、おもしろくなっているのでしょうし、人間、何かのキッカケで一皮むける事は多々あるわけで、私自身、一貫性の無さは、人に言える立場じゃござんせん。

キャラが変わっておもしろくなるのであれば、どんどん変わっちゃってください。

あと、歴史関連でも、たとえば、今回の「第24回:清盛の大一番」では、保元の乱の恩賞で、やたら清盛と義朝の差が強調されていましたが、実際には、義朝の左馬頭(さまのかみ)というのは、それほど悪い役職ではありません。

ドラマの中では「父を死に追いやってまで、得たのが左馬頭とは…」と、公家たちがこれみよがしに噂してみたり、

某民法の歴史バラエティでも、
「乱の恩賞で着いた役職が、馬の世話係ですよ!」
「えぇ~~?!w(゚o゚)w」
(←観客に見立てた驚きの声入り)
てな雰囲気で、さも下っ端のようにやってましたが、

当時の馬の管理は、軍事でトップクラスの重要事項です。

今なら、最新鋭のイージス艦やステルス戦闘機の管理を一手に任されているような物・・・軍人にとっては、むしろ憧れの役職です。

先日の【平忠常の乱】>> で、チョコッと書かせていただきましたが、そもそもの源氏は、藤原摂関家の支援を受けて、ともに中央(畿内)にて勢力を伸ばしていたわけですが、前九年の役(9月17日参照>>)後三年の役(11月14日参照>>)を経て、徐々に藤原摂関家の力が衰え始めるのと反比例して勢力を回復して来たのが天皇家・・・

その天皇家が、大きくなった源氏の力をけん制するがごとく重用したのが平氏で、そこにうまく乗っかったのが清盛のジッチャン=平正盛・・・天皇は、タフマン伊東さんの白河天皇の頃ですね(いずれまた、このあたりも書かせていただきます)

一方、ドラマの中でも山本耕史さん扮する藤原頼長(ふじわらのよりなが)(7月14日参照>>)
「藤原摂関家を昔のように…」
と言ってるシーンがありましたが、おっしゃる通り、当時は、すでに摂関家の力も衰え、当然、ともに勢力を持っていた源氏の力も衰えてしまっていたわけで、清盛と義朝とでは、受け継いだ時のスタートがまったく違っていたわけで、そんな中での左馬頭は大出世です。

とは言え、それで、義朝が
「出世したもんね~(○゚ε゚○)」
と喜んでいては、ドラマはおもしろくありませんし、次の平治の乱(12月9日参照>>)につなげるのも難しい事になっちゃいます。

明智光秀が本能寺の変を決意するためには、信長のパワハラがなくてはならないように、ここで、義朝のミジメさを描く事によって、ドラマは断然おもしろくなるのですから、ドラマとしては◎だと思います。

長々と書いてしまいましたが、そんなツッコミどころを忘れて楽しめるくらい、ドラマはおもしろくなって来ています。

ドラマのストーリー展開のスピードも、ここに来て、少し早くなって、ちょうど良い感じで・・・

まだまだ先は長いので、年末にはピッタリ修まるように、スタッフの皆さまには、頑張っていただきたいと思います。

最後に・・・
このブログをご覧になっている皆様、600万アクセスという節目を越えて、今後とも、「今日は何の日?徒然日記」を、ご愛読のほど、よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ。

これからも、ご一緒に・・・歴史のあんな事こんな事、色々楽しんで参りましょう!!
 .

 

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2012年6月16日 (土)

生駒騒動を引き起こした生駒高俊の美少年好き

 

万治二年(1659年)6月16日、讃岐高松藩・第4代藩主から出羽矢島藩・初代藩主となった生駒高俊が、49歳で亡くなりました。

・・・・・・・・

織田信長豊臣秀吉に仕えた生駒親正(いこまちかまさ)に始まる生駒家は、秀吉の四国征伐讃岐17万石を与えられた後、あの関ヶ原の戦いで、父と子で東西にに分かれるという保険をかけた事で、西軍についた父=親正は隠居するも、東軍についた息子=一正(かずまさ)が当主となる事で本領が安堵されました。

Ikomatakatosi500 本日の主役=生駒高俊(いこまたかとし)さんは、その一正の息子=正俊の息子・・・つまり親正から数えて4代めですね。

父の死を受けて、高俊が家督を継ぐ事になったのは元和七年(1621年)・・・

高俊は、未だ10歳もしくは3歳だった~~って、もしくは、というワリにはエライ幅がある感もしないではないですが、とにかく、未だ、藩主として腕を振るえる年齢では無かった事から、あの藤堂高虎(とうどうたかとら)後見人となってサポートします。

高俊の母親が高虎の娘・・・つまり、高虎は母方のお祖父ちゃんだったわけですね。

高虎亡き後は、息子の藤堂高次が引き続き後見人となり、幼き藩主=高俊坊ちゃんは、家臣や重臣たちの期待を一身に背負って、大事に育てられます。

寛永十一年(1634年)、24歳になった時には、土井利勝の娘を娶り、これで生駒家も万々歳!!

何たって、土井利勝は徳川幕府の実力者・・・徳川秀忠政権で老中になった人ですから・・・

と、思いきや、あまりの期待大に、少し大事に育て過ぎたようで・・・大人になった高俊は、家臣の中から選りすぐった美少年を集めては、日夜に渡り、飲めや歌えの大騒ぎ・・・

美少年に、色とりどりの衣装を着せて、琴や三味線や太鼓に合わせて踊らせ、その光景を見ながら一杯やるのが、毎日の日課となっていたとの事・・・

またたく間に江戸中の評判となって、暗君と噂され・・・でも、当の高俊はおかまい無し・・・

それは、だんだんエスカレートして行き、しまいには、参勤交代の行列にまで、きらびやかな衣装を身につけた美少年を同行させ、むしろ、自慢げに見せつけます。

巷の人々は、これを「生駒の若衆行列」と呼び、なんと、弁当持参で見物に来る人までいたとか・・・

この噂を聞いた土井利勝夫妻が、わざわざ娘に会いに行き、そっと、その真相を聞いたところ、
「殿様は、美少年ばかりにお金をつぎ込んで、私には目もくれません」
と・・・
「そら、なかなか世継ぎも生まれんはずや~」
と利勝夫妻もあきれ返った・・・なんて話も・・・

当然の事ながら、そんな高俊には、家臣団を束ねる器量は無いわけで・・・

当時の生駒家には、大きく分けて2つの派閥がありました。

一つは、生駒家一門の家老生駒将監(しょうげん)の一派・・・

そして、もう一つは、そんな将監らの一人舞台となってはいけないと藤堂家が加えた家老で、生駒にとっては外様となる前野助左衛門の一派。

はなからモメそうな気配ムンムンですが、やがて、関東にいて家中の事を一手に握る前野らに、とうとう国許にいる生駒らの不満が爆発・・・

どうにもこうにも収拾が着かなくなった両者の審議は、とうとう幕府の手に委ねられる事に・・・

結局、前野派は切腹や死罪に追い込まれ、生駒派は預かり処分・・・藩政を顧みず、騒動を治められなかった高俊は、所領を没収され、堪忍料1万石で出羽由利(由利本庄市)へ配流となってしまいました。

関ヶ原では父子でありながら敵味方に分かれ、必死で守った領地が・・・と思うと、残念でなりませんね。

ただ、さすがの高俊さんも配流でちょっとは反省したのか?

この後に、6人の子宝に恵まれたようで、その後の生駒家は幕末まで続くという事なので、なんとか当主のメンツは保った・・・というところでしょうか。
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2012年6月15日 (金)

天皇家と徳川家の架け橋に…東福門院徳川和子

 

延宝六年(1678年)6月15日、徳川秀忠の娘で、公武の架け橋になるべく入内した東福門院徳川和子が72歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、見事にスルーされた第2代将軍・徳川秀忠(ごう・江与)五女ですね。

ドラマの主人公の娘を、
しかも、時の天皇に嫁いで次期天皇を産むというビッグな出来事を成した人をスルーするという勇気に感服したのも記憶に新しいところですが、

そのお名前は東福門院(とうふくもんいん)徳川和子(まさこ・かずこ)と言い、幼い頃の名前は、松姫もしくは和姫との事ですが、本日は和子さんと呼ばせていただきます。

・‥…━━━☆

慶長十六年(1611年)4月、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇即位します。

先代の後陽成(ごようぜい)天皇が、なぜか弟に皇位を譲ろうとしていたところを、あの徳川家康強い推しによって決定した即位でした。

家康が推した・・・という事は、それほど両者の関係がうまくいっていたわけで、同時に家康が希望した和子の入内は、慶長十九年(1614年)春に、正式決定の運びとなります。

しかし、そもそもは朝廷の丸抱えを図りたい家康・・・この間に、『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)など発布したりなんぞして、何となく、両者の空気は重い・・・

しかも、間もなく起こった大坂の陣のゴタゴタに、家康の死や後陽成天皇の崩御が重なって、結局、入内が延期に・・・

ようやく落ち着いた元和四年(1618年)から、再び婚礼準備が開始されますが、ここに来て、後水尾天皇が寵愛する四辻与津子(よつつじよつこ)なる女性が皇子を出産した事が発覚・・・

およつ御寮人事件と呼ばれるこの事件に秀忠と江が激怒し、徳川家内でも入内に反対する声が出ますが、そもそもは公武の融和を図るための政略結婚・・・ここで取りやめにするわけにもいかず、

