後醍醐天皇の建武の新政
元弘三年(1333年)6月6日、去る5月25日に北条高時一族滅亡の一報を聞いた後醍醐天皇が京都に入りました・・・いよいよ、あの一連の建武の新政が開始されます。
・・・・・・・・・・・・
護良親王(もりよししんのう=後醍醐天皇の皇子)のゲリラ戦(2月1日参照>>)
楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城籠城(2月5日参照>>)
足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)の六波羅探題(ろくはらたんだい)攻撃(5月9日参照>>)
そして
新田義貞(にったよしさだ)の龍神伝説(5月21日参照>>)
様々な名場面とともに、鎌倉幕府政権下でその勢力を誇った北条高時(ほうじょうたかとき)の一族が鎌倉の露と消えました(5月22日参照>>) 。
この一報を聞いた後醍醐(ごだいご)天皇は、ただちに伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)を出立し(5月23日参照>>)、一路、東へ・・・元弘三年(1333年)6月6日、京都に入ったのでした。
すでに、六波羅探題が陥落した時点で、光厳(こうごん)天皇を廃帝にして、事実上政権を奪取していた後醍醐天皇は、早速、功績のあった者に特別人事を発表するとともに、院政も、摂関政治も、幕府も否定した建武の新政を開始するのです。
まずは、休眠状態となっていた中務省などの八省を復活させて、そこの長官に上級貴族たちを任命します。
中央機関には、一般政務をこなす記録所、都の警備を担当する武者所、文字通り恩賞を管理する恩賞所、所領のモメ事に採決を下す雑訴決断所(ざつしょけつだんしょ)置いて、
地方には、守護と国司を併置・・・さらに、重要箇所となる関東には、関東8ヶ国と伊豆・甲斐を統治する鎌倉将軍府を置き、その長官に成良(なりよし・なりなが)親王(後醍醐天皇の皇子)、補佐に足利直義(ただよし=高氏の弟)を任命・・・
もう一つの重要箇所=東北には、陸奥将軍府を設置して、長官に義良(のりより・のりなが)親王(後醍醐天皇の第7皇子=後の後村上天皇)を任命し、その補佐に北畠顕家(きたばたけあきいえ=親房の長男)をつけました。
しかし、その亀裂は早々と生まれます。
そもそもは、
後醍醐天皇と公家たちが目指すのは、延喜&天暦の時代に行われた天皇&貴族の政治・・・
ともにゲリラ戦を展開した悪党たちを統率する護良親王が目指すのは革新的な政治・・・
高氏に代表される御家人たちは、武功に見合った恩賞を武家に与える新政を・・・
と、はなからその青写真が違うのです。
わずか1週間後の6月13日・・・護良親王が征夷大将軍に任命されます(7月23日参照>>)。
しかし、これが、そのページにも書かせていただいたように、すでに親子関係に亀裂が生じている中での、親王たっての希望による半ば強引な将軍任命で・・・後に尊氏自身が「そもそも征夷大将軍って源平両氏の武将の中から、その功績によって選ばれるもんちゃうん?」と反論したくなるような人事だったわけで、しかも、結局、後醍醐天皇の命により、護良親王は幽閉されてしまっていて、いったい、このドタバタは何だったんだって感じです。
しかも、公家の事ばかり考える新政は、宮殿を新しく造り変えるための資金ねん出のために無益な紙幣を発行したり、武士に対して過剰な労働を課したりして、武士や庶民の不満はつのるばかり・・・
また、「土地所有権の管理には綸旨(りんじ=秘書は天皇の意を受けて発行する書面)が必要」なんて法令を出しちゃったもんだから、全国から綸旨を求めて人が都にワッサワッサ・・・
その混乱ぶりは、新政開始の翌年8月に登場した「二条河原の落書」に見事に風刺されています。
当時は、何か事件があると、すぐに、それを風刺した落書きが京の辻や河原に立てられましたが、この二条河原の落書は、その中でもグンを抜いた物・・・日本の落書き史上の最高傑作と言える物です。
小気味いいリズムに機知に富んだ言い回し・・・しかも、観察力と洞察力をフルに活かして、見事に情景を皮肉ってますね~
「二条河原の落書」のイメージ(文章は「建武記」国立公文書館蔵より)
・・・て事で、やがては、高氏反旗のキッカケとなる中先代時行(なかせんだいときゆき)の反乱・・・となるのですが、そのお話は、また、日をあらためて・・・って事でよろしくお願いします。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
後醍醐天皇、流石に意気込みは良かったのでしょうが、時代に応じた政策をしなさ過ぎましたね。
平安期の荘園整理令を基に王家の土地所有を拡大しようと試みた結果なのでしょうが、武士たちは「一所懸命」に精魂傾けて、奉公してきた訳だし、それが報われないと考えたら、反抗するに決まってます。
でも、この後醍醐天皇による土地整理は後世の人間にとって「先例」となりました。
後醍醐天皇は土地所有の原則として、荘園制の悪弊だった中間搾取をはっきりと排除したのです。
これによって、「Aの土地はAのもの」という流れが生まれ、その後の豊臣秀吉による荘園制の撤廃と一地一作人制への移行がスムーズになったんですね。
さらに、徳川幕府が幕政の基本理念とした武家諸法度にも「後醍醐天皇の土地所有の先例に戻り…」と唄っています。
そういう面では、新しい時代の先駆け=「朕が新儀は未来の先例」となったんですけどね!
投稿: 御堂 | 2012年6月 6日 (水) 21時47分
寄進された荘園を武家に恩賞として、与えられなかった?公家が優遇されて。
投稿: やぶひび | 2012年6月 6日 (水) 22時09分
御堂さん、こんばんは~
何よりも「建武」という元号に後醍醐天皇の意気ごみが感じられますね。
土地政策に関しては、なんだかフラフラしてる感ありますが、そのような評価もできるのですね。
なるほど…
投稿: 茶々 | 2012年6月 7日 (木) 00時48分
やぶひびさん、こんばんは~
公家優先とともに、武士への論功行賞がかなり不公平だったみたいですね。
天皇の見えない所で命がけで戦ったにも関わらず冷遇される者がいる一方で、天皇の隠岐流罪につきそっただけで大して武功の無い者が過分の恩賞に預かったりして…
そこのところが武士たちには耐えられなかったのでしょう。
投稿: 茶々 | 2012年6月 7日 (木) 00時57分
社会が行き詰まると天皇という唯一の「公」に権力を戻して、一旦ニュートラルな状態にしてから再出発する…。日本の歴史が生んだ知恵だと思いますが、暫し親政が続くと、これまた按配が悪い。
天皇周辺の公家が、ちっとも「公」の精神を持たないせいもありますよね。高禄を貰いながら、いざとなると何の役にも立たない輩で。北畠親房さんも、ずいぶん怒ってます。
往時の鎌倉幕府のように簡素で「小さな政府」の方が武家のパブリック・スタイルに合ってます。何よりも、土地問題を解決する能力のない政権は、日本では持たないと言うことでしょうね。
投稿: レッドバロン | 2012年6月 7日 (木) 03時22分
レッドバロンさん、こんにちは~
>高禄を貰いながら、いざとなると何の役にも立たない輩…
なにやら、最近も、どこかで聞いたような…(;´д`)
歴史は繰り返される…ですかね。
投稿: 茶々 | 2012年6月 7日 (木) 14時33分