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2012年7月14日 (土)

関ヶ原へ向けて…北陸と会津・越後が動く

 

慶長五年(1600年)7月14日、石田三成に賛同した大谷吉継が、越前・敦賀城へ帰還・・・北陸諸大名の勧誘に着手しました。

・・・・・・・・・・

先日=7月11日の佐和山城での会見で、友人の石田三成(みつなり)に賛同する事を決意した大谷吉継(よしつぐ)・・・(7月11日参照>>)

翌日には、増田長盛(ましたながもり)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)も加わって、今後の方針について話し合い、細かな事を決定していきます。

そんな中で、まずは、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)鍋島勝茂(なべしまかつしげ)ら、西国にいて未だ、事を起こしていない大名たちを、「おそらく決戦の場となる東へと向かわせてはならず」とばかりに、三成の兄=正澄(まさずみ)近江(滋賀県)に派遣して関所を設置し、そこより東への行軍をストップさせます。

そして、その翌日=7月13日に始まったのが、妻子人質作戦です。

以前、城割のお話(8月19日参照>>) で書かせていただいたように、織田信長に始まった計画的な城割で兵農分離を実現した事で、多くの大名が領国とは別に、主君の城下にも屋敷を構えていて、妻子はそこにいましたから、今回の場合も、徳川家康とともに会津征伐に向かった諸将の妻子たちは大坂城下にいたわけで・・・

そんな妻子たちの帰国を禁止して、大坂城へ登城させる・・・事実上の人質となるわけです。

実際に軍勢を出して拘束に乗り出す中で、加藤清正黒田如水長政父子の妻など、早々に脱出に成功した者もいれば、拒む者には少々手荒な拘束をした事もあって、細川忠興ただおき)の妻=お玉(細川ガラシャ)のような悲劇(7月17日参照>>)も生まれてしまいます。

一方・・・そんな中、慶長五年(1600年)7月14日居城の越前敦賀城に戻った吉継は、早速、越前加賀(石川県)の諸大名を西軍に引き入れる=勧誘作戦を行います。

北ノ庄城(福井市)青木一矩(かずのり)を皮切りに、越前ではほぼ全員の大名が西軍につく事を表明しますが、府中城(福井県越前市)堀尾吉晴(よしはる)だけは「NO!」

その後、小松城(石川県小松市)丹羽長重(にわながしげ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)山口宗永(むねなが・正弘)などが誘いに応じた事によって、この時点で、越前のほぼ全域と加賀の半分を西軍に引き込む事に成功しました。

しかし、問題は、あの前田家です。

ご存じのように、亡き前田利家の後を継いだ利長は豊臣政権の大老の1人でもある屈指の大大名・・・しかも、利長は、去る5月に、母=芳春院(ほうしゅんいん=まつ)江戸へと人質に出して(5月17日参照>>) 、家康側についています。

しかし、そんな中で、先に動いたのは利長のほう・・・吉継の説得によって、次々と諸大名が西軍についた事を受けて、7月26日2万5000の兵を率いて金沢を進発したのです。

難攻不落と謳われた小松城を避け、まずは8月3日には大聖寺城を陥落させた後、南下を目指します。

もちろん、これを受けた吉継も、救援すべく北を目指します。

なんせ、これらの動きに気づいた家康が、その大軍を西に向けた時、この前田家と合流されてしまっては、ややこしい事になりますから・・・

とは言え、吉継の持つ兵力は前田家に比べて知れたもの・・・正面からぶつかっても、おそれくは勝ち目がありません。

そこで、大聖寺城を落とした利長軍が、越前へと入って来た8月5日・・・一斉に周囲にニセ情報を流します。

「大谷吉継以下、脇坂安治らの別働隊が、金沢を急襲すべく海路へ北へ向かっている」と・・・

この時、勢いづいていた利長の軍は、このニセ情報によって慌てて撤退する事となり、その状況を見て、小松城を進発した丹羽長重と、浅井畷でぶつかり、遭遇戦となる・・・。

これが、以前、北陸の関ヶ原として書かせていただいた浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>) です。

何とか、分散していた兵を1ヶ所に集める事で、かろうじてこの戦いに勝利する利長ではありましたが、あくまで、ギリギリでの勝利・・・しかも、この後も、大勝とはいかず、しばらく戦いが続いてしまう事で、家康との合流どころか、利長は、本チャンの関ヶ原に行く事もできなかったのですから、まずは、吉継のニセ情報が功を奏したという事でしょう。

また、話が前後して恐縮ですが・・・
関ヶ原に関しては、同じ慶長五年(1600年)7月14日の日づけで、「豊臣秀頼の意向により、上杉景勝(かげかつ)越後が与えられた」と、『続武者物語』にあり、それを受けて「執政の直江兼続(かねつぐ)が兵を起こした」事が書かれています。

