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2012年6月 2日 (土)

平家滅亡後も生き残った清盛の弟・平頼盛

 

文治二年(1186年)6月2日、平清盛の弟・平頼盛が54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

源平の合戦において、親兄弟でも敵味方に分かれて争った源氏に比べ、「死ぬ時は一族もろともに…」の印象が強い平家・・・

ともに都を落ち、ある者は戦場で討死し、ある者は西海のもくずとなり、捕えられた者は処刑される・・・

それこそ、あの平治の乱の後に、自分を生かしておいた事が、平家滅亡へつながった=平清盛(たいらのきよもり)の最大のミスである事を痛感する源頼朝(みなもとのよりとも)は、同じテツを踏むまいと、完璧な戦後処理を心がけたはずです。

なんせ、最後の最後には、もはや出家していた六代(平高清)(2月5日参照>>)でさえ犠牲になっているのですから・・・

そんな中で、平家方の重要人物でありながら、都落ちもせず、平家滅亡後も朝廷に留まって、見事、生き残った人がいます。

それは、平忠盛(ただもり)の五男・・・つまり、清盛の異母弟にあたる平頼盛(たいらのよりもり)です。

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頼盛の屋敷:池殿があったとされる京都市東山区池殿町付近

頼盛の母は、忠盛の正室=宗子(池禅尼)・・・ドラマでは、すでにこの先を暗示するかのように、何となく、異母兄の清盛とはシックリいってない頼盛さんですが、その心の内はともかく、あくまで、この時点の記録として残る頼盛さんは、ただ1人の正室の子として優遇され、平家内では、清盛に次ぐ位置をキープしてます。

ドラマでもあった通り、清盛とあまり年齢差がなかった宗子の最初の息子は若くして亡くなり、その後、夫=忠盛が亡くなった時には、頼盛はまだまだ幼かったですから、正室の子では無いにしろ、長男である清盛が後を継ぐ事には、宗子も異存は無かったでしょうしね。
(ドラマでは、清盛は『100%白河上皇の子供』という事が周知の事実となってますが、実際には噂の一つに過ぎず、あくまで忠盛の実子ですので…)

なんせ、宗子さんは、先の近衛(このえ)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後白河(ごしらかわ)天皇とライバル関係にあった重仁(しげひと)親王乳母であり、亡き忠盛は乳父(めのと)だったのですから、その立場としては完全に敵対するはずですが、「院の御方(崇徳上皇)側が負けるなり~」との、彼女の鶴の一声で、保元の乱(2011年7月11日参照>>)での平家は皆で後白河天皇側につく事になった(2016年7月11日参照>>)とされてますから、「我が子推し」よりは「平家一門」の事を、彼女は、ちゃんと考えてたと思います。

とにもかくにも、まだ、このあたりの頼盛さんは、清盛や平家の皆々とも、確執的な物は無かったように思います。

続く平治の乱(12月9日参照>>)でも、兄=清盛を助けて大活躍する頼盛ですが、この頃から、彼にライバルが登場します。

それは、清盛の長男である平重盛(しげもり)・・・それまでは、冠位も何もかもが自分より下だった重盛が、平治の乱のあと、あれよあれよという間に出世して、清盛の次に、平家で2番目に公卿となります。

とは言え、そのあと、すぐに頼盛も平家で3人めの公卿となりますし、そもそも、叔父と甥と言えど、頼盛と重盛の年の差は、わずか5歳・・・清盛が社長とすれば、「弟の頼盛よりも、息子の重盛が次期社長になるだろう」って事は、誰しもが感じるところですから、どこかで追い抜かされるのは当たり前なので、むしろ、3番手キープならOKとしましょう。

ところで、この頃、頼盛は大宰大弐に任命されて九州に赴任しています。

当時の常識としては長官本人が現地に行く事が無かったにも関わらず、頼盛自身が現地に赴いた事に関しては一つの謎とされますが、私自身は、やはり、清盛がいかに貿易を重視していたかの現われではないか?(2月27日参照>>)と思っています。

重要だからこそ、自らの弟に、直接現地で腕を奮うようにさせたのではないかと・・・それほど、清盛からの信頼も篤かったと思ってます。

ところが、例のごとく、清盛が後白河法皇と対立するようになる頃から、頼盛と平家一門との間に、徐々に溝ができ始め、頼盛は、後白河法皇寄りの態度を取るようになるのです。

