「衆生救済」…北山十八間戸と忍性
乾元二年(1303年)7月12日、鎌倉時代の真言律宗の僧・忍性が87歳でこの世を去りました。
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健保五年(1217年)に大和(奈良県)に生まれ、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の信仰に篤かった忍性(にんしょう)は、早くして亡くなった母の遺言に従って、真言律宗の額安寺(かくあんじ=大和郡山市)にて出家します。
このお寺は、飛鳥時代に聖徳太子が建立したものと伝えられ、その聖徳太子は忍性の心の師でもありました。
やがて、東大寺・戒壇院にて受戒し、西大寺の叡尊(えいぞん)の弟子となります。
この叡尊が実践していたのが衆生救済(しゅうじょうきゅうさい)でした。
それは、文殊経の中に、「文殊菩薩は自らが貧窮孤独、苦悩の衆生の姿になって行者の前に現われる」とある・・・つまり、文殊菩薩は貧困や病気にあえぐ浮浪者の姿となって僧たちの前に現われるのですから、自ら、率先して彼らを救う事が、文殊菩薩に近づく道であるというわけです。
その教えに従って、各地に出向いては人々の救済にあたっていた忍性ですが、一方では、あの源平の戦乱(12月28日参照>>)のために礎石のみになっていた奈良坂の般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)を叡尊とともに再興したりもしました。
そんなある日、その奈良坂近くで、忍性は、重症のハンセン病患者に出会います。
当時の奈良坂は、京都と奈良を結ぶ街道沿いにあり、交通の要所であると同時に、賑やかな市中からは少し離れた場所であったため、旅の行き倒れや、はじかれ者、世捨て人など底辺の人々が最後にたどりつくような場所だったのです。
忍性が出会ったその患者も、もはや体が不自由で、奈良市中へ物乞いに出る事すらできなくなっていて、その事をしきりに嘆きます。
その日以来、毎日、夜明けとともにその場所にやって来る忍性は、彼を背負って奈良市中へと向かい、夕方に、また彼を背負って奈良坂に戻って来るのが日課となったのです。
やがて病気も重くなり、その死を悟った彼は、忍性に感謝の言葉を投げかけます。
「本当にありがとうございました。
必ずや生まれ変わって、あなたの弟子に・・・いや、弟子なんておこがましい、下僕・召使いとなって、あなたにお仕えしましょう。
もし、あなたの前に、顔にアザのある男が現われたら、私だと思ってください」
元禄時代に建てられた北山十八間戸…現存する最古のハンセン病患者療養施設です。
やがて忍性は、その地に北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)を設立します。
北山とは、奈良の北にある山という意味で、忍性が建てた物は、現在の般若寺より、まだ北東にあったとされますが、残念ながら、その建物は、かの松永久秀と三好党との戦い(10月10日参照>>) で東大寺の大仏とともに焼けてしまいました。
しかし、鎌倉時代の造りを、そのまま受け継いだ建物が、その後の元禄年間に、般若寺よりは少し南になりますが、やはり奈良坂に再建されていて、それが今も現存します。
南向きで東西に長い建物で、中が18室に区切られた平屋の棟割(むねわり)長屋で、1室は四畳ほどの広さだそうです。
そう、これは、ハンセン病患者の救済施設・・・病気というだけで差別されていた時代の彼らに衣食住を与え、静かな余生をおくってもらうための物
記録によれば、その数はのべ1万8000人を越えるとか・・・
北山十八間戸…遠くに大仏殿の屋根を望むこの風景は、療養する人々の心を癒した事でしょう
やがて、関東にその仏教の道を求める忍性は、東へと向かい、そこでも、貧困にあえぐ人々に粥を提供したり・・・と、衆生救済の実践に励みます。
そんな彼の気持ちが届いたのでしょうか?
鎌倉幕府・第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の息子=重時(しげとき)が、忍性に帰依・・・その援助もあって開いたのが、鎌倉の極楽寺です。
いち時、荒廃したために、今では創建当時とは随分と変わっているそうですが、古い伽藍地図には、多くの堂塔が建ち並ぶ中に、療病院・らい宿・薬湯室・馬病屋など・・・おそらくは療養のための施設であったとおぼしき建物がいくつも描かれているそうです。
その忍性の思いは、鎌倉の人々にも、篤く、しみ渡った事でしょう。
果たして晩年の忍性・・・
実は、彼の門下生の中に1人・・・顔にアザのある弟子がいたと言われています。
もちろん、輪廻転生・・・本人には以前の記憶などあるはずも無かったでしょうが、その彼に出会った時の忍性さんの心を思えば・・・胸に込み上げて来るものがあります。
おそらくは、文殊菩薩が目の前に現われたと同じくらいの感動を覚えた事でしょうね。
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*般若寺&北山十八間戸のある奈良坂へのくわしい行き方は、本家HP:奈良歴史散歩「奈良坂から正倉院へ…」でどうぞ>>
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コメント
文殊菩薩は貧困孤独、苦悩の浮浪者の姿をとって行者の前に現れるという信仰はキリスト教と同じですね。
聖書には飢え、渇き、病める者の姿でイエスはたち現れる、という思想があります。悲惨の中に神が存在するという考え方はキリスト教の特有のものと思っていましたが、文殊経が似たような構造をしていて、驚いています。
忍性さんはまことに立派なお坊さんですが、命がけで道を求め、人を救わんとする仏教はすっかり歴史上の存在になってしまいました。
投稿: レッドバロン | 2012年7月14日 (土) 22時10分
レッドバロンさん、こんばんは~
仏教界に限らず、昔は「世の中のために…」と考える偉人が多くいましたね。
最近は、掲げる看板は立派ですが、本当に民の事を1番に考えてくれているのやらどうやら…
投稿: 茶々 | 2012年7月15日 (日) 04時06分
こんばんは~!
忍性さんのお姿に感動しました。ここまで尽くされるお坊さんの話は初めて聞きました。こういう方もいらっしゃるのですね~。
私も縁あって、在家のまま仏道を歩ませて頂いてますが、かくありたいと強く思いました。
いい話をありがとうございますm(__)m
投稿: おみ | 2012年7月17日 (火) 21時37分
おみさん、こんばんは~
この時代、病める人や貧困にあえぐ人を救う事は、相当に困難だったでしょうね。
ホント、見習いたいと思います。
投稿: 茶々 | 2012年7月18日 (水) 03時31分