以前書かせていただいた越後一揆の扇動ですね(7月22日参照>>)

このあたりの動きとしては・・・
三成が、留守となった伏見城を攻撃するのが7月19日・・・(7月19日参照>>)

あの真田昌幸幸村(信繁)親子が、長男の信幸(信之と分かれて西へ戻るのが7月21日・・・(7月21日参照>>)

同じ7月21日には、西軍による細川忠興の田辺城(京都府舞鶴市)への攻撃が開始されています(2009年7月21日参照>>)

そして、上記の越後一揆7月22日・・・

さらに、これらの西軍の動きを知った家康が、会津征伐を取りやめて西へと軍を戻す事を表明するのは7月25日の事・・・

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関ヶ原合戦図屏風(右隻・部分:大阪城天守閣蔵)

何かと本チャンの関ヶ原が注目を浴びる関ヶ原の合戦ですが、実際には、このあたりが1番、両軍の動きに目が離せないのかも・・・ですね。
【関ヶ原の合戦の年表】を参照>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ、茶々様。

以前から疑問に思っていたことに今日の記事が触れたので質問させていただきます。

この『関ヶ原』、その後の『大阪の陣』・・・
豊臣方は各大名の人質的なもの・・・つまり大名の正室などを大阪にとれなかったのか?

家康の江戸時代には参勤交代等で強制人質のようなものが実質 出来上がりますが、秀吉時代に確立出来なかったのか?

朝鮮出兵等で国内が手薄になり人質が重要になる機会もあったと予測できます。

しかしこの『関ヶ原の戦い』『大阪の陣』、共に豊臣方に人質が取られている大名の話があまり出てきません。

もし私なら家康の正室を始め、各大老の家族を人質に取り豊臣方に謀反させないようにしていたと思います。

どうなのでしょうか?

投稿: DAI | 2012年7月15日 (日) 13時03分

DAIさん、こんにちは~

この時の三成の人質作戦は、急激にかつ強引にやったので、諸将たちの反感を募らせる結果となってしまい、結局、途中で中止したと記憶してます。
やはり、反感をそらしながらその制度を確立するには、「かなりの時間がかかる」という事ではないでしょうか?

文中に書かせていただいた城割も、信長から秀吉にバトンタッチして、家康で、やっと完成形を見たと思いますし、参勤交代は、さらに、3代の家光まで待たねばなりません。
妻子のいる大坂と領国を行ったり来たりするには、道路や宿場の整備も必要ですし…

信長や秀吉に、良き後継者がいれば、バトンタッチして続けて、最後に完成を見たのかも知れませんが、結局は、そのバトンを受け取ったのが家康だったというような気がします。

あくまで、個人的な見解ですが…

投稿: 茶々 | 2012年7月15日 (日) 18時19分

回答 ありがとうございます。

しかし・・・う~ん・・・

何か腑に落ちない・・・(-_-;)

(またそれも歴史の楽しみでもありますが、以前の家康と秀頼の関係の時は『目から鱗』で凄く納得したものですが・・・)

今後、『関ヶ原の戦い』~『大阪の陣』の間の背後関係の記事を期待して待っています
('∀`)

投稿: DAI | 2012年7月15日 (日) 22時43分

DAIさん、こんばんは~

確かに…
私も腑に落ちません(笑)
それこそ、以前の「将軍宣下」のように、
「今のところ、そうなのかなぁ」
って感じです。

ホント、歴史って物は、そう簡単にスッキリさせてくれませんね~
でも、おっしゃる通り、そこがおもしろいところであります。

何か、新しい材料を見つけましたら、また、書かせていただきますね。

投稿: 茶々 | 2012年7月15日 (日) 23時31分

>茶々様、DAI様

秀吉の晩年には 隠居所の伏見城下に大名屋敷があり、秀忠夫妻など同地の徳川屋敷に住んでいました。実質、人質の意味合いがあったと思いますが、ご存知お江さんはoriginal茶々様の妹君であり、人質の意味があるのか(家康には正室がおりません。)解りませんが、一応その流れで、ガラシャ夫人は細川家の伏見屋敷に居りました。

まず、この時代の大名の親戚関係が極めて複雑なこと、秀吉没後は家康が西の丸に入り、豊臣家の大老として執権を振るっていること、などから、人質の話はすっきりした形にはならないと思います。

