勤皇の先駆者・高山彦九郎~謎の自刃
寛政五年(1793年)6月28日、寛政の三奇人として知られる江戸時代の思想家・高山彦九郎が自刃しました。
・・・・・・・・・
「寛政の三奇人」の奇人とは、今で言う「奇人変人」の奇人では無く、「特に優れた人物」という事・・・
民を救うべき政治論を唱えた林子平(しへい)、
海防の重要性を説いた蒲生君平(がもうくんぺい)、
そして、
今回の高山彦九郎(ひこくろう)正之です。
京都の三条大橋の東側のたもとに、土下座しているように見える(実際には御所を拝礼している)けっこう目立つ銅像がある事で、名前をご存じの方も多いと思いますが・・・
上野(こうずけ=群馬県)に生まれ、少年時代に『太平記』を読んで勤皇に目覚めた彦九郎は、18歳の時に家出・・・各地を転々としながら、その勤皇思想に磨きをかけていきます。
ただ単に家出して、そこらへんでウロチョロしてるだけなら、人間、成長する事はなかなかに難しいですが、彼の場合は、しっかりとりた思想があり、目標を以っての各地巡歴・・・
名所旧跡を巡りながら、有名な人物や賢者と称される人々と会い、様々な議論を重ねて、自分自身を成長させていったのです。
その交友関係は広く、
寛政の三博士の1人=柴野栗山(しばのりつざん)や、
あの頼山陽(らいさんよう)の父=頼春水(らいしゅんすい)、
儒学の大家=細井平洲(ほそいへいしゅう)、
水戸学で知られる藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)の父=藤田幽谷(ゆうこく)、
『解体新書』(3月4日参照>>)でお馴染の前野良沢(りょうたく)
などなど・・・
京都に滞在した時は、第119代光格(こうかく)天皇に拝謁するチャンスにも恵まれ、ますます勤皇思想を篤くする彦九郎ですが、そんな彼の思想が、幕府の警戒を生んでしまいます。
そう、以前書かせていただいたように、この光格天皇は、江戸開幕以来、久々に、「幕府に物申す」天皇です(11月18日参照>>)。
もちろん、そこには、そのページに書いた「御所千度参り」現象に見る幕府体制の揺らぎや、そこをうまく突いた「尊号一件(そんごういっけん)」(7月6日参照>>)でのゴタゴタなど、幕府崩壊を予感させるような出来事が起こっていたわけで、その尊号一件に関わっていた中山愛親(なるちか)とも親しかった事から、やはり彦九郎も警戒されたのです。
そんな中でも、各地を巡歴する旅を行っていた彦九郎は、寛政三年(1791年)、京都を離れ、九州へと旅立ちます。
彼にとっては初めての九州ですが、出発前には、薩摩藩や肥後熊本藩への公卿からの伝言を預かっていたという彦九郎・・・そう、これは、九州各地に勤皇思想を教え&広める旅だったのですね。
若い頃は、巡歴の旅で、有名な思想家に会って、自らの思想を高めていた彦九郎ですが、もはや、その巡歴の旅は、勤皇思想を説く立場にあったのです。
小倉から久留米に入り、熊本では有名な思想家たちと論議を交し、次に向かった鹿児島・・・しかし、ここで関所の通過を拒否されてしまいます。
薩摩の学者=赤崎海門(かいもん=禎幹)などに会う事はできましたが、薩摩藩の江戸屋敷にいる面々の警戒に遭い、やむなく、夢半ばであきらめ、日向(宮崎)を経由して、再び熊本へと戻って来ました。
しかも、このあたりからは、幕府の監視もつくようになり、もはや、京都に戻るのも身の危険を感じるような状況になっていたようです。
そんな中でも久留米藩家老の有馬主膳が彦九郎の強い味方であり、城下の医師・森嘉膳宅にいつも身を寄せていた事から、寛政五年(1793年)6月19日、またまた、嘉膳の家にご厄介になりに訪れた彦九郎・・・
しかし・・・
嘉膳の日記によれば、すでに、この時に彦九郎の様子がおかしかったとか・・・
その風貌が異様に変化し、指で歯を鳴らしたりして落ち着かない様子・・・「具合が悪いのか?」と聞くと「暑いだけや」と答えたとか・・・
とりあえず、その場で脈をとり、落ち着く感じの薬を与えて静養させる事に・・・
しかし、滞在から1週間ほど過ぎた6月27日・・・今まで書きためていた日記や、親しい人から贈られた手紙などを、突然、破り始めた彦九郎・・・
「何をするんや!」
と、嘉膳が、門弟の長野十内と二人で慌てて止めに入ると
「狂気也」
と答え、また、指で歯を鳴らしたと言います。
「日頃書きためた日記を末梢してしまうなんてもったいないやん。
僕に預けてくれたら、1冊の本にしたるのに…」
と嘉膳が言うと、
「恨みを残さんためにも、破り捨てたほうがええねん!」
と、また破ろうとします。
そこで、十内が、
「後々、誰かが、アンタの行動を謀反やって言うた時、これらが無くなってたら、どないして無実を証明したらええねん!」
と言うと、ふと、彦九郎の手が止まり、黙って破り捨てるのをやめたのだとか・・・
薬を与えると落ち着いたので、何かと忙しい嘉膳と十内は、少しだけ彦九郎の部屋を離れましたが、その間に、彼は切腹を決行していたのです。
