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2012年6月30日 (土)

足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦

 

延元元年・建武三年(1336年)6月30日、足利尊氏から京都奪回を試みた新田義貞後醍醐天皇方が敗北する京都合戦がありました。

・・・・・・・・

建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いて、後醍醐(ごだいご)天皇反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)・・・

天皇側につく新田義貞(にったよしさだ)らに敗れて(1月27日参照>>)九州へ落ち延びていた尊氏が、延元元年建武三年(1336年)5月態勢を整えて(3月2日参照>>)再度上洛・・・

これを湊川(みなとがわ)で迎え撃った義貞ら天皇軍でしたが、大軍を誇る足利軍の前に忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)自刃(2007年5月25日参照>>) ・・・義貞も撤退を余儀なくされます(2012年5月25日参照>>)

形勢不利と見た後醍醐天皇は、またまた比叡山へと身を寄せますが、この時、同行した天皇家の方々は、後伏見院(第93代)花園院(第95代=後伏見天皇の弟)豊仁親王(後の光明天皇=後伏見天皇の第2皇子)・・・後伏見院の第1皇子である光厳(こうごん)だけは、比叡山には行かず、東寺に移りました。

そう、光厳院は、未だ鎌倉に幕府のあった時代に、笠置山で挙兵した後醍醐天皇が敗れて隠岐へ流された時(3月7日参照>>)に、幕府によって擁立された天皇で、あの六波羅探題(ろくはらたんだい)消滅の時に、北方を務める北条仲時(なかとき)のそばにいた天皇ですから・・・(5月9日参照>>)

その後、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が再び皇位につくにあたって廃位させられたという経緯があった事から、今回、九州から上洛する尊氏にも、新田義貞追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を下しているのです(4月26日参照>>)・・・そりゃ、一緒に比叡山へは行けませんわな。

・・・で、この光厳院の東寺入りを大いに喜び、東寺を皇居とした尊氏・・・つまり、後醍醐天皇とは別の皇統を抱く、コチラも官軍という事になるわけで、この光厳天皇は北朝初代の天皇ですね。

こうして、京都を制圧した尊氏に対して、比叡山へと去った天皇方は、その後、2度に渡って京都への進攻を試みますが、いずれも失敗に終わり・・・

しかし、ここに来て、比叡山の呼びかけに応えた興福寺が天皇方として参戦・・・士気高まる兵士たちを見て力を得た義貞は、延元元年建武三年(1336年)6月30日3度目の京都進攻をはかったのです。

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舞台となった京都・東寺

本隊と別働隊の2手に分かれて進み、攻撃の合図を見計らう両者・・・しかし、不意に北白河に上がった火の手を、攻撃の合図と勘違いした別働隊は、未だ本隊が動いていないにも関わらず、一気に、東寺の南大門へ押し寄せます。

この時、尊氏の本隊は、坂本からやって来る義貞本隊を迎え撃つべく態勢を取っていたため、東寺は大騒ぎとなりますが、そこに、尊氏の近臣・土岐存孝の息子・悪源太が現われ、一気に敵を蹴散らし、別働隊はやむなく撤退・・・

しかし、そうとは知らぬ義貞は、「攻撃予定の時刻が来た」とばかりに2万の軍勢を率いて攻撃を開始・・・迎え撃つ尊氏軍は20万(たぶん、太平記はオーバーに言ってます)

両者入り乱れる激戦の中で、「今日の合戦が尊氏への雪辱を果たす一戦」と考える義貞が、自ら先頭に立って敵陣深く分け入り
「この矢、受けてみろや!」
と、声高々に名乗りを挙げて、矢を放つと、それが尊氏の近くに着弾・・・

これを見た尊氏も・・・
「俺が挙兵したんは、何も、天皇家を倒そうと思てるわけやない!
義貞をやっつけたいと思ての事・・・アイツとの一騎打ちは俺の望むところや!
さぁ、この門を開けんかい!撃って出たんゾ!」

と・・・

すわっ! 大将同士の一騎打ち!!!
しかし、さすがに、これは周囲の重臣たちに止められ・・・

そうこうしているうちに尊氏軍の勇将・土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)の軍勢が周囲の敵を蹴散らしながら、一気に鬨(とき)の声を挙げた事で、激戦の中で散り々々になっていた足利軍が、一つ所に集結し、義貞らを取り囲んだのです。

「もはや最期の戦い」
と、心に決めて、大軍の中に撃って出る義貞・・・・

この激戦で、後醍醐天皇の隠岐脱出に貢献し、楠木正成結城親光(ゆうきちかみつ)千種忠顕(ちぐさただあき)らとともに三木一草(さんぼくいっそう)と称されて天皇の寵愛を受けていた名和長年(なわながとし)討死しました。

もちろん、義貞も、覚悟を決めます。

・・・と、その時、どこからともなく、後醍醐天皇から賜った衣を切った物を笠符(かさじるし=戦闘時に敵・味方を識別するためにつける目印)とした兵の集団が馳せ参じ、敵兵を追い立てます。

このドサクサにまぎれて、何とかその場を脱出した義貞・・・命からがら、坂本へと引き返す事になります。

この敗北を受けて、協力を誓っていた興福寺は離反・・・周囲を制圧されて補給路を断たれた比叡山は、兵糧の確保もままならなくなり、やがて、和睦を打診して来る尊氏に後醍醐天皇の心は揺れ動く事となるのですが、そのお話は、8月15日のページでどうぞ>>
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コメント

今日、一休さんの実写版のVTやってましたね
あれ広島だけか?

投稿: | 2012年6月30日 (土) 23時18分

こんばんは、はじめまして。

面白いまとめ方ですね。拍手!

投稿: 雷蔵 | 2012年7月 1日 (日) 00時04分

一休さん、やってましたよ~

おそらく、全国ネットだと思います。

投稿: 茶々 | 2012年7月 1日 (日) 01時28分

雷蔵さん、こんばんは~

お言葉、ありがとうございますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年7月 1日 (日) 01時29分

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