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2012年7月31日 (火)

アンケート企画:どの都を見てみたい?

 

さて、旧暦の無い31日という事で、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが見てみたい、全盛期の都市は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とは言え、今回も選択肢を決めるのに、イロイロ悩みました・・・

特に戦国時代などは、それぞれの領主が居城とした様々な城下町で、独自の内政を行っていたわけで、考えようによっちゃぁ、それらの城下町を首都と考える事もできるワケですが、それを言いだすと、とてもじゃないが、膨大な数になる・・・

という事で、今回は、あくまで、その時代の首都&都と呼ばれた場所か、あるいは、同時期であっても、中央の影響を受けにくい国家体制、あるいは別の機能を持つという意味で「主となる都市」という感覚で、選択肢を決めさせていただきました。

その決定には様々なご意見もあろうかと思いますが、とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢を16個用意させていただきましたので「この都の全盛期が見てみたい!」「行って体験したい!」と思う項目に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 日本初の本格的な都が誕生
    持統八年(694年)藤原京
    その都市計画を見てみたい!…(参照ページ:12月6日>>)
  2. 大仏開眼で最高潮の
    天平勝宝四年(752年)平城京
    青き空に映える天平の甍を見てみたい!…(参照ページ:4月9日>>)
  3. 鳴くよウグイス
    延暦十三年(794年)平安京
    やはり千年の都ですから…(参照ページ:10月22日>>)
  4. あの中尊寺が誕生した
    大治元年(1128年)平泉
    平安京をしのぐ雅さを持った奥州藤原氏の都…(参照ページ:7月13日>>)
  5. わずか半年の清盛が夢見た都
    治承四年(1180年)福原
    大陸との交易を視野に入れた現在の神戸…(参照ページ:11月26日>>)
  6. なんだかんだでイイ国造ろう
    建久三年(1192年)鎌倉
    やはり頼朝が征夷大将軍になった年の鎌倉を…(参照ページ:7月12日>>)
  7. 義満が金閣を建てた
    応永四年(1397年)平安京
    室町バブルの全盛期?洛中洛外図の世界を直に…(参照ページ:12月30日>>)
  8. 信長が城を建てて楽市楽座をしいた頃
    天正四年(1576年)安土
    行き交う人、賑やかな町並みなど…(参照ページ:2月23日>>)
  9. 秀吉が太政大臣に就任した
    天正十四年(1586年)大坂
    3年前に完成した大坂城とともに…(参照ページ:12月19日>>)
  10. 元禄文化、真っただ中の
    元禄時代(1688年~1704年)江戸
    世界一の大都市となった大江戸…(参照ページ:2月9日>>)
  11. 堂島に米会所が開設された
    享保十五年(1730年)大坂
    天下の台所となった大坂の町…(参照ページ:1月19日>>)
  12. グラバーがやって来た
    安政六年(1859年)長崎
    幕末の志士が集い、夢を語る…(参照ページ:8月23日>>)
  13. 新橋⇔横浜間に陸蒸気が走った
    明治五年(1872年)東京
    ザンギリ頭にガス灯、文明開化に沸く新都…(参照ページ:9月12日>>)
  14. 大阪城天守閣が復興された
    昭和六年(1931年)大阪
    この時期、東京を抜いて日本一の人口を誇った大大阪…(参照ページ:11月7日>>)
  15. 東京タワーが完成した
    昭和三十三年(1958年)東京
    貧乏だけど夢があった高度成長期…(参照ページ:12月23日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この時代のアレでしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

申し訳ございませんが、このアンケートは2012年8月14日に締め切らせていただきました。

投票結果&いただいたコメント8月17日のページでどうぞ>>

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2012年7月30日 (月)

「もう1度、富士山を…」戦国の放浪詩人・飯尾宗祗の旅

 

文亀二年(1502年)7月30日、西行松尾芭蕉と並んで、放浪の三大詩人と称される室町時代の連歌師・宗祗が箱根湯本にて、82歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

紀州(和歌山県)の出身とされる飯尾宗祗(いいおそうぎ・いのおそうぎ)は、全国を巡業して回る旅芸人の一座の子として生まれたと言いますが、若い頃に、ある巡業先で、寺の僧から勧められたのをキッカケに歌の道に目覚め、30歳の頃に、本格的に連歌を志したとされます。

宗砌(そうぜい)専順(せんじゅん)といった名だたる連歌師の教えを受け、あのカリスマ・ソングライター東常緑(とうつねより)(5月12日参照>>)からは古今伝授(こきんでんじゅ)も授かっています。

連歌(れんが)とは、複数人で短歌を順番に詠む短歌遊びで、鎌倉から室町にかけて貴族や武士の間で流行し、これがウマイ事がセレブの証のようにもなっていましたから、やがて、文明五年(1473年)に、宗祗が京都に庵を結ぶ頃には、時の管領の細川政元(まさもと)(6月23日参照>>) などの上級武士との交わりも多くなり、また、遠方の守護大名からお声がかかって、自ら、地方に出向いたりもしました。

さらに長享二年(1488年)には、北野連歌所宗匠(そうしょう=第1人者・師匠)となって、まさに連歌の大家となりますが、ほどなく、その職は、交流のあった連歌師=猪苗代兼載(いなわしろけんさい)に譲り、『新撰莬玖波集(しんせんつくばしゅう)などの連歌撰集を著したり、連歌論や古典の注釈本なども執筆するかたわら、生涯を通じて、各地を旅して廻り、いくつかの紀行文も残しています。

Sougi600 そんな宗祗は、やはり、旅の途中で、その最期を迎えます。

明応九年(1500年)、宗祗は、長年、自分を援助してくれている上杉家を訪問するため、弟子の宗硯(そうせき)とともに、越後(新潟県)へと旅立ちました。

もはや年齢も80歳・・・年齢が年齢だけに、ご本人もある程度の覚悟の上の旅だったかも知れませんが、無事、越後に到着し、現地では、宗硯に『古今集』の講義をするほどでした。

しかし、翌年、やはり弟子の宗長(そうちょう)が越後にやって来ると、何か緊張の糸が切れたのか、にわかに体調を崩します。

この時、「もはや最期の時」を悟ったのでしょうか?
京都の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)古今伝授の相伝文書を送っています。

その後、病は快復傾向に向かいながらも雪で動けず・・・やがて文亀二年(1502年)の2月、文長が、「そろそろ(自身の草庵のある)駿河(静岡県)に帰ろうと思います」と宗祗に告げると、宗祗は・・・

「ここで命も尽きると思てたけど・・・命っちゅーもんは、なかなか意地悪でツレないもんや。
かと言うて、このまま越後でお世話になるのも気が惹けるし、都へ行くのもなぁ・・・
せやから、美濃
(岐阜県)におる友達の所で余生を送ろうと思うんやけど、連れてってくれへんかな?」

そして最後にポツリと・・・
「ほんで、もっかい富士山を見てみたいもんやと・・・」

こうして弟子たちとともに旅だった宗祗・・・

信濃から千曲川を過ぎ、2月26日には草津へ・・・

その後、中風に良いからと伊香保温泉に向かい、しばらく湯治をした後、再び旅の途につき、武蔵上戸(うわど=埼玉県川越市)に到着・・・ここに滞在中は、なんと千句連歌を興行したと言います。

さらに、7月の初めに江戸に着いた後、7月24日から2日間滞在した鎌倉でも千句連歌を行ったとか・・・

千句連歌とは・・・
一般的に、歌=短歌と呼ばれる物は、「五七五 七七」で完結し、それが一首なわけですが、連歌の場合は、その下の句の「七七」のあとに、さらに「五七五」「七七」「五七五」…と展開していって百首ぶんを以って一作品とし、これを百韻(ひゃくいん)と呼んで、長連歌の基本とされました。

千句連歌は、この百韻が10作品のセットになった物・・・確かに、複数の人で詠むわけですが、それにしても大変な労力です。

この宗祗の最後の旅を日記に綴った宗長の『宗祗終焉記(宗祗臨終記)によれば、
「普段は、もはや、いまわのきわにも見える(宗祗の)姿が、連歌となると気力あふれる雰囲気になった」
と言っています。

・・・さすがに、大家と呼ばれる人は違いますね~

その後、7月29日に駿河に向けて出立しますが、途中で、宗祗が「寸白(すんばく)の虫が痛む」と言って苦しんだので国府津(こうづ)で一泊・・・
寸白=寄生虫による腹痛の事ですが、この時代は原因は他にある場合も多々あり)

そこに、駿河から迎えの人馬や輿(こし)が到着して、さらに、先の東常緑の息子も迎えに来てくれたので、元気を取り戻した宗祗は、翌・30日に出立・・・その日のうちに箱根湯本に着きました。

湯本では、大変気分が良く、湯漬けを食して仲間と談笑して、そのまま眠りについたと言います。

しかし、その日の真夜中・・・急に苦しみ出したので、宗長らが揺り起こすと、
「今、藤原定家に会うたわ」
と・・・そして続けて
♪玉の緒よ 絶えなば絶えぬ♪
と吟じたので、周囲の人たちが
「それは、式子内親王の歌では?」
(1月25日参照>>)
と思っていたところ、

♪ながむる月に たちそうかるる♪
という句を吟じました。

これは、どうやら、先の千句連歌で誰かが詠んだ句・・・
そして
「私には付けられへん・・・みんなが付けてくれ」

この句に続けて詠んでくれ・・・と、そばにいる弟子たちを試すかのようなひと言を残して、そのまま眠るように・・・
文亀二年
(1502年)7月30日宗祗は息を引き取ったのでした。

その後、弟子たちによって生前の姿そのままに輿に乗せられて足柄山を越えた宗祗の遺骸は、駿河の国境に近い定輪寺に葬られたという事です。

こうして、最後の目的地としていた美濃には、残念ながら到着できなかった宗祗さんですが、旅が好きだった彼なら、旅の空に消えるというのも、また、彼らしい死であったのかも知れません。

おそらく富士山も見られた事でしょうし・・・
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2012年7月28日 (土)

徳川綱吉に寵愛された喜多見重政の末路

 

元禄六年(1693年)7月28日、5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けながらも悲しい末路となった喜多見重政が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

と言っても、正式には喜多見重政(きたみ しげまさ)生没年は不明となっていて、今回の日づけは、あくまで一説には・・・という事なのですが、とりあえず、本日の日づけで書かせていただきます。

旗本の石谷武清(いしがいたけきよ)次男として生まれた重政は、母方の祖父である喜多見重恒の養子となって寛文十二年(1672年)に1120石の家督を継ぎました。

はじめは、御書院番進物役などをこなしていましたが、延宝八年(1680年)に、江戸幕府第5代将軍に徳川綱(つなよし)が就任した事から、一気に出世の道をたどる事になります。

Tokugawatunayosi600 つまり、綱吉のお気に入りとなったわけですね。

貞享二年(1685年)には御側用人になり、翌年には1万石を加増されて、旗本から、計2万石の大名に出世・・・

 .
綱吉が重政を寵愛した要因は、重政が、あの生類憐みの令の忠実な実行者であったから・・・と言われています。

以前も書かせていただいたように、この生類憐みの令は、最初に発令された時にはそれほどでも無かったのが(1月28日参照>>)、度重なる発令の追加により、々に範囲も広がって、その罰も厳しくなっていき、途中からは、動物を保護するために人が死刑になるなど、ワケのワカラン展開になって(1月10日参照>>)、今でも「天下の悪法」と言われたりなんぞします。

この法令は元禄七年(1694年)頃に最高潮に達しますが、その頃に、重政は犬大支配役という役職に任命されていたのです。

この役職が、実際にどんな任務をこなしていたのかの詳細な記録は無いそうですが、おそらくは、犬を保護すると同時に、違反者を摘発する役目であったろう事は想像できますので、生活に不自由をきたすほどの法令に悩まされた庶民からは、煙たがられる役職だったでしょうね。

『竹橋余筆(ちっきょうよひつ)別集』によれば、少なくとも元禄の始め頃には、重政は自らの領内に野犬を保護するための犬小屋を設置していて、後に、綱吉自身が、おそらく、この重政の犬小屋をヒントに自らも野犬の収容施設を造っていますので、そりゃ、寵愛しますわな。

ところが、ドッコイ・・・元禄二年(1689年)、突然、所領を没収され、桑名藩主=松平定重(さだしげ)に預けられるのです。

『寛政重修諸家父譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば、その原因は・・・
「抜群の重恩をこうむりながら 近来しばしば御むね(綱吉の意思)に背き 勤務おろそかなり」
と・・・

つまり、「綱吉に寵愛されてるのを良い事に、天狗になって仕事をサボってたという事のようですが、このあまりの突然の改易に、様々な憶測も飛んでいます。

ちょうどその頃、重政の一族の喜多見重治という者が、自宅にて、自身の妹のダンナと口論になったあげくに殺害した事で、逮捕されて死刑になったという事件があったのですが、その事件が綱吉の逆鱗に触れ、事件に連座する形で、重政も改易になってしまった・・・とか、

あるいは、重政が綱吉に対して、何らかの諌言をした事を逆ギレされて改易となったとか・・・

はたまた、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)(11月2日参照>>)による陰謀説なんかも出ています。

もちろん、ほとんど史料が無いので、あくまで憶測ですが、それまで絶好調で寵愛されていただけに、何やら、謎めいた部分が残る、突然の失脚です。

結局、重政は、その、預かり先の桑名にて元禄六年(1693年)7月28日にお亡くなりになるのですが、

かの『徳川実記』には、
「物狂いしさまにて、あらぬことどもいいつづけ没した」
と・・・

そう、乱心の末に亡くなったと書かれているのです。

なんだか、こういう最期だったと聞くと、より、その失脚にのウラに、彼が心を病んでしまうほどの大きな何かが隠れているように思ってしまいますね。
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2012年7月27日 (金)

祇園祭の長刀鉾は宗教戦争の証…天文法華の乱

 

天文五年(1536年)7月27日、延暦寺衆徒が近江・六角定頼の加勢を得て法華宗徒を京都四条口に攻め破り、洛中の法華寺院21ヶ所に放火しました・・・世に言う「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」です。

・・・・・・・・・

今回の法華宗とは、あの日蓮(9月12日参照>>)を開祖とする日蓮法華宗(日蓮宗とも)です。

日蓮は、布教活動を通して、度々、各宗派を批判したり、政権に対して諌言したりしたため、その生存中から、多くの迫害に遭っていました。

日蓮亡き後は、その高弟たちに布教活動が受け継がれ、各門流(各派)が形成されるとともに、それは、京都の町衆を中心に広がっていく事となります。

しかし、法華宗に限らず、こういった宗教勢力は、大きくなればなるほど、政治に巻き込まれて行くのがこの時代の常・・・

当時、摂津河内和泉(いずれも大阪府)大和(奈良県)に勢力を誇っていた本願寺門徒・・・彼らの一向一揆の勢力を恐れた細川晴元(はるもと)は、この本願寺を潰すために、最近力をつけて来た法華宗信徒の力を借りようと、近江(滋賀)六角定頼(ろっかくさだより)に、京都の町衆を中心にした3~4000人の法華宗信徒を扇動させ、天文元年(1532年)に山科本願寺を攻撃させました。(8月23日参照>>)

しかし、こうして一向一揆に勝利した法華宗の信仰は、さらに京都の町衆の大半に浸透し、まさに隆盛を極めていく事になりますが、そうなると、今度は、彼らが自治権を握り、それが政治を左右するようにまでなって来るのです。

それは政権担当者が苦々しく思うと同時に、他の宗教にとっても苦々しい存在なわけで・・・

そんな中、天文五年(1536年)3月・・・比叡山延暦寺(天台宗)の高僧が、法華宗信徒と行った宗論対決で敗れるという出来事が起こります。

もちろん、メンツを潰された延暦寺側は怒り爆発・・・三井寺興福寺本願寺など、敵の敵は味方とばかりに全国に声をかけて兵をかき集めます。

当然ですが、もはや政治にも介入する法華宗信徒をうっとぉしく思っていた、先の晴元も定頼も、今度は比叡山側の味方です。

こうして団結した集団は、7月23日から京都への侵入を開始し、洛中の法華寺院21ヶ所に延暦寺の末寺になる(傘下に入る)事を要求・・・

すでに町内の要所に掘を築造して交戦覚悟の法華宗は、当然、その要求を拒否します。

かくして天文五年(1536年)7月27日延暦寺側は、要求を呑まなかった洛中の法華寺院21ヶ所に攻撃を仕掛けたのです。

この時、定頼の援軍をプラスして6万に膨れ上がった大軍によって殺害された者は数千人におよび、群衆が法華寺院に放った火が、さらに広がって、京都市中をことごとく焦土と化し、その焼失被害は応仁の乱の戦火よりも大きかったのだとか・・・

この時、勝利した延暦寺側が、その戦利品として手に入れた長刀(なぎなた)・・・その長刀の刀身には、
「去年(天文五年の事)日蓮宗退治の時 分捕(ぶんどり)に仕(つかまつ)り候(そうろう)を買い留め 感神院(かんじんいん=八坂神社)に寄せ奉(まつ)る所なり」
との銘が刻まれ、乱の翌年から、まさに勝利の証として、奉納された八坂神社の祭りの先頭に飾られました。