結局、関係者を処分する事で事件を手打ちとし、1年後の元和六年(1620年)、和子は輿入れしたのです。

Tokugawamasako500 時に和子14歳・・・以来、彼女は1度も江戸に帰る事無く、58年という月日を京の都で過ごす事になります。

とは言え、ドタバタ続きで私欲丸出しの政略結婚のワリには、後水尾天皇と和子の夫婦関係は良く、なかなかに仲睦まじいカップルだったようです。

二人水入らず、和子のお酌でお酒を酌み交わした夜があったり、
「その着物、なかなか似会ってるじゃん」
と、後水尾天皇が和子の容姿に惚れ々々した・・・なんて記録もチラホラ・・・

そこには、和子の人柄もあったようです。

和子は、後水尾天皇との間に2男5女の7人の子供をもうけます(男子は早世)が、自らの子供たちだけではなく、側室の子供たちも、たいそう可愛がっていたそうで、なんと、和子の最期を看取ったのは、かのおよつ御寮人事件の時に、その与津子さんが産んだ娘だったとか・・・

しかし、彼女の思いとはうらはらに、朝廷と徳川家の関係は、あまりうまくは行かず、寛永四年(1627年)には、秀忠による朝廷の封じこみ=紫衣(しえ)事件が起こり、その2年後には、もはやブチ切れた後水尾天皇が、娘の女一宮に、幕府に無断で譲位を決行してしまいます(11月8日参照>>)

ここで即位した第109代・明正(めいしょう)天皇は、和子さんの娘ですから、かつて藤原氏が行ったと同様(藤原不比等を参照>>)外戚(がいせき=天皇の母方の実家)を獲得したくて天皇家に娘を送り込んだ徳川家としては、一応は外戚をゲットした事になりますが、男系男子で継承される天皇家で、女性天皇の外戚となったところで、それは1代限りの事ですからね。

さらに、これまでの女性天皇を見る限りでは、その子供を期待する事はできませんから、むしろ、天皇家における徳川家の血脈は、ここでストップする事になります。

一方、そこにあてつけるかのように、後水尾天皇は、和子を含む奥さま連中との間に33人もの子供たちをもうけました。

おそらく、性格よさげな和子さんとしては、婚家と実家の板挟みとなって気苦労が耐えなかった事と思います。

そんな彼女が、危篤状態となったのは、延宝六年(1678年)6月15日の事でした。

『女院瀉血(しゃけつ)の御悩(ごのう)のあるゆえ…』
との『徳川実記』の記録から、高血圧か脚気ではなかったか?と言われます。

とにかく、急を聞いて、後水尾法皇や明正天皇が、彼女の御所に駆けつけますが、二人の顔を見たからか、一旦もちなおしたので、ひとまず、二人はそれぞれの御所へと引き上げますが、それから、わずか2時間後、再び危篤状態となり、そのまま、帰らぬ人となりました。

故に、和子の最期を看取ったのは、そばにいた尼さん1人・・・この尼さんが、先ほどお話した与津子の娘=文智女王(ぶんちじょおう)でした。

彼女が唱える観音経を唱和しながらの、穏やかな最期だったと言います。

♪武蔵野の 草葉の末に やどりしか
 みやこの空に かへる月かげ ♪
 和子:辞世

最後の最後に思い描いたのは、遠き故郷・・・

一方、彼女の死を受けた後水尾法皇は

♪かかる時 ぬれぬ袖やは ありそ海
 浜のまさごの 天の下人 ♪
 後水尾法皇

時に法皇82歳・・・天皇家と徳川家がどうあろうと、二人の心はしっかりと結びついていたという事なのでしょう。
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2012年6月14日 (木)

応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家

 

応仁元年(1467年)6月14日、後花園上皇が出家を決意されました。

・・・・・・・・

いつの世も、天皇様というお方は、国家の泰平と国民の安寧を願っておられるものです。

いざ、一大事が起こった時に、
「すぐにやろうと思ったんだけど、●●に邪魔されて…」
などと、どこぞの誰かのような言い分けはおっしゃらず、

むしろ、自らの責任の範囲では無い事にまで責任を感じられて・・・

後花園(ごはなぞの)上皇の出家も、そのような思いからでした。

・‥…━━━☆

第101代称光(しょうこう)天皇が、28歳という若さで崩御された事を受けて、後花園天皇が即位したのは正長元年(1428年)・・・天皇=10歳の時でした。

この頃、院政を行っていたのは、あの南北朝合一(10月5日参照>>)で、北朝第6代から、合一後の第100代天皇となった後小松上皇でした。

その後小松上皇の第1皇子が称光天皇だったわけですが、上記の通り、若くして亡くなってしまったので、その後を継ぐべき皇子も兄弟もおらず・・・

いや、実は、あの一休さん(2月16日参照>>)後小松上皇のご落胤という話があり、そうなると、称光天皇の兄という事になりますが、これはあくまで噂であり、すでに一休さんは仏門に入っているし、さらに、一休さんの母が南朝側の人だった事もあり・・・

で、未だ南北朝のなごりが感じられる時期に、南朝勢力の動きを封じるためにもと、北朝3代の崇光(すこう)天皇の孫であった後花園天皇が、後小松上皇の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって皇位を継いだのでした。

Gohanazonotennou600 その後、その年齢の若さもあって、数年間は後小松上皇の院政が続きますが、永享五年(1433年)に後小松上皇が崩御された後は、約30年間に渡って、後花園天皇が親政を行いました。

この間には、永享の乱(2月10日参照>>)嘉吉の乱(6月24日参照>>)といった、後の戦国を連想させる事件も起こりますが、鎮圧の綸(りんじ=天皇の意を受けた側近の命令書)速やかに発給するという行動力のある天皇でした。

その行動力は、足利将軍家に対しても遺憾なく発揮されます。

寛正二年(1461年)春・・・この年は、前年から続く大飢饉のうえに疫病もまん延し、都中に死者が溢れかえっている状況にも関わらず、第8代将軍・足利義政は風流にうつつをぬかし、あの豪華な山荘(6月27日参照>>)の造営を夢見ていました。

そこで後花園天皇・・・1首の漢詩を贈ります。

残民争うて採る首陽(しゅよう)の蕨(わらび)
 処々炉を閉め竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)
 詩興 
(ぎんずれ)は酸(さん)なり、春二月
 満城
(まんじょう)の紅緑(こうりょく)
 (た)が為にか肥えたる ♪
「生き残った者は、雑草を争って取り合い、家々のキッチンの火も消えて、玄関も静まり返ってるっちゅーのに、この世の春を謳歌して遊興に走っとるみたいやな・・・春の恵みは、誰のためにあるんや!(お前のためちゃうっちゅーねん)

おかげで、義政の評判がガタ落ちになる中、後花園天皇は「近来の聖主」と称されました。

やがて、そんなこんなの応仁元年(1467年)正月・・・あの応仁の乱が勃発します。

正月早々に勃発した御霊合戦(1月17日参照>>)に始まった戦いは、5月28日に壮絶な市街戦となって都を焼きつくします(5月28日参照>>)

かくして、後に五月合戦と呼ばれるその戦いから、そう遠くない応仁元年(1467年)6月14日、すでに3年前に、第1皇子の後土御門天皇に皇位を譲っていた後花園上皇が、出家を決意されたのです。

もちろん、これだけの世の乱れを受けて、「出家をしたい」というお気持ちは、それ以前からあったのでしょうが、この日の日づけにて、弟の伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)に宛てられた手紙の中で、その決意を語っておられるという事です。

Gohanazonosyozyou900
後花園院御文(宮内庁書陵部蔵)

『今度世上大変の事 時刻到来とは申しながら…』
で始まるこの手紙には・・・

「いつかは大乱が起こるんちゃうかと予想してはいたけど、やっぱり悲しいね」
という素直な心情
「前々から出家したいとは思てたものの、天皇でいてる間はなんとか我慢しててんけど、もはや、その責任も無くなったし・・・と思てたところに、今回の大乱やろ。
いよいよ、俗世との交わりを断とうかと思うねん」

という決意が語られています。

とは言え、混乱する世の中が嫌になって逃げるというのではありません。

「面目なき次第」
と、今回の大乱が自分の責任にある、このような混乱は統治者の恥であると、ご本人は受け止められているようです。

譲位してから、わずか3年ですから、大乱に至った原因となるのは、自らの親政であり、当時に発給した綸旨にあると強く感じての出家・・・これは、その責めを一身に負うという決意の現れでありました。

やがて9月・・・戦いを避けて避難していた花の御所(室町第=足利将軍家の邸宅)に、密かに増運僧正を招いた後花園上皇は、周囲にはナイショで出家をされたのでした。

足利義政と言い、その弟の義視(よしみ)(1月7日参照>>)と言い、何となくフラフラ感のある将軍家とは違い、この応仁の乱において、東軍の将:細川勝元からの再三の圧力にも屈する事なく、一貫して中立の立場をとられていた後花園上皇・・・

出家から、わずか3年後の文明二年(1470年)12月27日未だ戦乱の嵐やまぬ中、病にて崩御されました。
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2012年6月13日 (水)

本居宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中

 

寛政十年(1798年)6月13日、江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』44巻を完成させました。

・・・・・・・・・・・・

言わずと知れた江戸時代を・・・いや、有史以来の日本を代表する国学者本居宣長(もとおりのりなが)・・・

享保十五年(1730年)に伊勢国(三重県)松阪の木綿商の家に生まれた彼は、幼い頃から学問を習い、中国の史書などに興味を抱く少年でした。

Motoorinorinaga44a500 15歳の時に、一旦、養子に出されるも3年で離縁・・・その後、商売の勉強のために江戸へ出て1年間の遊学を終えた後、兄の死を受けて家系を継ぎますが、「どうも、自らの性格が商売に向いていないんじゃないか?」と感じ、22歳の時に、医学を学ぶために京都へと上りました。

