北条復興を願って…中先代・北条時行の反乱
建武二年(1335年)7月23日、亡き北条高時の遺児・時行を担いで鎌倉幕府復興を目指した反乱=中先代の乱で、反乱軍が鎌倉を占拠しました。
・・・・・・・・・・・
ご存じ、鎌倉幕府を倒して建武の新政を行った後醍醐(ごだいご)天皇・・・(6月6日参照>>)
討幕に至る経緯は、【足利尊氏と南北朝の年表】>> の前半部分でくわしく見ていただくとして・・・
とにかく、
元弘三年(1333年)5月22日に、事実上鎌倉幕府のTOPだった第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が自刃して鎌倉が陥落・・・(5月22日参照>>)
その後、九州の幕府勢力も一掃され、北陸の諸将も自刃し、最後まで抵抗を続けていた金剛山の阿蘇治時(あそはるとき=北条治時)や大仏高直(おさらぎ・だいぶつたかなお=北条高直)らが元弘三年(1333年)7月9日に処刑され(7月9日参照>>)、幕府勢は全面降伏となりました。
とは言え、これは表向き・・・心に「幕府命」を秘める者や、命からがら少数で脱出して潜伏する者が、まだまだいるわけで・・・
そもそも・・・
かの北条高時には3人の男子がいました。
一門から、高時の猶子(ゆうし=契約上の親子関係)として宗家に入っていた治時は、上記のように7月9日に処刑されます。
実子・長男の邦時(くにとき)は、父・高時から「北条再興」の夢を託されて伯父(邦時の母の兄)の五大院宗繁(ごだいいいんのむねしげ)に預けられますが、この宗繁が、自らの保身のために邦時を売ったために捕縛され、5月28日に処刑されました。
そして、次男=北条時行(ときゆき)・・・この時、7~8歳前後だったと言われる彼は、あの運命の5月22日、高時の異母弟=北条泰家(やすいえ)に連れられて、鎌倉を脱出したのです。
その後、北条氏の守護国である信濃に迎え入れられ、しばらく身を潜める時行・・・
やがて、ご存じのように、新政のほころびは、間もなく表面化して来ます。
翌・建武元年(1334年)には、後醍醐天皇の治世で、貴重なご意見番だった万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、献上された駿馬に大喜びする後醍醐天皇に、
「奇物をもてあそばず、仁政をつくしなはれ」
と、内裏の造営のために増税した事を諫めますが、その意見を一蹴されたために、即座に出家して、その身をくらませてしまいました。
さらに翌年=建武二年(1335年)の6月・・・いち時は関東に赴任していた縁で、北条氏とのつながりも篤かった京都の公家=西園寺公宗(さいおんじきんむね)のもとに、かの泰家が身を寄せた事から、密かに、後醍醐天皇暗殺計画を企てるのです。
それは、「西園寺家の山荘=鹿苑寺に後醍醐天皇を招待し、踏み板の下に刀の切っ先を並べた罠をしかけた湯殿に入らせて殺害し、第93代後伏見天皇を擁立して新帝を即位させる」という計画でしたが、公宗の異母弟の西園寺公重(きんしげ)の密告によって事前に発覚してしまい、公宗は斬首されてしまいました。
・・・で、この時、何とか逃亡した泰家が、事が表沙汰になった事をキッカケに、全国の北条残党に挙兵を呼び掛けたのです。
それに応えたのが、かの時行を保護してくれている信濃の住人=諏訪頼重(すわよりしげ)でした。
(ちなみに、武田に滅ぼされる戦国時代の諏訪頼重>>はこの方より10代後になります)
先に書いた通り、鎌倉時代には、北条氏が信濃の守護で、諏訪氏はその配下だったわけですが、幕府が滅亡した後は、信濃の守護は小笠原氏に・・・しかし、頼重は、どーも、その小笠原氏の当主=貞宗(さだむね)とはウマく行かず、対立していたのです。
建武二年(1335年)7月・・・頼重らの支援を受けて5万の大軍となって挙兵した時行軍は、守護の小笠原貞宗を破って千曲川沿いを転戦・・・同時に、北条一族の名越時兼(なごえときかね)も、北陸にて6000余りを率いて挙兵しました。
この時の鎌倉には、東国の備えとして、後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)を将軍にして、足利高氏(後の尊氏)の弟=足利直義(ただよし)が執権としてそれを補佐する鎌倉将軍府が設置されていました。
しかし、やがて武蔵の国に入った時行軍は、迎撃する鎌倉将軍府の諸将を次々と破り、鎌倉へ進攻・・・不意を突かれた形で苦戦する直義は、やむなく、未だ幼い足利義詮(よしあきら=高氏の息子)と成良親王を連れて鎌倉を脱出するのです。
この時、鎌倉にて土牢に押し込められていた後醍醐天皇の皇子・大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)が敵方に担がれてはマズイと、途中で、親王の殺害命令を出して逃走したために、その命を受けた淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって護良親王が殺害されています(2009年7月23日参照>>) 。
この事が後々、亀裂の一端となるのですが、そのお話は後日させていただくとして・・・
こうして、建武二年(1335年)7月23日・・・北条時行軍は鎌倉を占拠したのです。
さらに追われる直義は、駿河で追いつかれて一戦をい交えますが、何とか三河まで逃亡・・・ここで、この乱の事を知らせる使者を京都へと送ります。
(以前は「源頼朝像」とされていた京都・神護寺の肖像画は、現在では足利直義像であるという説が有力です←)
この反乱は、先代の北条と次代の足利の中間という意味で、中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれます。
さて、この知らせを受けた京都では、後醍醐天皇が、直義の兄=高氏を征討軍の大将として派遣する事を決定するのですが、高氏は、この決定に対して、少々の条件を出します。
・・・と、
気になるところではありますが、そのお話は、中先代の乱が鎮圧される8月19日のページでどうぞ>>
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コメント
邦時を売るとは、平治の乱後に源希よしが平家に売られるのと同じですね。希よしも取り上げてください。
投稿: 6幡太郎 | 2012年7月24日 (火) 11時31分
6幡太郎さん、こんばんは~
希義さんは、殺害・自害・生き残り…なかなかに諸説ありの人ですからね~
投稿: 茶々 | 2012年7月24日 (火) 21時39分