そう、これが、あの祇園祭の先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)鉾頭に飾られる長刀(現在は模造品)です。

以前、その由来を書かせていただいたように(7月1日参照>>)、もともとは、荒ぶる神によって怨霊を鎮めるために始まった祇園祭・・・

そんな祇園祭の、祭の由来となる歴史とは別に、雅な情景とはうらはらな、祭が歩んできた生々しい歴史も、また、祇園祭の歴史なのです。

これにより、京都での活動は壊滅状態となり、生き残った者たちも洛外へと追放された法華宗信徒・・・以後、6年間禁止され、天文十一年(1542年)の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を以って法華宗院が再建されて、ようやく、信徒たちも京都の町に戻れる事になります。
Rakutyuurakugaizucoco330
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2012年7月25日 (水)

老獪・家康…西へUターンの小山評定

 

慶長五年(1600年)7月25日、会津征伐に向かっていた徳川家康が、下野小山において軍議を開き、従軍している諸将に去就を問いました・・・世に言う「小山評定(おやまひょうじょう)です。

・・・・・・・・

昨日のページの続き・・・というか、まさしく、その翌日のお話ですが・・・

そもそもは豊臣秀吉亡き後に、豊臣政権において筆頭家老となった徳川家康が、再三の上洛要請に応じない会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して、「謀反あり」として会津征伐を決行する中、家康と対立する石田三成(いしだみつなり)が、家康が出陣して留守となった伏見城を攻撃(7月19日参照>>)・・・これが、あの関ヶ原の合戦の始まりです。

・・・で、昨日は、東へ向かった家康が下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)に着陣し、その日の夕方に、伏見城の留守を預かる鳥居元忠(とりいもとただ)からの知らせを受け取ったという所まで、お話をさせていただきました(7月24日参照>>)

知らせとは、もちろん「伏見城が三成からの攻撃を受けている」という内容です。

今川で人質生活をしていた頃からの忠臣の知らせに、三成が挙兵した事を確信した家康は、即座に会津征伐を取りやめ、西へとUターンする事を決意しますが、問題は、従軍している諸将たちです。

家康の出陣と前後して会津征伐に出陣した武将は、名だたる者だけでも80余名・・・彼らが連れている兵も含めれば、何万もの大軍となる家康の手勢ですが、彼らの多くは豊臣恩顧の武将たち・・・

そもそもは、豊臣政権下で、豊臣家に対して謀反の恐れある上杉を討つ事に賛同して集まった武将たちで、家康の家臣ではありません。

反転して三成と戦うとなれば、どれだけの武将が家康について来てくれるのかはまさに未知数・・・

かくして、一夜明けた慶長五年(1600年)7月25日・・・

Tokugawaieyasu600 家康は小山の陣所に諸将を集めて、上方にて勃発している異変を告げるとともに、「豊臣家のために奸臣=三成を討つのだ」という名目を掲げて、彼らの今後の方針を問うたのです。

そう、実際に、前年の閏3月には、豊臣家内の武闘派の諸将たちが、三成を襲撃するという事件も起きています(3月4日参照>>)

彼ら武闘派から見れば、三成こそが、秀吉亡き後の豊臣家内を騒がす反乱分子なワケで、家康としてはソコを利用しない手は無い・・・

とは言え、実際には、妻子を大坂方に人質にされてる武将もいます

以前も、チョコッと書かせていただいたように(7月14日の前半部分参照>>)、豊臣配下となっている武将は大坂城下に屋敷を構えていて、通常は妻子もそこに住んでいたわけで、三成は合戦の勃発に際して、その妻子らに大坂城に登城するよう命令を出して人質にしようとしたと言われています。

しかし、それを拒んだあの細川ガラシャの一件(7月17日参照>>)があって、あまり強制する事はやめたとか・・・

ただ、現在では、この人質作戦は、それほど強制的な物では無かった(さっさと逃げている人もいるので…)とも言われていますが、それでも、屋敷の周囲に警備兵が配置され、監視下に置かれていたであろうとの事ですので、やはり、遠く離れて従軍している武将にとっては、大坂城下で妻子がどのような状況に置かれているのかは心配なところ・・・

・・・なので、そのまま軍議の席で諸将に問う形をとれば、それこそ、家康の味方になってくれるかどうかは、はなはだ不安・・・

って事で、家康の命を受け、ここで動いたのが黒田長政(くろだながまさ)です。

軍議の前・・・長政は、以前から「三成憎し」にコリ固まっていて、かの三成襲撃事件の時でも特にヤル気満々だった福島正則(ふくしままさのり)に接触します。

この戦いは、家康が五大老の筆頭として三成を討つ戦いであって、決して、主君の豊臣家に害を及ぼす物では無い事を力説・・・評定の場で真っ先に家康への協力を表明して、「その場を盛り上げてくれ」と・・・

しかし、さすがに「三成憎し」の正則も、大坂の現状が気になります。

『関ヶ原軍記大成』によれば、この時、長政は
「大坂にいてる人質の事はほぉっておいても大丈夫や・・・三成かて、そう簡単に殺すわけないがな!心配せんと家康さんにつけよ」
と言って説得したのだとか・・・

「そら、お前とこの嫁はんは、先に逃げとるからえぇやろけどな!」
と、私なら言っちゃいそうですが、その事を知ってか知らずか、正則は、この説得に応じたようです。

かくして、評定の場で、家康が
「なんやかんや言うても、君らは、妻子を人質に取られとんねやさかい、このまま上方へ行ってくれてもええねんで~
例え、こっちが勝ったとしても、後でその事を咎める事なんかせぇーへんし…」

と、切り出したところに、正則が進み出て、
「そんな事、するわけありません!
僕は、三成に味方する義理も無いし、妻子を人質に出したつもりもありませんから、どないなろうと、ついて行きます!」

すると、その場の空気が一気に盛り上がって、評定の場にいた者は、「我も」「我も」と手を挙げたのです。

さらに、もう一人、その場を盛り上げた人がいました。

奥さんの内助の功で有名な山内一豊(やまうちかずとよ)・・・『鶴頭夜話(かくとうやわ)に登場するお話です。

実は、一豊は、この評定に先だって、友人の堀尾忠氏(ほりおただうじ)に、今後の事についての相談を持ちかけていたのです。

「家康さんは、今回の行軍で、主要な街道の城主が、裏切って城に籠るんや無いか?と心配してはるみたいやけど、君やったらどないする?」
と・・・

すると忠氏は
「俺は、自分の城を明け渡して、そこに家康さんの兵に入ってもろて、自分の軍勢は皆率いて戦場に行こと思てる・・・それやったら、裏切れへん証拠にもなるやろし・・・」
と、家康の味方になるどころか、城を投げ打って参戦する覚悟を語っていたのです。

その意見を聞いていた一豊・・・

なんと、今回、正則のひと言で大盛り上がりになっている評定の場で、すかさず前に出て・・・
「僕の掛川城には守備兵を残さず、軍勢は、すべて、にっくき三成を倒すために連れていきます。
空になった城は、家康さんに差し上げますよって、家康さんの兵を入れてください!」

と・・・

忠氏、ガ~~ン・・・「それ俺の…」
と言う間もなく、家康が、
「それはありがたい!
それやったら、そっちも領国の心配せんでえぇし、こっちも裏切られるかも知れんという心配も無くなる・・・この状況で、これ以上の忠義はないで!一豊くん!」

と、大喜び・・・

忠氏、Wガ~~ン・・・「それ俺の…」
と言う間もなく、またしても、その場は盛り上がり、「我も」「我も」と手を挙げたのです。

ナイスなタイミングで、他人の意見を乗っ取って、ウマイ事やった一豊・・・

こうして、その場にいたほとんど全員を味方につけた家康は、続いて、今後の基本方針を発表します。

軍を二つに分け、1隊は息子=徳川秀忠を大将にして東山道を、家康自身は、もう1隊を率いて東海道を進み、美濃(岐阜県)合流して、西軍との決戦に挑む・・・と、

かくして、先陣を任された正則が、自らの手勢を率いて西へと向かって出立するのは、翌・26日・・・その後、諸将は次々と陣を払って、我先にと西へと向かう(8月11日参照>>)事になります。

その後の事は【関ヶ原の合戦の年表】>>のそれぞれのページからどうぞm(_ _)m
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2012年7月24日 (火)

「小山評定」前夜…徳川家康と花房職之

 

慶長五年(1600年)7月24日、会津征伐に向かっていた徳川家康の遠征軍が、下野小山に着陣しました。

・・・・・・・・・・

7月に入って、目が離せない関ヶ原です。

豊臣秀吉が亡くなった後、重鎮の前田利家も亡くなった事で表面化して来る豊臣家内での亀裂(3月4日参照>>)・・・そんな中、巨頭の死によって五大老の中でも筆頭となった徳川家康は、度々の上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して、「謀反の疑いあり」会津を征伐を決行する事に・・・
(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で個々のページへ>>)

今では、この会津征伐は、家康が、秀吉の死後に居座っていた伏見城を留守にする事によって、反発する石田三成(いしだみつなり)の側から攻撃を仕掛けさせる事が目的だったなんて言われてますね。

とにかく、現時点では、世は豊臣政権で、家康も豊臣秀頼(とよとみひでより)の臣下なわけで、当然、全国にいる武将は皆、豊臣の配下・・・家康が手っ取り早く豊臣家を倒して武力革命でも起こそうものなら、それは主君への謀反となり、諸大名や世論の指示を得る事はできない・・・

なので、家康は、上洛に応じない上杉の征伐を推し進め、諸将に従軍するよう呼び掛けて、畿内を離れ、三成が兵を挙げやすくした・・・ってわけですが、それこそ、そんな家康のたくらみが書面で記録に残されるはずはなく、その心の内は、あくまで想像・・・

とは言え、諸将の反対もあった会津征伐が、家康の強い推しで実施されると決まった時、家康は「伏見城の大広間にて、四方を眺めながら、1人、ニコニコは微笑んで上機嫌だった」板坂卜斎(いたざかぼくさい)『慶長記』に書かれているので、やっぱりたくらんでたのかも・・・

そんな家康が伏見城を後にしたのが慶長五年(1600年)6月17日で、江戸に到着したのが7月2日・・・

同じ7月2日、一方の三成は親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)「挙兵の決意」を打ち明け、家康の会津征伐に協力するはずだった吉継は、その後、三成に賛同します(7月11日参照>>)

そして三成は西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと)を迎える(7月15日参照>>)一方で、豊臣三奉行の名前の入った「大坂へ来てちょーだい」という内容の連署状を諸将に送り届け、いよいよ7月19日には、小早川秀秋(こばやかわひであき)宇喜多秀家(うきたひでいえ)島津義弘(しまづよしひろ)毛利秀元(もうりひでもと)による伏見城への攻撃が開始されます(7月19日参照>>)

続く7月21日には、三成からの書状を受け取った真田一家のうち、真田昌幸(さなだまさゆき)と次男の幸村(信繁)会津征伐を取りやめて戻り(2008年7月21日参照>>)、家康と行動をともにしていた細川忠興(ただおき)田辺城は福知山城主・小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将にした西軍・1万5000に囲まれました(2009年7月21日参照>>)

Tokugawaieyasu600 おそらく、想像通りなら、この間の三成の動きを逐一受け取るダンドリをしていたはずの家康・・・確信が得られる三成挙兵の知らせは、いつ家康に届けられたのか???

とにもかくにも、家康は、7月8日に先鋒の榊原康政(さかきばらやすまさ)を出陣させ、自らも7月21日江戸城を出陣します(この出陣は会津への出陣です)

さらに、22日、23日、と会津に進軍する中、慶長五年(1600年)7月24日下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)に着陣・・・家康から伏見城の留守を任されていた鳥居元忠(とりいもとただ)が発した早馬が届いたのは、その日の夕刻だったと言われています。

それは、もちろん
「治部少(じぶしょう=三成)の攻撃を受けている」
との知らせ・・・

とは言え、家康は、この前日の7月23日の日づけで、出羽最上義光(もがみよしあき)宛てに
「…御働の儀 先途御無用せしめ候…」
と、
戦闘中止=会津征伐が無くなった事を告げる手紙を送っていますので、刻々とつたわる西軍の情勢に、もはや、心は決まっていたのでしょうが、忠臣の元忠の知らせによって、その確信を、より強い100%の確信とし、西へと戻る決断をしたという事なのでしょう。

・・・で、西へ戻るとなると気になるのは、その会津の動きです。

なんせ、かの上洛要請の時に、ウソかマコトか、上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)は、ヤル気満々の高ピーな書状をよこして来ています(4月14日参照>>)、つい先日は越後一揆を扇動して混乱させよう(7月22日参照>>)としてます。

とは言え、会津にはまだ少々の距離あり・・・逆に、この時点で、もっと気になるのは、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義宣(さたけよしのぶ)の動き・・・

この時、義宣は、
「会津征伐に参加しまっせ」
と表明してはいるものの、その身は未だ水戸に置いたまま・・・会津征伐が無くなった(と家康は心に決めてる)今、どっちにつくのやら、その動向が読めません。

そんな時、
「佐竹の軍が背後から襲ってくる」
との噂が流れ、小山の陣所は騒然となります。

そこへ、ナイスなタイミングで、小山の陣所にやって来たのが花房職之(はなぶさもとゆき=職秀)・・・

彼は備前(びぜん=岡山県東南部)の武将で宇喜多秀家に仕える身でしたが、あの朝鮮出兵の時の秀家の戦い方に苦言を呈した事で、主君をエライ怒らせてしまい、殺されそうになったところを、間に入った秀吉のはからいで、佐竹氏に預けられていたのでした。

「ちょうど、ええとこ来たわ・・・どや?佐竹は襲って来そうか?」
と職之に聞く家康・・・

「そうでんなぁ・・・義宣はんは、ものすご律儀な人やさかい、背後から襲ってくるなんて事は無いと思いまっせ」
と答える職之・・・

「ほな、“佐竹は攻めて来ません”っていう誓紙を一筆書けや」
「それは困ります~ 親子でもお互いの心がわからん場合もありますねやさかい、絶対てな約束はできません。。。誓紙はご勘弁を・・・」
と断わりました。

すると、家康は突然不機嫌になり、職之が部屋を出た後、
「職之はなかなかの武将や思とったけど、大したことないな」
と吐いて捨てるように言ったのだとか・・・

その後、職之は、東軍として関ヶ原に参戦して8000石の所領を得ますが、結局、当時の大名と旗本の境界線であった1万石に達する事ができなかった・・・

そう、実は、ここで家康が職之に誓紙を要求したのは、周囲の武将に対するパフォーマンスだったわけです。

例え誓紙を書いたとて、状況が変われば裏切るのが戦国の世というもの・・・後で、佐竹が攻めて来ようが来まいが、そんな事には関係なく、今ここで、「襲ってくる」との噂に騒然となっている、この小山の陣所の兵士たちを安心させるために「誓紙を書け」と、家康は言ったわけです。

しかし、職之はそれに気づかず断わった・・・
なので、家康は「大したこと無い」と吐いて捨てたのです。

この職之の小山の陣でのくだりは、江戸時代に成立した『志士清談(ししせいだん)に登場しますが、それによれば、職之は
「昔、小山の陣所で誓紙を書かへんかったために、俺は一生パッとせん武将になってしもた。。。名将に仕える者は、そのひと言にも気を遣わんとアカンなぁ。
あの時気づけへんかった俺・・・情けないワ」

と、ずっと後悔していたとか・・・

こうして、職之さんの運命を変えた小山の陣所ですが、ご存じの通り、他にも多くの武将の運命も変えます。

そう、いよいよ、ともに会津征伐にやって来た諸将に、家康が会津征伐の中止を発表し、「敵は畿内にあり!」と、華麗なるUターンを宣言する小山の軍議=世に言う「小山評定(ひょうじょう)があるわけですが、そのお話は、やはり軍議が行われる明日・・・7月25日のページでどうぞ>>
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2012年7月23日 (月)

北条復興を願って…中先代・北条時行の反乱

 

建武二年(1335年)7月23日、亡き北条高時の遺児・時行を担いで鎌倉幕府復興を目指した反乱=中先代の乱で、反乱軍が鎌倉を占拠しました

・・・・・・・・・・・

ご存じ、鎌倉幕府を倒して建武の新政を行った後醍醐(ごだいご)天皇・・・(6月6日参照>>)

討幕に至る経緯は、【足利尊氏と南北朝の年表】>>前半部分でくわしく見ていただくとして・・・

とにかく、
元弘三年(1333年)5月22日に、事実上鎌倉幕府のTOPだった第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)自刃して鎌倉が陥落・・・(5月22日参照>>)

その後、九州の幕府勢力も一掃され、北陸の諸将も自刃し、最後まで抵抗を続けていた金剛山阿蘇治時(あそはるとき=北条治時)大仏高直(おさらぎ・だいぶつたかなお=北条高直)らが元弘三年(1333年)7月9日処刑され(7月9日参照>>)幕府勢は全面降伏となりました。