京都では、当然、医学を中心に学びはしますが、その傍らで儒学漢学朱子学なども学ぶうち、京都という土地柄もあって、次第に平安時代の王朝文化にも興味を持ちます。

やがて宝暦七年(1758年)の29歳で故郷の松阪に戻った宣長は医師として開業・・・以来、本業は医者として働きつつ、夜の余った時間に『源氏物語』などの古典文学を研究するという生活を送ります。

ちなみに、生涯に渡って、宣長の本業は、あくまでお医者さんで、亡くなる10日前まで患者の診察に当たっていたと言われています。

そんな宣長を、平安の王朝文化中心から、万葉の世界へと誘うのが、たまたま書店で購入した『古事記』・・・同時期に、国学者・賀茂真淵(かものまぶち)の著した『冠辞考(かんじこう=万葉集の枕詞の解説書)に出会って、その心は、一気に国学の世界へ・・・

ファンレターを出すほどに、すっかり真淵にのめり込んでいった宣長・・・

そんなこんなのある日、いつも行く古本屋に立ち寄った宣長は、その店の主人から
「ありゃりゃ、惜しかったね~
今、いっつもアンタが話してる賀茂真淵って人が、ここに来てたんよ」

と聞きます。

「先生が?!なんで?」
「なんや、これから伊勢参りに行かれるみたいやけど、その前に、なんか珍しい本は無いか?っちゅーて立ち寄ってくれはったみたいですわ」
「それは、惜しい事した…何とか会いたいなぁ」
「ほな、今すぐ追いかけなはれ、きっと、まだ間に合うはずやさかい」

慌てて真淵を追う宣長・・・松阪の町はずれまで行き、その向こうの宿へも行き・・・そして、とうとう宝暦13年(1763)5月25日松阪の旅籠・新上屋にいた真淵を見つけます。

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「松阪の一夜」(尋常小学校・国語教科書にある挿絵)

アポ無しにも関わらず、快く面会に応じてくれた真淵・・・有名な「松阪の一夜」です

「須(すべから)く先んづ万葉を学び、広く古語に通じ、然(しか)る後(のち)古事記を読むべし」

それは、単に単語の意味を知って、ただ読むだけではなく、言葉そのもを理解し、その語り口から解釈しないと古事記の語り部の意図は読み取れない・・・と、

この真淵の言葉から、宣長の古事記への探究が始まり、そして、生涯ただ1度のこの面会が、彼の人生を決定づけたのです。

以来、35年の月日を費やして寛政十年(1798年)6月13日全44巻の『古事記伝』が完成に至ったのです。

実に宣長、69歳となっていました。

平安時代の公家の間で、すでに、その解読の勉強会が開かれていたという『古事記』・・・難解なこの文献の注釈本としては、平成の時代になってもなお、この宣長の『古事記伝』を越える物は無いとの高い評価を受けています。

・・・と、エラそうな講釈を並べておりますが、実のところ、この私も、つい最近まで、本居宣長さんと言えば「国学者&古事記伝」のキーワードを知るだけで、それ以上の事は、ほとんどスルーしておりました。

だって、どう考えたって、学者さんのうんちくより、戦国武将の斬った張ったのほうがオモシロイんですもの・・・

ところが、それこそ、チラ見したとある雑誌で、宣長さんのエッセイ『玉勝間(たまがつま)の内容を知り、それまでの宣長さんのイメージが180度好転・・・いっぺんに好きになってしまいました。

彼は、自分の説が正しいと思ったなら、例え、それが、恩師である真淵の解釈と違っていても、あえて、反論を提示します。

もちろん、それは、真淵自身が『師の説にたがふとて、なはばかりそとなん』=「僕の考えと違てても遠慮せんで言うたらええねんで」と、彼に教えたからですが、そんな宣長自身も・・・

『われにしたがひてもの学ばんともがらも、わが後に、またよき考への出で来たらんには、必ずわが説にななづみそ。
わがあしきゆゑを言ひて、よき考へを広めよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせんとなれば、かにもかくにも、道を明らかにせんぞ』

「君ら(教え子たち)も、僕が死んだ後に、良い学説を思いついた時は、僕に遠慮せんと、僕の間違うてるとこを指摘して、自分の良い考えを広めたらええねんで」
と、言います。

また、『古事記伝』の中で、『古事記』の序文を除いた最初の最初の部分=『天地初發之時…』『天地』の読み方について、宣長は「アメツチ」と読むとしていますが、それについても『名義は未だ思ひ得ず』・・・つまり、「まだ、結論は出て無いねんけどね」との注釈を入れています。

そうなんです。
宣長にとっての探究は、常に現在進行形・・・44巻が完成したからと言ってそれで終わりではなく、常に進歩していく物なのです。

学者さんの中には、執念にも似た情熱で真実を探究をする方もおられますが、宣長の場合は、それとはちと違う・・・探究する事自体をを楽しんでいると言うか、明日は今日と違う解釈になってる事を期待してると言うか・・・

いいですね~~ヽ(´▽`)/

最後に、彼の『玉勝間』の冒頭部分の言葉をご紹介します。

『須賀直見が言ひしは、「広く大きなる書を読むは、長き旅路を行くがごとし。
おもしろからぬ所も多かるを経行きては、またおもしろく目覚むる心地する浦山にも至るなり。
また、脚強き人は速く、弱きは行くこと遅きも、よく似たり。」とぞ言ひける
かしきたとへなりかし』
「須賀直見(宣長の門人)くんが言うには、“大作を読むんは、長い旅の道を行くようなもんや。
途中には、おもろない場所もぎょうさんあるけど、そこを通り過ぎたら、また、目が覚めるような海岸や山に出たりして、メッチャおもしろなったりする・・・
ほんで、健脚やったら早う進んでいける
(すぐに読み終える)けど、足が弱かったら進んでいくのは遅いとこも似てるなぁ”やて・・・おもろい事言いよるなぁ」

自分に合ったペースで、急がす騒がず、むしろ歩く事を楽しむ旅=探究する事を楽しむ・・・
まさに、我が意を得たり!でした。
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2012年6月12日 (火)

蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?

 

大化元年(645年)6月12日、中大兄皇子中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺乙巳の変がありました。

・・・・・・・・・

乙巳(いっし)の変・・・

上記の通り、中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり=後の藤原鎌足)の協力を得て、天皇をしのぐ勢力を持ちつつあった蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害するというクーデターです。

(事件の流れについては、古い記事ではありますが、すでに書かせていただいている2007年6月12日のページでどうぞ>>

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乙巳の変を描いた「多武峯縁起絵巻」(談山神社蔵)

以前は、この暗殺劇も含めた一連の出来事を大化の改新と呼んでいましたが、現在では、この暗殺事件を乙巳の変と呼び、この後に行われる様々な改革を事を大化の改新と、分けて考えるようになりました。

さらに、『日本書紀』に書かれている、その大化の改新の記述には、後の大宝律令が成ってからの役職が登場する事などの矛盾も多く、実際に改革が行われたのか疑わしいという事で、「今後の教科書からは大化の改新の名が消え、乙巳の変だけが残る」なんて話も聞きましたが、今現在の教科書はどうなっているのでしょう?

とにもかくにも、この時代の事を書いた1級史料とされる物が『日本書紀』しか無い以上、書かれている事を史実とし、それ以外の事は、あくまで推理していくしかない状況なわけですが・・・

とは言え、大化の改新しかり、乙巳の変しかり・・・
つじつまの合わないおかしな事は多々あるわけで、もはや、文面通りに受け止める事の方が少ないのが現状・・・

なんせ、『日本書紀』っつー物は、第40代天武天皇が政権を握った時に、その天武天皇のために、息子と藤原氏とが編さんした史書ですから・・・(2月25日参照>>)

その天武天皇は、かの壬申の乱で天智天皇=中大兄皇子の息子である大友皇子を倒して政権を握った(7月23日参照>>)わけで、つまりは、前政権を武力で倒した新政権が、前政権がいかにして政権を握ったか?を書いているわけで、そこには、現政権が、そんな前政権を倒した事を正統化する、事実ではない記述も多分に含まれていると考えるほうが妥当なわけです。

そんな中で、この乙巳の変を、文字通り「入鹿暗殺事件」と考えて首謀者を推理する時に、推理の基本でもある動機・・・この事件によって最も得をした人は誰か?と考えた場合・・・

浮かんで来るのは、やはり、このクーデターによって、日本初の譲位で新しく天皇となる第36代孝徳天皇ですね。

この孝徳天皇は、前天皇である皇極天皇の弟なので、兄弟簡で頻繁に皇位を継承していた当時としては、ごく普通なわけですが、問題は上記の通りの「譲位」・・・

それまでは、天皇が亡くなった事によって、次の天皇へと移っていたのが、ここで初めて、「現役の天皇が、次の天皇に皇位を譲る」という事が行われたわけで、この前例の無い即位には、やはり「何かあるのでは?」と疑ってしまいますね。
孝徳天皇・首謀説については2010年6月14日でどうぞ>>

さらに、鎌足・首謀説というのもあります。

冒頭に書いた通り、一般的には、鎌足の強力を得た中大兄皇子が・・・という事で、首謀者はあくまで中大兄皇子で、鎌足は協力者となっているわけですが、それが逆で、鎌足こそが首謀者であったという事・・・

まぁ、この後の藤原氏の繁栄ぶり(8月3日:藤原不比等を参照>>)を考えると、それもありかも知れませんが・・・

また、目新しいところでは、蘇我倉山田石川麻呂・首謀説というのもあります。

この蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、かの乙巳の変の時に宮廷の大極殿にて、天皇の前で外交文書を読んでいた人・・・彼が、この外交文書を読み終えた瞬間が入鹿に斬りかかる合図となっていたと言われ、つまりは、蘇我氏の一員でありながら、クーデターに協力した人です。

