「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生
天長二年(825年)7月6日、桓武天皇の孫・高棟王が臣籍に下って平姓を賜りました・・・これが桓武平氏の祖となります。
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ごくごく簡単に言いますと、天皇の息子や娘が多すぎて、全員が皇室のままだと経費がかかって国家の財政が破たんしかねないので、何人かに姓(かばね)を与えて臣籍として、自活してもらおうって事なわけですが、それが誰になるか?という事に関しては、やはり、生んだお母さんの出身氏族というのが最優先でした。
なので、経費削減の一方では、天皇家を継ぐべき身分の皇子&皇女と、そうではない皇子と皇女の格差をはっきりさせるという意味合いも込められていたのでしょう。
・・・で、賜姓(氏&姓については2月23日参照>>)と言えば、源・平・藤(原)・橘(げんぺいとうきつ)と、グンと下った異色の豊臣(12月19日参照>>)が有名なところですが、そもそもの発端は、あの壬申の乱に勝利した天武天皇(2月25日参照>>)が、天武天皇十三年(684年)に制定した八色の姓(やくさのかばね)に始まります。
「八色の姓」とは8種類の姓って事で、上位から「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の8種ですが、実際に、この時に与えられたのは・・・
王族系の13氏に与えられた真人、
物部氏や中臣氏ほか52氏に与えられた朝臣、
大伴氏や佐伯氏など50氏に宿禰、
渡来系の秦氏などや国造系(地方豪族など)の葛城氏などの11氏への忌寸の上位4種でした。
これは、従来からある臣や連などの姓より上位に、新たな姓を作って、そこに皇室に近い者や天皇に忠誠を誓う者を配置して、天皇の権力をより、強固にしようという物です。
なので、上記のように、最高位の真人には応神・継体~用明天皇までの天皇の子孫などに多く与えられ、2番目の朝臣は、もともと臣などの姓を持つ古い氏族の中から壬申の乱に功績のあった者に与えられたりしたのです。
こうして、「八色の姓」の中でも上位にいる者たちを優遇し、彼らで政治を行う事で、中央集権と律令制を固めようというわけですね。
ところが、先ほど言いましたように、「賜姓と言えば、源・平・藤・橘・豊臣」・・・実は、この5種類ともが朝臣です。
奈良時代までは真人が最も地位が高く、最も天皇家に近い氏族だったのが、いつのほどからか朝臣が取って代わる・・・
この一役をかったのが桓武天皇です。
以前書かせていただきましたが、桓武天皇の父・光仁天皇は、約100年ぶりに天皇の座に返り咲いた天智天皇系の天皇・・・(10月1日参照>>)
それまでは、かの壬申の乱に勝利した(7月23日参照>>)天武天皇系列の天皇だったわけで、桓武天皇としては、その天武系の影を払拭したいのと、権力を持ちすぎた奈良の仏教勢力とサヨナラしたいのとが相まって、これまで、1度も都を置いた事が無い京都への遷都を決行するわけですが、それと同時に、天武天皇が定めた「八色の姓」の秩序を乱し、自らが作る新しい身分の序列へと変更しようとしたのです。
桓武天皇の最初の賜姓は、延暦六年(787年)・・・未だ平安京遷都が成される前の事・・・父の光仁天皇の皇子・諸勝に広根朝臣(ひろねのあそん)を、自らの皇子・岡成(おかなり)に長岡朝臣(ながおかのあそん)を与えて臣籍としたほか、延暦二十一年(802年)には、やはり自分の皇子である安世(やすよ)を良岑朝臣(よしみねのあそん)とします。
こうして、天皇の息子が朝臣を賜る事で、もともと、天皇家の近親者だけが賜るはずだった真人の意味は有名無実となり、いつしか姓の序列では、真人の方が朝臣より下に置かれるようになり、やがて彼らが、その出自の高貴性から出世の順位も優遇され、多くの者が公卿となり、中央政界で活躍するという事になるわけです。
プレイボーイで有名な在原業平(ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)も、桓武天皇の息子の平城(へいぜい)天皇の、そのまた息子の阿保親王(あぼしんのう)の息子ですが、例の藤原薬子の乱(9月11日参照>>) で平城天皇が、弟の嵯峨天皇に負けて失脚してしまったので、その息子の阿保親王の天皇家内での順位的なものがグンと下がったために、在原朝臣(ありわらのあそん)なる姓を賜って臣籍に下った人ですね。
・・・で、今回、天長二年(825年)7月6日、桓武天皇の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の長男・高棟王(たかむねおう)が平朝臣(たいらのあそん)を賜ったわけですが、この高棟王の系列が代々公卿に列し、「堂上平氏」と呼ばれて、平安の貴族社会で活躍する事になります。
ちなみに、この系列の子孫が平清盛の奥さん=平時子(たいらのときこ)さんです(2月10日参照>>)。
以前の、平忠常の乱>>の時の系図ですが…(クリックすると大きく見れます)
一方、この高棟王の弟とされる高見王(たかみおう)・・
この方は、現存する史料が少なく、実在した事が疑問視されている方なのですが、その息子とされるのが高望王(たかもちおう)で、この高望王も寛平元年(889年)に平朝臣を賜ります。(5月13日参照>>)
(高見王が実在しないと考える場合は、葛原親王がもっと早くに姓を賜っていたとされます)
・・・で、この寛平元年の年に上総介(かずさのすけ)を命じられ、その領地を治めるために東国に下るわけですが、任務が終わっても現地に残り、公卿としてではなく、武門の一族として生きて行く事になります。
そして、その息子の国香(くにか)や良兼(よしかね)や良文(よしふみ)やらが関東に勢力を拡大して坂東(ばんどう)平氏と呼ばれ、その子孫に、かの平将門(2月14日参照>>)も、そして平清盛も、また、頼朝の奥さんの北条政子も、鎌倉幕府を支える御家人もいるわけですね。
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