とは言え、これは表向き・・・心に「幕府命」を秘める者や、命からがら少数で脱出して潜伏する者が、まだまだいるわけで・・・

そもそも・・・
かの北条高時には3人の男子がいました。

一門から、高時の猶子(ゆうし=契約上の親子関係)として宗家に入っていた治時は、上記のように7月9日に処刑されます。

実子・長男の邦時(くにとき)は、父・高時から「北条再興」の夢を託されて伯父(邦時の母の兄)五大院宗繁(ごだいいいんのむねしげ)に預けられますが、この宗繁が、自らの保身のために邦時を売ったために捕縛され、5月28日に処刑されました

そして、次男=北条時行(ときゆき)・・・この時、7~8歳前後だったと言われる彼は、あの運命の5月22日、高時の異母弟=北条泰家(やすいえ)に連れられて、鎌倉を脱出したのです。

その後、北条氏の守護国である信濃に迎え入れられ、しばらく身を潜める時行・・・

やがて、ご存じのように、新政のほころびは、間もなく表面化して来ます。

翌・建武元年(1334年)には、後醍醐天皇の治世で、貴重なご意見番だった万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、献上された駿馬に大喜びする後醍醐天皇に、
「奇物をもてあそばず、仁政をつくしなはれ」
と、内裏の造営のために増税した事を諫めますが、その意見を一蹴されたために、即座に出家して、その身をくらませてしまいました。

さらに翌年=建武二年(1335年)の6月・・・いち時は関東に赴任していた縁で、北条氏とのつながりも篤かった京都の公家=西園寺公宗(さいおんじきんむね)のもとに、かの泰家が身を寄せた事から、密かに、後醍醐天皇暗殺計画を企てるのです。

それは、「西園寺家の山荘=鹿苑寺に後醍醐天皇を招待し、踏み板の下に刀の切っ先を並べた罠をしかけた湯殿に入らせて殺害し、第93代後伏見天皇を擁立して新帝を即位させる」という計画でしたが、公宗の異母弟の西園寺公重(きんしげ)の密告によって事前に発覚してしまい、公宗は斬首されてしまいました。

・・・で、この時、何とか逃亡した泰家が、事が表沙汰になった事をキッカケに、全国の北条残党に挙兵を呼び掛けたのです。

それに応えたのが、かの時行を保護してくれている信濃の住人諏訪頼重(すわよりしげ)でした。
(ちなみに、武田に滅ぼされる戦国時代の諏訪頼重>>はこの方より10代後になります)

先に書いた通り、鎌倉時代には、北条氏が信濃の守護で、諏訪氏はその配下だったわけですが、幕府が滅亡した後は、信濃の守護は小笠原氏に・・・しかし、頼重は、どーも、その小笠原氏の当主=貞宗(さだむね)とはウマく行かず、対立していたのです。

建武二年(1335年)7月・・・頼重らの支援を受けて5万の大軍となって挙兵した時行軍は、守護の小笠原貞宗を破って千曲川沿いを転戦・・・同時に、北条一族の名越時兼(なごえときかね)も、北陸にて6000余りを率いて挙兵しました。

この時の鎌倉には、東国の備えとして、後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)を将軍にして、足利高氏(後の尊氏)の弟=足利直義(ただよし)が執権としてそれを補佐する鎌倉将軍府が設置されていました。

しかし、やがて武蔵の国に入った時行軍は、迎撃する鎌倉将軍府の諸将を次々と破り、鎌倉へ進攻・・・不意を突かれた形で苦戦する直義は、やむなく、未だ幼い足利義詮(よしあきら=高氏の息子)と成良親王を連れて鎌倉を脱出するのです。

この時、鎌倉にて土牢に押し込められていた後醍醐天皇の皇子・大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)敵方に担がれてはマズイと、途中で、親王の殺害命令を出して逃走したために、その命を受けた淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって護良親王が殺害されていま(2009年7月23日参照>>)

この事が後々、亀裂の一端となるのですが、そのお話は後日させていただくとして・・・

こうして、建武二年(1335年)7月23日・・・北条時行軍は鎌倉を占拠したのです。

Asikagatadayosi600 さらに追われる直義は、駿河で追いつかれて一戦をい交えますが、何とか三河まで逃亡・・・ここで、この乱の事を知らせる使者を京都へと送ります。
(以前は「源頼朝像」とされていた京都・神護寺の肖像画は、現在では足利直義像であるという説が有力です←)

この反乱は、先代の北条と次代の足利の中間という意味で、中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれます。

さて、この知らせを受けた京都では、後醍醐天皇が、直義の兄=高氏を征討軍の大将として派遣する事を決定するのですが、高氏は、この決定に対して、少々の条件を出します。

・・・と、
気になるところではありますが、そのお話は、中先代の乱が鎮圧される8月19日のページでどうぞ>>
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2012年7月21日 (土)

日本の思い出を胸に…初代駐日総領事・ハリス

 

安政三年(1856年)7月21日、初代アメリカ駐日総領事ハリスが伊豆・下田に来航しました。

・・・・・・・・・・・

7年前は斎藤きちさんの事を書いてしまいましたので(2006年7月21日参照>>)、本日はハリスさんのお話を・・・

Harris600 アメリカニューヨーク州ワシントン郡の貧しい家に生まれたタウンゼント・ハリスは、中学を卒業した後、家業を手伝いながら独学で、フランス語やイタリア語やスペイン語を習得し、各国の文学を学びました。

その時に苦労した経験から教育に興味を持って、教育活動に打ち込む中、その活動が認められて1846年(弘化三年)からは、ニューヨーク市教育長を務めました。

その後、貨物船の権利を取得した事から貿易商に転身し、太平洋沿いの各国へと航行するようになりますが、そんな中、清国(中国)にて、ペリー(6月3日参照>>)率いる東インド艦隊に出会った事で日本にも興味を持ち、外交官を目指すようになるのです。

そんな時、そのペリーが日米和親条約を締結させた事で、下田に領事館が設置される事を聞きつけたハリスは、なんと!大統領に直談判して、初代の駐日総領事に任命してもらいます。

かくして安政三年(1856年)7月21日ハリスは伊豆下田に来航したのでした。

最初は通訳の行き違いから上陸を拒まれたり、やっと意思が通じて上陸して下田玉泉寺に領事館を構えた後も、江戸へ行くのを断られたりと、幕府は何かとハリスを警戒していましたが、やがて、彼の誠実な人柄が垣間見えるようになり、徐々に幕府も・・・いや、逆に、大いに彼に信頼を寄せるようになるのです。

やがて、翌年には江戸に行く事も許され、第13代将軍=徳川家定謁見する事も叶いました。

さらに、その翌年の安政四年(1858年)の7月、14回にも渡る交渉の末、日米修好通商条約の締結に至りました。

この時、ハリスが主張した日本貨幣と米国貨幣との交換比率の条件によって、おびただしい量の金が流出したのは有名な話ですが、一方でハリスは、日本の金貨が外国の銀貨に比べて、意図的にその価格を引き下げられている事実を幕府に勧告し、早急に金貨の価値を上げるよう、貨幣価格の比較一覧表を送ったりなんかもしてます。

その後、初代総領事から初代公使へと役職名が変わったハリス・・・しかし、大仕事を終えた安堵感からか、やがて体調を崩しがちになり、病気を理由に公使の辞任を申し出るようになります。

そして文久二年(1862年)4月・・・5年9ケ月に渡る日本での生活に別れを告げ、ハリスはアメリカへと戻りました。

この時、すっかりハリスに信頼を置くようになっていた幕府は、何とか帰国を引きとめようとし、それが叶わないとなると、アメリカ国務長官にハリスの再任を要請したと言います。

もちろん、帰国後のハリスも、常に日本に関心を寄せ、訪問者には、日本での生活の事を大喜びで語っていたとか・・・

独身だったハリスは、その後、15年間ニューヨークに住み、質素な生活をしていたと言いますが、やがて、彼が日本に滞在していた時の費用を、自らのポケットマネーでまかなっていた事を聞きつけた国務長官によって、その滞在費用のすべてを国家で補償する事が約束されたそうで、

それからは、公職につく事も無く、海外旅行を楽しんだり、時には、パリの博覧会を見物に行ったりという悠々自適の生活を送ったようです。

そんなハリスは、1878年(明治十一年)2月25日肺出血によって74歳の生涯を閉じまが、今もニューヨークにあるその墓碑には「日本のよき友である」という内容の銘文が書かれてあるとか・・・

そして、そのすぐ横には桜の木が1本・・・その桜が美しい花を咲かせる春には、きっと、そこに眠るハリスさんも、遠き日本を思い出してくれている事でしょうね。
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2012年7月20日 (金)

戦国の足音…重き「光」を背負った称光天皇

 

正長元年(1428年)7月20日、第101代天皇・称光天皇が28歳の若さで崩御されました。

・・・・・・・・・・・

称光(しょうこう)天皇は、あの南北朝合一(10月5日参照>>)した時の北朝側の天皇=後小松(ごこまつ)天皇の皇子です。

この南北朝合一は、
① 三種の神器を北朝・後小松天皇に渡し、南朝・後亀山
   天皇は譲位する。
② 以後、天皇は南朝・北朝が交互に立つ。
③ 皇室領のうち、国衙領は南朝派の物、長講堂陵は北朝
   派の所領とする。

という3つの条件のもとに、第99代の後亀山天皇が譲位して、北朝6代の後小松天皇が第100代天皇なる・・・という形で決着しました。

これで条件のはクリア・・・

しかし、問題は・・・このは、南朝側の資金確保を補償する物ですが、もはや地方に根づいた勢力が幅をきかせている時代ですので、その恩恵がとのくらい中央まで届くのかが不確かで、どちらかと言えば名目上は・・・てな感じ。

・・・で、何とかクリアできそうなのは・・・この南北朝合一の時には、後小松天皇はまだ16歳だったので、未だ皇太子を定めていませんから、合一後の後亀山上皇が、なかなかに恭順な態度でおとなしくしていたのも、ひょっとしたら、幕府の推挙で、後継者を南朝側の人にしてくれるんじゃないか?ってな期待があったからなわけで・・・

しかし、応永十五年(1408年)・・・その淡い期待は見事に裏切られます。

南北朝合一を成功させたのは、第3代室町幕府将軍の足利義満(よしみつ)ですが、その息子で第4代将軍となっていた足利義持(よしもち)が、後小松天皇の第1皇子の躬仁(みひと・実仁)皇子を、次の天皇として即位させようと画策し始めたのです。

もちろん、これは後小松天皇の意志でもありました。

Nanbokutyoukeizusyoukou1_2 系図を見ていただくとわかりやすいんですが、実は、南北朝どころか、北朝の中でも、すでに皇統が2系統に分かれていたのです。

そうです・・・あの観応の擾乱(かんおうのじょうらん)10月26日参照>>)のゴタゴタの後、一旦かりそめの講和を結んで南北朝が合一された時、この混乱を復権のチャンスとみた南朝勢力が、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまった事で、再び分裂した北朝側には天皇がいなくなってしまった・・・

この時に、苦肉の策として、神器なし指名なしの前代未聞の即位をしたのが、北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>) ・・・つまり、このために北朝も系統が分かれてしまっていたわけで、後小松天皇としてはジッチャンから受け継いだ後光厳統を守りたい・・・

一方、怒り爆発の後亀山上皇は、応永十七年(1410年)11月27日、大覚寺を出奔し、突然、大和(奈良県)吉野へと家出して幕府に抗議しますが、そんな事にはおかまくなく、京都では躬仁皇子の立太子が行われ、応永十九年(1412年)8月29日には、その躬仁皇子が、第101代称光天皇として即位・・・後小松上皇による院政が開始されてしまいます。

・・・と、やっと出て来た、本日の主役=称光天皇・・・

というのも、実は上記の通り、この称光天皇の治世では、後小松上皇が院政をしくわ、室町幕府の力は強いわで、称光天皇が何かをしたという記録はほとんど無いのです。

しかも、称光天皇は体が弱く病気がちで、在位中にも何度か危篤状態に陥っていたとか・・・

さらに、父との確執に悩み、弟=小川宮の急死を受けて、精神を病んでいたと言われます。

この小川宮という人は、称光天皇の3歳下の弟ですが、翌月に元服を控えながら22歳の若さで急死した事で、毒殺説も浮上している不可解な亡くなり方をした皇子です。

ひょっとしたら、称光天皇とは、やれ南北朝だ、やれ系統だ、と息まく大人たちの間で、自らの身の置き所を悩み続けた、心やさしき天皇様だったのかも知れません。

しかし、そんな天皇の心とはうらはらに、称光天皇の在位中には、応永二十一年(1414年)に、あの南朝の忠臣=北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の流れを汲む伊勢国司北畠満雅(みつまさ)伊勢の関一党を率いて蜂起したり、応永三十年(1423年)には、その満雅に呼びかけに応えて、「鎌倉や筑紫の兵が蜂起した」という記録(看聞日記)もあります。

筑紫の兵というのは誰を指すのか微妙ですが、鎌倉の兵というのは、おそらく第4代・鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)の事でしょう。

後亀山上皇自身は、応永二十三年(1416年)に嵯峨大覚寺へ戻っていますが、旧南朝勢力(後南朝)から発展した反幕府勢力は、この称光天皇の御代に、戦国へと歩み始めたのかも知れません。

正長元年(1428年)7月20日称光天皇は28歳の若さで崩御されます。

称光天皇に子供がいなかった事から、後小松上皇は、やむなく、ライバルだった崇光天皇の皇統である貞成親王の皇子=彦仁王(後花園天皇)を、自らの猶子(ゆうし=契約で結ばれた親子関係)にして次期天皇とします。

ところで・・・
「諡号(しごう=生前の事績への評価に基づいて死後に奉る名)に『光』の文字がつく天皇には特別な意味がある」という話をご存じでしょうか?

この「光」という文字が最初に付いた天皇は、あの桓武天皇のお父さん=第49代光仁(こうにん)天皇ですが、この方は、それまで9代・約100年に渡って続いた天武天皇(2月25日参照>>)の系統から、壬申の乱(7月23日参照>>)に敗れた側の弘文天皇の父=天智天皇の系統に代わった久々の天皇です(10月1日参照>>)

その次が、昨日の宇多天皇のお父さん=光孝(こうこう)天皇(7月19日参照>>) ・・・この方も陽成(ようぜい)天皇の退位を受けて、3代前の仁明(にんみょう)天皇に戻っての皇位継承で系統が変わってる・・・

つまり、この「光」という文字は、皇統が変わった時に、その正統性を示すために用いられた文字だというのです。

ところが、ここに来て、北朝は「光」だらけ・・・実は後小松天皇の「小松帝」というのも光孝天皇の異称という事で、後小松天皇自身が生前に希望した追号・・・これも「光」グループなのです。

この「光」連発は、つまり、いかに神器なき北朝が、その正統性を主張したかったの証とも言えるもの・・・この重き名=「光」を背負った最後の天皇となった称光天皇・・・病弱で心やさしき天皇には少し重たすぎたのかも知れません。
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2012年7月19日 (木)

御室桜のごとき返り咲き~宇多天皇の「寛平の治」

 

承平元年(931年)7月19日、第59代宇多天皇が65歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

宇多(うだ)天皇は、元慶八年(884年)から3年間、源定省(みなもとのさだみ)と名乗る源氏の人でした。

というのも、この宇多天皇の父=第58代の光孝(こうこう)天皇が、先日お話した承和の変(じょうわのへん)(7月17日参照>>)に関与した第54代・仁明(にんみょう)天皇の皇子・・・

そのページでもお話しましたように、その仁明天皇の父=第52代・嵯峨(さが)天皇が、その父の桓武天皇皇位継承でモメた事(9月23日参照>>)や、自分自身も、兄の平城(へいぜい)天皇との間に藤原薬子の乱(9月11日参照>>)を経験した事で、今後は、後継者をめぐっての争いが起きないようにと
「これからは、兄弟間の血筋で、交代々々に皇位を継承しうて行こな」
という約束を交して、異母弟の淳和(じゅんな)天皇に皇位を譲り、

その後、ちょっとは、その約束が守られて兄弟間で譲位しようとしたにも関わらず、承和の変という怪しい事件によって、その順番が狂い、その後は、仁明天皇の息子=第55代・文徳天皇、さらに、その息子=第56代・清和天皇、またまたその息子=第57代・陽成(ようぜい)天皇と、3代に渡って親子間の皇位継承がされていたのです。

Mototunekanpakukankeizu 以前、陽成天皇のページでupした系図ですが、ご参考に…→

ところが、ドッコイ、この陽成天皇が、時の関白=藤原基経(もとつね)に奇行が目立つという難クセをつけられ、わずか17歳で騙されるように退位させられ(8月26日参照>>)、いきなり、3代前の仁明天皇の息子=光孝天皇が即位したのです。

そうです。
それまで陽成天皇のもとで、幼いのをこれ幸いと、関白として好き勝手に手腕を発揮していた基経が、成長してうっとおしくなった陽成天皇を廃して、またまた好き勝手にやれる天皇として選んだのが光孝天皇だった・・・というワケです。

その思惑通り、光孝天皇は政治のすべてを基経に任せっきりとなりますが、心の底ではおそらく
「ナメとったらアカンぞ!」
と、仕返しの炎がメラメラと・・・(←これはあくまで想像です)

そう、実は、光孝天皇は、自らの子供に後を継がせないために、ものすご~~くたくさんいる自分の子供たちすべてに姓を与え、臣籍としたのです。
(姓を与えて臣籍に…については7月6日【桓武平氏の誕生】を参照>>)

あくまで憶測ですが、光孝天皇の気持ちとしては、おそらく次期天皇への継承は陽成天皇の系統に譲りたかったんじゃないでしょうか?