その根拠となるのは、現場に同席していた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ=中大兄皇子の異母兄)が、事件直後に語ったとされる「韓人が入鹿を殺した」という言葉・・・

かの『日本書紀』では、この言葉は「韓(からひと)の政(まつりごと)によって誅せられた」=つまり、「この時代に不穏な空気に包まれていた朝鮮半島の政治の駆け引きによって殺されたのだ」との注釈をつけているようですが、事件直後の興奮状態の時に、そんな抽象的な言い方をするだろうか???という事・・・

そこで、登場するのが、蘇我氏の出自です。

以前、仏像投げ捨て事件(3月30日参照>>) のところでも書かせていただきましたが、この蘇我氏のご先祖が渡来人だったかも知れない話は有名で、その関連から、渡来系の人々の束ね役となった事で蘇我氏が力をつけたと言われていますね。

つまり、石川麻呂・首謀説を唱える方の意見としては、この古人大兄皇子の言葉は、「韓人=蘇我氏の人間が入鹿を殺した」と解釈できるとして、1番身近にいたクーデター決行側の蘇我氏の人であり、当時、朝鮮半島との国交関連の担当でもあった人=石川麻呂という事なのです。

と、なると、かの乙巳の変から、わずか4年後に石川麻呂が自害してしまう事件(12月4日参照>>)も、後の内輪モメではなく、何か、別の大きな要因がある事になりますが・・・

と、本日は、3人の疑わしき首謀者のお話をご紹介させていただきましたが、もちろん、一般的に言われる「中大兄皇子・首謀」という考えもあるわけで・・・

「結局は、結論は出んのかい!」
とのお怒りもありましょうが、歴史という物は、明確な解答が出ないもの・・・様々な推理を楽しむのが醍醐味という事で、本日のところはお許しくださいませ。
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2012年6月11日 (月)

「真田日本一の兵」by島津忠恒の心の内は…

 

慶長二十年(1615年)6月11日・・・『旧記雑録』のこの日の条に、島津忠恒が国許に送った手紙の内容として「真田日本一の兵」の記述があります。

・・・・・・・・・・・・

かつては『立川(たつかわ)文庫』で・・・
現在は『戦国ゲーム』で・・・

戦国武将屈指の人気を誇る真田幸村(信繁)・・・

その武勇伝は、様々な書籍で、そしてネット上でも展開され、もはや、今更、言うまでもない戦国ヒーローなわけですが、その時に、幸村の強さを語る冠として、よく出て来るフレーズが「真田日本一の兵(つわもの)という言葉・・・

このフレーズの出どころ・・・というのが、今回ご紹介する『旧記雑録』(別名:薩藩日記=東京大学史料編纂所蔵)という島津家相伝の文章を収録した物慶長二十年(1615年)6月11日の条に書かれている文章・・・

薩摩藩主・島津忠恒(後の家久)が、国許(くにもと)に送った手紙の内容として出て来ます。

手紙自身はもっと長いのですが、その部分だけを抜粋させていただきますと・・・(画像の青で囲った部分です)

Sappannikki320 『一、五月七日に 御所様の御陣へ真田左衛門佐(さえもんのすけ=幸村)かかり候(そうろう)て 御陣衆追ひちらし討捕り申し候
御陣衆三里ほどづつにげ候衆は 皆々いきのこられ候
三度めにさなだもうち死にて候
真田日本一の兵
いにしへよりの物語にもこれなき由
(よし)
惣別(そうべつ)これのみ申す事に候』

「5月7日の合戦で、家康はんの陣に真田幸村が攻めかかって、本陣を守る徳川勢を追い散らして討ち取ったという・・・
本陣の人らは、その後3里くらいずつ逃げて無事やったそうやけど、真田は3度目の攻撃で討死してしもた。
真田は日本一の武将やで
昔からの言い伝えや物語にも、これほどの武勇は無いやろ。
まぁ、だいたい言いたい事はそれだけやねんけど…」

てな感じでしょうか・・・

まぁ、『旧記雑録』に収録するくらいですから、島津として、この幸村の話を後世に伝えていこうという事なのでしょうし、幸村の大坂の陣の武勇を語っているのは、この島津だけじゃありませんので、確かに、幸村の大坂の陣での働きは、伝説に残るほどの素晴らしい物であった事でしょう。

ただし、この「真田日本一の兵」by島津・・・
この文面のまま、「敵将までもが絶賛する…」という風に、丸々受け取ってもいいほど、単純では無いような気がします。

まず、この島津忠恒・・・大阪の陣には行ってません。

先立つ冬の陣の時には、豊臣秀頼からの出陣要請を受けるものの、それを拒否し、徳川につく事を表明・・・

しかし、実際には、その時に発生していた島津国内での問題ゴタゴタのピークで薩摩を離れる事が出来ず、結局、大坂攻めには参戦せずじまいでした。

そのために、徳川家から「大坂方に与しているのではないか?」と、謀反の疑いをかけられ、夏の陣の時には、その疑いを晴らすべく出陣し、必死のパッチで、何とか北上していたのですが、結局、平戸(長崎県)あたりまで来たところで、「大坂城落城」の一報を聞いた・・・という事で、幸村の戦いぶりを、その目で見たというわけでは無いのですね。

つまりは、この「日本一の兵」というのは「人づてに聞いた」、あるいは、「そんな噂になってる」という事なのです。

だからと言って、私は、「真田日本一の兵じゃない」と言ってるわけじゃぁ無いですよ。

いつも見ていただいてる皆様はご存じの通り、私は、大阪城を朝な夕なに仰ぎみて育ち、羽柴茶々というハンドルネームを名乗らせていただくほどの「心は大坂方」なので、むしろ「真田バンザイ!よくやった」派なのですが、

言いたいのは、この手紙を書いた島津忠恒の気持ち・・・です。

もちろん、実際には、書いてある事がすべて・・・心の内なんてわかるわけがありませんから、あくまで、イケズで腹黒の私=茶々(決して淀殿ではありません)が思うところでは・・・って事なのですが・・・

この大坂の陣の時、忠恒さんは41歳・・・幸村よりは、少し年下で、働き盛りのバリバリと言えば、バリバリなのですが、かと言って、また、1から武将人生をやりなおすほど若くは無い年齢です。

そう、彼にとって、この大戦は、最後の武勇をほこれるチャンスだったかも知れなかったわけです。

しかも、冷静に見渡す限り、豊臣と徳川という2大勢力がぶつかって、そこで徳川が勝ち、かつ秀頼も淀殿も亡くなった・・・となれば、この後、今回に匹敵するような大戦があるかどうかも微妙なわけです。

また、「心は大坂方」の私としては、この大坂の陣は、世間で言われているほどの差(大坂方には浪人者しか集まらなかったみたいな事)は無かったと思っています。

結果的に、徳川が勝ったから、豊臣方に与した側の記録が末梢されているだけで、たとえば、毛利の佐野道可事件(5月21日参照>>)のように、各武将も、けっこう二股かけてたんじゃないか?と思っています。

現に、「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄」なんて発言を残している細川忠興(ただおき)だって、実は、二股かけて(次男が大坂方)ました。

伊達政宗(だてまさむね)だって結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)だって、自らの家臣を大坂城に送り込んでいます。

つまり、この大坂の陣の頃までは、まさに戦国で、その武勇如何によっては一発逆転のチャンスもあったかも知れない・・・(あくまで個人の感想です)

しかし、自らが参戦する前に決着がついてしまった・・・

何やら、この事に対する言いようの無い空しさというか、残念さというか、悔しさというか・・・

最後に
「惣別これのみ申す事に候」
という、何となく、投げやりな感じで締めくくるあたりにも、少しばかり、時代が変わる事を感じた戦国武将の心の奥底が見えるような気がしてならないのです。
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2012年6月 9日 (土)

『明治一代女』花井お梅の心意気

 

明治二十年(1887年)6月9日、後に『明治一代女』のモデルとなる花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件がありました。

・・・・・・・・・・

『明治一代女』と言えば、昭和1ケタ世代なら、知らない人はいないほどの有名なお話・・・

事件直後から、新聞をはじめ、関係するノンフィクション物が多数出版され、やがて小説になり、お芝居になり、映画となって歌もヒットする・・・

まぁ、小説や歌になるのは昭和に入ってからなので、昭和1ケタ世代って事なのですが・・・

今の若い方に、わかりやすく例えるなら『余命●ヶ月の花嫁』みたいな感じ???

