戦国の足音…重き「光」を背負った称光天皇
正長元年(1428年)7月20日、第101代天皇・称光天皇が28歳の若さで崩御されました。
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称光(しょうこう)天皇は、あの南北朝合一(10月5日参照>>)した時の北朝側の天皇=後小松(ごこまつ)天皇の皇子です。
この南北朝合一は、
① 三種の神器を北朝・後小松天皇に渡し、南朝・後亀山
天皇は譲位する。
② 以後、天皇は南朝・北朝が交互に立つ。
③ 皇室領のうち、国衙領は南朝派の物、長講堂陵は北朝
派の所領とする。
という3つの条件のもとに、第99代の後亀山天皇が譲位して、北朝6代の後小松天皇が第100代天皇なる・・・という形で決着しました。
これで条件の①はクリア・・・
しかし、問題は②と③・・・この③は、南朝側の資金確保を補償する物ですが、もはや地方に根づいた勢力が幅をきかせている時代ですので、その恩恵がとのくらい中央まで届くのかが不確かで、どちらかと言えば名目上は・・・てな感じ。
・・・で、何とかクリアできそうなのは②・・・この南北朝合一の時には、後小松天皇はまだ16歳だったので、未だ皇太子を定めていませんから、合一後の後亀山上皇が、なかなかに恭順な態度でおとなしくしていたのも、ひょっとしたら、幕府の推挙で、後継者を南朝側の人にしてくれるんじゃないか?ってな期待があったからなわけで・・・
しかし、応永十五年(1408年)・・・その淡い期待は見事に裏切られます。
南北朝合一を成功させたのは、第3代室町幕府将軍の足利義満(よしみつ)ですが、その息子で第4代将軍となっていた足利義持(よしもち)が、後小松天皇の第1皇子の躬仁(みひと・実仁)皇子を、次の天皇として即位させようと画策し始めたのです。
もちろん、これは後小松天皇の意志でもありました。
系図を見ていただくとわかりやすいんですが、実は、南北朝どころか、北朝の中でも、すでに皇統が2系統に分かれていたのです。
そうです・・・あの観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)のゴタゴタの後、一旦かりそめの講和を結んで南北朝が合一された時、この混乱を復権のチャンスとみた南朝勢力が、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまった事で、再び分裂した北朝側には天皇がいなくなってしまった・・・
この時に、苦肉の策として、神器なし指名なしの前代未聞の即位をしたのが、北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>) ・・・つまり、このために北朝も系統が分かれてしまっていたわけで、後小松天皇としてはジッチャンから受け継いだ後光厳統を守りたい・・・
一方、怒り爆発の後亀山上皇は、応永十七年(1410年)11月27日、大覚寺を出奔し、突然、大和(奈良県)吉野へと家出して幕府に抗議しますが、そんな事にはおかまくなく、京都では躬仁皇子の立太子が行われ、応永十九年(1412年)8月29日には、その躬仁皇子が、第101代称光天皇として即位・・・後小松上皇による院政が開始されてしまいます。
・・・と、やっと出て来た、本日の主役=称光天皇・・・
というのも、実は上記の通り、この称光天皇の治世では、後小松上皇が院政をしくわ、室町幕府の力は強いわで、称光天皇が何かをしたという記録はほとんど無いのです。
しかも、称光天皇は体が弱く病気がちで、在位中にも何度か危篤状態に陥っていたとか・・・
さらに、父との確執に悩み、弟=小川宮の急死を受けて、精神を病んでいたと言われます。
この小川宮という人は、称光天皇の3歳下の弟ですが、翌月に元服を控えながら22歳の若さで急死した事で、毒殺説も浮上している不可解な亡くなり方をした皇子です。
ひょっとしたら、称光天皇とは、やれ南北朝だ、やれ系統だ、と息まく大人たちの間で、自らの身の置き所を悩み続けた、心やさしき天皇様だったのかも知れません。
しかし、そんな天皇の心とはうらはらに、称光天皇の在位中には、応永二十一年(1414年)に、あの南朝の忠臣=北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の流れを汲む伊勢国司=北畠満雅(みつまさ)が伊勢の関一党を率いて蜂起したり、応永三十年(1423年)には、その満雅に呼びかけに応えて、「鎌倉や筑紫の兵が蜂起した」という記録(看聞日記)もあります。
筑紫の兵というのは誰を指すのか微妙ですが、鎌倉の兵というのは、おそらく第4代・鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)の事でしょう。
後亀山上皇自身は、応永二十三年(1416年)に嵯峨大覚寺へ戻っていますが、旧南朝勢力(後南朝)から発展した反幕府勢力は、この称光天皇の御代に、戦国へと歩み始めたのかも知れません。
正長元年(1428年)7月20日、称光天皇は28歳の若さで崩御されます。
称光天皇に子供がいなかった事から、後小松上皇は、やむなく、ライバルだった崇光天皇の皇統である貞成親王の皇子=彦仁王(後花園天皇)を、自らの猶子(ゆうし=契約で結ばれた親子関係)にして次期天皇とします。
ところで・・・
「諡号(しごう=生前の事績への評価に基づいて死後に奉る名)に『光』の文字がつく天皇には特別な意味がある」という話をご存じでしょうか?
この「光」という文字が最初に付いた天皇は、あの桓武天皇のお父さん=第49代光仁(こうにん)天皇ですが、この方は、それまで9代・約100年に渡って続いた天武天皇(2月25日参照>>)の系統から、壬申の乱(7月23日参照>>)に敗れた側の弘文天皇の父=天智天皇の系統に代わった久々の天皇です(10月1日参照>>)。
その次が、昨日の宇多天皇のお父さん=光孝(こうこう)天皇(7月19日参照>>) ・・・この方も陽成(ようぜい)天皇の退位を受けて、3代前の仁明(にんみょう)天皇に戻っての皇位継承で系統が変わってる・・・
つまり、この「光」という文字は、皇統が変わった時に、その正統性を示すために用いられた文字だというのです。
ところが、ここに来て、北朝は「光」だらけ・・・実は後小松天皇の「小松帝」というのも光孝天皇の異称という事で、後小松天皇自身が生前に希望した追号・・・これも「光」グループなのです。
この「光」連発は、つまり、いかに神器なき北朝が、その正統性を主張したかったの証とも言えるもの・・・この重き名=「光」を背負った最後の天皇となった称光天皇・・・病弱で心やさしき天皇には少し重たすぎたのかも知れません。
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コメント
茶々さん、こんにちは。第2代将軍が足利義持となっていますが、第4代ではないでしょうか?
投稿: いんちき | 2012年7月21日 (土) 14時47分
いんちきさん、ありがとうございます。
ハイ、3代義満の次なので4代です(*´v゚*)ゞ
失礼しました~
投稿: 茶々 | 2012年7月21日 (土) 15時50分
こんにちは、茶々さまo(_ _)o
こういう時代って、やさしい人・自分じゃない誰かを大切にできる人は大変ですね。
系統や南北朝、いろんなものにはさまれて、弟も死んでしまう…
この時代の天皇はあまり知られていないけど、いろいろ大変だったんですね。
投稿: 瀬名 | 2012年7月23日 (月) 14時31分
瀬名さん、こんにちは~
心を病んでしまう原因は、それこそ千差万別なのでしょうが、ここまで人間関係が複雑な中で、早くしてお亡くなりになると、ついつい、そのように想像していまいます。
投稿: 茶々 | 2012年7月23日 (月) 14時50分