 

しかし、それが叶わぬうちに、光孝天皇は病に倒れてしまいます。

そして、もはや死期を悟った光孝天皇・・・最後の置き土産とばかりに、すでに源氏となっている息子の中から、
「コイツなら、ヤレる!」
と信じた源定省の源氏姓を削って親王に戻し、その翌日、定省親王を皇太子に立てて、そのまま、息をひきとったのです。

Udatennou600 父が見込んだ、すでに自分の意思やしっかりとした考えを持った次期天皇・・・これが宇多天皇だったのです。

日本の歴史上ただ一人、1度、臣籍に降下して後、再び天皇家に返り咲いた21歳の若き天皇です。

しかし案の定、基経との衝突はすぐに起こります。

宇多天皇は自らの治世でも、基経に関白を務めてもらおうと、改めて関白に任命する勅書(ちょくしょ=天皇の命令を書いた文書)を出すのですが、その文面の中に「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」との一文があった事に、基経は激怒するのです。

つまりは「阿衡に任命しますよ」って事・・・この阿衡という役職名は摂政(せっしょう)や関白の別名であって、宇多天皇側にしてみれば「関白やってネ」という事と何ら違わないつもりだったわけですが、

基経とツルんでいた学者の藤原佐世(すけよ)
「阿衡って、位はあるけど実務を伴わない役職やから、結局は“政務はやるな”って意味なんちゃいますのん?」
という入れ知恵をしたのです。

「ほな、おっしゃる通りに、もう、仕事しませんわ!」
と、基経はいきなりの出社拒否・・・

実は、この頃、当代一の学者とうたわれていた佐世には、同じく、当代一の学者と称される橘広相(たちばなのひろみ)というライバルがいたのですが、この広相の娘が宇多天皇の女御だった関係から、宇多天皇が何かと相談を持ちかけていた学者が広相で、かの勅書の文章も広相が作成した物・・・

そうです・・・ライバルを蹴落とそうと、文章のあげ足を取って拡大解釈してイチャモンをつけたわけです。

かと、言って、関白とあろう人が、このまま出社拒否しっぱなしというわけには行かず・・・やむなく宇多天皇は「“宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ”の文は自分の意に背く物である」という宣言をして事の収拾に当たったのですが、

何となく、天皇側が折れた感はぬぐえず・・・「世の中、ゴネたモン勝ちかい!」てな結末に・・・

しかし、ここで折れた宇多天皇も、寛平三年(899年)1月に基経が亡くなると、その後は関白を置かず、自ら親政を行い、律令国家の再生に向けて手腕を発揮します。

この時、宇多天皇の政治を見事にサポートしてくれたのが、あの菅原道真(すがわらのみちざね)・・・実は、先の基経のゴタゴタの時に、間に入ってうまくまとめてくれたのが道真だったのですよ。

この一件から、道真に篤い信頼を寄せるようになった宇多天皇・・・もちろん、道真も、それに応えます。

後に、道真のライバルとなる藤原時平(ときひら)も、この頃は未だ年若く、お互い協力して、諸国に博士や医師を配置して地方政治のレベルを上げたり、農民に荒田や閑地の占有を認めて小農民を保護する政策などを行いました。

これは「寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれ、今でも善政とされ、一説には、奴婢(ぬひ=奴隷)制度廃止令も、この時代に出されたと言われます。

また、落ち着いた時代には、様々な文化も生まれる物で、勅撰(ちょくせん=天皇の命で造る)史書『類聚国史(るいじゅうこくし)や、現存最古の漢和辞典『新撰字鏡(しんせんじきょう)などが、この宇多天皇の治世で生まれています。

やがて、後継者決めでゴタゴタするのを避けたのか、寛平九年(897年)、突如として息子の敦仁親王=第60代・醍醐(だいご)天皇に皇位を譲り、自らは仏の道に専念するとして、あの仁和寺に入り、法皇となりました。

とは言いながらも、病弱な醍醐天皇をサポートする形で、常に政治に気を配っていたと言われますが・・・

そんな宇多天皇は、常に、道真と時平が並び立つ事を希望し、双方に対して、
「賞罰な常に公平にし、喜怒を表さず、事を進める時には常に先例を頭に置いて行うように」
と訓じておられたとか・・・

その思いとはうらはらに、後に道真は、時平によって左遷されてしまう事になります(阿衡事件に関しては内容かぶってますが…1月25日参照>>)

その事を、宇多天皇は、どのように感じておられたのでしょうね。

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御室桜と五重塔(仁和寺)
 

承平元年(931年)7月19日65歳で崩御された宇多天皇・・・天皇の愛した「御室(おむろ)桜」は、今も、毎年春、仁和寺を訪れた人の心を和ませてくれます御室桜の写真は4月15日参照>>)
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2012年7月18日 (水)

槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重

 

元亀四年(天正元年=1573年)7月18日、室町幕府・第十五代将軍・足利義昭が篭もる宇治・槇島(まきしま)城を、織田信長が攻撃しました。

・・・・・・・・・

5年前の今日の日づけでのページには、義昭さん自身の事を書かせていただきました(2007年7月18日参照>>)ので、本日は、この槇島城(まきしまじょう)の戦いを中心に書かせていただきますね。

とりあえず、ここまでの経緯は・・・

ご存じ、あの足利尊氏(たかうじ)が初代将軍となって開いた室町幕府ですが、やがて訪れた戦国時代・・・下剋上の嵐の中で、畿内にて頭角を現して来た三好長慶(みよしながよし)と対立した第13代将軍・足利義輝(よしてる)は、その戦いに敗れ、度々、京を追われる事になります(11月27日参照>>)

とは言え、その間も、この長慶が、上下関係を重んじる古風な性格だったおかげで、何とかの将軍の座を保てていたわけですが(5月9日参照>>)、長慶が亡くなると、その家臣の松永久秀三好三人衆に襲撃され、義輝は命を落とします(5月19日参照>>)

Asikagayosiaki600 この時、三好勢によって奈良興福寺に監禁されていた義輝の弟は、その2ヵ月後に、細川藤孝(後の幽斎)らの手によって救い出される(7月28日参照>>)・・・この弟が足利義昭(よしあき・義秋)です。
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その後、越前(福井県)朝倉義景のもとに身を寄せながら、何とか、兄の思いを継いで将軍に復帰したいと願っていたところ、明智光秀を通じて織田信長を知る・・・

武力はあるけどブランドの無い信長と、ブランドはあるけど武力の無い義昭の利害関係が見事に一致・・・途中、行く手を阻む近江(滋賀県)六角氏を倒しながら(9月12日参照>>)、永禄十一年(1568年)9月26日、信長は義昭を奉じて上洛を果たしたのです(9月7日参照>>)

第15代将軍となった義昭は、年下の信長の事を「御父殿」と呼び、しばらくの間は蜜月の日々を過ごしますが、やがて、その将軍の座が飾り物で、実質的に政治的差配を奮っているのが信長である事に不満を持ち始める義昭・・・

しかも、元亀元年(1570年)1月23日、信長が義昭に『五ヵ条の掟書』(1月23日参照>>) という義昭の行動を制限する書状を突き付けた事で、その亀裂は決定的となります。

そこで義昭は、信長に敵対する諸大名に手紙など書き、浅井・朝倉(6月28日参照>>)石山本願寺(11月24日参照>>)などを扇動して信長を攻撃させます。

やがて元亀三年(1572年)、そこに甲斐(山梨県)の大物=武田信玄も加わって、信長包囲網ができあがるのです。

この状況に「行ける!!」と踏んだのか、義昭は、翌年の正月頃から、自身の二条城の掘りを新しくしたり、武器弾薬を運び込んだり、戦闘の準備に入ります。

この様子を察した信長は、再三に渡って義昭に和睦を打診しますが、義昭は聞く耳を持たず・・・
(2月20日参照>>)
(2月24日参照>>)

これに対して信長は、和睦交渉を進めつつ、一方で、あの上京焼き討ち(4月4日参照>>) を決行します。

これに驚いた正親町(おおぎまち)天皇から「和睦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出た事で、一旦、両者は和睦しますが、義昭の心にはモヤモヤが残ったまんま・・・

結局、7月5日、義昭は勅命を破棄して挙兵・・・二条城を三淵藤英(みつぶちふじひで=幕臣・細川藤孝の異母兄)に守らせ、自らは槇島城(京都府宇治市)に立て籠ったのです。

これに対し、建造したばかりの大船(7月3日参照>>)で琵琶湖を渡り、7月7日に京都に入った信長が、妙覚寺に布陣して二条城を包囲すると、その軍勢のスゴさに参り、二条城は、またたく間に開城されました。

翌7月8日・・・信長は5万の軍勢を率いて宇治五ヶ庄に本陣を構えます。

一方の義昭は、仁木(にっき)吉良などの臣下とともに甲賀の武をかき集め、宇治川に架かる大橋を切り落とします。

川を挟んだ両岸に、思い思いの旗馬印をたなびかせ、しばしにらみ合う両軍・・・

かくして元亀四年(天正元年=1573年)7月18日・・・信長勢が川を渡るところから槇島城の戦いの火蓋が切られました。

信長軍の先陣を行く稲葉一鉄(11月19日参照>>) が川の際まで繰り出したところ、1人の雑兵が、ササァ~と、稲葉勢に加わって来たかと思うと、あれよあれよと言う間に先頭に立って、ただ一騎、川の中へと馬を滑らせて、
「梶川弥三郎宗重(かじかわやさぶろうむねしげ)なり~」
と、声高らかに名乗りを挙げながら、北東に向かって一直線に川を渡ります。

これを見た一鉄が
「続け~~」
と号令をかけるが早いか、皆が一斉に、ドヮッと川に駆け入ります。

ほぼ同時に、柴田勝家丹羽長秀(にわながひで)明智光秀木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)などが、我も我もと続き・・・『絵本太閤記』によれば、この時、あまりの軍勢の勢いに、流れの早い宇治川に淀みが出来るほどだったとか・・・

もちろん、義昭の軍勢も黙ってはおらず、川中の敵を討たんと川岸まで出て来ますが、あまりの勢いに尻ごみ・・・結局、信長軍は、ほぼ無傷のまま川を渡りきりました。

この状況を見るに見かねた松井康之なる武将が、わずか500手勢を率いて槇島城を出て、先陣の稲葉軍と戦いますが、もはや、その武勇も空しく、あまたの軍勢が討ち取られ、康之自身も命を落とします。

さらに、隙間なく攻め寄せる信長軍は、大手搦め手を打ち破り、怒涛のごとく攻め寄せます・・・それは、まるで、大石を以って鶏の卵を割るがごとく・・・

さすがに槇島城内では「もはや、これまで」の声があがり、武将ともども、将軍の前で割腹して果てようとなり、義昭も自刃を心に決めます。

そして、今まさに、切腹しようとしたその時・・・その場所に、1人の雑兵が駆けこんで来ます。

「ちょっと待ってください!
将軍様が、こんなとこで命を落とすやなんて、もったいないです。」

そう言いながら義昭に近づき・・・
「信長さんが、ここまでの大軍を要しておきながら、この合戦で1本の矢も放たんかった事、お解りになりませんか?
それは、将軍様の命を重く感じておられるからです。
どうか、このまま、開城して退去なさってください」

と義昭を説得します。

この雑兵は、なんと、あの宇治川を1番に渡った梶川宗重でした。

彼は、木下藤吉郎の配下の者・・・藤吉郎の命を受けて、1番に川を渡り、先に、あの松井勢に紛れ込んで城中に忍び込み、将軍の説得に当たったのでした。

この説得に応じた義昭は、翌7月19日、嫡男の足利義尋(ぎじん)人質に出す条件で降伏し、槇島城を出たのです。

ここで京都追放となった義昭は、7月20日に三好義継(よしつぐ)河内若江城(大阪府東大阪市)へと送られ(11月16日参照>>)教科書などでは、ここで、室町幕府の滅亡となるわけですが、冒頭でも紹介した以前のページ(再び2007年7月18日参照>>)に書かせていただいたように、私個人的には、ここでの幕府滅亡は、すこぶる納得がいきません。

そもそも将軍というのは、天皇が任命する物であって、その天皇が「お前クビ!」と言ってクビにするか、将軍が自ら「辞めます」と言って、それを承認してもらうかしない限り、将軍は将軍のままなわけで・・・下剋上でのし上がった一戦国大名のように、力が衰えたから滅亡、都から追放されたから滅亡という定義は当てはまらないと思うのですが・・・

まぁ、その話をし出すと長くなりますので、またいずれ・・・と言っても、テストでは「室町幕府の滅亡=1573年」と答えてくださいね。
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2012年7月17日 (火)

藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変

 

承和九年(842年)7月17日、皇太子・恒貞親王が廃太子される政変=承和の変(じょうわのへん)がありました。

・・・・・・・・・・

『続日本後記(しょくにほんこうき)に記録される事件の経緯は・・・

・‥…━━━☆

春宮坊(とうぐうぼう=皇太子の家政機関)帯刀(たてわき=指揮官)であった伴健岑(とものこわみね)但馬権守(たじまごんのかみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)らが、皇太子恒貞(つねさだ)親王を奉じて、東国にて反乱を起こそうと計画・・・

それを、恒貞親王の良き理解者である阿保(あぼ)親王(平城天皇の皇子)に相談したところ、あまりの重要事項に驚いた阿保親王が、嵯峨太皇太后(嵯峨上皇の妃=橘嘉智子)に伝え、その嵯峨太皇太后が、当時、右近衛大将(武官の最高職)だった藤原良房(よしふさ)に相談・・・

で、良房から、現天皇である第54代仁明(にんみょう)天皇の知るところとなり、承和九年(842年)7月17日伴健岑と橘逸勢をはじめとする彼らの一味を逮捕したのです。

慌てて、恒貞親王は皇太子を辞退する旨を仁明天皇に伝えますが、「親王自身は計画に関与していない」と判断され、一旦、保留に・・・

しかし、6日後の7月26日に事態は一転し、良房の弟=藤原良相(よしみ)近衛兵が恒貞親王の座所を取り囲み、出仕していた大納言藤原愛発(ちかなり)中納言藤原吉野(よしの)参議文室秋津(ぶんやのあきつ)らが逮捕されました。

その後、仁明天皇の詔(みことのり)により、恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑と橘逸勢の両名は、謀反人として、それぞれ隠岐(おき)と伊豆に流罪・・・以下、多くの関係者が処分されました。

恒貞親王の廃太子によって空席となった皇太子の座には、仁明天皇の第1皇子=道康(みちやす)親王(後の文徳天皇)がつく事になります。

・‥…━━━☆

てな事なのですが・・・

臭います・・・今すぐファブリーズを!!と叫びたくなるくらい臭いまくりです。

Fuziwaranoyosifusa600 何たって、あーた、最後に皇太子の座につく道康親王の母は藤原順子(のぶこ)・・・良房の妹なのです。

当然ですが、この事件によって独り勝ちとなる良房は、この後とんとん拍子に出世し、貞観八年(866年)には、皇族以外で初めての摂政となり(8月19日参照>>)、その後、息子(養子)基経(もとつね)初の関白となり、以後、この血筋の藤原氏が栄華を極める・・・あの望月の欠けたる事もない藤原道長(10月16日参照>>) につながるのですよ。

そもそもは、皇位継承のゴタゴタで恐怖におののきまくった(9月23日参照>>)父=桓武天皇の遺志もあり、自らも、その後を継いだ兄=平城(へいぜい)天皇との間に藤原薬子の乱(9月11日参照>>)を経験した嵯峨天皇は、今後、後継者をめぐっての争いが起きないように、
「これからは、兄弟間の血筋で、交代々々に皇位を継承しうて行こな」
という約束を交して、異母弟の淳和(じゅんな)天皇に皇位を譲りました。

その後、その淳和天皇も、約束通り、嵯峨天皇の皇子に皇位を譲ります。

この天皇が仁明天皇・・・そして仁明天皇も、約束通り、和天皇の皇子である恒貞親王を皇太子に立てていた・・・

そう、このまま行けば、ごく順調に、次の天皇は恒貞親王だったのです。

ところが、承和七年(840年)の淳和上皇が崩御し、2年後の承和九年(842年)には嵯峨上皇が崩御・・・
そう、実はこの承和の変、7月15日に嵯峨上皇が亡くなった2日後に起きているのです。

確かに、ここのところ力をつけて来た良房が、
「妹の子である道康親王を皇太子の座につけたいと思っているようだ」
てな噂が朝廷内を駆け巡っていて、恒貞親王が危機感を抱いた・・・という事も考えられるかも知れません。

しかし、恒貞親王自身は、この噂が立った時点で、皇太子を辞退する意思があり、度々、その事を申し出ていたものの、かの嵯峨上皇が
「約束を違えるとオカシナ事になる」
と、それを許さなかったのですから・・・

その嵯峨上皇と父の淳和上皇が立て続けに亡くなったからと言って、反乱を起こしてまで、皇太子の座を維持しようなんて事を、その恒貞親王が考えるとは、とても思えませんね。