ただし、『花嫁』は純愛感動路線ですが、この『一代女』は、どちらかと言うと愛憎がらみの2時間サスペンスみたいなお話で、ジャンルは違います。

もちろん、『明治一代女』という小説になるにあたっては、様々な創作も加えられていますしね。

Hanaioume400 そんな有名話のモデルとなったのは、花井お梅(はないおうめ)という女性・・・

彼女は佐倉藩(千葉県佐倉市)下級武士の娘だったと言われますが、9歳の時に身売りをされ、やがて15歳の時に柳橋で芸妓デビュー・・・18歳の時に京橋日吉町(現在の銀座)に移った後は、秀吉という源氏名で浮き名を流しました。

やがて23歳となった明治十九年(1886年)、お梅は日本橋浜町「酔月楼」という待合茶屋(まちあいぢゃや=待ち合わせや宴会などに場所を提供する貸席業)を開店して、女将となります。

しかし、その店の名義が、父の花井専之助だった事から、父が度々経営に口出す事で、父娘で営業上の争いが絶えなかったのだとか・・・

そんな時に、彼女が悩みをうち明けていた相談相手が、八杉峰三郎という男でした。

彼は、通称を箱屋峰吉という彼女の奉公人・・・箱屋というのは、芸者がお座敷に行く時に、その三味線を入れた箱を持つ係の事で、彼女が秀吉と名乗っていた京橋の時代からの雇人でした。

長年の親しさからもあって、父の不満を「あーだ」「こーだ」と峰三郎にブチまけるお梅・・・ある意味、単なるストレス解消だったのかも知れませんが、この峰三郎が、ことごとく父の味方をするのです。

黙って「フンフン」と聞いていてくれれば、言いたい事言って、あとはスッキリするのでしょうが、ことごとく反論されれば、そのストレスは溜まる一方・・・

父への腹立ちが、やがて峰三郎に向いていきます。

かくして、店を開店した翌年の明治二十年(1887年)6月9日、夜の9時・・・密かに出刃包丁を隠し持ったお梅は、辻待ちの車夫に頼んで、峰三郎を呼び出し、自宅門前の土蔵の脇(浜町河岸=はまちょうがし)で、彼を刺殺したのです。

その後、ぼう然としながらも、凶器の包丁を持ったまま日本橋久松署に自首・・・

というのが、事件の一連の流れですが、美人芸者の殺人事件てな話にマスコミが飛びつかないわけがなく、直後に出された新聞やノンフィクションでも、その動機や人間関係が様々に書かれ、もはや、何が本当だか、よくわからない状況です。

動機に関しては、先ほどの営業上のモメ事以外にも、
お梅が、何たらという男に入れ込んで多額の金を貢いでいたため、彼女の事を好きだった峰三郎が横恋慕して関係を迫って来ていた・・・いわゆる三角関係のもつれとか、
父と峰三郎が結託して店を乗っ取ろうとしているんじゃないか?という恐怖感にかられたとか、

とにかく、彼女の公判の時には、ひと目その顔を見ようと、約2000人の群衆が集まったと言いますから、その注目度はスゴイです。

結局、犯行時に心神の喪失がみられなかった事から、計画的な殺人と判断され、無期徒刑(現在の無期懲役とほぼ同じでちと厳しい?)の判決が下りますが、その服役中の行動までが新聞報道されるという熱狂ぶりは、しばらく続きます。

やがて、特赦によって15年刑に減ぜられたお梅は、明治三十六年(1903年)に、刑の満期を迎えて釈放されます。

すでに30代後半になっていたお梅は、浜町に帰った後、半年後に浅草公園おしるこ屋をオープン・・・なんと、初日には1時間に80人以上の客が殺到するという繁盛ぶりを見せますが、お察しの通り、これはお梅を見たさにやって来る野次馬のようなお客・・・

そんな一過性のお客が去った後、今度は牛込岩戸町(新宿区)にて小物屋を開きますが、それも長続きせず、結局、浜町に戻って、またまたおしるこ屋を始めますが、その間に、自称・豊島銀行の頭取と名乗る鈴木何たらという男に騙され、持ってたお金もスッカラカンになったらしい・・・

その後、明治三十八年(1905年)頃からは、森三之助一座などに加わって旅廻りの芝居巡業をはじめ、なんと、峰三郎殺しを、本人が実演して見せていたのだとか・・・

大正五年(1916年)には、その地方巡業も辞め、もとの芸妓に戻ったそうですが、その年の12月13日肺炎の為に53歳の生涯を閉じたと言います。

自らの殺人事件を自らが舞台で演じる・・・そんな波乱万丈な人生を送ったお梅・・・

もちろん、殺人という罪を犯した以上、自業自得と言えば自業自得・・・その心の内も、どのような物だったかは、ご本人にしか解り得ませんが、実はこんな話が残っています。

明治四十五年(1912年)6月23日の浅草駒形町蓬莱座で行われた「芸妓慈善演芸会」にて、『峰吉(峰三郎)殺し』の場面を上演中の朝8時頃・・・

突然、客席から、1人の女が舞台に駆けあがり、お梅役の芸者の胸ぐらをつかんで
「この芝居は、誰に断わってやってるんだい!」
と詰め寄ったのだとか・・・

もちろん、その女性はお梅本人・・・

噂が噂を呼び、稀代の毒婦に仕立て上げられたその中で、たった一つの真実を知る自分自身こそが、お梅を演じる事の出来るただ一人の女優・・・

そこに、彼女なりのプライドが見え隠れするような気がします。
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2012年6月 7日 (木)

慈愛と懺悔の藤原氏期待の星…光明皇后

 

天平宝字四年(760年)6月7日、光明皇后が59年の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・

本名は安宿媛(あすかべひめ)または光明子(こうみょうし)・・・正式な尊号は天平応真仁正皇太后で、光明(こうみょう)皇后というのは、あくまで通称だそうですが、本日は、光明皇后と呼ばせていただきましょう。

・・・で、光明皇后と言えば、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)橘三千代(たちばなのみちよ・県犬養三千代(1月11日参照>>)の娘で、東大寺の大仏を建立した第45代聖武(しょうむ)天皇(10月15日参照>>)の奥さん・・・

仏教に帰依する慈愛の精神から、貧困者や孤児などを収容する悲田院(ひでんいん)や、貧困の病人に薬を与える療養所・施薬院(せやくいん)といった施設を建てた福祉救済事業のパイオニア的存在(4月17日参照>>)で、民衆とも親しく接した皇后です。

その福祉のページでご紹介した、光明皇后が病人のために設置した浴室(からふろ)で、自ら千人の病人の垢を流していたところ、千人目となった病人が阿閦(あしゅく)如来の姿に変わったという伝説は、平安時代か鎌倉時代頃に誕生した伝説だと言われますが、そんな逸話が後世の人々に語られるくらい、福祉事業に尽力した慈愛に満ちた皇后という印象が強かったという事でしょう。

そんな光明皇后は、かの大仏建立にも積極的に協力し、発掘された出土品からは、むしろ、光明皇后こそが大仏建立の発案者ではなかったのか?と思われるほどの活躍をしています(4月9日参照>>)

とは言え、彼女には、慈愛に満ちた聖女の顔とはうらはらな、もう一つの顔が存在します。

それは藤原氏期待の星の顔・・・そう、彼女なくしては、その後の藤原氏の繁栄は無かったかも知れないほどの期待が、彼女の人生に圧し掛かっていたのです。

Tennouketofuziwarakekeizu そもそも不比等には、後に藤原四家として藤原氏繁栄の象徴の家柄の祖となる4人の息子=武智麻呂(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)麻呂(まろ)がいました。

そして、その下に宮子という娘・・・この宮子が第42代文武天皇の夫人となって、二人の間に生まれたのが聖武天皇です。

その聖武天皇と時期を同じくして誕生したのが、不比等の後妻となっていた三千代が生んだ光明皇后というワケです。

宮子の産んだ聖武天皇が晴れて天皇の位につけば、不比等としては、最も権力を握れる外戚(がいせき=母方の実家)ゲットとなるわけですが、そこに、自らの娘を皇后として送り込む事が出来たら、これほど頑丈な外戚は無いわけで・・・

とは言え、皇室出身で無い女性が皇后になるなんてのは初めての事・・・やがて偉大な父=不比等の死とともに、反発する長屋王(ながやのおう=天武天皇の孫)を抹殺する(2月12日参照>>)という血なまぐさい事件を経て、彼女は皇后となりました。

これで、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇子が、次の天皇にでもなってくれたら・・・4分の3が藤原氏の血脈の天皇誕生という事で万々歳!!

しかし、二人の間に女の子は無事生まれたものの、次に生まれた男の子が1歳(満年齢で)に満たないうちに病死・・・しかも、見事なタイミングで、別の妃が男の子=安積(あさか)親王を出産してしまいます。

このままでは、その安積親王が次期天皇に・・・

さらに、天然痘の流行により、頼みの兄たちが次々と病死・・・万事休すの状況で藤原一族が取った行動は。。。
前代未聞の女性皇太子でした。

そう、先に生まれていた女の子=阿倍内親王を皇太子に・・・まさに、最後の切り札です。

しかも、それでも気になる安積親王は、聖武天皇が次々と都を変える迷走(12月15日参照>>)につき合ってる最中の恭仁京(くにきょう・くにのみや)にて病死という不可解かつ気の毒な出来事にて去りました。

やがて、病気がちになった聖武天皇に代わって、阿倍内親王が第46代孝謙(こうけん)天皇として即位したのは天平勝宝元年(749年)、光明皇后49歳の時でした。

その孝謙天皇をバックで支えるのは、もちろん、母である光明皇后と、そして、ここに来て頭角を現して来た、皇后の兄=武智麻呂の息子の藤原仲麻呂(なかまろ=恵美押勝)

もはや病気がちな聖武天皇に代わって、むしろ、光明皇后の紫微中台(しびちゅうだい=光明皇后の家政機関:長官は仲麻呂)中心の政治が行われる中、天平勝宝四年(752年)に念願の大仏開眼の大事業を終えた聖武天皇が、その4年後に亡くなるのですが・・・

最後の握りっペじゃないですが、そんな聖武天皇は、その遺言として、次の皇太子に道祖王(ふなどおう=天智天皇の孫)を指名してお亡くなりに・・・

そう、道祖王は、藤原氏の息のかかっていない皇子です。

孝謙天皇は女性天皇・・・誰かと結婚して、その子供が皇太子になる事はあり得ないわけですから、結局は、今いる皇子の中から誰かが皇太子になるわけですが、それが、藤原氏に縁の無い人物であったら、それこそ、これまでの苦労が水の泡・・・

そこで、聖武天皇の死から間もなく、唯一藤原氏に対抗できる立場だった左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が亡くなった途端に、孝謙天皇は他の大臣の進言を無視して道祖王を皇太子から廃し、独断で大炊王(おおいおう=舎人親王の皇子)を皇太子に決定してしまったのです。

この大炊王は、仲麻呂の息子の嫁の再婚相手・・・って、結局は、関係薄いのですが、ただ、彼は、現時点で仲麻呂の屋敷に同居してる=つまりは、仲麻呂の意のままになる人物だったのですね。

しかし、これに反発したのが、亡き橘諸兄の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の一派・・・何とか、仲麻呂を倒さんと企みますが、その計画は事前に発覚してアウト!!