再び部屋に戻って、切腹した彦九郎を発見した二人・・・彦九郎は、二人をそばに呼び寄せると、紙に書いた辞世の句を渡しながら、
「自分が、日頃、忠義やと思ってやった事が、不義や不忠となってしもた。
天が俺を狂わせたんや。
天下の人に宜しく伝えとってな」
と・・・
嘉膳がケガの治療をしようとすると、一旦は拒否しますが、嘉膳が、
「医者がケガ人を見て治療せぇへんかったら、俺が罪に問われる」
と言うと、素直に治療を承諾し、
「ほな、体を京都と上州(生まれ故郷)の方角に向けてくれや」
と・・・
そして、京都の方角を向いて柏手を打ち、そのままの姿勢で動かなかったとか・・・
やがて検視に来た役人に、自刃の理由を聞かれると
「狂気」
と、ひと言だけ答えたのだそうです。
かくして、日づけが変わった寛政五年(1793年)6月28日、午前4時頃・・・高山彦九郎は46歳の生涯を閉じました。
そう、実は、彼の死には、今以って謎が多いのです。
自刃の理由には、かの「尊号一件」を成しえなかった事に悲観したとか、薩摩での交渉がうまく行かなかった事に失望したとか、様々に語られますが、それこそ、彦九郎の心の内は彦九郎のみぞ知るところ・・・
しかし、寸前のところで、破られずに残った彼の日記は、吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)をはじめ、この先に維新という一大事業を成し遂げる多くの勤皇の志士たちに影響を与える事になります。
その勤皇思想から、戦前は、二宮尊徳(10月6日参照>>)や楠木正成(5月25日参照>>)と並んで、修身の教科書で英雄として賞賛された高山彦九郎・・・
今は、その名を知る人も少なくなりましたが、勤皇の先駆けとして突っ走った彼には、自分自身の有名無名より、多くの後輩たちが維新を成し得た事こそが、自らの生きた証であり、誇れる物であった事でしょう。
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コメント
こんにちわ。いつもありがとうです。


このブログ毎回楽しみに読ませ頂いてますよ
そして、ちょっと賢くなった優越感
今回の高山彦九郎は僕の地元群馬県太田市に記念館なるものがありまして、名前は幼少より知ってたんですが、
今回、初めて何をした人か知りました
投稿: Dolce | 2012年6月29日 (金) 06時45分
こんにちは~!
彦九郎も子平も高校の頃からよく存じております(子平と彦九郎も交友があります)。京都で彦九郎の銅像を見た時は感激でした。
蒲生さんはよく知らないのですが(山稜記を書いてるし彦九郎みたいな勤王家なんだろうな、としか)、子平も彦九郎も変わり者であったことは間違ないので、奇人は字の通りだと思っていました(笑)
吉田松陰は東北を旅した時、行く先々で彦九郎の名を聞き彼を知ったくらい、東北の人々の記憶に残り語り継がれていたらしいです。ちなみに、松陰を号したのも彦九郎が先で、彼に傾倒するあまり同じ号をつけた、と言われています。
直情傾向で気は短く大泣きだし、腕も立つし大柄だったので(若い頃荒れて喧嘩を売っていた時期があり、これまた腕が立つ子平が買ったのが、彦九郎と子平の出会いだったとか)、思想家ではありますがどこか単純で気が優しくて力持ちみたいなイメージがあります。
元々学問が好きで勤王に触れ、天皇をないがしろにされている現実に疑問を持ったのが最初ではありますが、先祖が新田氏の家臣だった(だから出身は新田郡)と聞かされて、先祖に自分を重ねて勤王一直線!京都では毎日にっくき尊氏の墓をこづいていたという話もあります。
政
投稿: おみ | 2012年6月29日 (金) 12時40分
Dolceさん、こんにちは~
コメントありがとうございます。
生誕地に記念館があると聞きましたが、そのお近くなのですね。
関西圏の私の場合は、やはり三条大橋の銅像ですね~
インパクトのあるポーズなので、子供の頃から気になってました。
投稿: 茶々 | 2012年6月29日 (金) 14時40分
おみさん、こんにちは~
くわしくご存じなのですね~
色々と、情報、ありがとうございました。
やはり、吉田松陰など、幕末の志士に与えた影響ははかり知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年6月29日 (金) 14時43分
先日、高山彦九郎記念館に伺いましたが、切腹の理由を理解できませんでした。解説頂き、少し理解出来ました。ありがとうございます。
投稿: 福 | 2023年12月12日 (火) 12時53分
福さん、こんばんは~
幕末は、短時間で大きく時代が変わる時期なので、現在進行形で生きていた方々は、皆さん手探り状態で、思い悩む事も多かったのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2023年12月13日 (水) 01時53分