源平合戦につながる…平忠常の乱・勃発
長元元年(1028年)6月5日、平忠常が安房国府を襲撃し国司を殺害しました。
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この事件を受けた朝廷が6月21日に、平直方(たいらのなおかた)を追討使に任命するところから、この事件を以って「平忠常の乱」の勃発と考えてよいと思います。(実際にはそれ以前からゴチャゴチャありますが…)
結果を先に申し上げて恐縮ですが、この時の直方が、乱を起こした平忠常(たいらのただつね)の追討に思うような成果を挙げられなかった事から、この次に、以前、忠常に勝った経験がある源頼信(みなもとのよりのぶ)が次の追討使に任命され、結果的に、この頼信が忠常を押さえて関東に勢力を誇った事から、源氏が関東武士を牛耳る棟梁となるわけで・・・
そうなんです。
最終的に源平の戦いに勝利する源頼朝の拠点が鎌倉である事や、その後に足利や新田といった有名どころが登場するところから、何となく源氏=関東のイメージが強いですが、実は、もともと関東に勢力を持っていたのは平氏のほうで、源氏は、この頼信までは、あくまで、畿内中心の武士団だったのですね。
本日の日づけでご紹介した平忠常の乱は、これから3年間の長きに渡って展開される抗争なので、その事件の流れについては、それぞれの日づけで、おいおい紹介させていただく事として、本日のところは、今年の大河ドラマ「平清盛」にも通じる源平合戦のおおもと部分をご紹介したいと思います。
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そもそもは、奈良時代から平安時代の始め頃までの地方行政は、郡司(ぐんじ)に任命された地方豪族を、中央から派遣された国司が統率する事で均衡を保っていたわけですが、何かと甘い汁の吸える位置にいる支配者と、貧困にあえぐ支配される側との関係が徐々に崩れ始め、やがては、有力農民の中から武装して自衛する者などが現われ、租税の額や私有地の境界線をめぐって、国司と一戦交えるようになり(くわしくは11月8日参照>>)、そこに、天皇家から姓を賜って配下に下った平氏や源氏が加わって武士団が形勢されていく・・・
そんな中で頭角を現したのが、あの平将門(たいらのまさかど)だった(11月21日参照>>) わけですが、ご存じのように平将門の乱は、中央から派遣された平貞盛(さだもり)&藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)らの同盟軍によって、まもなく鎮圧されます(2月14日参照>>)。
実は、今回の忠常さんは、この将門の従兄弟の息子・・・忠常の祖父にあたる良文(よしふみ)が、将門とかなり親しかったらしく、叔父と甥の関係とは言え、年齢的には将門より年下だった良文は、将門と父子の契りを結んでいたとも言われます。
おそらくは、乱の時も将門に従ったものと思われますが、乱への関わり方がそれほどでも無かったのか?、将門が討たれた後も、良文が咎めを受ける事が無かったため、武蔵(むさし)や下総(しもふさ)上総(かずさ)などの地盤を、そのまま息子たちたちに残す事ができました。
良文の息子の忠頼(ただより)は、武蔵に本拠を置き、さらに強力な武士団を形成しつつ、陸奥介(むつのすけ)などの官職も務めました。
・・・で、その忠頼の長男の将常(まさつね)が、やはり武蔵を拠点に勢力拡大を図り、弟の忠常が下総と上総の2国に勢力を誇っていた・・・というわけなのですが、この忠常さんは、かなりの武勇の持ち主だったようで、何やら、その面影を将門に重ねる者も多くいて、国司に反発を持つ武士たちからは、将門の再来のように尊敬を集めていたようです。
常に反国司の立場をとっていた忠常ですから、あの将門にイメージをだぶらせられる事は、おそらく、まんざらでは無かったのかも・・・
そんな中、今回の乱を起こす15年ほど前の長和元年(1012年)にも、忠常は下総国の国司に反発した事があったのですが、その時は、隣国で常陸介(ひたちのすけ)を務めていた源頼信の軍勢に負け、一旦、その配下となる事を誓っています(冒頭に忠常に勝った事があるというのは、この時の戦いの事です)。