この橘奈良麻呂の乱で、反対派は一掃されるのです(7月4日参照>>)

光明皇后が亡くなる3年前の天平宝字元年(757年)に起こったこの事件・・・発覚当初、光明皇后が、出頭して来た彼らに対し、
「アンタたちは私の親族やん。
謀反を考えているなんて噂は信じられへんわ。
きっと何かの間違いだと思うので罪には問いません・・・信じてるからね。」

と言って罪に問わなかったにも関わらず、翌日、彼らは、孝謙天皇と仲麻呂の判断により、(むちうち)での死刑となってしまいます。

齢50も半ばを過ぎた、もはや晩年と言える時期に起こったこの事件を、光明皇后は、どのような心持ちで見ていたのでしょう。

これまで、藤原氏の期待に応え、藤原氏の娘として、様々な危機を乗り越えて来た光明皇后・・・

Tousanzyou600 彼女が44歳の時にしたためた『楽毅論(がっきろん)臨書(りんしょ=手本を見ながら書いた物)には、藤三娘(とうさんじょう)の署名があり、結婚28年目にして、未だ皇后というよりも「藤原氏の娘」であるという立場が垣間見えます。

ここまで、自らの慈愛の精神に反する血の制裁を、その心を押し殺し、「藤原氏のため…」と言い聞かせて生きて来たのかも知れない光明皇后・・・

しかし、今回・・・そう、彼女の言葉にあるように、今回は、その橘氏も親族。

藤原氏が異母兄の家系なら、橘氏は異父兄の家系・・・彼女の母の孫たちなのです。

そんな彼らの没落を、光明皇后は、どのように見ていたのか・・・

もはや、その心の内を知る手だてもありませんが、そんな中でも、晩年の光明皇后は娘=孝謙天皇の行く末が、一番気がかりだったかも・・・

天平宝字四年(760年)6月7日光明皇后は静かに、その生涯を閉じますが、その彼女の死が、結果的に、この後の孝謙天皇の寂しさに拍車をかけ、やがては藤原仲麻呂の乱(9月11日参照>>)に発展するとは、思ってもみなかったでしょう。

光明皇后が、亡き父=不比等の邸宅跡に建立した法華寺・・・ここは、その正式名称を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と言います。

これは、ただ単に、女人の罪を消すという意味のネーミングだったのでしょうか?

ひょっとしたら、慈愛に満ちたそのウラで、彼女は、ただひらすら懺悔し、その罪障を消滅させたかったのかも知れません。
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●ゆかりの寺=法華寺への行き方は、本家HP「奈良歴史散歩:佐保・佐紀治」へどうぞ>>
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2012年6月 6日 (水)

後醍醐天皇の建武の新政

 

元弘三年(1333年)6月6日、去る5月25日に北条高時一族滅亡の一報を聞いた後醍醐天皇が京都に入りました・・・いよいよ、あの一連の建武の新政が開始されます。

・・・・・・・・・・・・

護良親王(もりよししんのう=後醍醐天皇の皇子)ゲリラ戦(2月1日参照>>)
楠木正成(くすのきまさしげ)千早城籠城(2月5日参照>>)
足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)六波羅探題(ろくはらたんだい)攻撃(5月9日参照>>)
そして
新田義貞(にったよしさだ)龍神伝説(5月21日参照>>)

様々な名場面とともに、鎌倉幕府政権下でその勢力を誇った北条高時(ほうじょうたかとき)の一族が鎌倉の露と消えました(5月22日参照>>)

この一報を聞いた後醍醐(ごだいご)天皇は、ただちに伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)を出立(5月23日参照>>)、一路、東へ・・・元弘三年(1333年)6月6日京都に入ったのでした。

すでに、六波羅探題が陥落した時点で、光厳(こうごん)天皇廃帝にして、事実上政権を奪取していた後醍醐天皇は、早速、功績のあった者に特別人事を発表するとともに、院政も、摂関政治も、幕府も否定した建武の新政を開始するのです。

Kenmunosinseisosikizu

まずは、休眠状態となっていた中務省などの八省を復活させて、そこの長官に上級貴族たちを任命します。

中央機関には、一般政務をこなす記録所、都の警備を担当する武者所、文字通り恩賞を管理する恩賞所、所領のモメ事に採決を下す雑訴決断所(ざつしょけつだんしょ)置いて、

地方には、守護国司を併置・・・さらに、重要箇所となる関東には、関東8ヶ国と伊豆・甲斐を統治する鎌倉将軍府を置き、その長官に成良(なりよし・なりなが)親王(後醍醐天皇の皇子)、補佐に足利直義(ただよし=高氏の弟)を任命・・・

もう一つの重要箇所=東北には、陸奥将軍府を設置して、長官に義良(のりより・のりなが)親王(後醍醐天皇の第7皇子=後の後村上天皇)を任命し、その補佐に北畠顕家(きたばたけあきいえ=親房の長男)をつけました。

しかし、その亀裂は早々と生まれます。

そもそもは、
後醍醐天皇と公家たちが目指すのは、延喜&天暦の時代に行われた天皇&貴族の政治・・・

ともにゲリラ戦を展開した悪党たちを統率する護良親王が目指すのは革新的な政治・・

高氏に代表される御家人たちは、武功に見合った恩賞を武家に与える新政を・・・

と、はなからその青写真が違うのです。

わずか1週間後の6月13日・・・護良親王が征夷大将軍に任命されます(7月23日参照>>)

しかし、これが、そのページにも書かせていただいたように、すでに親子関係に亀裂が生じている中での、親王たっての希望による半ば強引な将軍任命で・・・後に尊氏自身が「そもそも征夷大将軍って源平両氏の武将の中から、その功績によって選ばれるもんちゃうん?」と反論したくなるような人事だったわけで、しかも、結局、後醍醐天皇の命により、護良親王は幽閉されてしまっていて、いったい、このドタバタは何だったんだって感じです。

しかも、公家の事ばかり考える新政は、宮殿を新しく造り変えるための資金ねん出のために無益な紙幣を発行したり、武士に対して過剰な労働を課したりして、武士や庶民の不満はつのるばかり・・・

また、「土地所有権の管理には綸旨(りんじ=秘書は天皇の意を受けて発行する書面)が必要」なんて法令を出しちゃったもんだから、全国から綸旨を求めて人が都にワッサワッサ・・・

その混乱ぶりは、新政開始の翌年8月に登場した「二条河原の落書」に見事に風刺されています。

当時は、何か事件があると、すぐに、それを風刺した落書きが京の辻や河原に立てられましたが、この二条河原の落書は、その中でもグンを抜いた物・・・日本の落書き史上の最高傑作と言える物です。

小気味いいリズムに機知に富んだ言い回し・・・しかも、観察力と洞察力をフルに活かして、見事に情景を皮肉ってますね~

2zyougawaranorakusyo1000
「二条河原の落書」のイメージ(文章は「建武記」国立公文書館蔵より)

・・・て事で、やがては、高氏反旗のキッカケとなる中先代時行(なかせんだいときゆき)の反乱・・・となるのですが、そのお話は、また、日をあらためて・・・って事でよろしくお願いします。
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2012年6月 5日 (火)

源平合戦につながる…平忠常の乱・勃発

 

長元元年(1028年)6月5日、平忠常が安房国府を襲撃し国司を殺害しました。

・・・・・・・・

この事件を受けた朝廷が6月21日に、平直方(たいらのなおかた)追討使に任命するところから、この事件を以って「平忠常の乱」の勃発と考えてよいと思います。(実際にはそれ以前からゴチャゴチャありますが…)

結果を先に申し上げて恐縮ですが、この時の直方が、乱を起こした平忠常(たいらのただつね)の追討に思うような成果を挙げられなかった事から、この次に、以前、忠常に勝った経験がある源頼信(みなもとのよりのぶ)が次の追討使に任命され、結果的に、この頼信が忠常を押さえて関東に勢力を誇った事から、源氏が関東武士を牛耳る棟梁となるわけで・・・

そうなんです。
最終的に源平の戦いに勝利する源頼朝の拠点が鎌倉である事や、その後に足利新田といった有名どころが登場するところから、何となく源氏=関東のイメージが強いですが、実は、もともと関東に勢力を持っていたのは平氏のほうで、源氏は、この頼信までは、あくまで、畿内中心の武士団だったのですね。

本日の日づけでご紹介した平忠常の乱は、これから3年間の長きに渡って展開される抗争なので、その事件の流れについては、それぞれの日づけで、おいおい紹介させていただく事として、本日のところは、今年の大河ドラマ「平清盛」にも通じる源平合戦のおおもと部分をご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