関ヶ原の戦いは、豊臣体制下の大名同士の私戦という意味合いが強く、豊臣家の動き自体が曖昧であります。石田三成が抑えた人質は大阪城に送られますが、淀殿さんなど豊臣家の人々が直接、人質を掌握するのに協力したという形跡はありません。恐らくは、西軍が勝てたら乗ろう、という程度の、好意的な中立という態度ではなかったのでしょうか。

あの時点で 豊臣対徳川 の戦いという認識を持っていた人は むしろ稀だったと思います。

原因と結果が逆だと思います。秀吉や家康のような大権威が存在する場合には 各大名は挙って城下に屋敷を建て、言われなくとも妻子を住まわせたり、忠誠心争いをしますが、逆に、人質を沢山集めるシステムを作れば、社会が安定する訳ではありませんね。

投稿: レッドバロン | 2012年7月16日 (月) 00時51分

レッドバロンさん、詳しい説明 ありがとうございます。

なるほど・・・『関ヶ原の戦い』の時は分かりました。

しかし『大阪の陣』はどなのでしょう???


そもそも『関ヶ原の戦い』の後に、毛利輝元等 西軍の主だった大名だけでなく各 大名の人質を『江戸』に取ること自体 おかしいことだと思うんですが・・・。

秀頼が大阪にいるので拠点となる大阪に処罰された西軍の人質が送られるのが『筋』のような気もするのですが?

大阪に各大名の人質がいれば『大阪の陣』が起こったときに、西軍に付いていた大名も家康に気を使う必要も無く、
『今度は負けんぞヽ(`Д´)ノ』
みたいな感じになってもおかしくないような気がします。

やはり家康の『豪腕』の一言に尽きるのでしょうか?

投稿: DAI | 2012年7月16日 (月) 14時41分

>DAIさん、
>レッドバロンさん、

なかなかに難しいですね~
以前、書かせていただいた芳春院さんの江戸下向の話>>でも、私にはモヤモヤが残ってしまっています。

個人的には、かの手紙が残ってる以上、おそらく、芳春院さんは豊臣政権の代表として江戸に向かったと考えているのですが、それならば、なぜ???という疑問です。

人質なのか?融和を図るためなのか?

まぁ、徳川家からも千姫が来てますから、何かの交換条件みたいな事なのか?

そこらへんに、豊臣と徳川の関係に関する、未だ誰も知らない何かがあるような気がしてならないのです。

投稿: 茶々 | 2012年7月16日 (月) 16時06分

茶々様、DAI様

慶長5年の関ヶ原の戦いから、慶長8年に家康が将軍宣下を受けるまでが、最も曖昧かつ、中間的な時期だと思います。

なぜなら、家康は大坂城西の丸に入り、豊臣家の大老として関ヶ原の戦後処理を行っているからです。(他の大老は事実上失職し、宇喜多さんは島流し)この措置の中には豊臣家の領地(蔵入り地)226万石を65万石に大減封する措置も含まれています。

豊臣家が自分の領地も守れないようでは、大坂に大名家の人質を集める力があったとは到底思えません。

かといって、出来の悪い?教科書に書いてあるように、豊臣家が一気に一大名に転落したというのは言い過ぎでしょう。豊臣家はなお別格としての存在感と膨大なストック(大坂城と金融資産)を維持し続けます。

日本人は元々 両論併記が得意で、一元支配が苦手な民族と言えます。江戸期だって、「陸奥守」とか「上野介」は律令制の官職ですよ。将軍の家来であると同時に、「朝臣」でもあった。会津藩のように、尊皇佐幕という立場も、十分にあり得ました。

ですから、徳川に臣従のポーズを示しつつ、豊臣にも敬意を表する、という大名が多かったのが事実だと考えます。

この時期、豊臣家は京・大坂ではまだまだ大変なブランドイメージがあり、大坂城周辺では相当な防衛力を保持しておりました。しかしながら、他国に出て行ってまで紛争を解決し、諸大名を畏怖させるような圧倒的なパワーは喪失している、という状況ではないでしょうか。

マキアベリの言うとおり、人間を支配するのは恐怖心でありまして。

ちなみに関ヶ原の後、徳川の領地は250万石から400万石に拡大しています。刃向かうには、大きくなり過ぎましたね。

投稿: レッドバロン | 2012年7月16日 (月) 19時37分

凄い・・・(;゚Д゚)!

>刃向かうには、大きくなり過ぎましたね

確かに!
(豊臣内部でも家康の巨大化を止めることが出来なかったのでは・・・)

>家康が将軍宣下を受けるまでが、最も曖昧かつ、中間的な時期だと思います

そーなんですよ!
この時期の背景が一番 曖昧なので謎となっているので知りたいんです!

