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2012年6月12日 (火)

蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?

 

大化元年(645年)6月12日、中大兄皇子中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺乙巳の変がありました。

・・・・・・・・・

乙巳(いっし)の変・・・

上記の通り、中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり=後の藤原鎌足)の協力を得て、天皇をしのぐ勢力を持ちつつあった蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害するというクーデターです。

(事件の流れについては、古い記事ではありますが、すでに書かせていただいている2007年6月12日のページでどうぞ>>

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乙巳の変を描いた「多武峯縁起絵巻」(談山神社蔵)

以前は、この暗殺劇も含めた一連の出来事を大化の改新と呼んでいましたが、現在では、この暗殺事件を乙巳の変と呼び、この後に行われる様々な改革を事を大化の改新と、分けて考えるようになりました。

さらに、『日本書紀』に書かれている、その大化の改新の記述には、後の大宝律令が成ってからの役職が登場する事などの矛盾も多く、実際に改革が行われたのか疑わしいという事で、「今後の教科書からは大化の改新の名が消え、乙巳の変だけが残る」なんて話も聞きましたが、今現在の教科書はどうなっているのでしょう?

とにもかくにも、この時代の事を書いた1級史料とされる物が『日本書紀』しか無い以上、書かれている事を史実とし、それ以外の事は、あくまで推理していくしかない状況なわけですが・・・

とは言え、大化の改新しかり、乙巳の変しかり・・・
つじつまの合わないおかしな事は多々あるわけで、もはや、文面通りに受け止める事の方が少ないのが現状・・・

なんせ、『日本書紀』っつー物は、第40代天武天皇が政権を握った時に、その天武天皇のために、息子と藤原氏とが編さんした史書ですから・・・(2月25日参照>>)

その天武天皇は、かの壬申の乱で天智天皇=中大兄皇子の息子である大友皇子を倒して政権を握った(7月23日参照>>)わけで、つまりは、前政権を武力で倒した新政権が、前政権がいかにして政権を握ったか?を書いているわけで、そこには、現政権が、そんな前政権を倒した事を正統化する、事実ではない記述も多分に含まれていると考えるほうが妥当なわけです。

そんな中で、この乙巳の変を、文字通り「入鹿暗殺事件」と考えて首謀者を推理する時に、推理の基本でもある動機・・・この事件によって最も得をした人は誰か?と考えた場合・・・

浮かんで来るのは、やはり、このクーデターによって、日本初の譲位で新しく天皇となる第36代孝徳天皇ですね。

この孝徳天皇は、前天皇である皇極天皇の弟なので、兄弟簡で頻繁に皇位を継承していた当時としては、ごく普通なわけですが、問題は上記の通りの「譲位」・・・

それまでは、天皇が亡くなった事によって、次の天皇へと移っていたのが、ここで初めて、「現役の天皇が、次の天皇に皇位を譲る」という事が行われたわけで、この前例の無い即位には、やはり「何かあるのでは?」と疑ってしまいますね。
孝徳天皇・首謀説については2010年6月14日でどうぞ>>

さらに、鎌足・首謀説というのもあります。

冒頭に書いた通り、一般的には、鎌足の強力を得た中大兄皇子が・・・という事で、首謀者はあくまで中大兄皇子で、鎌足は協力者となっているわけですが、それが逆で、鎌足こそが首謀者であったという事・・・

まぁ、この後の藤原氏の繁栄ぶり(8月3日:藤原不比等を参照>>)を考えると、それもありかも知れませんが・・・

また、目新しいところでは、蘇我倉山田石川麻呂・首謀説というのもあります。

この蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、かの乙巳の変の時に宮廷の大極殿にて、天皇の前で外交文書を読んでいた人・・・彼が、この外交文書を読み終えた瞬間が入鹿に斬りかかる合図となっていたと言われ、つまりは、蘇我氏の一員でありながら、クーデターに協力した人です。

その根拠となるのは、現場に同席していた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ=中大兄皇子の異母兄)が、事件直後に語ったとされる「韓人が入鹿を殺した」という言葉・・・

かの『日本書紀』では、この言葉は「韓(からひと)の政(まつりごと)によって誅せられた」=つまり、「この時代に不穏な空気に包まれていた朝鮮半島の政治の駆け引きによって殺されたのだ」との注釈をつけているようですが、事件直後の興奮状態の時に、そんな抽象的な言い方をするだろうか???という事・・・

そこで、登場するのが、蘇我氏の出自です。

以前、仏像投げ捨て事件(3月30日参照>>) のところでも書かせていただきましたが、この蘇我氏のご先祖が渡来人だったかも知れない話は有名で、その関連から、渡来系の人々の束ね役となった事で蘇我氏が力をつけたと言われていますね。

つまり、石川麻呂・首謀説を唱える方の意見としては、この古人大兄皇子の言葉は、「韓人=蘇我氏の人間が入鹿を殺した」と解釈できるとして、1番身近にいたクーデター決行側の蘇我氏の人であり、当時、朝鮮半島との国交関連の担当でもあった人=石川麻呂という事なのです。

と、なると、かの乙巳の変から、わずか4年後に石川麻呂が自害してしまう事件(12月4日参照>>)も、後の内輪モメではなく、何か、別の大きな要因がある事になりますが・・・

と、本日は、3人の疑わしき首謀者のお話をご紹介させていただきましたが、もちろん、一般的に言われる「中大兄皇子・首謀」という考えもあるわけで・・・

「結局は、結論は出んのかい!」
とのお怒りもありましょうが、歴史という物は、明確な解答が出ないもの・・・様々な推理を楽しむのが醍醐味という事で、本日のところはお許しくださいませ。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは。推理ものは楽しいですね。答えが分からないのがこれまた良いのかも。歴史の醍醐味ですね。

投稿: いんちき | 2012年6月12日 (火) 23時22分

いんちきさん、こんばんは~

>答えが分からないのがこれまた良いのかも。

私もそう思います。
色々なパターンを妄想するのが、楽しいのではないかと…

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 00時33分

茶々様、こんにちは。

事件の真相とても気になりますね…古い時代のことなので難しいですが、まずは蘇我親子の本当のお名前が見つかるといいなぁ、なんて願っております。

投稿: 千 | 2012年6月13日 (水) 12時38分

「乙巳の変」という言葉を、つい最近テレビ番組でききました。
「大化の改新じゃないんだぁ」と腑に落ちないかんじでいた36歳です。。。
そしてまた先日、日本最古の貨幣が「木元(本?)銭」とテレビで見て、またびっくりでした。
歴史って変わるんですよね。
だからおもしろいんですね。
茶々さまのブログにも、いつも勉強させていただいてます。

投稿: やんたん | 2012年6月13日 (水) 14時10分

千さん、こんにちは~

この乙巳の変のドサクサで、それ以前の歴史書が全部無くなった事になっちゃってますからね~

どう考えても、「新政権に都合の悪い歴史が書かれてあった」という事でしょう。

惜しいですね~

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 15時11分

やんたんさん、こんにちは~

「木元(本?)銭」というのが発見されたのですか?
知りませんでした(@Д@;
興味深いですね~

私も「大化の改新」のクチですが、この乙巳の変は、「新発見」というよりは「新解釈」…

新発見は早々ある物ではありませんが、新解釈は日進月歩…歴史は日々進化していきますね~

おっしゃる通り…だからおもしろいんですね。

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 15時16分

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