「もう1度、富士山を…」戦国の放浪詩人・飯尾宗祗の旅
文亀二年(1502年)7月30日、西行や松尾芭蕉と並んで、放浪の三大詩人と称される室町時代の連歌師・宗祗が箱根湯本にて、82歳の生涯を閉じました。
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紀州(和歌山県)の出身とされる飯尾宗祗(いいおそうぎ・いのおそうぎ)は、全国を巡業して回る旅芸人の一座の子として生まれたと言いますが、若い頃に、ある巡業先で、寺の僧から勧められたのをキッカケに歌の道に目覚め、30歳の頃に、本格的に連歌を志したとされます。
宗砌(そうぜい)や専順(せんじゅん)といった名だたる連歌師の教えを受け、あのカリスマ・ソングライター=東常緑(とうつねより)(5月12日参照>>)からは古今伝授(こきんでんじゅ)も授かっています。
連歌(れんが)とは、複数人で短歌を順番に詠む短歌遊びで、鎌倉から室町にかけて貴族や武士の間で流行し、これがウマイ事がセレブの証のようにもなっていましたから、やがて、文明五年(1473年)に、宗祗が京都に庵を結ぶ頃には、時の管領の細川政元(まさもと)(6月23日参照>>) などの上級武士との交わりも多くなり、また、遠方の守護大名からお声がかかって、自ら、地方に出向いたりもしました。
さらに長享二年(1488年)には、北野連歌所宗匠(そうしょう=第1人者・師匠)となって、まさに連歌の大家となりますが、ほどなく、その職は、交流のあった連歌師=猪苗代兼載(いなわしろけんさい)に譲り、『新撰莬玖波集(しんせんつくばしゅう)』などの連歌撰集を著したり、連歌論や古典の注釈本なども執筆するかたわら、生涯を通じて、各地を旅して廻り、いくつかの紀行文も残しています。
明応九年(1500年)、宗祗は、長年、自分を援助してくれている上杉家を訪問するため、弟子の宗硯(そうせき)とともに、越後(新潟県)へと旅立ちました。
もはや年齢も80歳・・・年齢が年齢だけに、ご本人もある程度の覚悟の上の旅だったかも知れませんが、無事、越後に到着し、現地では、宗硯に『古今集』の講義をするほどでした。
しかし、翌年、やはり弟子の宗長(そうちょう)が越後にやって来ると、何か緊張の糸が切れたのか、にわかに体調を崩します。
この時、「もはや最期の時」を悟ったのでしょうか?
京都の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に古今伝授の相伝文書を送っています。
その後、病は快復傾向に向かいながらも雪で動けず・・・やがて文亀二年(1502年)の2月、文長が、「そろそろ(自身の草庵のある)駿河(静岡県)に帰ろうと思います」と宗祗に告げると、宗祗は・・・
「ここで命も尽きると思てたけど・・・命っちゅーもんは、なかなか意地悪でツレないもんや。
かと言うて、このまま越後でお世話になるのも気が惹けるし、都へ行くのもなぁ・・・
せやから、美濃(岐阜県)におる友達の所で余生を送ろうと思うんやけど、連れてってくれへんかな?」
そして最後にポツリと・・・
「ほんで、もっかい富士山を見てみたいもんやと・・・」
こうして弟子たちとともに旅だった宗祗・・・
信濃から千曲川を過ぎ、2月26日には草津へ・・・
その後、中風に良いからと伊香保温泉に向かい、しばらく湯治をした後、再び旅の途につき、武蔵上戸(うわど=埼玉県川越市)に到着・・・ここに滞在中は、なんと千句連歌を興行したと言います。
さらに、7月の初めに江戸に着いた後、7月24日から2日間滞在した鎌倉でも千句連歌を行ったとか・・・
千句連歌とは・・・
一般的に、歌=短歌と呼ばれる物は、「五七五 七七」で完結し、それが一首なわけですが、連歌の場合は、その下の句の「七七」のあとに、さらに「五七五」「七七」「五七五」…と展開していって百首ぶんを以って一作品とし、これを百韻(ひゃくいん)と呼んで、長連歌の基本とされました。
千句連歌は、この百韻が10作品のセットになった物・・・確かに、複数の人で詠むわけですが、それにしても大変な労力です。
この宗祗の最後の旅を日記に綴った宗長の『宗祗終焉記(宗祗臨終記)』によれば、
「普段は、もはや、いまわのきわにも見える(宗祗の)姿が、連歌となると気力あふれる雰囲気になった」
と言っています。
・・・さすがに、大家と呼ばれる人は違いますね~
その後、7月29日に駿河に向けて出立しますが、途中で、宗祗が「寸白(すんばく)の虫が痛む」と言って苦しんだので国府津(こうづ)で一泊・・・
(寸白=寄生虫による腹痛の事ですが、この時代は原因は他にある場合も多々あり)
そこに、駿河から迎えの人馬や輿(こし)が到着して、さらに、先の東常緑の息子も迎えに来てくれたので、元気を取り戻した宗祗は、翌・30日に出立・・・その日のうちに箱根湯本に着きました。
湯本では、大変気分が良く、湯漬けを食して仲間と談笑して、そのまま眠りについたと言います。
しかし、その日の真夜中・・・急に苦しみ出したので、宗長らが揺り起こすと、
「今、藤原定家に会うたわ」
と・・・そして続けて
♪玉の緒よ 絶えなば絶えぬ♪
と吟じたので、周囲の人たちが
「それは、式子内親王の歌では?」
(1月25日参照>>)
と思っていたところ、
♪ながむる月に たちそうかるる♪
という句を吟じました。
これは、どうやら、先の千句連歌で誰かが詠んだ句・・・
そして
「私には付けられへん・・・みんなが付けてくれ」
この句に続けて詠んでくれ・・・と、そばにいる弟子たちを試すかのようなひと言を残して、そのまま眠るように・・・
文亀二年(1502年)7月30日、宗祗は息を引き取ったのでした。
その後、弟子たちによって生前の姿そのままに輿に乗せられて足柄山を越えた宗祗の遺骸は、駿河の国境に近い定輪寺に葬られたという事です。
こうして、最後の目的地としていた美濃には、残念ながら到着できなかった宗祗さんですが、旅が好きだった彼なら、旅の空に消えるというのも、また、彼らしい死であったのかも知れません。
おそらく富士山も見られた事でしょうし・・・
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コメント
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俳句 川柳 とかも 好きですけれど
私は 自由詩 とか 口語詩とか 好きです
本を 読む人は 孤独に強いと聞きます
知識 学門 おもしろいですね
若い人の受験体制にも 疑問です。
いろいろなものを味わい いろいろな遊びをして いろいろな知識を経て いろいろな~だけど まだまだ 言いたい事 知りたい真実がたくさんあるんだぁー 人生研究会(名前検討中
投稿: 謎の三文字∬村石太&老人探偵団 | 2012年8月 2日 (木) 22時27分
謎の三文字∬村石太&老人探偵団さん、こんばんは~
悠々自適ですね。
これから、たっぷりドップリ、思う存分見識を深めてくださいね。
投稿: 茶々 | 2012年8月 3日 (金) 02時24分