「小山評定」前夜…徳川家康と花房職之
慶長五年(1600年)7月24日、会津征伐に向かっていた徳川家康の遠征軍が、下野小山に着陣しました。
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7月に入って、目が離せない関ヶ原です。
豊臣秀吉が亡くなった後、重鎮の前田利家も亡くなった事で表面化して来る豊臣家内での亀裂(3月4日参照>>)・・・そんな中、巨頭の死によって五大老の中でも筆頭となった徳川家康は、度々の上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して、「謀反の疑いあり」と会津を征伐を決行する事に・・・
(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で個々のページへ>>)
今では、この会津征伐は、家康が、秀吉の死後に居座っていた伏見城を留守にする事によって、反発する石田三成(いしだみつなり)の側から攻撃を仕掛けさせる事が目的だったなんて言われてますね。
とにかく、現時点では、世は豊臣政権で、家康も豊臣秀頼(とよとみひでより)の臣下なわけで、当然、全国にいる武将は皆、豊臣の配下・・・家康が手っ取り早く豊臣家を倒して武力革命でも起こそうものなら、それは主君への謀反となり、諸大名や世論の指示を得る事はできない・・・
なので、家康は、上洛に応じない上杉の征伐を推し進め、諸将に従軍するよう呼び掛けて、畿内を離れ、三成が兵を挙げやすくした・・・ってわけですが、それこそ、そんな家康のたくらみが書面で記録に残されるはずはなく、その心の内は、あくまで想像・・・
とは言え、諸将の反対もあった会津征伐が、家康の強い推しで実施されると決まった時、家康は「伏見城の大広間にて、四方を眺めながら、1人、ニコニコは微笑んで上機嫌だった」と板坂卜斎(いたざかぼくさい)の『慶長記』に書かれているので、やっぱりたくらんでたのかも・・・
そんな家康が伏見城を後にしたのが慶長五年(1600年)6月17日で、江戸に到着したのが7月2日・・・
同じ7月2日、一方の三成は親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)に「挙兵の決意」を打ち明け、家康の会津征伐に協力するはずだった吉継は、その後、三成に賛同します(7月11日参照>>)。
そして三成は西軍の総大将に毛利輝元(もうりてるもと)を迎える(7月15日参照>>)一方で、豊臣三奉行の名前の入った「大坂へ来てちょーだい」という内容の連署状を諸将に送り届け、いよいよ7月19日には、小早川秀秋(こばやかわひであき)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・島津義弘(しまづよしひろ)・毛利秀元(もうりひでもと)による伏見城への攻撃が開始されます(7月19日参照>>)。
続く7月21日には、三成からの書状を受け取った真田一家のうち、真田昌幸(さなだまさゆき)と次男の幸村(信繁)が会津征伐を取りやめて戻り(2008年7月21日参照>>)、家康と行動をともにしていた細川忠興(ただおき)の田辺城は福知山城主・小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将にした西軍・1万5000に囲まれました(2009年7月21日参照>>)。
おそらく、想像通りなら、この間の三成の動きを逐一受け取るダンドリをしていたはずの家康・・・確信が得られる三成挙兵の知らせは、いつ家康に届けられたのか???
とにもかくにも、家康は、7月8日に先鋒の榊原康政(さかきばらやすまさ)を出陣させ、自らも7月21日に江戸城を出陣します(この出陣は会津への出陣です)。
さらに、22日、23日、と会津に進軍する中、慶長五年(1600年)7月24日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)に着陣・・・家康から伏見城の留守を任されていた鳥居元忠(とりいもとただ)が発した早馬が届いたのは、その日の夕刻だったと言われています。
それは、もちろん
「治部少(じぶしょう=三成)の攻撃を受けている」
との知らせ・・・
とは言え、家康は、この前日の7月23日の日づけで、出羽の最上義光(もがみよしあき)宛てに
「…御働の儀 先途御無用せしめ候…」
と、
戦闘中止=会津征伐が無くなった事を告げる手紙を送っていますので、刻々とつたわる西軍の情勢に、もはや、心は決まっていたのでしょうが、忠臣の元忠の知らせによって、その確信を、より強い100%の確信とし、西へと戻る決断をしたという事なのでしょう。
・・・で、西へ戻るとなると気になるのは、その会津の動きです。