100歩譲って、あまりの危機感から、東国での反乱を思いついたとしても・・・それならそれで、首謀者とする臣下の位が低く、もう少し大物を連れて来ないと、東国で挙兵なんてできないでしょう。

首謀者とされる彼らとて同じで、もし、恒貞親王の意思に関係なく、自分たちが危機感を抱いての反乱だとしても、もっと大物を仲間に引き入れ、徹底した準備を行わない限り不可能な事は、充分わかるはずです。

しかも、一旦、首謀者以外はお咎めなしとしといて、後になって藤原愛発らを捕縛するところがさらに怪しい・・・

この事件にも関係している嵯峨上皇の妃=橘嘉智子(たちばなのかちこ)のページ(5月4日参照>>)で、以前も書かせていただきましたが、あの藤原不比等(ふひと)の息子の藤原四兄弟の家柄で、長男武智麻呂(むちまろ)南家仲麻呂(なかまろ)が乱に失敗して(9月11日参照>>)失脚三男宇合(うまかい)式家広嗣(ひろつぐ)が叛乱に失敗した(9月3日参照>>)うえに薬子がダメ推しして転落、四男の麻呂(まろ)京家後継者に恵まれず・・・

っで、残ったのが次男房前(ふささき)北家ですが、その房前の孫が内麻呂(うちまろ)で、その次男が良房の父である冬嗣(ふゆつぐ)・・・上記の藤原愛発は内麻呂の七男なんですね。

つまり、首謀者を伴健岑と橘逸勢らにする事によって、名族の伴氏(とものし=大伴氏)と橘氏に打撃を与えるだけでなく、将来敵になりそうな同族の愛発も京都追放にし、式家の生き残りである吉野も左遷する事に成功したわけで、

どう考えても、良房の都合の良いように事が運び、最終的に甥っ子が皇太子・・・もちろん将来は天皇になるわけで・・・あまりにウマイ事行き過ぎ

とは、言うものの、あくまで状況証拠の推理の域を出ないお話・・・

ただし、少なくとも、今後の藤原北家の栄華の基礎となった出来事である事は確かです。
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2012年7月16日 (月)

大奥スキャンダルで失脚した間部詮房

 

享保五年(1720年)7月16日、江戸幕府の将軍、第6代・家宣と第7代・家継に仕えた側用人・間部詮房が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

寛文六年(1666年)もしくは七年の生まれとされる間部詮房(まなべあきふさ)・・・父は、徳川綱重(つなしげ=徳川家光の3男で甲斐甲府藩主)お気に入りの能役者で、詮房自身も、喜多流の能楽師・喜多七太夫(きたしちだゆう)弟子で能役者でした。

Manabeakifusa350 そんな彼が19歳の時、綱重の嫡男=綱豊(つなとよ)に気に入られて小姓に取り立てられた事から、人生の大転換となります。

幼い頃から評判の才気溢れる超イケメンを寵愛する綱豊によって、番頭格から奏者役格用人と、毎年のように出世して行く中で、宝永元年(1704年)=39歳の時に、更なるラッキーサプライズが彼を待っていました。

主君・綱豊が、5代将軍・徳川綱吉後継者に選ばれたのです。

家宣(いえのぶ)と名を改めた綱豊とともに、江戸城西の丸に入った詮房・・・この時から、身分は幕臣となり、3年後には若年寄格となり、相模(神奈川県)鎌倉など、計1万石の大名になります。

主君=綱豊改め家宣に仕えてから23年・・・確かに、23年はある程度長いですが、もとは能役者で、武士でも無かった事を考えると、驚異的な出世です。

しかも、宝永六年(1709年)に綱吉が亡くなれば(1月10日参照>>) 当然、第6代将軍は家宣・・・ここで老中格に昇進し、翌年には上野高崎城主となって5万石を領するようになります。

そして、先代の政治を払拭するがのごとく、以前の堀田正俊刺殺事件(8月28日参照>>)がらみで失脚していた新井白石(あらいはくせき)を登用し、生類憐みの令の廃止貨幣の改良新しい武家諸法度の発布などなど、家宣&詮房&白石によるトロイカ政治を精力的に行うのです。

白石が献策し、詮房によって幕閣に根回しし、家宣の決済で決定する・・・後に「正徳の治」と呼ばれる政策です。

しかし、家宣の世は、わずか4年で終わりを告げます。

正徳二年(1712年)、家宣が51歳で亡くなってしまったのです。

後継者である嫡男=家継は、未だ、わずか3歳・・・当然の事ながら、「こういう時のための御三家とも言える血筋から将軍を…」という声があがり、尾張藩主の徳川吉通(よしみち)の名もあがりますが、結局は、詮房&白石両人の強い推しにより、第7代将軍は家継に決定します。

そりゃ、3歳なら、彼らの思い通りですわな。

3歳の幼君は、そのご機嫌をそこねないためにも、常に、生母のお喜世の方が、そのそばに付き添います。

そう、このお喜世の方が、将軍の生母として大奥に君臨する月光院さん・・・

いくら思い通りになる3歳の将軍と言えど、大事な政策を、詮房らだけで勝手に決める事はできませんから、様々な用件を幼君に伝えて、それを決済してもらわねばならないわけで・・・

それらをスムーズに行うためにも、幼君を、母・月光院の膝の上に乗せて、ご機嫌を取りながらの政務・・・

もはや詮房は自宅にも帰らず、朝な夕なに江戸城に詰めて、仕事をこなしますが、当然、徐々に3人はうち解けて行くわけで・・・

本来なら男子禁制の大奥に、度々やって来て仕事をこなす詮房に向かって
「まるで間部が将軍のようだ」
と、幼い将軍が言ったのは有名な話ですが、幼い将軍としては悪気は無く、ごくごく単純に発言しただけ・・・しかし、周囲の大人は、度々大奥にやって来る詮房の行動を、そう単純には受け止めてくれません。

実際に、そういう関係であったのか無かったのかはともかく・・・いや、おそらくは無いと思われますが、

「二人が手をつないで一緒に月見をしていた」
とか
「部屋で抱き合ってた」
とか
「色っぽい声が襖越しに聞こえて来た」
とか・・・

とにかく、二人が密通しているかのような噂が、まことしやかに囁かれるようになます。

さらに、詮房が独身で、お妾さんもいなかった事が噂に信憑性を持たせ、果ては
「先代が元気な頃から二人は関係していて、家継は詮房の子供だ」
なんて話にまで発展していくのですが、ここで、更なるスキャンダルが・・・

そう、あの絵島・生島事件(3月5日参照>>)です。

この事件は、月光院に仕えていた大年寄=絵島が人気役者の生島新五郎と恋に落ち、果ては、「男子禁制の大奥に彼を入れた」なんて言われる事件ですが、実際には、現将軍の生母という事で大奥のトップに立った月光院に対して、以前にトップだった前将軍・家宣の正室・天英院の派閥が行った追い落とし作戦であるとも言われます。

その通り、この事件後の月光院は発言権を失い、詮房も幕閣で孤立する事になるのですが、さらに、正徳六年(1716年)・・その・唯一の頼りどころであった家継が、わずか8歳で亡くなってしまったのです。

もとより、譜代の家臣でも何でもない詮房にとって、これは万事休すです。

そして、大奥内で発言権を取り戻した天英院の強い推しで、第8代将軍となったのが、紀州の暴れん坊徳川吉宗です(8月13日参照>>)

吉宗は、すぐさま白石を排除し、詮房も高崎から越後(新潟県)村上に転封・・・一応、同じ5万石という事ではありますが、明らかに左遷・・・

そして、ご存じのように、吉宗は先代の政治を払拭するかのように、様々な改革を行います(6月18日参照>>)

それからわずか4年後享保五年(1720年)7月16日詮房は転居先の村上で55年の生涯を閉じたのです。

死因は暑気あたり・・・

あまりの出世ぶりに、生も根も尽き果てたのか?
それとも、わが世の春からの急展開に、もはや、生きる気力すら失ったのか?

何やら寂しさの残る最期ですが、能役者から詮房さん1代で5万石の大名となった間部家が、場所は変われど、その5万石のまま明治維新を迎えられた事に、少しホッとします。
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2012年7月14日 (土)

関ヶ原へ向けて…北陸と会津・越後が動く

 

慶長五年(1600年)7月14日、石田三成に賛同した大谷吉継が、越前・敦賀城へ帰還・・・北陸諸大名の勧誘に着手しました。

・・・・・・・・・・

先日=7月11日の佐和山城での会見で、友人の石田三成(みつなり)に賛同する事を決意した大谷吉継(よしつぐ)・・・(7月11日参照>>)

翌日には、増田長盛(ましたながもり)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)も加わって、今後の方針について話し合い、細かな事を決定していきます。

そんな中で、まずは、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)鍋島勝茂(なべしまかつしげ)ら、西国にいて未だ、事を起こしていない大名たちを、「おそらく決戦の場となる東へと向かわせてはならず」とばかりに、三成の兄=正澄(まさずみ)近江(滋賀県)に派遣して関所を設置し、そこより東への行軍をストップさせます。

そして、その翌日=7月13日に始まったのが、妻子人質作戦です。

以前、城割のお話(8月19日参照>>) で書かせていただいたように、織田信長に始まった計画的な城割で兵農分離を実現した事で、多くの大名が領国とは別に、主君の城下にも屋敷を構えていて、妻子はそこにいましたから、今回の場合も、徳川家康とともに会津征伐に向かった諸将の妻子たちは大坂城下にいたわけで・・・

そんな妻子たちの帰国を禁止して、大坂城へ登城させる・・・事実上の人質となるわけです。

実際に軍勢を出して拘束に乗り出す中で、加藤清正黒田如水長政父子の妻など、早々に脱出に成功した者もいれば、拒む者には少々手荒な拘束をした事もあって、細川忠興ただおき)の妻=お玉(細川ガラシャ)のような悲劇(7月17日参照>>)も生まれてしまいます。

一方・・・そんな中、慶長五年(1600年)7月14日居城の越前敦賀城に戻った吉継は、早速、越前加賀(石川県)の諸大名を西軍に引き入れる=勧誘作戦を行います。

北ノ庄城(福井市)青木一矩(かずのり)を皮切りに、越前ではほぼ全員の大名が西軍につく事を表明しますが、府中城(福井県越前市)堀尾吉晴(よしはる)だけは「NO!」

その後、小松城(石川県小松市)丹羽長重(にわながしげ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)山口宗永(むねなが・正弘)などが誘いに応じた事によって、この時点で、越前のほぼ全域と加賀の半分を西軍に引き込む事に成功しました。

しかし、問題は、あの前田家です。

ご存じのように、亡き前田利家の後を継いだ利長は豊臣政権の大老の1人でもある屈指の大大名・・・しかも、利長は、去る5月に、母=芳春院(ほうしゅんいん=まつ)江戸へと人質に出して(5月17日参照>>) 、家康側についています。

しかし、そんな中で、先に動いたのは利長のほう・・・吉継の説得によって、次々と諸大名が西軍についた事を受けて、7月26日2万5000の兵を率いて金沢を進発したのです。

難攻不落と謳われた小松城を避け、まずは8月3日には大聖寺城を陥落させた後、南下を目指します。

もちろん、これを受けた吉継も、救援すべく北を目指します。

なんせ、これらの動きに気づいた家康が、その大軍を西に向けた時、この前田家と合流されてしまっては、ややこしい事になりますから・・・

とは言え、吉継の持つ兵力は前田家に比べて知れたもの・・・正面からぶつかっても、おそれくは勝ち目がありません。

そこで、大聖寺城を落とした利長軍が、越前へと入って来た8月5日・・・一斉に周囲にニセ情報を流します。

「大谷吉継以下、脇坂安治らの別働隊が、金沢を急襲すべく海路へ北へ向かっている」と・・・

この時、勢いづいていた利長の軍は、このニセ情報によって慌てて撤退する事となり、その状況を見て、小松城を進発した丹羽長重と、浅井畷でぶつかり、遭遇戦となる・・・。

これが、以前、北陸の関ヶ原として書かせていただいた浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>) です。

何とか、分散していた兵を1ヶ所に集める事で、かろうじてこの戦いに勝利する利長ではありましたが、あくまで、ギリギリでの勝利・・・しかも、この後も、大勝とはいかず、しばらく戦いが続いてしまう事で、家康との合流どころか、利長は、本チャンの関ヶ原に行く事もできなかったのですから、まずは、吉継のニセ情報が功を奏したという事でしょう。

また、話が前後して恐縮ですが・・・
関ヶ原に関しては、同じ慶長五年(1600年)7月14日の日づけで、「豊臣秀頼の意向により、上杉景勝(かげかつ)越後が与えられた」と、『続武者物語』にあり、それを受けて「執政の直江兼続(かねつぐ)が兵を起こした」事が書かれています。

以前書かせていただいた越後一揆の扇動ですね(7月22日参照>>)

このあたりの動きとしては・・・
三成が、留守となった伏見城を攻撃するのが7月19日・・・(7月19日参照>>)

あの真田昌幸幸村(信繁)親子が、長男の信幸(信之と分かれて西へ戻るのが7月21日・・・(7月21日参照>>)

同じ7月21日には、西軍による細川忠興の田辺城(京都府舞鶴市)への攻撃が開始されています(2009年7月21日参照>>)

そして、上記の越後一揆7月22日・・・

さらに、これらの西軍の動きを知った家康が、会津征伐を取りやめて西へと軍を戻す事を表明するのは7月25日の事・・・

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関ヶ原合戦図屏風(右隻・部分:大阪城天守閣蔵)

何かと本チャンの関ヶ原が注目を浴びる関ヶ原の合戦ですが、実際には、このあたりが1番、両軍の動きに目が離せないのかも・・・ですね。
【関ヶ原の合戦の年表】を参照>>
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2012年7月12日 (木)

「衆生救済」…北山十八間戸と忍性

 

乾元二年(1303年)7月12日、鎌倉時代の真言律宗の僧・忍性が87歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

健保五年(1217年)に大和(奈良県)に生まれ、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の信仰に篤かった忍性(にんしょう)は、早くして亡くなった母の遺言に従って、真言律宗の額安寺(かくあんじ=大和郡山市)にて出家します。

このお寺は、飛鳥時代に聖徳太子が建立したものと伝えられ、その聖徳太子は忍性の心の師でもありました。

やがて、東大寺戒壇院にて受戒し、西大寺叡尊(えいぞん)の弟子となります。

この叡尊が実践していたのが衆生救済(しゅうじょうきゅうさい)でした。

それは、文殊経の中に、「文殊菩薩は自らが貧窮孤独、苦悩の衆生の姿になって行者の前に現われる」とある・・・つまり、文殊菩薩は貧困や病気にあえぐ浮浪者の姿となって僧たちの前に現われるのですから、自ら、率先して彼らを救う事が、文殊菩薩に近づく道であるというわけです。

その教えに従って、各地に出向いては人々の救済にあたっていた忍性ですが、一方では、あの源平の戦乱(12月28日参照>>)のために礎石のみになっていた奈良坂般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)を叡尊とともに再興したりもしました。

そんなある日、その奈良坂近くで、忍性は、重症のハンセン病患者に出会います。

当時の奈良坂は、京都と奈良を結ぶ街道沿いにあり、交通の要所であると同時に、賑やかな市中からは少し離れた場所であったため、旅の行き倒れや、はじかれ者、世捨て人など底辺の人々が最後にたどりつくような場所だったのです。

忍性が出会ったその患者も、もはや体が不自由で、奈良市中へ物乞いに出る事すらできなくなっていて、その事をしきりに嘆きます。

その日以来、毎日、夜明けとともにその場所にやって来る忍性は、彼を背負って奈良市中へと向かい、夕方に、また彼を背負って奈良坂に戻って来るのが日課となったのです。

やがて病気も重くなり、その死を悟った彼は、忍性に感謝の言葉を投げかけます。

「本当にありがとうございました。
必ずや生まれ変わって、あなたの弟子に・・・いや、弟子なんておこがましい、下僕・召使いとなって、あなたにお仕えしましょう。
もし、あなたの前に、顔にアザのある男が現われたら、私だと思ってください」

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元禄時代に建てられた北山十八間戸…現存する最古のハンセン病患者療養施設です。

やがて忍性は、その地に北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)を設立します。

北山とは、奈良の北にある山という意味で、忍性が建てた物は、現在の般若寺より、まだ北東にあったとされますが、残念ながら、その建物は、かの松永久秀と三好党との戦い(10月10日参照>>) で東大寺の大仏とともに焼けてしまいました。

しかし、鎌倉時代の造りを、そのまま受け継いだ建物が、その後の元禄年間に、般若寺よりは少し南になりますが、やはり奈良坂に再建されていて、それが今も現存します。

南向きで東西に長い建物で、中が18室に区切られた平屋の棟割(むねわり)長屋で、1室は四畳ほどの広さだそうです。

そう、これは、ハンセン病患者の救済施設・・・病気というだけで差別されていた時代の彼らに衣食住を与え、静かな余生をおくってもらうための物

記録によれば、その数はのべ1万8000人を越えるとか・・・

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北山十八間戸…遠くに大仏殿の屋根を望むこの風景は、療養する人々の心を癒した事でしょう

やがて、関東にその仏教の道を求める忍性は、東へと向かい、そこでも、貧困にあえぐ人々に粥を提供したり・・・と、衆生救済の実践に励みます。

そんな彼の気持ちが届いたのでしょうか?

