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2012年7月25日 (水)

老獪・家康…西へUターンの小山評定

 

慶長五年(1600年)7月25日、会津征伐に向かっていた徳川家康が、下野小山において軍議を開き、従軍している諸将に去就を問いました・・・世に言う「小山評定(おやまひょうじょう)です。

・・・・・・・・

昨日のページの続き・・・というか、まさしく、その翌日のお話ですが・・・

そもそもは豊臣秀吉亡き後に、豊臣政権において筆頭家老となった徳川家康が、再三の上洛要請に応じない会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して、「謀反あり」として会津征伐を決行する中、家康と対立する石田三成(いしだみつなり)が、家康が出陣して留守となった伏見城を攻撃(7月19日参照>>)・・・これが、あの関ヶ原の合戦の始まりです。

・・・で、昨日は、東へ向かった家康が下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)に着陣し、その日の夕方に、伏見城の留守を預かる鳥居元忠(とりいもとただ)からの知らせを受け取ったという所まで、お話をさせていただきました(7月24日参照>>)

知らせとは、もちろん「伏見城が三成からの攻撃を受けている」という内容です。

今川で人質生活をしていた頃からの忠臣の知らせに、三成が挙兵した事を確信した家康は、即座に会津征伐を取りやめ、西へとUターンする事を決意しますが、問題は、従軍している諸将たちです。

家康の出陣と前後して会津征伐に出陣した武将は、名だたる者だけでも80余名・・・彼らが連れている兵も含めれば、何万もの大軍となる家康の手勢ですが、彼らの多くは豊臣恩顧の武将たち・・・

そもそもは、豊臣政権下で、豊臣家に対して謀反の恐れある上杉を討つ事に賛同して集まった武将たちで、家康の家臣ではありません。

反転して三成と戦うとなれば、どれだけの武将が家康について来てくれるのかはまさに未知数・・・

かくして、一夜明けた慶長五年(1600年)7月25日・・・

Tokugawaieyasu600 家康は小山の陣所に諸将を集めて、上方にて勃発している異変を告げるとともに、「豊臣家のために奸臣=三成を討つのだ」という名目を掲げて、彼らの今後の方針を問うたのです。

そう、実際に、前年の閏3月には、豊臣家内の武闘派の諸将たちが、三成を襲撃するという事件も起きています(3月4日参照>>)

彼ら武闘派から見れば、三成こそが、秀吉亡き後の豊臣家内を騒がす反乱分子なワケで、家康としてはソコを利用しない手は無い・・・

とは言え、実際には、妻子を大坂方に人質にされてる武将もいます

以前も、チョコッと書かせていただいたように(7月14日の前半部分参照>>)、豊臣配下となっている武将は大坂城下に屋敷を構えていて、通常は妻子もそこに住んでいたわけで、三成は合戦の勃発に際して、その妻子らに大坂城に登城するよう命令を出して人質にしようとしたと言われています。

しかし、それを拒んだあの細川ガラシャの一件(7月17日参照>>)があって、あまり強制する事はやめたとか・・・

ただ、現在では、この人質作戦は、それほど強制的な物では無かった(さっさと逃げている人もいるので…)とも言われていますが、それでも、屋敷の周囲に警備兵が配置され、監視下に置かれていたであろうとの事ですので、やはり、遠く離れて従軍している武将にとっては、大坂城下で妻子がどのような状況に置かれているのかは心配なところ・・・

・・・なので、そのまま軍議の席で諸将に問う形をとれば、それこそ、家康の味方になってくれるかどうかは、はなはだ不安・・・

って事で、家康の命を受け、ここで動いたのが黒田長政(くろだながまさ)です。

軍議の前・・・長政は、以前から「三成憎し」にコリ固まっていて、かの三成襲撃事件の時でも特にヤル気満々だった福島正則(ふくしままさのり)に接触します。

この戦いは、家康が五大老の筆頭として三成を討つ戦いであって、決して、主君の豊臣家に害を及ぼす物では無い事を力説・・・評定の場で真っ先に家康への協力を表明して、「その場を盛り上げてくれ」と・・・

しかし、さすがに「三成憎し」の正則も、大坂の現状が気になります。

『関ヶ原軍記大成』によれば、この時、長政は
「大坂にいてる人質の事はほぉっておいても大丈夫や・・・三成かて、そう簡単に殺すわけないがな!心配せんと家康さんにつけよ」
と言って説得したのだとか・・・

「そら、お前とこの嫁はんは、先に逃げとるからえぇやろけどな!」
と、私なら言っちゃいそうですが、その事を知ってか知らずか、正則は、この説得に応じたようです。

かくして、評定の場で、家康が
「なんやかんや言うても、君らは、妻子を人質に取られとんねやさかい、このまま上方へ行ってくれてもええねんで~
例え、こっちが勝ったとしても、後でその事を咎める事なんかせぇーへんし…」

と、切り出したところに、正則が進み出て、
「そんな事、するわけありません!
僕は、三成に味方する義理も無いし、妻子を人質に出したつもりもありませんから、どないなろうと、ついて行きます!」

すると、その場の空気が一気に盛り上がって、評定の場にいた者は、「我も」「我も」と手を挙げたのです。

さらに、もう一人、その場を盛り上げた人がいました。

奥さんの内助の功で有名な山内一豊(やまうちかずとよ)・・・『鶴頭夜話(かくとうやわ)に登場するお話です。

実は、一豊は、この評定に先だって、友人の堀尾忠氏(ほりおただうじ)に、今後の事についての相談を持ちかけていたのです。

「家康さんは、今回の行軍で、主要な街道の城主が、裏切って城に籠るんや無いか?と心配してはるみたいやけど、君やったらどないする?」
と・・・

すると忠氏は
「俺は、自分の城を明け渡して、そこに家康さんの兵に入ってもろて、自分の軍勢は皆率いて戦場に行こと思てる・・・それやったら、裏切れへん証拠にもなるやろし・・・」
と、家康の味方になるどころか、城を投げ打って参戦する覚悟を語っていたのです。

