世界一有名な日本庭園…龍安寺の石庭が完成
明応八年(1499年)6月26日、応仁の乱で焼失していた龍安寺の方丈が細川政元の援助により再建・・・有名な石庭が完成しました。
・・・・・・・・・・・
・・・と言っても詳細は不明なんですがね・・・
今回、龍安寺を再建した細川政元(まさもと)さん(6月23日参照>>)・・・そのお父さんは、あの応仁の乱の東軍の大将だった細川勝元です。
その勝元さんが、室町幕府の管領だった時代に、平安時代の貴族・徳大寺家の山荘を譲り受けて、妙心寺の義天を開山に招いて創建したのが龍安寺(りょうあんじ)です。
つまり、龍安寺は妙心寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属するお寺)なのですね。
しかし、ご存じのように、「焼失を免れたのは千本釈迦堂だけ」と言われるくらいに京都市中を焦土と化して市街戦を展開した応仁の乱(5月28日参照>>)で、この龍安寺も焼失してしまいます。
ちなみに余談ですが、応仁の乱で千本釈迦堂(大報恩寺)だけが無事だったのは、西軍の大将であった山名宗全(そうぜん=持豊)(3月18日参照>>)の祖父の氏清を祀るお堂が境内にあった事で、宗全が「お前ら、ここ焼いたら承知せんゾ!」と特別の睨みを効かせていたらしく、都中が焼け野原となった中で、千本釈迦堂だけがポツンと建っていたと言われています・・・ま、柱に刀傷は残ってますが・・・
・・・で、その東軍の将だった勝元の息子である政元が資金を提供し、明応八年(1499年)6月26日に龍安寺の方丈が再建されたわけですが、例の有名な石庭が、この方丈の庭園なので、詳細は不明ではあるものの、おそらく、この石庭も、その時に完成したんじゃないか?って事なのです。
龍安寺・石庭…ちなみにうしろの築地塀は奥の角にいくほど低くなっていて、遠近法による錯覚で庭を広く見せる工夫がされています。
石庭は、いわゆる枯山水庭園と呼ばれる物ですが、実際の水を使わずに、石組や樹木で島や山を表し、小石や砂で海や川を、石や砂の波紋で水の流れを表した庭園で、平安時代から鎌倉時代に流行した池をめぐる回遊式庭園が造られる一方で、室町時代頃から、特に禅宗のお寺で盛んに造られた庭園です。
流行した背景には、この頃に侘びさびの精神が好まれた事と、ちょうど同じ頃に流行した中国生まれの山水画の雰囲気を庭で表現しようとしたのでは?と言われています。
龍安寺の方丈にある石庭は、幅22m、奥行10mほどの敷地内に白砂を敷きつめ、そこに15個の石が、7つ、5つ、3つに固まって配置されています。
なので、古くから「七五三の庭」と呼ばれたりもしたそうです。
この15個の石は、すべてを同時に見る事ができず、見る場所によって見え方が違う・・・
「いったい、この庭は何をあらわしているのだろう?」
と、縁側に座って物思いのふける、恰好のテーマを投げかけていて、今では、その縁側のふちがすっかりすり減っていて、いかに、多くの人が、ここで物思いにふけったかが想像できます。
しかし、おそらく、いくら時間を費やしても、その答えは出て来ない・・・なんせ、見る角度によって見え方が違うし、見る人によっても感じ方が違う・・・
とは言え、それを言いかえれば、「答えが無い」というのが答え・・・
すべての物に、絶対や正解や完全があるわけではなく、ひょっとしたら、永遠に答えの出ない物、完成形にならない物に対して、無理やり完成させて答を出そうと焦らずに、「そういう物も世の中にはある」という事を悟らせようという、作者の魂胆かも知れません。
と言っても、その昔は、この龍安寺の石庭も、それほど有名ではありませんでした。
もちろん、龍安寺は大きなお寺ですし、豊臣秀吉など、歴代の権力者にも保護されて来ましたから、知ってる人は知ってる由緒正しきお寺だったわけですが、昭和五十年(1975年)に日本を訪れたイギリスのエリザベス女王が、また、哲学者として知られるサルトルが、この石庭を見学して、その見事さを絶賛!!!
そのニュースを聞いた日本人が、改めて日本の美を再確認したばかりか、世界に配信された事で、この龍安寺の石庭は、世界一有名な日本の庭園となりました。
今では、龍安寺を訪れるほとんどの方が石庭を見に来る状況となってますが、石庭だけを見て帰っちゃった方・・・いませんか?
非常にもったいないですよ!
この龍安寺には、池を中心にした、見事な回遊式庭園もあります。
この庭園は、戦国時代に龍安寺を保護した、かの秀吉が「自分の許可なく木を切るな!」なんて事を言ってたくらい大のお気に入りだった庭園なのです。
四季折々に咲く花々に彩られる庭は、特にハスの花が有名で、水面に咲くピンクの花と、岸辺から水面に映り込むツツジやアヤメのコラボは、言葉にできないほどです。
龍安寺に行った時は、石庭の前で物思いにふけった後、是非とも、池の周りを1周してから、帰ってくださいね。
*龍安寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「きぬかけの道」でどうぞ>>
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コメント
確か、石庭を見渡せる部屋の一番奥だったか隣の部屋だったか(一番偉い僧侶だけが座れる場所)は、15コ全ての石を同時に見れたはずですよ。
茶室前には口を中心に「吾唯足知(われただ足るを知る)」とデザインされたつくばいがあるとのコト。
仏教で15と言う数字は「完全無欠」と言うような意味があるらしいです。
深いですね~ぇ。
投稿: BH-5型 | 2012年6月27日 (水) 22時48分
BH-5型さん、こんばんは~
>一番偉い僧侶だけが座れる場所は、15コ全ての石を同時に見れたはず…
それ、聞いた事あります。
確か、外国の学者さんが、計算で導き出したんじゃなかったんでしょうか?
でも、侘びさびの精神の観点からは否定的だとか…
やはり「答が無い」のが魅力って事なのかも知れませんね。
つくばいは、あの水戸黄門様が寄進したと言われていますね。
投稿: 茶々 | 2012年6月27日 (水) 23時40分