実は、この時には、忠常と頼信の兵力に、相当な差があったのですね。
この時代、平氏は、すでにいくつかの家に分かれ、それぞれが独立した武士団の形成していたのですが、源氏のほうは、未だ一枚岩だったのです。
もちろん、源氏も清和天皇から数えて4代めにあたるところで、源頼光(よりみつ)の摂津源氏、源頼親(よりちか)の大和源氏、そして頼信の河内源氏に分かれてはいましたが、それらがともに摂関家の支援を受けて中央での勢力を伸ばしていたため、頼信の兵力=中央の兵力なわけで、そもそも一地方勢力の忠常がかなう相手では無かったのです。
ちなみに、頼朝は河内源氏です。
今回の頼信さんの孫が、あの八幡太郎義家で、その曾孫が頼朝の父の義朝・・・新田と足利は義家さんの息子の代から枝分かれします。
・・・で、今回の乱・・・
前年の万寿四年(1027年)に関東一帯が、大変な飢饉に見舞われたのですが、上総の国司がおかまいなしに過酷な税の徴収を行った事から、武士たちに不満がつのり、担がれれば、つい引きうけちゃう将門譲りの性格で、忠常が立ちあがり、最初は上総&下総にて展開されていた反乱が、いつしか安房(あわ)へと進み、長元元年(1028年)6月5日、安房国府を襲撃して国司を殺害したというわけです。
しかし、先に書いた通り、自らの兵力がそれほど無い事は忠常自身も重々承知・・・なので、この時も、あくまで、民衆を苦しめる国司に対する反乱であって、中央に反発する物では無い事を明確にし、すぐさま京都に使者を送って、朝廷との和解工作をはかっています。
ところがドッコイ・・・その半月後に、朝廷が追討使に平直方を任命しちゃった事で、この乱が長引く事となったのです。
実は、この直方の曽祖父=平貞盛(さだもり)という人が、あの将門の乱の時に、将門追討軍に加わっていた人物・・・
なので、将門ドップリの忠常と、反将門派の直方は、かの乱以来の因縁の敵同士の家系・・・しかも、直方本人も、その領地をめぐって、忠常の兄の将常ともモメてる人なのです。
摂関家の家人でもあった直方は、朝廷での話し合いが行われた時、
「どうあっても忠常を討つべし!」
と、強く主張して追討使に任命されていたのです。
これを機に、関東での勢力をさらにのばそうとしたのですね。
さぁ、売られたケンカは買わねばなりません!
平忠常の乱が始まります。
と、いきたいですが、冒頭に書かせていただいた通り、今回は、ここまで・・・続きは、追討使=直方が京都を出立する8月5日のページでどうぞ>>(清和源氏の系図も、ソチラにあります)
ところで、今回、人間関係がややこしいかと思い、系図を用意させていただきました
(これの作成のために記事upが遅くなって申し訳ないです)
あくまで、今回の話に関係ある部分という事で、多くの部分をはしょらせていただきましたが、この系図を見ていただいてから、この後の源平合戦の事で何か感じませんか?
そう、平家の味方は、左のほうだけ・・・系図の右側に位置する関東の平氏は、皆、源頼朝の配下なんですよね。
つまり、源平合戦と言われますが、現実にはほとんどが平氏・・・なので、「源平合戦は、平家VS坂東平氏の戦い」という見方もあるのです。
ちなみに、一般的には、平氏と言う場合は平氏全体を、平家と言う場合は平氏の中の清盛の一門を指します・・・なので、例のあの物語は『平家物語』なのですね。
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コメント
茶々さん、こんにちは。平家と平氏、違いがあるんですね。勉強になりました。
投稿: いんちき | 2012年6月 6日 (水) 12時34分
いんちきさん、こんにちは~
まぁ、平氏も平家も、同じと言えば同じなんでしょうけど、(あげ足取りみたいでアレですが)平氏なら、頼朝方の主力となった北条家や三浦家やらの坂東武者も平氏ですものね。
投稿: 茶々 | 2012年6月 6日 (水) 15時11分