ただ、清盛と後白河法皇の関係悪化が表面的となる鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)のあたりでは、さすがに、この一件に怒りまくる清盛の手前、あからさまに後白河法皇側につく事はなく、ワリとおとなしくしてはいましたが、清盛が後白河法皇を幽閉した「治承三年のクーデター」(11月17日参照>>)の時には、その直後に、
「頼盛が法皇を救いだして清盛に合戦を挑むのでは?」
との噂が流れた・・・なんて事もあったようなので、そのきな臭さは周知のところだったのかも知れません。

ただし、この時は、頼盛が完全に否定して、清盛に改めて恭順を誓って事無きを得たようです。

とは言え、やはり、溝は埋まってはいませんでした。

やがて訪れた清盛の死後、平家の棟梁の座を継いだ宗盛(むねもり=清盛の三男)は、さすがに頼盛に気をつかいまくりで、頼盛も、その宗盛の態度に応えて協調の姿勢を見せたりもしていたのですが、やはり、心の奥底では、もはや、その関係修復は不可能な状態となってしまっていたようです。

そうです。
北陸での合戦に勝利して(6月1日参照>>)木曽(源)義仲が京都へと迫って来た事により、一門揃って都落ち(7月25日参照>>)する平家ですが、頼盛は、この都落ちに参加してません。

そもそもは、宗盛が「都落ちをする」報告を頼盛にしてなかったとも言われ、その後、ギリギリになって聞いて一旦参加したものの、結局、頼盛は、「忘れ物しちゃった」隊を離れて都に戻ってしまったとか、はなから別行動をとってたとか・・・

とにかく、ここで、一緒に都落ちしなかった彼ではありますが、都にいても、すでに館は全焼・・・やむなく、比叡山へと逃れていた後白河法皇を頼り、その法皇の勧めで、八条院(暲子内親王=後白河法皇の異母妹)のもとに身を隠して、しばらくはおとなしく・・・すると思いきや、もう、ここで、鎌倉にいる頼朝との接触を試みます。

もちろん、これには、義仲を嫌い、頼朝に上洛して平家を討ってほしいと願う後白河法皇の意向が多分に含まれているのでしょうが、未だ、義仲が都を牛耳ってる段階で、すでに、鎌倉に行って、頼朝に会い、朝廷とのパイプ役に徹していたようです。

そのおかげなのか・・・冒頭にも書かせていただいたように、平家が西海に没した後に、頼朝によって、あれだけ厳しく関係者が罰せられた中で、頼盛は、お咎めなしなうえに、見事、朝廷出仕に復帰するのです。

とは言え、タイミング的に、朝廷の関係が悪化し出した義仲が、都で暴れ始めた頃(11月18日参照>>)に、ちょうど京都を脱出して、遠き鎌倉にてのほほん待遇を受けていた事で、周囲からは冷たい視線が浴びせられていたらしく、結局は、頼盛は徐々に表舞台からフェードアウト・・・

平家の壇ノ浦滅亡から、わずか1年2ヶ月の文治二年(1186年)6月2日・・・すでに病に冒されていた頼盛は、静かに、そしてひっそりと、この世を去ります。

途中から平家一門と離れ、戦線離脱した事から、軍記物では、脱落者もしくは裏切り者呼ばわりされる頼盛さん・・

一方の鎌倉幕府の公式記録では、
あの平治の乱後に、宗子が、「死んだ息子に似てるから、助けたってぇな」と清盛に泣いて頼んだ(2月9日参照>>)事から、その命が救われた頼朝が、その宗子の息子だから優遇した・・・つまり、「頼朝=ええヤツ」的な美談をかもし出させるネタにされてる感のある頼盛さん・・・

果たして彼は、西海に散った一門を、どんな思いで見ていたのでしょう。

また、戦国のごとく、彼は、忠盛の血筋を残すために、思いを託されて留まったのだとしたら・・・

その心が読めないだけに、様々な妄想をかきたてられる人であります。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは!

大河ドラマ化を期に色々な便乗本が出版されてまして、それらを読み漁ってますが、平家の一族って結束があるようで、決して一枚岩ではなかったようですね!