そもそもは、奈良時代から平安時代の始め頃までの地方行政は、郡司(ぐんじ)に任命された地方豪族を、中央から派遣された国司が統率する事で均衡を保っていたわけですが、何かと甘い汁の吸える位置にいる支配者と、貧困にあえぐ支配される側との関係が徐々に崩れ始め、やがては、有力農民の中から武装して自衛する者などが現われ、租税の額や私有地の境界線をめぐって、国司と一戦交えるようになり(くわしくは11月8日参照>>)、そこに、天皇家から姓を賜って配下に下った平氏や源氏が加わって武士団が形勢されていく・・・

そんな中で頭角を現したのが、あの平将門(たいらのまさかど)だった(11月21日参照>>) わけですが、ご存じのように平将門の乱は、中央から派遣された平貞盛(さだもり)藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)らの同盟軍によって、まもなく鎮圧されます(2月14日参照>>)

実は、今回の忠常さんは、この将門の従兄弟の息子・・・忠常の祖父にあたる良文(よしふみ)が、将門とかなり親しかったらしく、叔父と甥の関係とは言え、年齢的には将門より年下だった良文は、将門と父子の契りを結んでいたとも言われます。

おそらくは、乱の時も将門に従ったものと思われますが、乱への関わり方がそれほどでも無かったのか?、将門が討たれた後も、良文が咎めを受ける事が無かったため、武蔵(むさし)下総(しもふさ)上総(かずさ)などの地盤を、そのまま息子たちたちに残す事ができました。

良文の息子の忠頼(ただより)は、武蔵に本拠を置き、さらに強力な武士団を形成しつつ、陸奥介(むつのすけ)などの官職も務めました。

・・・で、その忠頼の長男の将常(まさつね)が、やはり武蔵を拠点に勢力拡大を図り、弟の忠常が下総と上総の2国に勢力を誇っていた・・・というわけなのですが、この忠常さんは、かなりの武勇の持ち主だったようで、何やら、その面影を将門に重ねる者も多くいて、国司に反発を持つ武士たちからは、将門の再来のように尊敬を集めていたようです。

常に反国司の立場をとっていた忠常ですから、あの将門にイメージをだぶらせられる事は、おそらく、まんざらでは無かったのかも・・・

そんな中、今回の乱を起こす15年ほど前の長和元年(1012年)にも、忠常は下総国の国司に反発した事があったのですが、その時は、隣国で常陸介(ひたちのすけ)を務めていた源頼信の軍勢に負け、一旦、その配下となる事を誓っています(冒頭に忠常に勝った事があるというのは、この時の戦いの事です)

実は、この時には、忠常と頼信の兵力に、相当な差があったのですね。

この時代、平氏は、すでにいくつかの家に分かれ、それぞれが独立した武士団の形成していたのですが、源氏のほうは、未だ一枚岩だったのです。

もちろん、源氏も清和天皇から数えて4代めにあたるところで、源頼光(よりみつ)摂津源氏源頼親(よりちか)大和源氏、そして頼信の河内源氏に分かれてはいましたが、それらがともに摂関家の支援を受けて中央での勢力を伸ばしていたため、頼信の兵力=中央の兵力なわけで、そもそも一地方勢力の忠常がかなう相手では無かったのです。

ちなみに、頼朝は河内源氏です。
今回の頼信さんの孫が、あの八幡太郎義家で、その曾孫が頼朝の父の義朝・・・新田と足利は義家さんの息子の代から枝分かれします。

・・・で、今回の乱・・・

前年の万寿四年(1027年)に関東一帯が、大変な飢饉に見舞われたのですが、上総の国司がおかまいなしに過酷な税の徴収を行った事から、武士たちに不満がつのり、担がれれば、つい引きうけちゃう将門譲りの性格で、忠常が立ちあがり、最初は上総&下総にて展開されていた反乱が、いつしか安房(あわ)へと進み長元元年(1028年)6月5日安房国府を襲撃して国司を殺害したというわけです。

しかし、先に書いた通り、自らの兵力がそれほど無い事は忠常自身も重々承知・・・なので、この時も、あくまで、民衆を苦しめる国司に対する反乱であって、中央に反発する物では無い事を明確にし、すぐさま京都に使者を送って、朝廷との和解工作をはかっています。

ところがドッコイ・・・その半月後に、朝廷が追討使に平直方を任命しちゃった事で、この乱が長引く事となったのです。

実は、この直方の曽祖父=平貞盛(さだもり)という人が、あの将門の乱の時に、将門追討軍に加わっていた人物・・・

なので、将門ドップリの忠常と、反将門派の直方は、かの乱以来の因縁の敵同士の家系・・・しかも、直方本人も、その領地をめぐって、忠常の兄の将常ともモメてる人なのです。

摂関家の家人でもあった直方は、朝廷での話し合いが行われた時、
「どうあっても忠常を討つべし!」
と、強く主張して追討使に任命されていたのです。

これを機に、関東での勢力をさらにのばそうとしたのですね。

さぁ、売られたケンカは買わねばなりません!

平忠常の乱が始まります。

と、いきたいですが、冒頭に書かせていただいた通り、今回は、ここまで・・・続きは、追討使=直方が京都を出立する8月5日のページでどうぞ>>(清和源氏の系図も、ソチラにあります)

Kanmuheisikeizu_2 ↑クリックすると、さらに大きく見れます

ところで、今回、人間関係がややこしいかと思い、系図を用意させていただきました
(これの作成のために記事upが遅くなって申し訳ないです)

あくまで、今回の話に関係ある部分という事で、多くの部分をはしょらせていただきましたが、この系図を見ていただいてから、この後の源平合戦の事で何か感じませんか?

そう、平家の味方は、左のほうだけ・・・系図の右側に位置する関東の平氏は、皆、源頼朝の配下なんですよね。

つまり、源平合戦と言われますが、現実にはほとんどが平氏・・・なので、「源平合戦は、平家VS坂東平氏の戦い」という見方もあるのです。

ちなみに、一般的には、平氏と言う場合は平氏全体を、平家と言う場合は平氏の中の清盛の一門を指します・・・なので、例のあの物語は『平家物語』なのですね。
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2012年6月 4日 (月)

遊郭通いで隠居?伊達綱宗の汚名を晴らしたい

 

正徳元年(1711年)6月4日、仙台藩の第3代藩主で、後の伊達騒動の原因を作ったとも言われる伊達綱宗が72歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・

伊達綱宗(だてつなむね)は、あの伊達政宗の孫・・・

お兄さんが亡くなった事から、6男でありながら嫡子となり、万治元年(1658年)、第2代藩主だった父=伊達忠宗(ただむね)の死を受けて家督を継ぎ、20歳そこそこで第3代仙台藩主となりました。

Datetunamune500 熱血漢でハリキリボーイだった綱宗は、若いミソラで大きな藩を任された事でますます燃え、就任当初はヤル気も満々だったようですが、いかんせん、お酒を飲むと、少々乱暴になるクセがある・・・

そんなこんなの万治三年(1560年)5月・・・仙台藩は幕府から、江戸小石川掘の普請を命じられます。

例の天下普請というヤツですね・・・天下普請については2010年5月25日の【宝暦治水事件】の冒頭部分を参照>>)

その工事自体は、ソツなくこなす綱宗でしたが、ある日の夕刻・・・1日の作業も終えてホッと一息つき、わずかの供を連れて、気晴らしにと新吉原へと繰り出します。

しかし、これがいけなかった・・・

吉原の遊郭=三浦屋で見かけた当代きっての人気花魁=高尾太夫に一目ぼれ・・・

と、以前、榊原政岑(さかきばらまさみね)に身請けされた高尾太夫のお話(2月19日参照>>)の時にも書きましたが、この高尾という名前は、代々の人気の花魁が継ぐ名前なので、高尾太夫は何人もいます。

綱宗さんが見染めた高尾は2代めだったと言われ、区別するために万治高尾とか仙台高尾とか呼ばれます。

とにもかくにも、この高尾にメロメロの綱宗は、天下普請に某大な費用がかかる事もおかまいなく、毎夜のように高尾のもとに通いつめ、飲めや歌えの大騒ぎ・・・

当然の事ながら、最終的には身請けという話なるのですが、これが、どうにもこうにも高尾本人が首をたてに振らない・・・

破格の身請け金を提示して、晴れて大名家に受け入れるという最高の優遇をして、何とか身請けした綱宗でしたが、その後も高尾自身が心を開く事はありません。

結局、いつまで経っても、心底、自分の物にならない高尾の態度に怒った綱宗は、隅田川の船上で、高尾を縛り上げて斬殺したのだとか・・・

すぐに、この酒池肉林の横暴三昧は幕府の知るところとなり、綱宗は、未だ21歳の若さで隠居させられ、わずか2歳の嫡男=綱村(つなむら)第4代藩主となるわけですが・・・

当然の事ながら、2歳の藩主に政治ができるわけもなく、その周囲の実力者の思うままとなり、そうなると、それに反発する者が現われ・・・って事で、有名な伊達騒動(3月27日参照>>) となるわけです。

そのため、お芝居やドラマなどでは、この綱宗さんは、大抵、バカ殿扱いされています。

が、しかし・・・
お察しの通り、この話には裏がありそうです。

そもそも、一大事件となった高尾太夫の一件にしても、綱宗がゾッコンとなった相手は、京町高島屋かほるという女性だったとか、湯女(ゆな=風呂で体を洗ってくれる女性)勝山という女性だったとか言われてはっきりせず・・・斬殺の話は創作であろうというのが一般的な見方です。

ただ、斬殺は無いにしろ、酒池肉林の遊郭三昧は本当だったと言われていますが、これも、実は、綱宗さんがハメられた感じ???