なんせ、かの上洛要請の時に、ウソかマコトか、上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)は、ヤル気満々の高ピーな書状をよこして来ていますし(4月14日参照>>)、つい先日は越後一揆を扇動して混乱させよう(7月22日参照>>)としてます。
とは言え、会津にはまだ少々の距離あり・・・逆に、この時点で、もっと気になるのは、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義宣(さたけよしのぶ)の動き・・・
この時、義宣は、
「会津征伐に参加しまっせ」
と表明してはいるものの、その身は未だ水戸に置いたまま・・・会津征伐が無くなった(と家康は心に決めてる)今、どっちにつくのやら、その動向が読めません。
そんな時、
「佐竹の軍が背後から襲ってくる」
との噂が流れ、小山の陣所は騒然となります。
そこへ、ナイスなタイミングで、小山の陣所にやって来たのが花房職之(はなぶさもとゆき=職秀)・・・
彼は備前(びぜん=岡山県東南部)の武将で宇喜多秀家に仕える身でしたが、あの朝鮮出兵の時の秀家の戦い方に苦言を呈した事で、主君をエライ怒らせてしまい、殺されそうになったところを、間に入った秀吉のはからいで、佐竹氏に預けられていたのでした。
「ちょうど、ええとこ来たわ・・・どや?佐竹は襲って来そうか?」
と職之に聞く家康・・・
「そうでんなぁ・・・義宣はんは、ものすご律儀な人やさかい、背後から襲ってくるなんて事は無いと思いまっせ」
と答える職之・・・
「ほな、“佐竹は攻めて来ません”っていう誓紙を一筆書けや」
「それは困ります~ 親子でもお互いの心がわからん場合もありますねやさかい、絶対てな約束はできません。。。誓紙はご勘弁を・・・」
と断わりました。
すると、家康は突然不機嫌になり、職之が部屋を出た後、
「職之はなかなかの武将や思とったけど、大したことないな」
と吐いて捨てるように言ったのだとか・・・
その後、職之は、東軍として関ヶ原に参戦して8000石の所領を得ますが、結局、当時の大名と旗本の境界線であった1万石に達する事ができなかった・・・
そう、実は、ここで家康が職之に誓紙を要求したのは、周囲の武将に対するパフォーマンスだったわけです。
例え誓紙を書いたとて、状況が変われば裏切るのが戦国の世というもの・・・後で、佐竹が攻めて来ようが来まいが、そんな事には関係なく、今ここで、「襲ってくる」との噂に騒然となっている、この小山の陣所の兵士たちを安心させるために「誓紙を書け」と、家康は言ったわけです。
しかし、職之はそれに気づかず断わった・・・
なので、家康は「大したこと無い」と吐いて捨てたのです。
この職之の小山の陣でのくだりは、江戸時代に成立した『志士清談(ししせいだん)』に登場しますが、それによれば、職之は
「昔、小山の陣所で誓紙を書かへんかったために、俺は一生パッとせん武将になってしもた。。。名将に仕える者は、そのひと言にも気を遣わんとアカンなぁ。
あの時気づけへんかった俺・・・情けないワ」
と、ずっと後悔していたとか・・・
こうして、職之さんの運命を変えた小山の陣所ですが、ご存じの通り、他にも多くの武将の運命も変えます。
そう、いよいよ、ともに会津征伐にやって来た諸将に、家康が会津征伐の中止を発表し、「敵は畿内にあり!」と、華麗なるUターンを宣言する小山の軍議=世に言う「小山評定(ひょうじょう)」があるわけですが、そのお話は、やはり軍議が行われる明日・・・7月25日のページでどうぞ>>
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コメント
昔、ウチらのトップも、レッドバロン君、気の利かない野郎ってのはな…、(絶妙のひと呼吸)…薄暗闇から牛を引っ張り出すようなもんだ、と言ってました、納得。
投稿: レッドバロン | 2012年7月25日 (水) 01時02分
レッドバロンさん、こんばんは~
昔のエライさんは、うまい事、言わはりますね~
投稿: 茶々 | 2012年7月25日 (水) 02時02分
茶々様、こんにちは。今日7/25の読売新聞朝刊の文化面(35)磯田道史さんの「をちこち」に、関ヶ原での島津軍の強さに書かれています。島津軍は士も腰さし鉄砲を使ったとか。勝利した徳川軍にも大損害が出た。☆このかたきは、「鳥羽伏見」で取ったと結んであるけど、執念深い過ぎます。
投稿: やぶひび | 2012年7月25日 (水) 14時27分
やぶひびさん、こんばんは~
関ヶ原での島津の背進は語り草になってますからね~
鳥羽伏見で仇討ちと言えば、毛利もそうですね。
毛利では、わざわざ東に足を向けて寝たり、新年には、毎年、側近がお殿様に
「本年はいかがいたしましょう?」
(東へ攻めのぼるかどうか?)
と聞くのが恒例になっていたと言いますからね。
スゴイ執念です。
投稿: 茶々 | 2012年7月26日 (木) 03時04分