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2012年6月29日 (金)

老いてもなお…『甲子夜話』を著した松浦静山

 

天保十二年(1841年)6月29日、『甲子夜話』の作者として知られる肥後平戸藩・第9代藩主の松浦静山が82歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

本名は松浦清(まつらきよし)と言いますが、後に静山と号した事から、苗字の松浦と静山を合わせた松浦静山(まつらせいざん)の名前が有名なので、本日は、静山さんと呼ばせていただきます。

松浦静山は、本来なら、第9代平戸藩主を継ぐべきだった父=政信が早世したため、急きょ、第8代藩主であった祖父誠信(さねのぶ)養嗣子となって、その後を継ぐ事になりました。

とは言え、幼い頃は、体が弱く、病気がちだった静山・・・それ故、祖母に、このうえなく可愛がられるおばあちゃんっ子だったようですが、成長して体が丈夫になると、ワル仲間とつるみだし・・・

実は、静山は、長男ではあるものの、母が側室だったので、まさか、将来、自分が藩主になるなんて思ってもみなかったのですね。

しかし、さすがのお祖母ちゃん・・・そこをピシャリと、『意馬心猿』の絵図を静山に見せて諫め、不良仲間から引き離したと言います。

『意馬心猿(いばしんえん)とは、「走り回る馬や騒ぎ立てる猿のように落ち着かない心」の事・・・その様子を仏画にした物を見せて
「人間、このように欲望のままに生きてはイカン!」
と諭したわけです。

やがて藩主になる時も、この祖母は、10項目に及ぶ注意書きを静山に渡し、藩主としての心得を教えたと言いますから、なかなかのスーパーバァチャンです。

こうして安永四年(1775年)3月、16歳にして藩主の座についた静山でしたが、その頃の平戸藩は、大変な財政難でした。

そこで静山・・・身分にとらわれず適材適所に有能な人物を抜擢する一方で、経費を節減するための行政改革を行って倹約を徹底させました。

また、農民の農業離れを防ぐため、貧農への補助を厚くして、備蓄米や金銭、農具の貸出などを行って税収アップを図ります。

さらに、藩校=維新館を建設して、後世の人材育成にも尽力・・・ちなみに、この「維新」という言葉は、古代中国の『詩経(しきょう)の中の一説「維(こ)れ新(あらた)なり」=すべての事が改まって新しくなるという意味から取った物で、明治維新の維新とは出典は同じですが無関係です。

・・・で、この静山の改革が、ことごとく成功して落ち着きをみせた文化三年(1806年)、47歳にして、息子の(ひろむ)に家督を譲って隠居・・・ここから、静山の第2の人生が始まります。

文政四年(1821年)の11月甲子(きのえね:十干と十二支については【庚申待ち】>>のページで)の日に書き始めたので『甲子夜話(かっしやわ)と名づけられた膨大な随筆の執筆活動です。

静山は、これ以降、約20年に渡って、様々な事を書き綴りますが、その内容は、ちょうど田沼意次(10月2日参照>>)から松平定信(6月19日参照>>)へと移行する政治の話から、諸大名や旗本、同僚の武士たちの武勇もあれば失敗談もあり・・・

また、若き頃に自由奔放な生活をしていた事で味わった底辺の庶民たちの日常などを、
「僕が小さい頃の話やねんけど…」
「僕が、まだ若い頃にはな…」
「こないだ、こんな事があってんけど…」
「僕が、チョイと小耳に挟んだ話やねんけど…」

てな、感じで、まさに、現代のブログが如く、自らが体験した事や誰かから聞いた話などを書き残してくれています。

おかげで、現在では、当時の人の風俗や暮らしぶり、考え方などを知る貴重な資料となっています。

もちろん、著作は、この『甲子夜話』だけではなく、
『学剣年表』『剣談』など剣術の事を書いた物・・・
『平戸考』『百人一首解』などの文芸著書などなど・・・

・・・と、剣術の本を書いてるくらいなんだから、さぞや・・・と思いきやビンゴ!!

なんと剣術は田宮流新陰術心形刀流の免許皆伝、他にも弓道柔術馬術砲術などを習得しているというツワモノでした。

それでいて、美人画を集めるのが趣味というオチャメな部分も・・・

やがて、天保十二年(1841年)6月29日静山は82歳でこの世を去りますが、晩年になっても、改革をことごとく成功させた政治手腕や剣術の腕前に見る武勇など、そのスルドさは、まったく衰えていなかったようです。

そんな静山の晩年の逸話があります。

水戸の、あの徳川斉昭(なりあき)が、ある時、信濃松代藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)と、下野黒羽藩主・大関増業(おおせきますなり)(3月19日参照>>) 、そして静山の3人を自宅に招いて会談した時、「その記念に」と絵心のある近臣に、3人揃った肖像画を描かせて、自ら、その絵を『三勇図』と名づけました。

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『三勇図』(松浦史料博物館蔵)…左が大関、真ん中が真田、右が静山です。

そして儒学者であり静山の友人でもあった佐藤一斎に、代讃(画に書き込む詩や文章の代筆)を頼むのですが、その書き加えられた一文は・・・

『老驥伏櫪可畏也(ろうきふくれきかいなり)
「老いた馬が厩(うまや)に伏してる…おそるべし」

もはや年老いて、枯れ木のような見た目ををかもし出しているのもかかわらず、その中に秘めている闘志が恐ろしい・・・という事のようです。

さすがは静山さん・・・最後まで、若き日の精神を持っていたようです。
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コメント

ドラマの「妻はくノ一」で、人気が出そうですね。小説、コミックも。

投稿: やぶひび | 2013年5月21日 (火) 11時35分

やぶひびさん、こんにちは~

BSでやってるヤツですね(*^-^)
ほんで、ここ最近「松浦静山」の検索が多いんですね。。。納得

投稿: 茶々 | 2013年5月21日 (火) 14時00分

久しぶりに投稿しました。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」この言葉は松浦静山の言葉だそうですね。つい最近の新聞記事で見ました。
野村克也さんのオリジナルじゃなかったんですね。

投稿: とらぬ狸 | 2017年9月 5日 (火) 14時33分

とらぬ狸さん、こんにちは~

本当の名言という物は、何年経っても、いつの時代にも通じる物ですね。

投稿: 茶々 | 2017年9月 5日 (火) 16時45分

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