« 蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か? | トップページ | 応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家 »

2012年6月13日 (水)

本居宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中

 

寛政十年(1798年)6月13日、江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』44巻を完成させました。

・・・・・・・・・・・・

言わずと知れた江戸時代を・・・いや、有史以来の日本を代表する国学者本居宣長(もとおりのりなが)・・・

享保十五年(1730年)に伊勢国(三重県)松阪の木綿商の家に生まれた彼は、幼い頃から学問を習い、中国の史書などに興味を抱く少年でした。

Motoorinorinaga44a500 15歳の時に、一旦、養子に出されるも3年で離縁・・・その後、商売の勉強のために江戸へ出て1年間の遊学を終えた後、兄の死を受けて家系を継ぎますが、「どうも、自らの性格が商売に向いていないんじゃないか?」と感じ、22歳の時に、医学を学ぶために京都へと上りました。

京都では、当然、医学を中心に学びはしますが、その傍らで儒学漢学朱子学なども学ぶうち、京都という土地柄もあって、次第に平安時代の王朝文化にも興味を持ちます。

やがて宝暦七年(1758年)の29歳で故郷の松阪に戻った宣長は医師として開業・・・以来、本業は医者として働きつつ、夜の余った時間に『源氏物語』などの古典文学を研究するという生活を送ります。

ちなみに、生涯に渡って、宣長の本業は、あくまでお医者さんで、亡くなる10日前まで患者の診察に当たっていたと言われています。

そんな宣長を、平安の王朝文化中心から、万葉の世界へと誘うのが、たまたま書店で購入した『古事記』・・・同時期に、国学者・賀茂真淵(かものまぶち)の著した『冠辞考(かんじこう=万葉集の枕詞の解説書)に出会って、その心は、一気に国学の世界へ・・・

ファンレターを出すほどに、すっかり真淵にのめり込んでいった宣長・・・

そんなこんなのある日、いつも行く古本屋に立ち寄った宣長は、その店の主人から
「ありゃりゃ、惜しかったね~
今、いっつもアンタが話してる賀茂真淵って人が、ここに来てたんよ」

と聞きます。

「先生が?!なんで?」
「なんや、これから伊勢参りに行かれるみたいやけど、その前に、なんか珍しい本は無いか?っちゅーて立ち寄ってくれはったみたいですわ」
「それは、惜しい事した…何とか会いたいなぁ」
「ほな、今すぐ追いかけなはれ、きっと、まだ間に合うはずやさかい」

慌てて真淵を追う宣長・・・松阪の町はずれまで行き、その向こうの宿へも行き・・・そして、とうとう宝暦13年(1763)5月25日松阪の旅籠・新上屋にいた真淵を見つけます。

Matuzakanoitiya800
「松阪の一夜」(尋常小学校・国語教科書にある挿絵)

アポ無しにも関わらず、快く面会に応じてくれた真淵・・・有名な「松阪の一夜」です

「須(すべから)く先んづ万葉を学び、広く古語に通じ、然(しか)る後(のち)古事記を読むべし」

それは、単に単語の意味を知って、ただ読むだけではなく、言葉そのもを理解し、その語り口から解釈しないと古事記の語り部の意図は読み取れない・・・と、

この真淵の言葉から、宣長の古事記への探究が始まり、そして、生涯ただ1度のこの面会が、彼の人生を決定づけたのです。

以来、35年の月日を費やして寛政十年(1798年)6月13日全44巻の『古事記伝』が完成に至ったのです。

実に宣長、69歳となっていました。

平安時代の公家の間で、すでに、その解読の勉強会が開かれていたという『古事記』・・・難解なこの文献の注釈本としては、平成の時代になってもなお、この宣長の『古事記伝』を越える物は無いとの高い評価を受けています。

・・・と、エラそうな講釈を並べておりますが、実のところ、この私も、つい最近まで、本居宣長さんと言えば「国学者&古事記伝」のキーワードを知るだけで、それ以上の事は、ほとんどスルーしておりました。

だって、どう考えたって、学者さんのうんちくより、戦国武将の斬った張ったのほうがオモシロイんですもの・・・

ところが、それこそ、チラ見したとある雑誌で、宣長さんのエッセイ『玉勝間(たまがつま)の内容を知り、それまでの宣長さんのイメージが180度好転・・・いっぺんに好きになってしまいました。

彼は、自分の説が正しいと思ったなら、例え、それが、恩師である真淵の解釈と違っていても、あえて、反論を提示します。

もちろん、それは、真淵自身が『師の説にたがふとて、なはばかりそとなん』=「僕の考えと違てても遠慮せんで言うたらええねんで」と、彼に教えたからですが、そんな宣長自身も・・・

