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2012年6月14日 (木)

応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家

 

応仁元年(1467年)6月14日、後花園上皇が出家を決意されました。

・・・・・・・・

いつの世も、天皇様というお方は、国家の泰平と国民の安寧を願っておられるものです。

いざ、一大事が起こった時に、
「すぐにやろうと思ったんだけど、●●に邪魔されて…」
などと、どこぞの誰かのような言い分けはおっしゃらず、

むしろ、自らの責任の範囲では無い事にまで責任を感じられて・・・

後花園(ごはなぞの)上皇の出家も、そのような思いからでした。

・‥…━━━☆

第101代称光(しょうこう)天皇が、28歳という若さで崩御された事を受けて、後花園天皇が即位したのは正長元年(1428年)・・・天皇=10歳の時でした。

この頃、院政を行っていたのは、あの南北朝合一(10月5日参照>>)で、北朝第6代から、合一後の第100代天皇となった後小松上皇でした。

その後小松上皇の第1皇子が称光天皇だったわけですが、上記の通り、若くして亡くなってしまったので、その後を継ぐべき皇子も兄弟もおらず・・・

いや、実は、あの一休さん(2月16日参照>>)後小松上皇のご落胤という話があり、そうなると、称光天皇の兄という事になりますが、これはあくまで噂であり、すでに一休さんは仏門に入っているし、さらに、一休さんの母が南朝側の人だった事もあり・・・

で、未だ南北朝のなごりが感じられる時期に、南朝勢力の動きを封じるためにもと、北朝3代の崇光(すこう)天皇の孫であった後花園天皇が、後小松上皇の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって皇位を継いだのでした。

Gohanazonotennou600 その後、その年齢の若さもあって、数年間は後小松上皇の院政が続きますが、永享五年(1433年)に後小松上皇が崩御された後は、約30年間に渡って、後花園天皇が親政を行いました。

この間には、永享の乱(2月10日参照>>)嘉吉の乱(6月24日参照>>)といった、後の戦国を連想させる事件も起こりますが、鎮圧の綸(りんじ=天皇の意を受けた側近の命令書)速やかに発給するという行動力のある天皇でした。

その行動力は、足利将軍家に対しても遺憾なく発揮されます。

寛正二年(1461年)春・・・この年は、前年から続く大飢饉のうえに疫病もまん延し、都中に死者が溢れかえっている状況にも関わらず、第8代将軍・足利義政は風流にうつつをぬかし、あの豪華な山荘(6月27日参照>>)の造営を夢見ていました。

そこで後花園天皇・・・1首の漢詩を贈ります。

残民争うて採る首陽(しゅよう)の蕨(わらび)
 処々炉を閉め竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)
 詩興 
(ぎんずれ)は酸(さん)なり、春二月
 満城
(まんじょう)の紅緑(こうりょく)
 (た)が為にか肥えたる ♪
「生き残った者は、雑草を争って取り合い、家々のキッチンの火も消えて、玄関も静まり返ってるっちゅーのに、この世の春を謳歌して遊興に走っとるみたいやな・・・春の恵みは、誰のためにあるんや!(お前のためちゃうっちゅーねん)

おかげで、義政の評判がガタ落ちになる中、後花園天皇は「近来の聖主」と称されました。

やがて、そんなこんなの応仁元年(1467年)正月・・・あの応仁の乱が勃発します。

正月早々に勃発した御霊合戦(1月17日参照>>)に始まった戦いは、5月28日に壮絶な市街戦となって都を焼きつくします(5月28日参照>>)

かくして、後に五月合戦と呼ばれるその戦いから、そう遠くない応仁元年(1467年)6月14日、すでに3年前に、第1皇子の後土御門天皇に皇位を譲っていた後花園上皇が、出家を決意されたのです。

もちろん、これだけの世の乱れを受けて、「出家をしたい」というお気持ちは、それ以前からあったのでしょうが、この日の日づけにて、弟の伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)に宛てられた手紙の中で、その決意を語っておられるという事です。

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後花園院御文(宮内庁書陵部蔵)

『今度世上大変の事 時刻到来とは申しながら…』
で始まるこの手紙には・・・

「いつかは大乱が起こるんちゃうかと予想してはいたけど、やっぱり悲しいね」
という素直な心情
「前々から出家したいとは思てたものの、天皇でいてる間はなんとか我慢しててんけど、もはや、その責任も無くなったし・・・と思てたところに、今回の大乱やろ。
いよいよ、俗世との交わりを断とうかと思うねん」

という決意が語られています。

とは言え、混乱する世の中が嫌になって逃げるというのではありません。

「面目なき次第」
と、今回の大乱が自分の責任にある、このような混乱は統治者の恥であると、ご本人は受け止められているようです。

譲位してから、わずか3年ですから、大乱に至った原因となるのは、自らの親政であり、当時に発給した綸旨にあると強く感じての出家・・・これは、その責めを一身に負うという決意の現れでありました。

やがて9月・・・戦いを避けて避難していた花の御所(室町第=足利将軍家の邸宅)に、密かに増運僧正を招いた後花園上皇は、周囲にはナイショで出家をされたのでした。

足利義政と言い、その弟の義視(よしみ)(1月7日参照>>)と言い、何となくフラフラ感のある将軍家とは違い、この応仁の乱において、東軍の将:細川勝元からの再三の圧力にも屈する事なく、一貫して中立の立場をとられていた後花園上皇・・・

出家から、わずか3年後の文明二年(1470年)12月27日未だ戦乱の嵐やまぬ中、病にて崩御されました。
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