しかも、清盛という舵取りがまるで糸で人形を動かすかのように、幾つかのグループに分かれていたようですよ。

1つは、重盛→維盛という嫡流に従うグループで、ドラマでは家貞(中村梅雀さん)の一族や伊藤忠清(藤本隆宏さん)らの一族の面々ですね。このグループは都落ちには同道しません。彼らにとってあくまで主筋は嫡流である六代(維盛の子)であって、伊勢平氏の本領である伊賀に帰って、三日平氏の乱を起こします。

もう1つは、時子の実家である堂上(とうしょう)平家の一族で時子の弟・時忠(森田剛さん)や妹で高倉天皇を産む滋子(建春門院)(成海璃子さん)ら…

さらに、ここに挙がっている、継室・池禅尼(和久井映見さん)が産んだ頼盛を筆頭とする池殿の一族…

そして、清盛の継室・時子(二位尼)(深田恭子さん)が産んだ宗盛、徳子(建礼門院)、知盛ら都落ちしたメンバーたち…

このように4つの束(派閥)があったみたいですよ。

これらの束を清盛という個性がうまく束ねていたからこそ、平家が栄えた訳で、清盛が死ねば瞬く間に空中分解しちゃったんですね。

投稿: 御堂 | 2012年6月 2日 (土) 22時20分

大河ドラマ「清盛」視聴率悪いそうですね。ちょっと残念。

投稿: やぶひび | 2012年6月 2日 (土) 22時50分

茶々さん、こんばんは。頼盛の子供はいたんですか? 鎌倉で生き延びたんですかね。

投稿: いんちき | 2012年6月 2日 (土) 23時18分

大河ドラマでは予算とスペースの関係で?曖昧にされてますが、池禅尼こと宗子さんと実際に同居していたのは頼盛さんだけなのですよね。

家盛さんが亡くなってからは、唯一の正室のお子さんでしょう。結城秀康が二代目徳川将軍になっていた場合の秀忠の気持ち…とか、いろいろ想像させられます。

平氏一門からはもちろん、源氏からも気を使われた頼盛さん、複雑かつ陰影に富んでいたであろう彼の内心は、作家的な想像力を刺激するでしょうね。

投稿: レッドバロン | 2012年6月 3日 (日) 00時15分

大河ドラマでは西島隆弘くんが演じてますね。ドラマでも記事の通りの人生を歩むなら終盤はあまり出番がないですね。

しかし源氏と平氏の結束の違いは何でしょう?「平氏は源氏よりも結束していた」と作家の誰かも言っていますね。兄弟が多い時代があったのは共通しているし、清盛の時代以前は源氏も平氏も朝廷で幅を利かせるほどの力をまだ持たない。あるいは源氏は親族の間で利害関係がこじれていた?

来年の「八重の桜」の出演者のうちの、「会津関係者」の16人が決まりましたね。

投稿: えびすこ | 2012年6月 3日 (日) 10時07分

>御堂さん
平氏内部でも派閥?があって事情が複雑ですね。やはり源氏でも同様の事情があるでしょう。後世でもそうですが、分家を持つ「名家」は派閥ができるようですね。
例えば江戸時代の徳川家は時代が下ると分家が増えて、幕末期には御三家・御三卿および連枝の家(越前松平家、会津松平家など)が対立しましたね。
13代将軍家定の後継を巡り、幕府内部で紀州派と水戸・一橋派が対立。大政奉還後には尾張家が新政府軍に寝返ってしまう。

投稿: えびすこ | 2012年6月 3日 (日) 10時18分


平家=一枚岩
というイメージが強かったですが、鉄の結束ではない部分もあったのですね。
平家が急速に大きくなりすぎたせいでしょうか?

大河ドラマの方では清盛とわだかまりがあるように描かれていますが、どうなるか楽しみです。

投稿: ティッキー | 2012年6月 3日 (日) 11時48分

御堂さん、こんばんは~

そうですね。
「三日平氏の乱」の事もいつか書きたいなと思っていますが、
おっしゃる通り、奥さんの実家という物で、それぞれの思惑が違うでしょうね。
そもそもは、その実家に恩恵を被るために可愛い娘を嫁に出してるわけですから…

やはり、はっきりと一枚岩なのは清盛の平家くらいで、同じ平氏と言えど、それぞれは、清盛という大きな看板あればこそ…って感じだったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 18時42分

やぶひびさん、こんばんは~

なぜか、視聴率がのびませんね。
昨年、あまりにもひどく描かれた「江」の怨念かしら?