『われにしたがひてもの学ばんともがらも、わが後に、またよき考への出で来たらんには、必ずわが説にななづみそ。
わがあしきゆゑを言ひて、よき考へを広めよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせんとなれば、かにもかくにも、道を明らかにせんぞ』

「君ら(教え子たち)も、僕が死んだ後に、良い学説を思いついた時は、僕に遠慮せんと、僕の間違うてるとこを指摘して、自分の良い考えを広めたらええねんで」
と、言います。

また、『古事記伝』の中で、『古事記』の序文を除いた最初の最初の部分=『天地初發之時…』『天地』の読み方について、宣長は「アメツチ」と読むとしていますが、それについても『名義は未だ思ひ得ず』・・・つまり、「まだ、結論は出て無いねんけどね」との注釈を入れています。

そうなんです。
宣長にとっての探究は、常に現在進行形・・・44巻が完成したからと言ってそれで終わりではなく、常に進歩していく物なのです。

学者さんの中には、執念にも似た情熱で真実を探究をする方もおられますが、宣長の場合は、それとはちと違う・・・探究する事自体をを楽しんでいると言うか、明日は今日と違う解釈になってる事を期待してると言うか・・・

いいですね~~ヽ(´▽`)/

最後に、彼の『玉勝間』の冒頭部分の言葉をご紹介します。

『須賀直見が言ひしは、「広く大きなる書を読むは、長き旅路を行くがごとし。
おもしろからぬ所も多かるを経行きては、またおもしろく目覚むる心地する浦山にも至るなり。
また、脚強き人は速く、弱きは行くこと遅きも、よく似たり。」とぞ言ひける
かしきたとへなりかし』
「須賀直見(宣長の門人)くんが言うには、“大作を読むんは、長い旅の道を行くようなもんや。
途中には、おもろない場所もぎょうさんあるけど、そこを通り過ぎたら、また、目が覚めるような海岸や山に出たりして、メッチャおもしろなったりする・・・
ほんで、健脚やったら早う進んでいける
(すぐに読み終える)けど、足が弱かったら進んでいくのは遅いとこも似てるなぁ”やて・・・おもろい事言いよるなぁ」

自分に合ったペースで、急がす騒がず、むしろ歩く事を楽しむ旅=探究する事を楽しむ・・・
まさに、我が意を得たり!でした。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か? | トップページ | 応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

古事記には歌(万葉仮名)が沢山載っています。
伊勢の松坂出身の本居宣長には、その、大和言葉が馴染み易いということがあったのではないでしょうか。
古事記も、‘ふることぶみ’と読むべきと、言っていたのですよね。

投稿: 五節句 | 2012年6月14日 (木) 17時44分

五節句さん、こんばんは~

言葉を大切に…というのが宣長さんのコンセプトのようですね。

おっしゃる通り、『古事記』を「こじき」と読むかどうかは、未だ不明ですもんね。

投稿: 茶々 | 2012年6月14日 (木) 20時16分

松阪生まれの松阪育ちです。
宣長さんのことを書いていただいてありがとうございます。
松阪の皆さんのご協力で、本居宣長ノ宮、松阪の一夜跡(カリヨンビル)、御城屋敷などで、古事記の素読会のご奉仕をさせていただいてます。よろしければ、参加してくださいませ^^

投稿: おひさま やまとこゝろ | 2013年5月15日 (水) 18時01分

おひさま やまとこゝろさん、こんばんは~

松阪ですか~
松阪は以前、大阪から歩いて伊勢参りに行った時に立ち寄りましたが、伊勢参りの行程中なので、残念ながら、ほぼ素通りでした(*´v゚*)ゞ

いつかゆっくり、町中を散策してみたいです。

投稿: 茶々 | 2013年5月16日 (木) 02時04分

こんにちは。本居宣長って、情熱的な人だったようですね。好きな女性が他家に嫁いだので、宣長も結婚しました。女性が未亡人になったら、妻を離縁して一緒になりました。
先月出た「本居宣長」矢崎彰容(新潮社)に
紹介されたエピソードです。

投稿: やぶひび | 2024年6月13日 (木) 06時54分

やぶひびさん、こんばんは~

へぇ、知らなかったです。

なんか、当てつけで結婚して障害がなくなったら離縁された奥さんが気の毒な気が…

ソレって情熱的なのかな?
情熱的なら、相手の旦那が元気な間に略奪するくらいの勢いが欲しいような←あくまで個人の見解ですが(笑

投稿: 茶々 | 2024年6月14日 (金) 04時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 本居宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中:

« 蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か? | トップページ | 応仁の乱の責任を感じ…後花園上皇の出家 »