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2012年6月21日 (木)

徳川綱吉の恨みつらみ?~越後騒動の結末

 

天和元年(1681年)6月21日、徳川綱吉越後高田藩で勃発した越後騒動の詮議を開始しました。

・・・・・・・・・・・

徳川家康の次男=結城秀康(11月21日参照>>)を祖に67万石を領していた越前北ノ庄(福井藩)でしたが、例の、秀康の息子=松平忠直の一件(6月10日参照>>) で、忠直の息子=松平光長(当時は仙千代)越後高田藩26万石に転封となり、逆に、高田藩だった忠直の弟=松平忠昌越前へと入りました。

とは言え、上記の通り、光長の父は家康の孫であり、母の勝子も、2代将軍=徳川秀忠と正室=(ごう=於江与)の娘ですから、高田藩が御三家に次ぐ名門である事に変わりはないのですが・・・

そんな高田藩は、江戸で暮らし続ける主君に代わって、国家老小栗正矩(おぐりまさのり)荻田主馬(おぎたしゅめ)藩政を取り仕切っておりました。

しかし、その光長の後継ぎ息子=綱賢(つなかた)が、男子をもうけないままで亡くなってしまった事から、後継者問題が勃発します。

この時、光長はすでに60歳・・・この時代、さすがに、これから世継ぎを作るなんて事は到底考えられるはずもなく、後継ぎは、光長の異母弟や甥たちから選ばれる事になるのですが、最終的に絞られた候補者は二人・・・

光長のすぐ下の弟=永見長頼(ながみながより)の息子=万徳丸(綱国)か、2番目の弟=永見長良(ながよし=大蔵)か・・・
(ちなみに、永見は祖父の結城秀康の母方の姓で、弟たちは松平ではなくコチラを名乗っていたとされます)

しかし、年が離れた弟とは言え、すでに60歳の光長の弟である長良は、もう40歳・・・それに比べて、弟のさらに息子と言えど万徳丸は15歳の伸び盛り・・・

って事で、当時、1番に発言権のあった正矩の強い推しで、世継ぎは万徳丸に決定し、時の将軍=第4代・徳川家綱の一字を取って綱国と名乗りました。

当然、不満が残ったのは長良のほう・・・長良は正矩を恨み、自らの一派を「御為方(おためかた)、正矩一派を「逆意方」と呼んで敵対する事になるのです。

その後、とりあえずは後継者が決定した事で、つかの間の平穏ではありましたが、当然、恨みの炎は消える事無く、やがて延宝七年(1679年)正月とうとう爆発します。

実は、田畑の開墾や殖産興業を推し進め、藩の財政立て直しに腕を奮う敏腕家老の正矩ではありましたが、そのぶん、費用捻出のために増税したり、少しばかり派手好みの生活ぶりだったりした事で、藩内でも、彼の事を快く思わない者も少なからず・・・

しかも、彼は、自らの息子を後継者にしようとしているという噂もあったのです。

そう、正矩の奥さんは光長の妹だったのですね・・・なので、その奥さんとの間にもうけた正矩の息子も、後継者の候補である事になるのですよ。

そんなこんなの不満が溜まった御為方890名が、正矩の隠居を要求する誓詞を、主君=光長に提出・・・しかも、長良を大将に主馬らも従った武装集団・約530名が、正矩の屋敷を取り囲むという騒ぎに・・・

やむなく、正矩は隠居を決意し、家督は息子が継ぐ事としたました。

こうして、延宝七年の騒動は御為方の勝利に収拾がついて・・・と言いたいところですが、まだ、なんやかんやとくすぶってる中、光長は自体の流れを、大老の酒井忠清(さかいただきよ)に報告します。

すると、忠清は
「藩の執政たる者、周りに敵を作るくらいの勢いが無かったらアカンやん・・・それに、もう隠居して慎んでるんやし、良かったやん」
と、正矩を擁護するかのような発言・・・

これを聞いた正矩ら逆意方は勢いづき、
「御為方こそ偽物の忠義やんけ」
と言い始め、これに反発する長良ら御為方が、またぞろ怒涛を組んで藩内で騒ぎを起こし、事態は、またまた混乱状態となります。