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 18時43分

いんちきさん、こんばんは~

子孫はいらっしゃるようですが、目立った活躍はされていないみたいです。

そのうち、養子に入った方によって、その方の実家に吸収されたんじゃなかったかな?
また、ちゃんと調べてみます。

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 18時46分

レッドバロンさん、こんばんは~

>宗子さんと実際に同居していたのは頼盛さんだけ…

そのはずです。
頼盛さんのお屋敷が「池殿」と呼ばれていたので、宗子さんも「池禅尼」と呼ばれていたはずですので…

それこそ曖昧にされてますが、他の兄弟は皆、お母さんが違いますからね。

彼の目線から見た平家物語というのもおもしろそうです。

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 18時51分

えびすこさん、こんばんは~

ドラマが清盛の死のあたりまでなら、出番が少なそうですが、平家滅亡までやるなら、頼朝とのパイプ役として、また活躍するかも知れませんね。

源氏は何となく血なまぐさい感じがします(あくまで個人の感想です)
まぁ、そっちの方が武士らしいのかも知れませんが。

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 19時00分

ティッキーさん、こんばんは~

そうですね。
ドラマだと、今は保元の乱のところですが、すでにわだかまりができてしまっていますね。

どうなるんでしょ?
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2012年6月 3日 (日) 19時02分

はじめまして、ナツメの10ちゃんといいます。
いやー、面白い記事でした。
頼盛のその後。
こういう、表舞台に隠れた歴史の一面がこよなく好きです。
また寄らせていただきます。

投稿: ナツメの10ちゃん | 2012年6月 3日 (日) 21時10分

ナツメの10ちゃんさん、こんばんは~

コメントありがとうございます。

歴史は、知れば知るほどおもしろく、
知れば知るほど、もっと知りたくなりますね。

また、遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2012年6月 4日 (月) 00時24分

京都でホタルを放すイベントがあるようですね。ヘイケホタルだとか。水田や湿地あった?哲学の道や大覚寺。ホタルも源氏と平家がいます。

投稿: やぶひび | 2012年6月 4日 (月) 15時35分

やぶひびさん、こんばんは~

京都では、賀茂川でも、かなり北の方に行けば、自然のホタルが、まだ見られるそうですよ。

投稿: 茶々 | 2012年6月 4日 (月) 23時21分

う~ん、まさか後白河院絡みとは言え頼盛と俊寛にそんな関連性があったとは(--;)ホントに平家内も地味にゴタついていたんですねぇ…。俊寛はとんだとばっちりだとばかり思っていました。

投稿: うちゃ | 2012年6月 8日 (金) 23時08分

うちゃさん、おはようございます。

やはり、イロイロと派閥争いがあったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年6月 9日 (土) 06時49分

先回の「叔父を斬る」で忠正さまが頼盛さまに、自身の死よりも平家の滅亡の方が辛いといった意の遺言を残されていましたね。
茶々さまのブログを見た後だったので、ぐっときました。
本当に藤本有紀さんの本は伏線もよく張ってあって、観ていて安心感があると思うのですが、一般受けがよろしくないというのがとても残念です。

投稿: やんたん | 2012年6月14日 (木) 15時17分

やんたんさん、こんにちは~

大河ドラマ、保元の乱のあたりから、グンとおもしろくなって来ましたね。

これからが楽しみです。

投稿: 茶々 | 2012年6月14日 (木) 15時51分

影武者や替え玉説があまりにも多いので「安徳天皇替え玉」「源頼朝影武者」で検索しました。
あったのか、安徳天皇。あくまでも噂といえ、うちの父親の祖先が壇之浦の源氏から逃れた平氏の末裔だからな。

投稿: | 2012年8月 1日 (水) 11時27分

こんにちは~

「安徳天皇・生存説」のページをご覧いただいたのですね。

確かに、平家の落武者の伝説は、各地にありますね。
特に、四国や九州は多いです。

投稿: 茶々 | 2012年8月 1日 (水) 15時00分

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