鎌倉幕府・第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の息子=重時(しげとき)が、忍性に帰依・・・その援助もあって開いたのが、鎌倉極楽寺です。

いち時、荒廃したために、今では創建当時とは随分と変わっているそうですが、古い伽藍地図には、多くの堂塔が建ち並ぶ中に、療病院らい宿薬湯室馬病屋など・・・おそらくは療養のための施設であったとおぼしき建物がいくつも描かれているそうです。

その忍性の思いは、鎌倉の人々にも、篤く、しみ渡った事でしょう。

果たして晩年の忍性・・・

実は、彼の門下生の中に1人・・・顔にアザのある弟子がいたと言われています。

もちろん、輪廻転生・・・本人には以前の記憶などあるはずも無かったでしょうが、その彼に出会った時の忍性さんの心を思えば・・・胸に込み上げて来るものがあります。

おそらくは、文殊菩薩が目の前に現われたと同じくらいの感動を覚えた事でしょうね。
 
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般若寺北山十八間戸のある奈良坂へのくわしい行き方は、本家HP:奈良歴史散歩「奈良坂から正倉院へ…」でどうぞ>>
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2012年7月11日 (水)

関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成

 

慶長五年(1600年)7月11日、佐和山城にて石田三成と大谷吉継が会見・・・挙兵を決意した三成に吉継が賛同しました。

・・・・・・・・・

豊臣秀吉に仕官するまでの大谷吉継(おおたによしつぐ)については、謎に包まれています。

一般的には、大友家の家臣であった大谷盛治(もりはる)の息子として豊後ぶんご=大分県)に生まれ、16歳の時に、播磨(はりま=兵庫県)平定中で姫路城にいた秀吉のもとへ、石田三成を通じで仕官を申し出たと言われていますが、それだと年齢が合わない矛盾もあり、最近の研究では滋賀県の余呉町出身という話も出て来ています。

とにもかくにも、秀吉のもとへ仕官した頃の吉継は、文治派の三成が紹介したワリには、合戦での武功に憧れる武勇の人であったようです。

ただ、武勇以外にも、事務的な才能もあった事から、三成との仲の良さも相まって、何かと、事務の方面へ回される事が多く、あの賤ヶ岳の合戦(4月20日参照>>)の時も、松明(たいまつ)や兵糧の手配を命じられたために、本チャンの賤ヶ岳には遅れて到着し、これと言った武功を挙げられなかったのだとか・・・

とは言え、もともとマジメに地道に事を行う吉継の才能は、検地や財政など領国経営にいかんなく発揮され、戦時下でも武器・兵糧の調達や輸送の手配などの任務を見事にこなす縁の下の力持ちとして活躍し、しかも、誠実で片寄りの無い差配は、大きな武功が無くとも、周囲の信頼を得ていく事になります。

しかし、そんな吉継を病魔が襲います。

現在で言うハンセン病だったとも言われていますが、それはしだいに重くなり、やがて、その視力を奪い始め、もはや、事務的な仕事にも支障をきたす事態となり、吉継は隠居を決意していたとか・・・

ところが、ここで、主君=秀吉の死(8月9日参照>>)という一大事が・・・

翌年の3月には重鎮の前田利家(3月3日参照>>)が亡くなり、その日の夜には、武闘派の加藤清正らが、三成を襲撃する(3月4日参照>>)という事態に・・・

このモメ事によって、居城の佐和山城に蟄居(きっきょ=謹慎処分)されられた三成から見れば、この豊臣家内の亀裂に乗じて徳川家康が豊臣家に取って代わろうとしているのが明白・・・

その家康は、亡き利家の妻=芳春院(ほうしゅんいん=まつ)を人質に取って前田家を押さえた(5月17日参照>>)後、この春から家康の上洛要請を拒否し続けている会津の上杉景勝(4月1日参照>>)を征伐すべく、6月17日、伏見城を後にしました。

その家康が江戸へと到着したのが慶長五年(1600年)7月2日その同じ7月2日・・・三成は、自らの佐和山城に吉継を迎えて、初めて、自らの心の内をうち明けます。

この時、吉継は、家康の会津征伐に従軍すべく、東山道(中山道)を東に向かっている最中で、この日は垂井(たるい=岐阜県不破郡)に軍を休ませていた、その合い間に三成の要請を受けて会いに来たのでした。

その告白の内容は・・・
もちろん、「家康の留守を見計らって挙兵する」事・・・そして、「友人である吉継に、ともに戦ってもらいたい」という事でした。

「あの狸爺は、大軍で上杉を討つ事によって、豊臣政権まで奪おうとしてるんや!」
と、息巻く三成に
「家康はんは、秀頼公を大事にする…って言うてはるで」
と冷静に答える吉継・・・

「そんなもん、ウソに決まっとるがな!
豊臣恩顧のみんなも、信じとるけど…お前、あのタヌキがそんな甘いジジイやと思うか?」

「けど、今、家康はんに戦いを挑んで勝てるやろか?」
「お前が、味方になってくれたら勝てる」
「俺??」
「お前は、俺と違て、人望も篤いし信用もある…お前がこっちについてくれたら、西国の毛利や長宗我部(ちょうそかべ)も味方になってくれるに違いない」
「そんなウマイ事いかんやろ…とにかく、俺は、今、戦いを起こすべきやないと思う。
なんぼ、お前の頼みでも、それは聞く事はできん!」

(注:セリフには主観が入っております)

この日の話し合いは、そこで終わり、吉継は陣を敷いている垂井へと帰っていきました。

しかし、ご存じのように、吉継は会津に向かっていた隊を離れ、戻って来るのです。

先の話し合いから9日経った慶長五年(1600年)7月11日再び佐和山城を訪れた吉継は、親友=三成に賛同する事を表明します。

この9日間の間に、どのような心の変化があったのか??
よく言われるのは、秀吉主催の茶会でのエピソードです。

大坂城の茶室で行われた茶会にて、吉継のところに茶碗が回って来て、それを飲もうとした時、不覚にも、病気の膿みが1滴・・・ポタリと茶碗の中に落ちてしまいます。

太閤秀吉が点てたお茶です・・・そのお茶は茶碗ごと、次の誰かに回して、その誰かが飲まねばなりません。

周囲には、何人かの武将がいましたが、皆が固まってしまい、最悪の空気に・・・

すると、横にいた三成が、サッとその茶碗を取り、一気に茶を飲み干し、秀吉に向かって、「ノドが乾いていたので、つい、残りを一気に飲んじゃいました~」
と・・・

このおかげで、吉継は、恥をかく事も無く、秀吉を怒らせる事も無く、無事、茶会を終えた・・・と、

この時の三成への感謝の気持ちが、彼を動かしたと言われますね。

それと、もう一つ・・・

冒頭に書いたように、もし、吉継が、本来は武勇の誉れ高き武将に憧れていたのだとしたら・・・

もはや、病も重くなり、馬に乗る事さえ不可能な自分にとって、これは、若き日の夢を叶える最後の大舞台と思った可能性もあるかも知れません。

もちろん、だからと言って、勝ち目の無い戦いに死にに行くわけではありません。

この翌日には、増田長盛(ましたながもり)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)も味方につきますし、7月15日には、毛利輝元西軍の総大将に担ぎあげる事にも成功しています(7月15日参照>>)

裏切り・寝返り・二股が入り乱れて、結果的に東軍勝利となるので、その結果を知っている私たちから見れば、何やら死を覚悟した参戦のようにも見えますが、あくまで、この時点では、三成ら西軍にも勝算はあったのです。

かくして吉継は、西軍として関ヶ原に挑みます。

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奮戦する大谷吉継隊~関ヶ原合戦図絵巻より(岐阜市歴史博物館蔵)

その日の彼のいでたちは、病気で崩れた顔を隠すため、浅葱色(あさぎいろ=この文字の色ですの絹の布を綿帽子のようにスッポリかぶり(白じゃなかったのねん…カッコイイ(*゚ー゚*))練り絹の上に群れ飛ぶ蝶を漆黒で描いた直垂(ひれたれ=鎧の下に着る着物)を着用・・・籠に乗って、自らの軍を指揮したと言います。

その最期の姿は、もう4年前の記事となりますが、未だに拍手の多い2008年9月15日の【関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束】でどうぞ>>
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2012年7月10日 (火)

滅亡へのカウントダウン?鎌倉幕府14代執権・北条高時

 

正和五年(1316年)7月10日、北条基時の出家に伴い、北条高時が鎌倉幕府第14代執権に就任しました。

・・・・・・・・

すでに鎌倉幕府・滅亡のページにその最期の姿(5月22日参照>>)を書かせていただいた北条高時(ほうじょうたかとき)ですが、「そう言えば、その人となりを書いてないなぁ」とは思うものの、
これが、ほとんど悪口しか残って無い・・・(ノ_≦。)

「暗君」に「暴君」に、
「頗(すこぶ)る亡気」この上ないアホ・・・と、

世の中、「勝てば官軍、負ければ賊軍」・・・負けた高時は、勝利した後醍醐天皇や足利尊氏を輝かせるための脇役&敵役でしかありません。

第9代執権の貞時を父に持ち、幕府有力御家人の安達時顕(あだちときあき)の娘を母に持ち、わずか9歳で得宗(とくそう=後継ぎ)となった高時が、13代の北条基時(もととき)に代わって、鎌倉幕府の第14代執権となったのは正和五年(1316年)7月10日わずか14歳の時でした。

未だ少年で、しかも幼い頃から病弱だった高時に、幕府の政務をこなす事など、およそ不可能・・・外祖父の時顕や、内管領長崎高綱(ながさきたかつな)高資(たかすけ)父子が実権を握る中での傀儡(かいらい=あやつり人形)の執権である事は、誰の目にも明らかでした。

そんな中での高時は、政治に関心を示すはずもなく、遊びにふけってばかり・・・にも関わらず、高資の指図により、わずか24歳で、病気を理由に出家させられてしまい、ますます遊びにのめり込んで行く高時・・・

ある夜、小さな宴会を催した時に、酔いにまかせて踊り始めた高時でしたが、それは、お世辞にもウマイとは言えない踊りで、その場にシラケきった空気が・・・

それでも、かまわず踊り狂う高時のもとに、どこからともなく10余人の田楽師たちが現わて列をなして田楽(でんがく=田植えの時に豊作を願って演じられる歌舞芸能)を踊りはじめますが、それが実にオモシロイ踊り・・・

しばらくすると拍子を変えて・・・
♪天王寺のや、ヨウレイボシを見たいわな♪
と囃したてて、それは、もう、抱腹絶倒の舞い踊り・・・

この歌声のあまりの面白さに、侍女が襖の隙間から覗いてみると、なんと、田楽師だと思っていた人たちには、顔にくちばしがついていたり、体に羽根があったり・・・そう、妖怪たちが人間の姿に化けて踊っていたのです。

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妖怪と田楽を舞う高時 『太平記絵巻』(埼玉県歴史と民俗の博物館蔵)

慌てて外祖父の時顕に連絡をとる侍女・・・

一報を受けて、完全武装でやって来た時顕でしたが、その近づく足音を聞くと、妖怪たちは、アッと言う間に姿を消してしまいました。

畳の上には獣の足跡が残り、宴席は、まるで誰かに襲われたかのような惨状・・・しばらくあたりの様子を探りながら妖怪を警戒しますが、やがて、その気配も無くなり、爆睡していた高時も目覚めますが、その識はモウロウとしていて、踊りの記憶も無かったのだとか・・・

後に、この一件を伝え聞いた刑部省(ぎょうぶしょう)次官藤原仲範(なかのり)は、
天下が乱れる時には、妖霊星(ようれいぼし)という悪い星が現われると言うから、妖怪たちが歌ったあの歌は、(大阪の)天王寺付近から動乱が起こって国家が滅亡するという暗示なのでは?」
と、恐れおののいたのだとか・・・

しかし、そんな事にはめげない高時・・・

ある時、庭にたくさんの犬が集まって、噛み合う姿を見て闘犬に目覚めます。

諸国に命令を出して税の代わりに犬を納めさせたり、公家や武家にも犬を献上させたり・・・

金銀まじりの綱をつけた犬が輿に乗って大路を行けば、人々は下馬して道にひざまづいたとか・・・やがて、その数は日増しに多くなり、いち時、鎌倉は犬の町と化してしまうほど・・・

月12回(多い…(^-^;)開かれる闘犬の日には、北条一族や有力家臣が御殿に集まり、100匹~200匹の犬を同時に放って戦わせるので、それは、天地も揺るがすような轟音となって響ったとか・・・

とは言え、後醍醐天皇の2度目の倒幕・・・いわゆる元弘の変(10月21日参照>>)のあたりからは、うって変わって、執権として差配を奮います。

後醍醐天皇を隠岐に流罪(3月7日参照>>) にしたり、先の正中の変(9月19日参照>>)で佐渡に流罪となっていた日野資朝(すけとも)を斬首にしたり・・・

やがて、訪れた元弘三年(1333年)の一連の戦いでは、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)で蜂起した後醍醐天皇(2月24日参照>>)の追討軍として足利高氏(尊氏)を差し向け(4月16日参照>>)・・・

しかし、その高氏は一転、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)を攻撃(5月7日参照>>)・・・楠木正成の千早城を攻めていた新田義貞も、途中で撤退して逆に鎌倉へと攻め寄せ(5月11日参照>>)・・・

頼みの綱の幕府御家人に次々と寝返られ、最後には幕府滅亡へと・・・

故に、その滅亡の根元が高時の遊興にあり、幕府を傾けさせた暗愚の将として評価されわけですが、そもそもの鎌倉幕府の傾きは、源氏の直系が、わずか3代で耐えたうえに、あの2度に渡る元寇(6月6日参照>>)の時から、御家人の困窮や不満はあった(12月8日参照>>)わけで、何も、高時の遊興に始まったわけではありません。

しかも、その最期の姿は、武家の棟梁らしく実に潔く、家臣との信頼関係があった事もうかがえます。

夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>)などとの交流も深く、芸術的センスもあったという高時さん、いつか、その悪のイメージが払拭される日が来る事を願います。
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2012年7月 9日 (月)

鎌倉幕府軍…最後の全面降伏

 

元弘三年(1333年)7月9日、阿蘇治時大仏高直ら、北条氏の名族や重臣たちが処刑されました。

・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)5月9日、後醍醐(ごだいご)天皇に味方した足利高氏(後の尊氏)によって六波羅探題(ろくはらたんだい=鎌倉幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)が消滅し(5月9日参照>>)、続く5月22日には、新田義貞らの攻撃によって鎌倉の北条高時(ほうじょうたかとき)が自刃し(5月22日参照>>)、かの源頼朝以来(7月12日参照>>)、100年以上に渡って日本を統治して来た鎌倉幕府が滅亡しました。

その後、5月28日に、拠点を構えていた伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)を出て京都に入った後醍醐天皇が、天皇中心の建武の新政を実施する(6月6日参照>>)わけですが、

上記の通り、この時点では、これまで全国展開していた鎌倉幕府のうち、都である京都と、幕府拠点の鎌倉を押さえたにすぎませんから、当然の事ながら、他の地域の制圧を行わねばならないわけで・・・

って事で、後醍醐天皇方が、九州を治めている鎮西探題(ちんぜいたんだい=鎌倉幕府が九州統轄のために設置した機関)北条英時(ひでとき)を攻める準備をしていた6月7日・・・九州に根を張る菊池氏少弐(しょうに)大友氏から、「九州の朝敵は一掃したので、ご安心を…」という、突然に報告が入ったのです。

実は、すでに後醍醐天皇から倒幕の勅旨(ちょくし=天皇の命令書)を受けていた菊池・少弐・大友の九州3氏・・・

とは言え、最初のうちは遠き京都の事や鎌倉の情報があまり入って来なかったこの地では、少弐氏と大友氏が英時につき、天皇方についた菊池を攻撃するという九州勢同士の戦いもありましたが、やがて六波羅探題陥落のニュースが九州一帯を駆け巡った事で、少弐と大友は離反・・・一転して鎮西探題攻撃へと変わったのです。

それでも、何とか抵抗していた英時でしたが、「もはや遠く離れた鎌倉の援軍も期待できない状態の九州では太刀打ちできない」と判断・・・未だ鎌倉陥落のニュースも知らぬ5月25日、一族郎党240名とともに、博多にて自害して果てたのでした。

また、長門探題(ながとたんだい=鎌倉幕府が元寇に備えて現在の山口県に設置した機関)北条時直(ときなお)も、苦戦する幕府の一員として、攻め寄せる少弐&島津の倒幕軍と戦っていましたが、京都&鎌倉に続いて、上記の九州までもが制圧された事を受けて、自ら降伏しました。

さらに北陸では・・・

越前(福井県)牛原(うしがはら)地頭を務めていた淡河時治(あいかわときはる=北条時盛の息子?)が、六波羅探題陥落の報を受けて、部下たちが一斉に離反したうえ、天皇方についた平泉寺の僧兵7000人囲まれた事で、もはや覚悟を決め、幼き子供たちを船に乗せて沖合で入水するのを確認した後、自らも自刃しました。