その意見を聞いていた一豊・・・

なんと、今回、正則のひと言で大盛り上がりになっている評定の場で、すかさず前に出て・・・
「僕の掛川城には守備兵を残さず、軍勢は、すべて、にっくき三成を倒すために連れていきます。
空になった城は、家康さんに差し上げますよって、家康さんの兵を入れてください!」

と・・・

忠氏、ガ~~ン・・・「それ俺の…」
と言う間もなく、家康が、
「それはありがたい!
それやったら、そっちも領国の心配せんでえぇし、こっちも裏切られるかも知れんという心配も無くなる・・・この状況で、これ以上の忠義はないで!一豊くん!」

と、大喜び・・・

忠氏、Wガ~~ン・・・「それ俺の…」
と言う間もなく、またしても、その場は盛り上がり、「我も」「我も」と手を挙げたのです。

ナイスなタイミングで、他人の意見を乗っ取って、ウマイ事やった一豊・・・

こうして、その場にいたほとんど全員を味方につけた家康は、続いて、今後の基本方針を発表します。

軍を二つに分け、1隊は息子=徳川秀忠を大将にして東山道を、家康自身は、もう1隊を率いて東海道を進み、美濃(岐阜県)合流して、西軍との決戦に挑む・・・と、

かくして、先陣を任された正則が、自らの手勢を率いて西へと向かって出立するのは、翌・26日・・・その後、諸将は次々と陣を払って、我先にと西へと向かう(8月11日参照>>)事になります。

その後の事は【関ヶ原の合戦の年表】>>のそれぞれのページからどうぞm(_ _)m
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは!!!
いつも楽しくブログを拝見させて頂いています。

以前からすごーーーく思っていた事があるんですが、福島正則は家康の野心に気付かなかったのかなと。

家康は秀吉が織田家を簒奪した手法をそのまんま真似てるんですが、その流れを実際に戦いに参加して見ていた福島正則が家康の野心に気付けなかったなんてありうるんだろうかと。

それとも薄々は気付きつつも三成憎しで彼が政権を担ったら自分の出番は無いと思い家康に味方したのか。

どうなんでしょう?

投稿: おりえ | 2012年7月26日 (木) 01時37分

おりえさん、こんばんは~

そうですね。。。ホント気になります。
福島正則が、というより、豊臣恩顧の武将たちは、全員気づいてないみたいに見えますね~
それこそ、本当の心の内はご本人にしかわかりませんが、あくまで個人的意見で推理させていただくならば、この不可解な部分は、徳川の造った歴史であるからなのでは?と思うのです。

関ヶ原にしても大坂の陣にしても、何やら、家康が思い描いた通りに事が運び、相手はいつも家康の思うつぼにハマってしまいます。
これは、ドラマの主役がいつもグッドタイミングな所に現われ、とんとん拍子に事が進んで行くのと似てる気がするのです。
ちょうど1年前に、「方広寺の大仏」の話>>を書かせていただきましたが、そのページの最後に、阪神大震災によって偶然見つかった「太閤の湯」という湯殿…ここは、秀吉が造った温泉ですが、家康は天下を取った後に、その湯殿を壊して土で覆って、その上に徳川家の菩提寺を建て、その記録をすべて末梢しています。

徳川の公式記録には、そんな感じの事が、あっちこっちで行われているような気がします。
なので、つじつまの合わない事があったり、武将が不可解な行動をとったりするのではないかと…
もちろん、末梢されてるので、それを証明するのは非常に困難ですが。歴史好きとしては胸躍ります。

長々と書いたワリには、答えになってなくてスミマセンm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年7月26日 (木) 03時20分

>>なので、つじつまの合わない事があったり、武将が不可解な行動をとったりするのではないかと…

ああ、なるほど。そういう可能性もありますね。
どうしても後世の人間は残っている資料から推察するしかないですもんね。

その推察部分が楽しいですけど。

投稿: おりえ | 2012年7月26日 (木) 15時47分

おりえさん、こんにちは~

まぁ、少なくとも、この時点での家康は、「豊臣のために…」って事を強調してますので、豊臣恩顧の武将たちも、すっかり、その名演技に騙されていたのかも…

ホント、こうして、いろいろと想像するのが楽しいですね。

投稿: 茶々 | 2012年7月26日 (木) 16時50分

>小山の陣における豊臣恩顧の大名の心理状態

(1)本当に三成らが豊臣家の害毒だと信じてる人
(2)家康に上手に騙して欲しい人

(3)次の天下人は家康だと、確信犯的に舵を切った人

に分かれるのではと愚考致します。功利打算と大義名分と好き嫌いがミックスしているので、胸中はなかなかに複雑かと。そういう中で、根回しの名人、家康が流れを作り、大半はそれに乗ったという感じが致しますね。

投稿: レッドバロン | 2012年7月27日 (金) 16時19分

レッドバロンさん、こんばんは~

なんか、みんなで
「2次会行くゾ~」
「オー!」
と盛り上がってるとこで、
「僕、嫁はんがアレなんで、帰ります
ってなKY発言ができない状況だったのかも…と変な想像をしてしまいました。

投稿: 茶々 | 2012年7月28日 (土) 03時23分

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