投稿: DAI | 2012年7月16日 (月) 20時41分

>DAIさん、
>レッドバロンさん

私は、大坂の陣の寸前まで両者の力関係は、思ってる以上に拮抗していたように感じています。

そこに、おっしゃる通りの豊臣ブランドがつくぶん、豊臣の方が上だったのでは?とすら思うくらいです。

後水尾天皇が拒否したために、結果的に実現しませんでしたが、大坂の陣に際して、家康が「秀頼征討の綸旨」を賜りたいと願い出ている所をみても、やはり、豊臣は、家康にとって強固な壁だったように思います。

しかし、結果的に、豊臣は大坂の陣で負けてしまう…

そこが一番不思議で、そこに、徳川家に末梢された何かが存在するような気がしているのです。

投稿: 茶々 | 2012年7月17日 (火) 03時22分

なにやら面白そうなお話なので参加。

>DAI 様
人質自体に、あまり意味は無いかもしれませんよ。
証文代わりのようなもので、いざとなれば見捨ててしまえばいいことです。
人質自身も、そう覚悟しているでしょうから。

>この時期の背景が一番 曖昧なので謎となっているので知りたいんです!
曖昧だからといって謎とは限りませんよ~。
わざと曖昧さを狙っていたのかもしれません。
誰が?もちろん第三の勢力、朝廷がです。
キャスティングボードを狙うには絶妙な感じです。
片方が勝てば無意味なので、記録には残りにくいかも。

投稿: ことかね | 2012年7月17日 (火) 13時00分

ことかねさん、こんばんは~

天皇家にとっては、豊臣の滅亡はショックだったでしょうね。
実際に両雄並び立てるかどうかは別として、自らの出自が低いぶん、秀吉の天皇家を敬う気持ちは相当な物でしたから、豊臣の治世の方が、天皇様の気分は良かったでしょう。

投稿: 茶々 | 2012年7月18日 (水) 03時27分

>>ことかね様
>>茶々様


>もちろん第三の勢力、朝廷がです
えぇぇぇ~
ここに朝廷が絡んでくるんですか(驚)
(;゚Д゚)!


>豊臣の治世の方が、天皇様の気分は良かったでしょう
えぇぇぇ~
確かにそう言われてみれば・・・
(;゚Д゚)!

この流れが朝廷の力を抑えておきたかった家康が公家諸法度をだしたりなんやら・・・

ぎゃ~、訳が分からなくなりました
ι(´Д`υ)アセアセ

謎が謎を呼び
憶測が謎を更に深くします・・・

これだから歴史 大好きです

投稿: DAI | 2012年7月18日 (水) 14時19分

DAIさん、こんばんは~

一説には、後水尾天皇が「秀頼征討の綸旨」の要求を拒否した時、家康は「後鳥羽上皇みたいに隠岐へ流したろか!」と言って激怒したなんて話もあります。

あくまで噂の域を出ない話ですが、豊臣と徳川の関係に朝廷も絡んでくるとなると、考えるだけでワクワクしますね。

投稿: 茶々 | 2012年7月19日 (木) 02時39分

遅レスで失礼します。

>茶々様:豊臣の治世の方が、天皇様の気分は良かったでしょう。

そうなのですか?
それなら素直に、将軍にしてあげればよかったのに。
将軍というカードが残ったがために、徳川にも天下取りの目が残った様に思います。

個人的には、信長の時代から企んでいた離間の計かな、などと妄想しています。

投稿: ことかね | 2012年7月24日 (火) 15時27分

ことかねさん、こんばんは~

以前にも書かせていただきましたが、生前の秀吉は、東日本を守るのが家康(征夷大将軍)で、西日本を守るのが毛利輝元(鎮西大将軍)という事を言っています。
もちろん、関白の豊臣家は、その上にいて全国を統一しているのです。

私は、これが秀吉以下豊臣家の構想で、朝廷もそのように考えていたと思っています。

武家政権は軍事政権なので、軍部で頂点に立つ征夷大将軍がトップという事になりますが、本来の序列は関白の方が上です。
普通は関白になるお公家さんに軍事力が無いので征夷大将軍の方が、軍事政権下で権力持ちますが、軍事力を持ってる関白がいれば、軍事政権下でも関白のほうが権力がある事になり、秀吉がこれだったのだと思います。

どこで聞いたか失念しましたが、最近の説では、秀吉は将軍になれないから関白になったのではなく、将軍の話を蹴って関白を所望したという話も出て来ているようです。
その方が、より上ですし、対朝廷にも有効ですし、

私としては、秀頼が関白に、輝元が鎮西将軍になる前に、どうしても政権を握りたい家康が手を打った…というような気がしています。

投稿: 茶々 | 2012年7月24日 (火) 21時00分

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