慈愛と懺悔の藤原氏期待の星…光明皇后
天平宝字四年(760年)6月7日、光明皇后が59年の生涯を終えました。
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本名は安宿媛(あすかべひめ)または光明子(こうみょうし)・・・正式な尊号は天平応真仁正皇太后で、光明(こうみょう)皇后というのは、あくまで通称だそうですが、本日は、光明皇后と呼ばせていただきましょう。
・・・で、光明皇后と言えば、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)と橘三千代(たちばなのみちよ・県犬養三千代)(1月11日参照>>)の娘で、東大寺の大仏を建立した第45代聖武(しょうむ)天皇(10月15日参照>>)の奥さん・・・
仏教に帰依する慈愛の精神から、貧困者や孤児などを収容する悲田院(ひでんいん)や、貧困の病人に薬を与える療養所・施薬院(せやくいん)といった施設を建てた福祉救済事業のパイオニア的存在(4月17日参照>>)で、民衆とも親しく接した皇后です。
その福祉のページでご紹介した、光明皇后が病人のために設置した浴室(からふろ)で、自ら千人の病人の垢を流していたところ、千人目となった病人が阿閦(あしゅく)如来の姿に変わったという伝説は、平安時代か鎌倉時代頃に誕生した伝説だと言われますが、そんな逸話が後世の人々に語られるくらい、福祉事業に尽力した慈愛に満ちた皇后という印象が強かったという事でしょう。
そんな光明皇后は、かの大仏建立にも積極的に協力し、発掘された出土品からは、むしろ、光明皇后こそが大仏建立の発案者ではなかったのか?と思われるほどの活躍をしています(4月9日参照>>)。
とは言え、彼女には、慈愛に満ちた聖女の顔とはうらはらな、もう一つの顔が存在します。
それは藤原氏期待の星の顔・・・そう、彼女なくしては、その後の藤原氏の繁栄は無かったかも知れないほどの期待が、彼女の人生に圧し掛かっていたのです。
そもそも不比等には、後に藤原四家として藤原氏繁栄の象徴の家柄の祖となる4人の息子=武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)がいました。
そして、その下に宮子という娘・・・この宮子が第42代文武天皇の夫人となって、二人の間に生まれたのが聖武天皇です。
その聖武天皇と時期を同じくして誕生したのが、不比等の後妻となっていた三千代が生んだ光明皇后というワケです。
宮子の産んだ聖武天皇が晴れて天皇の位につけば、不比等としては、最も権力を握れる外戚(がいせき=母方の実家)ゲットとなるわけですが、そこに、自らの娘を皇后として送り込む事が出来たら、これほど頑丈な外戚は無いわけで・・・
とは言え、皇室出身で無い女性が皇后になるなんてのは初めての事・・・やがて偉大な父=不比等の死とともに、反発する長屋王(ながやのおう=天武天皇の孫)を抹殺する(2月12日参照>>)という血なまぐさい事件を経て、彼女は皇后となりました。
これで、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇子が、次の天皇にでもなってくれたら・・・4分の3が藤原氏の血脈の天皇誕生という事で万々歳!!
しかし、二人の間に女の子は無事生まれたものの、次に生まれた男の子が1歳(満年齢で)に満たないうちに病死・・・しかも、見事なタイミングで、別の妃が男の子=安積(あさか)親王を出産してしまいます。
このままでは、その安積親王が次期天皇に・・・
さらに、天然痘の流行により、頼みの兄たちが次々と病死・・・万事休すの状況で藤原一族が取った行動は。。。
前代未聞の女性皇太子でした。
そう、先に生まれていた女の子=阿倍内親王を皇太子に・・・まさに、最後の切り札です。
しかも、それでも気になる安積親王は、聖武天皇が次々と都を変える迷走(12月15日参照>>)につき合ってる最中の恭仁京(くにきょう・くにのみや)にて病死という不可解かつ気の毒な出来事にて去りました。
やがて、病気がちになった聖武天皇に代わって、阿倍内親王が第46代孝謙(こうけん)天皇として即位したのは天平勝宝元年(749年)、光明皇后49歳の時でした。
その孝謙天皇をバックで支えるのは、もちろん、母である光明皇后と、そして、ここに来て頭角を現して来た、皇后の兄=武智麻呂の息子の藤原仲麻呂(なかまろ=恵美押勝)。
もはや病気がちな聖武天皇に代わって、むしろ、光明皇后の紫微中台(しびちゅうだい=光明皇后の家政機関:長官は仲麻呂)中心の政治が行われる中、天平勝宝四年(752年)に念願の大仏開眼の大事業を終えた聖武天皇が、その4年後に亡くなるのですが・・・
最後の握りっペじゃないですが、そんな聖武天皇は、その遺言として、次の皇太子に道祖王(ふなどおう=天智天皇の孫)を指名してお亡くなりに・・・
そう、道祖王は、藤原氏の息のかかっていない皇子です。
孝謙天皇は女性天皇・・・誰かと結婚して、その子供が皇太子になる事はあり得ないわけですから、結局は、今いる皇子の中から誰かが皇太子になるわけですが、それが、藤原氏に縁の無い人物であったら、それこそ、これまでの苦労が水の泡・・・
そこで、聖武天皇の死から間もなく、唯一藤原氏に対抗できる立場だった左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が亡くなった途端に、孝謙天皇は他の大臣の進言を無視して道祖王を皇太子から廃し、独断で大炊王(おおいおう=舎人親王の皇子)を皇太子に決定してしまったのです。
この大炊王は、仲麻呂の息子の嫁の再婚相手・・・って、結局は、関係薄いのですが、ただ、彼は、現時点で仲麻呂の屋敷に同居してる=つまりは、仲麻呂の意のままになる人物だったのですね。
しかし、これに反発したのが、亡き橘諸兄の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の一派・・・何とか、仲麻呂を倒さんと企みますが、その計画は事前に発覚してアウト!!