また、越中(富山県)守護であった名越時有(なごやときあり)と弟の有公(ありとも)と甥の貞持(さだもち)は、倒幕軍を阻止するために集めた兵士たちが、やはり六波羅探題陥落のニュースを聞いて一斉に離反・・・反対に彼らに攻撃をして来る状況を受けて、捕虜となる事を恥じた3人は、妻子を乗せた船を富山湾の沖深く沈めた後、残った家来ともども自刃して果てました。

Kusunokimasasige600 そして、最後に残ったのが、あの楠木正成千早城を攻撃(2月5日参照>>)すべく、金剛山周辺に展開していた幕府軍の兵士たち・・・

その2月5日のページに書かせていただいた通り、もはや、本拠の鎌倉が危なくなって、千早城どころではなくなった幕府は、5月10日に千早城からの撤退を命じますが、だからと言ってすべての兵士が撤退するわけではなく、いくつかの小隊は押さえの兵として残しておくわけで・・・

で、こうして、六波羅探題も鎌倉も陥落した今となっては、逆に、この金剛山周辺に、1番多くの幕府軍が残っていたわけです。

しかも、「彼らは、奈良を拠点に都に攻め上る」なんて噂も立ち、これを重視した後醍醐天皇は、中院定平(なかのいんさだひら)を追討軍の大将に任命して5万の兵を大和(奈良)に差し向け、楠木正成に2万の兵をつけて、搦手(からめて)河内から攻め込ませました

対する幕府軍の残党も、なんだかんだ言って5万はいます。

ところが、やはり、ここでも・・・

官軍進攻の報に、またたく間に離反者が増え、ある者は敵方に寝返り、ある者は降伏し・・・と、みるみるうちに頭数が減っていきます。

これを見た軍首脳部は、「もはや抗戦は不可能」と判断し、阿蘇治時(あそはるとき=北条治時)大仏高直(おさらぎ・だいぶつたかなお=北条高直)はじめ50余人の主だった者が全員、般若寺で頭を丸めて僧衣姿となって戦う事なく投稿して来たのでした。

ここに鎌倉幕府軍は全面降伏となりました。

かくして元弘三年(1333年)7月9日阿蘇治時・大仏高直ら、北条氏の名族や重臣たちが大量に処刑されました。

『太平記』は・・・
『驕(おご)れる者は失(しつ)し、儉(けん)なる者は存す』
「高慢な人間は滅び、つつましく生きる者は永らえる」
と、勝利した天皇方絶賛しながらも、

『此(こ)の裏(うち)に向かって頭(こうべ)を回(めぐ)らす人、天道は盈(み)てるを欠く事を知らずして、なほ人の欲心(よくしん)の厭(いと)ふ事無きに溺(おぼ)る』
「例え、真実に目を向ける人であっても、天は必ず、満ちた物は欠けさせるわけで、人は限りない欲望に溺れてしまうもの」
と、この後も、波乱の展開が待っている事を予感させる終わり方で、北条の滅亡の第11巻を締めくくります。

その波乱の展開が起こるのは2年後の夏・・・壊滅状態の中から集結する北条の残が、再び動き始める中先代の乱と呼ばれるその反乱については7月23日のページでどうぞ>>
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2012年7月 7日 (土)

最期は心安らかに…波乱万丈の光厳天皇

 

正平十九年・貞治三年(1364年)7月7日、北朝第1代とされる光厳天皇が52歳で崩御されました。

・・・・・・・・・・

これまで、後醍醐天皇と足利尊氏のドンパチのくだりで、度々ご登場いただいている光厳(こうごん)天皇・・・まさに太平記の時代に翻弄された波乱万丈の天皇様であります。

以前から、南北朝動乱の発端の事(10月27日参照>>) などで書かせていただいておりますように、そもそもは第88代後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲っておきながら、後に気が変わって、次男の亀山天皇にムリヤリ継承させた事から、後深草天皇の持明院統と、亀山天皇の大覚寺統という派閥ができてしまい、以来、両者の間で皇位をめぐってモメる事に・・・

・・・で、両者の間に鎌倉幕府が介入して、「とにかく両者から交代々々で天皇になるって事でよろしいやん」という事で決着がつき、その時に即位したのが、大覚寺統の第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

その後、この時に皇太子だった邦良(くによし・くになが)親王(後醍醐天皇の兄の後二条天皇の皇子)が病死した事で、持明院統の光厳天皇(当時は量仁親王)が皇太子となりました。

ところが、ご存じのように後醍醐天皇が倒幕を企て、失敗して隠岐に流罪(3月7日参照>>)・・・当然、天皇ではなくなりますから、幕府の要請で、皇太子の光厳天皇が即位したわけです。

しかし、これまたご存じのように、後醍醐天皇に味方した足利高氏(後の尊氏)楠木正成新田義貞らの倒幕チームによって鎌倉幕府は倒されてしまします(5月22日参照>>)

この時、光厳天皇は、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)の長官=北条仲時(なかとき)らと行動をともにしていましたが、仲時が自刃した後に捕えられ、京都へと戻されました(5月9日参照>>)

勝利した後醍醐天皇は、ただちに天皇の座に返り咲き、建武の新政に着手(6月6日参照>>)・・・光厳天皇は太上(だいじょう)天皇という尊号を贈られ、事実上の引退となります。(ややこしいので、以下、このページでは光厳院と呼ばせていただきます)

しかし、今度は、その天皇の親政に不満を持った足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえします。

この時、一旦、敗れて、九州へと落ち延びて再起をはかる尊氏に、光厳院は新田義貞追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を与えて味方しました(4月26日参照>>)

おかげで、その後、力を盛り返して京都を制圧した(6月30日参照>>)尊氏によって、光厳院の弟の光明天皇が天皇となり、光厳院は治天の君として院政を敷く事になります。

・・・が、その一方では、尊氏とかりそめの和睦を結んでいた後醍醐天皇が吉野へと脱出し、この後、50年に及ぶ、南北朝の動乱の幕を上げたのです。

その後、正平五年・観応元年(1350年)に起こった観応の擾乱(じょうらん)というややこしい足利家の内紛(10月26日参照>>)・・・この時に、兄弟でモメた兄=尊氏とその弟の直義(ただよし)が相次いで南朝に降るという事態となり、ここで一時的な和睦が結ばれて北朝は一時廃絶・・・

父=後醍醐天皇の後を継いで南朝97代の天皇となっていた後村上天皇は、父が光厳天皇に尊号を贈った先の例にならい、北朝2代の光明天皇と北朝3代の崇光(すこう)天皇に太上天皇の尊号を贈りました。

・・・と、ここで、このドサクサをチャンスと見た後村上天皇・・・幕府を相手に挙兵するのです。

京都にいた光厳院・光明院・崇光院とともに皇太子の直仁(なおひと)親王を連れ去って、楠木氏の拠点=河内(大阪府南部)にて幽閉し、自らも京都の南の玄関口=男山に籠ります(3月24日参照>>)

しかし、何と言っても相手は幕府・・・長期に渡る籠城に耐えかね、河内へと脱出する事となり、再び北朝が京都を制して南朝は追いやられるのですが、この時、後村上天皇が三種の神器を持って逃走した事で、やむなく北朝は、前代未聞の神器なし指名なしの後光厳(ごこうごん)天皇を、北朝4代の天皇に据える(1月29日参照>>)事になりますが、こうして、無理やりにでも天皇を立てた事で、南朝は上記の光厳院ら・北朝側の方々を幽閉している意味が無くなり、光厳院らは、やっと彼らから解放され、京都に戻る事ができました。

実に正平十二年・延文二年(1357年)、光厳院は45歳となっていました。

Kougontennou600 すでに幽閉先の河内の地で出家をしていた光厳天皇・・・その後は、俗界を離れて、ただひたすら仏道に励む日々を送ります。

しかも、すごいのは、ただ一人の僧を供に連れただけの一介の僧侶として各地を行脚する旅に出かけた事・・・

高野山を参詣したり、激戦となった金剛山の地で、自らの関わった乱世を悔いてみたり・・・時には、光厳院の身分を知らぬ荒くれ武士に、橋から突き落とされた事も・・・

この時の武士は、後に光厳院の正体を知って後悔し、光厳院のもとに「弟子にしてください」と言って来たそうですが、光厳院は「私のような者に弟子はいりませんよ」とやさしく諭したとか・・・

吉野を訪れた時には、つい3~4年前まで争っていた後村上天皇に会い、丸一日、語りあったと言います。

なぜ、出家したのか?と問う後村上天皇に対し、光厳院は・・・

「ここしばらく、天下は乱れて、1日として心休まる時もおませんでしたね。

元弘のはじめには番場まで逃れて、500余人の北条の武士が自害する中で、その血生臭さに意識も朦朧となりましたわ。 

正平には、この吉野に幽閉されて・・・世の中っちゅうもんは、これほどまでにツライもんかと、初めての経験に驚く事ばっかりでしたわ。 

せやよって、もっかい天皇になりたいとか思うはずもないし、政治にも関心はありませんでしたんやけど、幕府とのしがらみもあって、自分の好き勝手にするわけにもいきませなんだ。 

いつか、山深い小さな住みかで雲を友達に松を隣人にして、心安らかに生涯を終えたいなぁ、と思てましたところ、やっと、こんなチャンスに恵まれましてん。 

長年思い悩んでいた事が、たちまちのうちに晴れ渡って、今は、こういう姿になりました」
と、語ったのだそうです。

尽きぬ話に浸りながらも、やがて帰路につく光厳院・・・

後村上天皇が、馬を勧めるのを丁重に断り、再び、簡素な草鞋(わらじ)ばきで旅の僧に戻り、途中、自らが幽閉されていた館が、草むす廃屋となっているのを目に留めた光厳院は、
「今なら、きっとこの場所でも、心安らかに過ごせる事やろな」
と、思い出に浸りつつ、吉野を後にしたと言います。

その後、丹波(たんば=京都府)山国荘の廃寺を再興して常照寺(じょうしょうじ・常照皇寺)と改めて、そこで隠居生活を送った光厳院は、正平十九年・貞治三年(1364年)7月7日望み通りの静かな場所で、心安らかに、その生涯を終えた.という事です。
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2012年7月 6日 (金)

「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生

 

天長二年(825年)7月6日、桓武天皇の孫・高棟王臣籍に下って平姓を賜りました・・・これが桓武平氏の祖となります。

・・・・・・・・・・・

ごくごく簡単に言いますと、天皇の息子や娘が多すぎて、全員が皇室のままだと経費がかかって国家の財政が破たんしかねないので、何人かに姓(かばね)を与えて臣籍として、自活してもらおうって事なわけですが、それが誰になるか?という事に関しては、やはり、生んだお母さんの出身氏族というのが最優先でした。

なので、経費削減の一方では、天皇家を継ぐべき身分の皇子&皇女と、そうではない皇子と皇女の格差をはっきりさせるという意味合いも込められていたのでしょう。

・・・で、賜姓(氏&姓については2月23日参照>>)と言えば、源・平・藤(原)・橘(げんぺいとうきつ)と、グンと下った異色の豊臣(12月19日参照>>)が有名なところですが、そもそもの発端は、あの壬申の乱に勝利した天武天皇(2月25日参照>>)が、天武天皇十三年(684年)に制定した八色の姓(やくさのかばね)に始まります。

「八色の姓」とは8種類の姓って事で、上位から「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8種ですが、実際に、この時に与えられたのは・・・
王族系の13氏に与えられた真人、
物部氏や中臣氏ほか52氏に与えられた朝臣、
大伴氏や佐伯氏など50氏に宿禰、
渡来系の秦氏などや国造系
(地方豪族など)の葛城氏などの11氏への忌寸の上位4種でした。

これは、従来からある臣や連などの姓より上位に、新たな姓を作って、そこに皇室に近い者や天皇に忠誠を誓う者を配置して、天皇の権力をより、強固にしようという物です。

なので、上記のように、最高位の真人には応神・継体用明天皇までの天皇の子孫などに多く与えられ、2番目の朝臣は、もともと臣などの姓を持つ古い氏族の中から壬申の乱に功績のあった者に与えられたりしたのです。

こうして、「八色の姓」の中でも上位にいる者たちを優遇し、彼らで政治を行う事で、中央集権と律令制を固めようというわけですね。

ところが、先ほど言いましたように、「賜姓と言えば、源・平・藤・橘・豊臣」・・・実は、この5種類ともが朝臣です。

奈良時代までは真人が最も地位が高く、最も天皇家に近い氏族だったのが、いつのほどからか朝臣が取って代わる・・・

この一役をかったのが桓武天皇です。

以前書かせていただきましたが、桓武天皇の父・光仁天皇は、約100年ぶりに天皇の座に返り咲いた天智天皇系の天皇・・・(10月1日参照>>)

それまでは、かの壬申の乱に勝利した(7月23日参照>>)天武天皇系列の天皇だったわけで、桓武天皇としては、その天武系の影を払拭したいのと、権力を持ちすぎた奈良の仏教勢力とサヨナラしたいのとが相まって、これまで、1度も都を置いた事が無い京都への遷都を決行するわけですが、それと同時に、天武天皇が定めた「八色の姓」の秩序を乱し、自らが作る新しい身分の序列へと変更しようとしたのです。

桓武天皇の最初の賜姓は、延暦六年(787年)・・・未だ平安京遷都が成される前の事・・・父の光仁天皇の皇子・諸勝広根朝臣(ひろねのあそん)を、自らの皇子・岡成(おかなり)長岡朝臣(ながおかのあそん)を与えて臣籍としたほか、延暦二十一年(802年)には、やはり自分の皇子である安世(やすよ)良岑朝臣(よしみねのあそん)とします。

こうして、天皇の息子が朝臣を賜る事で、もともと、天皇家の近親者だけが賜るはずだった真人の意味は有名無実となり、いつしか姓の序列では、真人の方が朝臣より下に置かれるようになり、やがて彼らが、その出自の高貴性から出世の順位も優遇され、多くの者が公卿となり、中央政界で活躍するという事になるわけです。

プレイボーイで有名な在原業平(ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)も、桓武天皇の息子の平城(へいぜい)天皇の、そのまた息子の阿保親王(あぼしんのう)の息子ですが、例の藤原薬子の乱(9月11日参照>>) で平城天皇が、弟の嵯峨天皇に負けて失脚してしまったので、その息子の阿保親王の天皇家内での順位的なものがグンと下がったために、在原朝臣(ありわらのあそん)なる姓を賜って臣籍に下った人ですね。

・・・で、今回、天長二年(825年)7月6日、桓武天皇の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の長男・高棟王(たかむねおう)平朝臣(たいらのあそん)を賜ったわけですが、この高棟王の系列が代々公卿に列し、「堂上平氏」と呼ばれて、平安の貴族社会で活躍する事になります。

ちなみに、この系列の子孫が平清盛の奥さん=平時子(たいらのときこ)さんです(2月10日参照>>)

Kanmuheisikeizu_2 以前の、平忠常の乱>>の時の系図ですが…(クリックすると大きく見れます)

一方、この高棟王の弟とされる高見王(たかみおう)・・

この方は、現存する史料が少なく、実在した事が疑問視されている方なのですが、その息子とされるのが高望王(たかもちおう)で、この高望王も寛平元年(889年)に平朝臣を賜ります。(5月13日参照>>)
(高見王が実在しないと考える場合は、葛原親王がもっと早くに姓を賜っていたとされます)

・・・で、この寛平元年の年に上総介(かずさのすけ)を命じられ、その領地を治めるために東国に下るわけですが、任務が終わっても現地に残り、公卿としてではなく、武門の一族として生きて行く事になります。

そして、その息子の国香(くにか)良兼(よしかね)良文(よしふみ)やらが関東に勢力を拡大して坂東(ばんどう)平氏と呼ばれ、その子孫に、かの平将門(2月14日参照>>)も、そして平清盛も、また、頼朝の奥さんの北条政子も、鎌倉幕府を支える御家人もいるわけですね。
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2012年7月 5日 (木)

茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種

 

建保三年(1215年)7月5日、日本初の禅寺を建立した臨済宗の開祖栄西が75歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

留学していた(そう=中国)からお土産として持ち帰り、日本にお茶を広めた人として、すでに「日本茶の日」という記念日の日づけでご紹介(10月31日参照>>)している千光国師(せんこうこくし)栄西(えいさい)・・・

備中(岡山県)吉備の神職の家系=賀陽(かや)に生まれた栄西は、わずか8歳で『俱舎論(ぐしゃろん)(インド仏教論の本)を読むという秀才・・・

やがて11歳の時に出家し、天台宗の安養寺に学んだ後、14歳で比叡山に入山します。

しかし、山内での派閥争いに嫌気がさしていた仁安三年(1168年)、かねてから希望していた留学のチャンスが訪れ、28歳にして宋に渡りました。

とは言え、この1回目の留学は、ごくごくわずかの期間・・・現地では、天台山の万年寺など訪れましたが、すでに天台宗がすたれはじめ、禅宗が流行している現状を目の当たりにしたくらいで、自身にとっては、納得の成果を上げられないままの、くやしい帰国となりました。

そのため、文治三年(1187年)、再び留学・・・今度は、もっと仏教の奥深くに分け入りたいと、釈迦生誕の地=インドに行く事を目標に修行を続け、陸路でインドを目指そうとしますが、当時のインドの政情が不安定だったため、その願いは叶わず・・・

再び天台山に入り臨済宗黄竜(おうりゅう)虚庵懐敞(きあねじょう)の門下となって修行に励みました。

そして建久三年(1187年)に帰国・・・肥前平戸冨春庵(ふしゅんあん)という小さな庵を建てて、戒律に基づいた禅の修行を開始します。

最初、この栄西のもとに集まったのは、わずか10名ほど・・・そんな彼らと座禅をしながらの日々の中、ある日、栄西は、庵の裏にある空き地に種をまきました。

「何の種をまいておられるのですか?」
と信者が聞くと、

「これはお茶の種ですよ・・・
お茶というのは霊薬で、これを飲むと心が静まり、寿命が長くなるなるんやで。
禅をやるには、このお茶が必要・・・中国の僧は、このお茶を服用しながら、修行に励むんや。
 

お茶は、すでに日本に伝わってるけど、それは貴族や一部のお金持ちの遊び・・・僕は、禅と結びついたホンマモンの喫茶を、全国各地に広めたいんや」
と、その夢を語ったとか・・・

やがて、栄西の教えは、九州を中心に広まっていき、建久六年(1195年)には、博多に日本初の禅寺=聖福寺(しょうふくじ)を建立しました。

次に目指すは、やはり都のある京都ですが、ここでは伝統仏教の反対に遭い、なかなかに布教活動が難しい・・・

そこで、栄西は、一旦京都は諦め、幕府のある鎌倉を目指します。

これが見事的中!!!