再び混乱が起きた事を知った光長は、長良ら御為方の主だった者を江戸に呼び、話を聞こうとしますが、この江戸行きに関しても、江戸にいる同志と連絡を取って、何やら企む長良らに、
「彼ら=御為方の方に騒ぎの原因がある」
と見た忠清は、江戸にやって来た彼ら御為方の面々を、萩藩や松江藩の預かり処分としたのです。

つまり、正矩ら逆意方の逆転勝利となったわけです。

おぉ、これでやっと話は終わるか・・・と思いきや、御為方は、
「これは正矩が、大老にワイロを贈って得た片手落ちの判決」
と言って譲らず、まだまだ、修まりそうにありません。

さらに、ここに来て、大どんでん返しとなる事態が・・・

Tokugawatunayosi600 そう、第4代将軍の家綱が死去し、第5代将軍に、あの徳川綱吉が就任したのです。

ご存じの方も多いでしょうが、亡くなった家綱に子供がいなかった事から、幕府内では、あの鎌倉幕府の時の源実朝(さねとも)(1月27日参照>>)の前例を持ち出して、「公家から将軍を迎えよう」なんて話があったとか無かったとか・・・

今では否定的意見も多い宮将軍の話ですが、これを推していたのが、大老・酒井忠清・・・

しかし、その話が無くなって、第3代将軍=徳川家光の4男=綱吉が、家綱の養子となって第5代将軍になったという事は・・・そう、忠清は、見事に失脚する事になります。

しかも綱吉は、直後に病死した忠清を
「本当に病死したか墓を掘り返して確かめろ」
と墓を暴かせたり、なんだかんだと難くせつけて、酒井家を改易に追い込んでいます。

綱吉にとって、そこまでにっくき忠清が判定した越後のお家騒動・・・そのままにしておくはずがありませんよね。

かくして、事実を再調査するとして、天和元年(1681年)6月21日・・・長良、主馬、正矩らを江戸城大広間に呼びだし、紀伊・水戸・尾張の御三家、忠清に代わって大老となった堀田正俊などの重臣が居並ぶ中、越後騒動の詮議が開始されたのです。

てか、もう結果は見えてるやろ!

案の定、翌日=6月22日に下された裁断は・・・

正矩は切腹、長良・主馬は八丈島への流刑・・・以下、多くの関係者が厳しい処分を受けたほか、藩主の光長も、領地を治める事ができずに家臣同士の騒動を招いたとして、所領を没収のうえ伊予松山藩への預かり、綱国も備後福山藩への預かりとなりました。

しかも、このとばっちりは一門にも・・・以前書かせていただいた従兄弟の松平直矩(なおのり)さんが5回目の引っ越し(4月25日参照>>) となり、同じく従兄弟の松平近栄(ちかよし)3万石から1万5000石に減封となっています。

なんだか、騒動の再調査というより、新将軍の威光を高めるがための再審議だったような・・・
 .

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コメント

徳川将軍家と越後松平家の両家は、「当主の跡目を継ぐのは弟か甥か」の問題点が共通するので、立場で見ると家綱=光長、綱吉=長良、綱豊(家宣)=綱国になりますね。
綱吉から見ると数年前の越前松平家の家督相続は、兄→弟と言う「自分の事例」どうりにしていれば、騒動は起きなかったのにと言う思いがあったのでは?
もし、将軍家と越前松平家の後継者が反対の立場の人になっていたら遺恨が残ったかも。綱吉が将軍になってから跡目を決める事にしたら、すんなり長良になったでしょうね。

投稿: えびすこ | 2012年6月21日 (木) 21時51分

えびすこさん、こんばんは~

どこの武家でも公家でも、跡目争いというのはなかなか難しいです。

家康が家光を推して、長男相続をアピールしましたが、子供が無ければやっぱりモメますね。

投稿: 茶々 | 2012年6月22日 (金) 02時06分

御為方は自称ですか。
(゚Д゚)「自重せよ。」
こういう自称の実態は、大抵、正反対のような気がします。
某政党のポスターを見ると、つくづくとそう思います。

ところで、細かいことですが...
自体→事態ではありませんか?違うのかな?

投稿: ことかね | 2012年6月23日 (土) 13時19分

ことかねさん、ありがとうございます。

事態です(;´Д`A ```

>こういう自称の実態は、大抵、正反対のような…

ホントに…
特に、現代の場合は、言う事だけは立派ですからね~

投稿: 茶々 | 2012年6月23日 (土) 15時00分

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