そう、実は、この綱宗さん・・・お母さんの貝姫藤原櫛笥=くしげ)隆致というお公家さんの娘で、そのお姉さんは、後水尾(ごみずのお)天皇の妃の逢春門院隆子(ほうしゅんもんいんたかこ)

このお姉さんが生んだ皇子が、以前ご紹介した第111代後西(ごさい)天皇(2月22日参照>>)・・・。

つまり、綱宗さんと後西天皇はいとこ同士になるわけですね。

なので、一説には、この天皇家との密接な関係を、幕府から警戒されないように、自ら、バカ殿のフリをしていた・・・なんて話もあります。

そこを、権力を握りたい家臣につけ込まれ、あるいは、幕府の差し金で、その豪遊三昧の行状を幕府に訴えて隠居に追い込むという謀りごと・・・てな、事ですね。

なんせ、隠居後は、一転して風流三昧に生き、多くの作品を残している綱宗さんなのですが、聞くところによれば、その作品が、どれもこれも見事な物なのだそうです。

書画にはじまり、和歌や蒔絵など・・・どれもこれも、本当にバカ殿だったら、そんなにすばらしい作品を残せるはずもないわけで・・・

おそらくは、優秀で自ら手腕を発揮する殿様であったからこそ、逆に幕府からは警戒され、藩内を牛耳りたい家臣にハメられた・・・という事なのでしょう。

正徳元年(1711年)6月4日・・・引退後に起こった伊達騒動も含め、その罪を一身にかぶったまま、この世を去った綱宗さん・・

近年行われた学術調査で、その死因は喉頭癌(こうとうがん)であった事が判明しています。

いつか放蕩(ほうとう)大名の冠が外れる事を祈って・・・
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2012年6月 2日 (土)

平家滅亡後も生き残った清盛の弟・平頼盛

 

文治二年(1186年)6月2日、平清盛の弟・平頼盛が54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

源平の合戦において、親兄弟でも敵味方に分かれて争った源氏に比べ、「死ぬ時は一族もろともに…」の印象が強い平家・・・

ともに都を落ち、ある者は戦場で討死し、ある者は西海のもくずとなり、捕えられた者は処刑される・・・

それこそ、あの平治の乱の後に、自分を生かしておいた事が、平家滅亡へつながった=平清盛(たいらのきよもり)の最大のミスである事を痛感する源頼朝(みなもとのよりとも)は、同じテツを踏むまいと、完璧な戦後処理を心がけたはずです。

なんせ、最後の最後には、もはや出家していた六代(平高清)(2月5日参照>>)でさえ犠牲になっているのですから・・・

そんな中で、平家方の重要人物でありながら、都落ちもせず、平家滅亡後も朝廷に留まって、見事、生き残った人がいます。

それは、平忠盛(ただもり)の五男・・・つまり、清盛の異母弟にあたる平頼盛(たいらのよりもり)です。

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頼盛の屋敷:池殿があったとされる京都市東山区池殿町付近

頼盛の母は、忠盛の正室=宗子(池禅尼)・・・ドラマでは、すでにこの先を暗示するかのように、何となく、異母兄の清盛とはシックリいってない頼盛さんですが、その心の内はともかく、あくまで、この時点の記録として残る頼盛さんは、ただ1人の正室の子として優遇され、平家内では、清盛に次ぐ位置をキープしてます。

ドラマでもあった通り、清盛とあまり年齢差がなかった宗子の最初の息子は若くして亡くなり、その後、夫=忠盛が亡くなった時には、頼盛はまだまだ幼かったですから、正室の子では無いにしろ、長男である清盛が後を継ぐ事には、宗子も異存は無かったでしょうしね。
(ドラマでは、清盛は『100%白河上皇の子供』という事が周知の事実となってますが、実際には噂の一つに過ぎず、あくまで忠盛の実子ですので…)

なんせ、宗子さんは、先の近衛(このえ)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後白河(ごしらかわ)天皇とライバル関係にあった重仁(しげひと)親王乳母であり、亡き忠盛は乳父(めのと)だったのですから、その立場としては完全に敵対するはずですが、「院の御方(崇徳上皇)側が負けるなり~」との、彼女の鶴の一声で、保元の乱(2011年7月11日参照>>)での平家は皆で後白河天皇側につく事になった(2016年7月11日参照>>)とされてますから、「我が子推し」よりは「平家一門」の事を、彼女は、ちゃんと考えてたと思います。

とにもかくにも、まだ、このあたりの頼盛さんは、清盛や平家の皆々とも、確執的な物は無かったように思います。

続く平治の乱(12月9日参照>>)でも、兄=清盛を助けて大活躍する頼盛ですが、この頃から、彼にライバルが登場します。

それは、清盛の長男である平重盛(しげもり)・・・それまでは、冠位も何もかもが自分より下だった重盛が、平治の乱のあと、あれよあれよという間に出世して、清盛の次に、平家で2番目に公卿となります。

とは言え、そのあと、すぐに頼盛も平家で3人めの公卿となりますし、そもそも、叔父と甥と言えど、頼盛と重盛の年の差は、わずか5歳・・・清盛が社長とすれば、「弟の頼盛よりも、息子の重盛が次期社長になるだろう」って事は、誰しもが感じるところですから、どこかで追い抜かされるのは当たり前なので、むしろ、3番手キープならOKとしましょう。

ところで、この頃、頼盛は大宰大弐に任命されて九州に赴任しています。

当時の常識としては長官本人が現地に行く事が無かったにも関わらず、頼盛自身が現地に赴いた事に関しては一つの謎とされますが、私自身は、やはり、清盛がいかに貿易を重視していたかの現われではないか?(2月27日参照>>)と思っています。

重要だからこそ、自らの弟に、直接現地で腕を奮うようにさせたのではないかと・・・それほど、清盛からの信頼も篤かったと思ってます。

ところが、例のごとく、清盛が後白河法皇と対立するようになる頃から、頼盛と平家一門との間に、徐々に溝ができ始め、頼盛は、後白河法皇寄りの態度を取るようになるのです。

ただ、清盛と後白河法皇の関係悪化が表面的となる鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)のあたりでは、さすがに、この一件に怒りまくる清盛の手前、あからさまに後白河法皇側につく事はなく、ワリとおとなしくしてはいましたが、清盛が後白河法皇を幽閉した「治承三年のクーデター」(11月17日参照>>)の時には、その直後に、
「頼盛が法皇を救いだして清盛に合戦を挑むのでは?」
との噂が流れた・・・なんて事もあったようなので、そのきな臭さは周知のところだったのかも知れません。

ただし、この時は、頼盛が完全に否定して、清盛に改めて恭順を誓って事無きを得たようです。

とは言え、やはり、溝は埋まってはいませんでした。

やがて訪れた清盛の死後、平家の棟梁の座を継いだ宗盛(むねもり=清盛の三男)は、さすがに頼盛に気をつかいまくりで、頼盛も、その宗盛の態度に応えて協調の姿勢を見せたりもしていたのですが、やはり、心の奥底では、もはや、その関係修復は不可能な状態となってしまっていたようです。

そうです。
北陸での合戦に勝利して(6月1日参照>>)木曽(源)義仲が京都へと迫って来た事により、一門揃って都落ち(7月25日参照>>)する平家ですが、頼盛は、この都落ちに参加してません。

そもそもは、宗盛が「都落ちをする」報告を頼盛にしてなかったとも言われ、その後、ギリギリになって聞いて一旦参加したものの、結局、頼盛は、「忘れ物しちゃった」隊を離れて都に戻ってしまったとか、はなから別行動をとってたとか・・・

とにかく、ここで、一緒に都落ちしなかった彼ではありますが、都にいても、すでに館は全焼・・・やむなく、比叡山へと逃れていた後白河法皇を頼り、その法皇の勧めで、八条院(暲子内親王=後白河法皇の異母妹)のもとに身を隠して、しばらくはおとなしく・・・すると思いきや、もう、ここで、鎌倉にいる頼朝との接触を試みます。

もちろん、これには、義仲を嫌い、頼朝に上洛して平家を討ってほしいと願う後白河法皇の意向が多分に含まれているのでしょうが、未だ、義仲が都を牛耳ってる段階で、すでに、鎌倉に行って、頼朝に会い、朝廷とのパイプ役に徹していたようです。

そのおかげなのか・・・冒頭にも書かせていただいたように、平家が西海に没した後に、頼朝によって、あれだけ厳しく関係者が罰せられた中で、頼盛は、お咎めなしなうえに、見事、朝廷出仕に復帰するのです。

とは言え、タイミング的に、朝廷の関係が悪化し出した義仲が、都で暴れ始めた頃(11月18日参照>>)に、ちょうど京都を脱出して、遠き鎌倉にてのほほん待遇を受けていた事で、周囲からは冷たい視線が浴びせられていたらしく、結局は、頼盛は徐々に表舞台からフェードアウト・・・

平家の壇ノ浦滅亡から、わずか1年2ヶ月の文治二年(1186年)6月2日・・・すでに病に冒されていた頼盛は、静かに、そしてひっそりと、この世を去ります。

途中から平家一門と離れ、戦線離脱した事から、軍記物では、脱落者もしくは裏切り者呼ばわりされる頼盛さん・・

一方の鎌倉幕府の公式記録では、
あの平治の乱後に、宗子が、「死んだ息子に似てるから、助けたってぇな」と清盛に泣いて頼んだ(2月9日参照>>)事から、その命が救われた頼朝が、その宗子の息子だから優遇した・・・つまり、「頼朝=ええヤツ」的な美談をかもし出させるネタにされてる感のある頼盛さん・・・

果たして彼は、西海に散った一門を、どんな思いで見ていたのでしょう。

また、戦国のごとく、彼は、忠盛の血筋を残すために、思いを託されて留まったのだとしたら・・・

その心が読めないだけに、様々な妄想をかきたてられる人であります。
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