この橘奈良麻呂の乱で、反対派は一掃されるのです(7月4日参照>>)。
光明皇后が亡くなる3年前の天平宝字元年(757年)に起こったこの事件・・・発覚当初、光明皇后が、出頭して来た彼らに対し、
「アンタたちは私の親族やん。
謀反を考えているなんて噂は信じられへんわ。
きっと何かの間違いだと思うので罪には問いません・・・信じてるからね。」
と言って罪に問わなかったにも関わらず、翌日、彼らは、孝謙天皇と仲麻呂の判断により、杖(むちうち)での死刑となってしまいます。
齢50も半ばを過ぎた、もはや晩年と言える時期に起こったこの事件を、光明皇后は、どのような心持ちで見ていたのでしょう。
これまで、藤原氏の期待に応え、藤原氏の娘として、様々な危機を乗り越えて来た光明皇后・・・
彼女が44歳の時にしたためた『楽毅論(がっきろん)』の臨書(りんしょ=手本を見ながら書いた物)には、藤三娘(とうさんじょう)の署名があり、結婚28年目にして、未だ皇后というよりも「藤原氏の娘」であるという立場が垣間見えます。
ここまで、自らの慈愛の精神に反する血の制裁を、その心を押し殺し、「藤原氏のため…」と言い聞かせて生きて来たのかも知れない光明皇后・・・
しかし、今回・・・そう、彼女の言葉にあるように、今回は、その橘氏も親族。
藤原氏が異母兄の家系なら、橘氏は異父兄の家系・・・彼女の母の孫たちなのです。
そんな彼らの没落を、光明皇后は、どのように見ていたのか・・・
もはや、その心の内を知る手だてもありませんが、そんな中でも、晩年の光明皇后は娘=孝謙天皇の行く末が、一番気がかりだったかも・・・
天平宝字四年(760年)6月7日、光明皇后は静かに、その生涯を閉じますが、その彼女の死が、結果的に、この後の孝謙天皇の寂しさに拍車をかけ、やがては藤原仲麻呂の乱(9月11日参照>>)に発展するとは、思ってもみなかったでしょう。
光明皇后が、亡き父=不比等の邸宅跡に建立した法華寺・・・ここは、その正式名称を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と言います。
これは、ただ単に、女人の罪を消すという意味のネーミングだったのでしょうか?
ひょっとしたら、慈愛に満ちたそのウラで、彼女は、ただひらすら懺悔し、その罪障を消滅させたかったのかも知れません。
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●ゆかりの寺=法華寺への行き方は、本家HP「奈良歴史散歩:佐保・佐紀治」へどうぞ>>
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コメント
聖女とも讃えられる光明皇后さん、法華寺の原名は確かに不思議なだし、ミステリックですね。
その罪の深きもの、その愛もまた深し、と太宰治が言ってました。
投稿: レッドバロン | 2012年6月 8日 (金) 11時59分
レッドバロンさん、こんにちは~
>その罪の深きもの、その愛もまた深し
なるほど…
その愛が深いからこそ、罪も深くなるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年6月 8日 (金) 12時38分
正倉院展だったか皇后の字を見た事があります。男性的な字でしたね。写経の漢字。
投稿: やぶひび | 2012年6月 8日 (金) 21時52分
やぶひびさん、おはようございます。
しっかりした字の光明皇后に、繊細な字の聖武天皇…って感じの文字ですね。
投稿: 茶々 | 2012年6月 9日 (土) 06時51分