それこそ、たまたまではありましょうが、栄西が鎌倉へ下った年に、あの源頼朝(12月27日参照>>)が亡くなっており、その教えが、奥さんの北条政子傷ついた心を捉え、当然の事ながら、その息子である2代将軍・源頼家帰依も受ける事になります。

まもなく、政子の発願で建立された寿福寺(じゅふくじ=鎌倉市)の開山となり、建仁二年(1202年)には、頼家の支援によって、念願の京都に建仁寺が建立されました。

以来、京都と鎌倉を往復しつつ、精力的に禅の教えを広める栄西でしたが、そのあまりの隆盛ぶりは「増上慢(そうじょうまん=高ぶった慢心)の権化」と称され、かの京都では、以前として反感をかうばかり・・・

そりゃ、幕府がドップリと帰依すれば、利権は皆、そっちに行っちゃいますから、それまで、保護を受けて来た宗派からは睨まれますわな。

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京都・建仁寺 潮音庭

やがて建保三年(1215年)6月・・・もはや75歳という年齢となり、自らのお迎えも近い事を悟った栄西は、鎌倉を出て、京都へと旅立ちます。

自分の最期を、「あえて京都で迎えよう」と考えたのです。

「自分の死にざまを京都に人々に見てもらい、禅をより理解してもらいたい」

その最後の旅は、禅僧にふさわしく、大井川を渡る輦台(れんだい)の上でも、結跏趺坐(けっかふざ=瞑想の時の座法)を崩さなかったと言います。

建保三年(1215年)7月5日・・・栄西は、建仁寺にてこの世を去ります。

小さな庵の裏庭に、1粒々々まいた小さな種は、やがて100年余りの時を越え、夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>) 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(2月16日参照>>) などへと花開く事になります。
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2012年7月 3日 (火)

舅・伊達政宗と幕府転覆??松平忠輝の長い勘当

 

天和三年(1683年)7月3日、徳川家康の六男で、越後高田藩の初代藩主となった松平忠輝が92歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

上記の通り・・・松平忠輝(まつだいらただてる)は、あの徳川家康の息子・・・母は茶阿局(ちゃあのつぼね)という人で、もともとは遠江(とおとうみ=静岡県西部)鋳物屋の嫁だったのが、彼女の美貌に目がくらんだ代官が、自分の物にしようと夫を騙し討ちした事を、彼女自身が家康に訴えたところ、なんと、家康が彼女に惚れ込み、代官を処分した後、奪うように浜松城に迎え入れた・・・なんて噂のあるお人・・・

この噂の真偽のほどは定かではありませんが、家康の寵愛を受けていた事は確かで、浜松城の奥向きの事は、彼女が一手に引き受けていたと言われます。

そんな最愛の彼女との間に生まれた息子なら、さぞかし、家康も可愛がり・・・と思いきや、これが、あまりに顔がブサイク過ぎて、家康に嫌われたのだとか・・・

「何人もの男が一目で惚れてしまうくらい美人の彼女のとの間に生まれた子がブサイクなら、それは、お前(家康)のDNAやろ!」
と、思いますが、

とにかく、ブサイクベィビー忠輝を嫌った家康は、赤ん坊を1度捨てさせて、側近の本多正信に拾わせ、その後、配下の皆川広照(みながわひろてる)に育てさせたと言います。

まぁ、この「家康のブサイクベィビー嫌い」の話は、あの次男の結城秀康(ゆうきひでやす)の誕生のくだり(11月21日参照>>)ともソックリなので、ブサイクだから・・・というよりは、何らかの理由があって遠ざけねばならなかったという事なのかも知れませんが・・・

その理由としては、やはり、母の茶阿局の身分が低かったから・・・という物の他に、実は、忠輝は双子だったというのがあります。

これも、結城秀康と同じですが、当時は双子は「畜生腹」として忌み嫌われていたという歴史があり、実際に、忠輝の弟である七男の松千代が早世したために、その後を継いで長沢松平家の当主となり、その後、武蔵深谷1万石を与えられて、初めて大名になる・・・

つまり、弟の方が先に藩主になっていたわけですが、それも、双子でほぼ同時に生まれていたのなら、なんとなくわかる気もします。

捨て子も、当時は「捨て子の方が丈夫に育つ」として、一旦捨ててから家臣が拾うという儀式的な物がありましたしね。

まぁ、それもこれもあれもどれも・・・家康が、自らの後継者と決めた三男=秀忠に権力を集中させんがために行った、他の息子たちへのパフォーマンスとも言えなくないですが・・・

Matudairatadateru300 とにもかくにも、こうして7歳にして1万石の大名となった忠輝・・・慶長八年(1603年)には、信濃松代(長野県)14万石に転じ、やがて慶長十一年(1606年)には、あの伊達政宗の娘=五郎八姫(いろはひめ)結婚しました。

もちろん、徳川家と伊達家の関係を強めるための政略結婚ではありましたが、夫婦仲はなかなかに良かったと言います。

その後、慶長十五年(1610年)には越後福島城主となって所領も45万石(60万とも)と大幅アップ!!

さらに、慶長十九年(1614年)には、佐渡金山から江戸への金銀の輸送路の確保と、加賀前田家へのけん制の意味を込めて、幕府の力で以って壮大な城を越後高田を建設し、忠輝は、この高田城の城主となり、70万石の領地を持つ大大名となります。

まぁ、この高田城の建設途中で、かの大坂冬の陣が始まってしまいますので、城の工事そのものは第1期で終わってしまいますが、場所的にかなり重要な所を任せられた事には変わりなく、その信頼度がうかがえるという物です。

ところが、この大坂の陣あたりから、なにやら忠輝の人生の歯車が狂いはじめ、徳川将軍家との大きな溝ができて来るのです。

一般的に言われるのは、忠輝は粗暴な殿様で、数々の乱行を繰り返していたという物・・・

大酒飲みを城に連れ込んで腹を裂いたりしたとか・・・
また、その乱行を諫める重臣を追放したり、他家の重臣を殺害したり・・・

しかし、このテの話が、あまり信用できないのは皆さまもご存じの通り・・・公式記録では粗暴でも、言いかえれば、それは武勇に長けた戦国武将にも似た生き様だったわけで、現に、忠輝の剣の腕前は相当な物だったという話もチラホラ・・・

ひょっとしたら、この先、将軍=秀忠を中心に政治をこなす、官僚的な武士を欲する徳川家から、そんな強さが脅威に見えたのかも・・・

とにかく、大坂冬の陣では江戸城の留守役を命じられ、続く夏の陣では、出陣はするものの、出陣途中で秀忠の家臣に追い越されたとして家臣二人を無礼討ちにしたほか、肝心の大和口の合戦には遅刻して武功を挙げる事ができず、家康の怒りをかったとされます。

しかも、その夏の陣の朝廷への戦勝報告には参加の命令を無視して京都の嵐山で舟遊びをしていたとか・・・

結局、家康の死の際にも面会が許されず、その死後には、家康の遺言を理由に、秀忠によって所領を没収されたうえ、伊勢朝熊(あさま)山へ流罪となってしまいます。

元和四年(1618年)には飛騨高山に流され、最後は信濃諏訪に預けられ、天和三年(1683年)7月3日その配流先で92歳の生涯を終えました。

公式には、その配流先でも幕府を無視して我まま勝手な行動を振る舞い、酒におぼれていたと記録される一方で、公式では無い記録には、庶民たちと親しく交わるやさしいオジイチャンで時々は湖水に舟を浮かべて住民たちと遊ぶ光景が見られたとか、文化人としても1流だった忠輝のおかげで、諏訪地方の文化水準がグンとアップしたなんて話も残ります。

そう、実は、この改易には、忠輝の乱行では無い、別の理由が見え隠れするのです。

奥さんだった五郎八姫とは、この改易の際に強制的に離婚させられ、五郎八姫は実家に戻されますが、この五郎八姫が敬謙なキリシタンだったのは有名な話・・・しかも、彼女は、その後に出た結婚話をすべて断り続け、生涯、独身を貫きます。

これには、離婚を許さないキリシタンの教えに従った彼女にとって、生涯、ただ一人の夫が忠輝だったのでは?と言われます。

それに応えるかのように忠輝も敬謙なキリシタンであったとも言われ、遠くヨーロッパとの交流も望んでいたと・・・

そうです。
あの伊達政宗のページで書かせていただきましたね(5月24日参照>>)

忠輝を新しい幕府の将軍にして、政宗が関白となって手腕を奮う政治体制・・・それが、明治の時代まで、ひた隠しにされていた支倉常長(はせくらつねなが)を代表とする遣欧使節の派遣(8月26日参照>>)である・・・と

もちろん、この話は、それこそ極秘事項で、徳川300年間闇の中に葬られていた事なので、もはや、その証拠となる物は、あのローマ教皇に宛てた政宗の手紙くらいしか残ってないのでしょうけど・・・

ところで・・・
忠輝の死から300年経った昭和五十九年(1984年)7月3日、忠輝のお墓のある貞松院(長野県諏訪市)と、徳川宗家18代めの子孫の方との話し合いで、ようやく彼の罪が赦免されました

父の死に面会を許されず、家を継いだ兄貴に勘当を言い渡された形の忠輝さん・・・この時、300年という長い長い勘当が解かれた事に、ホッと胸をなでおろしたのかも・・・

いやいや、ひょっとしたら、戦国武将を彷彿させる忠輝さんの事ですから、もしも、本当の改易の理由が幕府転覆計画の発覚にあるのなら、むしろ、勘当を受けて立つ!」てなサムライだったのかも知れませんね。
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2012年7月 2日 (月)

運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期

 

延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、新田義貞が、北陸で奮戦中に討死しました。

・・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し、建武の新政(6月6日参照>>)をうちたてた後醍醐(ごだいご)天皇反旗ををひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)が、湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)に勝利して京都を制圧した事で、比叡山へと逃れた後醍醐天皇・・・(6月30日参照>>)

その後、比叡山で籠城を続ける事が不可能と判断した後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲って、自らは尊氏とかりそめの和睦し、その恒良親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王新田義貞(にったよしさだ)に託して北国へと落ち延びさせます(10月13日参照>>)

敦賀に入って越前金崎城(福井県敦賀市)に本拠を構える義貞でしたが、翌・延元二年・建武四年(1337年)3月、足利軍の猛攻を受けて、金崎城は陥落・・・この時、援軍要請のために杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にいた義貞と、その弟=脇屋義助(わきやよしすけ)は難を逃れましたが、留守を預かっていた義貞の息子の義顕(よしあき)尊良親王が自刃し、脱出した恒良親王も、ほどなく捕えられてしまいました(3月6日参照>>)

金崎城の陥落後は、世は足利一色に傾いていきますが、そんな中で、杣山城に陣取って全軍を再編成し、再起をはかる義貞・・・

それを受けた尊氏は、越前国府(越前市)に攻撃軍を派遣・・・しばらく、両者のこう着状態の後、延元三年(建武五年・1338年)2月に、ついに、義貞が国府を落としました。

この勝利に士気挙がる義貞軍は、支城を次々と攻略し、たちまちのうちに越前の大半を制圧・・・やがて5月に入って、義貞らは、足利軍の総司令官である斯波高経(しばたかつね)の籠る足羽城(あすわじょう=福井市)の攻略に取りかかります。

続く6月には、越後(新潟県)に本拠を置く新田勢も越中(富山県)へと侵出し、高経ら足利軍を挟み撃ち態勢・・・足羽城の陥落は、時間の問題と思われました。

かくして延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、高経の呼びかけに応じて、足利方についていた平泉衆徒の立て籠る藤島城(福井市)を攻撃中の義貞は、陣を敷く燈明寺城(とうみょうじじょう=福井市)にて全軍の指揮をとりながら、ケガ人の状況などを視察していましたが、一進一退を続ける現状に、少々のイラ立ちを感じはじめていました。

早く勝利の報告が聞きたい!
と、心がはやる義貞は、藤島城の最前線の現状を確認すべく、わずかに50騎ほどの馬廻りの者を連れて、現地へと視察に行く事に・・・

しかし、これが運命の船出でした。

そう、たまたま、その時、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将=鹿草彦太郎公相(ししくさひこたろうきんすけ)の300騎と遭遇してしまったのです。

もちろん、公相らは、突然目の前に現われた一隊が、義貞の一団とは気づいてはいませんでしたが、かと言って、遭遇した敵には、相対さねばならないわけで・・・

急きょ、周囲の泥田に散らばり、前面に楯を持った兵を並べ、その楯に身を隠しなが弓隊が矢を連射しはじめます。

残念ながら、この時の義貞には、弓隊どころか、楯を持った兵士すら、1人もいなかったのです。

そう、義貞は、出陣ではなく、視察であったため、その装備はいたって軽い物だったのです。

全面の歩兵は矢面に立ちふさがって義貞を守りますが、もはや、格好の標的となって、ただ死んでいくだけ・・・

この状況を見た中野藤内左衛門尉宗昌(なかのとうないさえもんのじょうむねまさ)は、義貞に目配せしながら・・・
「千鈞(せんきん)の弩(いしゆみ)は、鼷鼠(けいそ)の為に機(き)を発せず」
(重い石弓をハツカネズミを捕まえるために使ったりしないという意味)・・・

つまり、「大将たる者が小者を相手にしてはいけない」
と、言い、退却を勧めました。

しかし、義貞は、
「士を失(しつ)して独(ひと)り免(まぬ)がるるは、我が意に非(あら)ず」
「家来を死なせておいて、1人だけ逃げるやなんて、俺のポリシーに反するわ!」
と言って、馬に鞭を当て、敵の中に突進していきます。

義貞の馬は、駿馬の誉れ高い名馬で、普段なら、2mや3mの掘でも軽々と越えて行くのですが、残念ながら、その体には、すでに5本の矢が突き刺さっており、泥田に足を取られ、屏風が倒れるように、その身を横たえてしまいました。

しかも、運悪く、義貞の左足が馬の下敷きとなり、身動きが取れない・・・やっとの事で、上半身を起こそうとした、その瞬間!!!

白羽の矢が1本・・・義貞の眉間を貫いたのです。

急所に矢が刺さった事で、意識もうろうとする義貞は、
「もはや最期の時・・」
と悟り、抜いた刀を左手に持ち替えて、自らの首を掻き切ったのです。

義貞の死を目の当たりにした者たちは、次々と切腹・・・わずかに残った者も射殺され、隊は全滅したのです。

誰ともわからない武将を討ち取った公相ではありましたが、その身につけていた物から、「ただ者では無い」と感じつつ、かの高経の前へ・・・

その首を見た高経は、
「義貞に似ているが・・・」
と、何となく半信半疑でしたが、左眉の上にあった矢傷、持っていた太刀が源氏の重宝=鬼切鬼丸であった事から義貞を確認・・・

さらに、最後の決め手となったのは、その懐深くに大事に大事にしまい込んでいたお守り袋・・・その中には、義貞に宛てた後醍醐天皇の宸翰(しんかん=天皇自筆の手紙)が収められていたのです。

新田義貞:38歳の夏・・・命を賭けた戦いは終わりました。

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新田義貞・首塚(滝口寺)…すぐ左手には勾当内侍の供養塔が鎮座します

以前のご命日に書かせていただいた勾当内侍(こうとうのないし)との恋(2007年7月2日参照>>) と言い、その戦いぶりと言い、良くも悪くも、純情で一途で、少し古いタイプの人間だった事を感じさせる義貞の生きざま・・・

泥田に沈む最期・・・その脳裏をかすめたのは、人生を賭けて愛した人か、人生を賭けて従った大君か・・・はたまた、にっくき尊氏の顔なのか・・・
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