茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種
建保三年(1215年)7月5日、日本初の禅寺を建立した臨済宗の開祖・栄西が75歳でこの世を去りました。
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留学していた宋(そう=中国)からお土産として持ち帰り、日本にお茶を広めた人として、すでに「日本茶の日」という記念日の日づけでご紹介(10月31日参照>>)している千光国師(せんこうこくし)栄西(えいさい)・・・
備中(岡山県)吉備の神職の家系=賀陽(かや)氏に生まれた栄西は、わずか8歳で『俱舎論(ぐしゃろん)』(インド仏教論の本)を読むという秀才・・・
やがて11歳の時に出家し、天台宗の安養寺に学んだ後、14歳で比叡山に入山します。
しかし、山内での派閥争いに嫌気がさしていた仁安三年(1168年)、かねてから希望していた留学のチャンスが訪れ、28歳にして宋に渡りました。
とは言え、この1回目の留学は、ごくごくわずかの期間・・・現地では、天台山の万年寺など訪れましたが、すでに天台宗がすたれはじめ、禅宗が流行している現状を目の当たりにしたくらいで、自身にとっては、納得の成果を上げられないままの、くやしい帰国となりました。
そのため、文治三年(1187年)、再び留学・・・今度は、もっと仏教の奥深くに分け入りたいと、釈迦生誕の地=インドに行く事を目標に修行を続け、陸路でインドを目指そうとしますが、当時のインドの政情が不安定だったため、その願いは叶わず・・・
再び天台山に入り臨済宗黄竜(おうりゅう)派の虚庵懐敞(きあねじょう)の門下となって修行に励みました。
そして建久三年(1187年)に帰国・・・肥前平戸に冨春庵(ふしゅんあん)という小さな庵を建てて、戒律に基づいた禅の修行を開始します。
最初、この栄西のもとに集まったのは、わずか10名ほど・・・そんな彼らと座禅をしながらの日々の中、ある日、栄西は、庵の裏にある空き地に種をまきました。
「何の種をまいておられるのですか?」
と信者が聞くと、
「これはお茶の種ですよ・・・
お茶というのは霊薬で、これを飲むと心が静まり、寿命が長くなるなるんやで。
禅をやるには、このお茶が必要・・・中国の僧は、このお茶を服用しながら、修行に励むんや。
お茶は、すでに日本に伝わってるけど、それは貴族や一部のお金持ちの遊び・・・僕は、禅と結びついたホンマモンの喫茶を、全国各地に広めたいんや」
と、その夢を語ったとか・・・
やがて、栄西の教えは、九州を中心に広まっていき、建久六年(1195年)には、博多に日本初の禅寺=聖福寺(しょうふくじ)を建立しました。
次に目指すは、やはり都のある京都ですが、ここでは伝統仏教の反対に遭い、なかなかに布教活動が難しい・・・
そこで、栄西は、一旦京都は諦め、幕府のある鎌倉を目指します。
これが見事的中!!!
それこそ、たまたまではありましょうが、栄西が鎌倉へ下った年に、あの源頼朝(12月27日参照>>)が亡くなっており、その教えが、奥さんの北条政子の傷ついた心を捉え、当然の事ながら、その息子である2代将軍・源頼家の帰依も受ける事になります。
まもなく、政子の発願で建立された寿福寺(じゅふくじ=鎌倉市)の開山となり、建仁二年(1202年)には、頼家の支援によって、念願の京都に建仁寺が建立されました。
以来、京都と鎌倉を往復しつつ、精力的に禅の教えを広める栄西でしたが、そのあまりの隆盛ぶりは「増上慢(そうじょうまん=高ぶった慢心)の権化」と称され、かの京都では、以前として反感をかうばかり・・・
そりゃ、幕府がドップリと帰依すれば、利権は皆、そっちに行っちゃいますから、それまで、保護を受けて来た宗派からは睨まれますわな。
やがて建保三年(1215年)6月・・・もはや75歳という年齢となり、自らのお迎えも近い事を悟った栄西は、鎌倉を出て、京都へと旅立ちます。
自分の最期を、「あえて京都で迎えよう」と考えたのです。
「自分の死にざまを京都に人々に見てもらい、禅をより理解してもらいたい」
その最後の旅は、禅僧にふさわしく、大井川を渡る輦台(れんだい)の上でも、結跏趺坐(けっかふざ=瞑想の時の座法)を崩さなかったと言います。
建保三年(1215年)7月5日・・・栄西は、建仁寺にてこの世を去ります。
小さな庵の裏庭に、1粒々々まいた小さな種は、やがて100年余りの時を越え、夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>) や一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(2月16日参照>>) などへと花開く事になります。
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コメント
今のシーズン、建仁寺の辺りは混みそうですね。三月頭に六波羅に行った時は閑散としてましたが(笑)
栄西さんの最晩年が、心穏やかであったことを願うばかりです。
投稿: 千 | 2012年7月 5日 (木) 22時48分
千さん、こんばんは~
建仁寺は静かでイイです。
>栄西さんの最晩年が、心穏やかで…
覚悟の京都入りですから、そのお心は悟りを開いておいでであった事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年7月 5日 (木) 23時45分
栄西さんが京都ではなく鎌倉に向かったのは、偶然というのか必然というのか。確かに、禅宗は一方において茶道と、片方では武士道との親和性が高いですよね。
我が家も先祖代々、臨済宗であります。切ったはったを宿命的な生業とする武家としては、どうにも既存の仏教では具合が悪い。祈祷や念仏頼みというのは治者の覚悟としては、ちと…。果断な哲学性を持った禅宗と出会って、武士道はようやく己の精神的な位置付けが出来たような気がします。
投稿: レッドバロン | 2012年7月 6日 (金) 16時01分
レッドバロンさん、こんばんは~
静かに瞑想して自分を見つめ直す…
確かに、禅宗は武士の仏教ですね。
日本が鎌倉になろうとする頃に、中国で流行…なんだか、この偶然にもドキドキします。
投稿: 茶々 | 2012年7月 7日 (土) 00時57分