最期は心安らかに…波乱万丈の光厳天皇
正平十九年・貞治三年(1364年)7月7日、北朝第1代とされる光厳天皇が52歳で崩御されました。
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これまで、後醍醐天皇と足利尊氏のドンパチのくだりで、度々ご登場いただいている光厳(こうごん)天皇・・・まさに太平記の時代に翻弄された波乱万丈の天皇様であります。
以前から、南北朝動乱の発端の事(10月27日参照>>) などで書かせていただいておりますように、そもそもは第88代後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲っておきながら、後に気が変わって、次男の亀山天皇にムリヤリ継承させた事から、後深草天皇の持明院統と、亀山天皇の大覚寺統という派閥ができてしまい、以来、両者の間で皇位をめぐってモメる事に・・・
・・・で、両者の間に鎌倉幕府が介入して、「とにかく両者から交代々々で天皇になるって事でよろしいやん」という事で決着がつき、その時に即位したのが、大覚寺統の第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・
その後、この時に皇太子だった邦良(くによし・くになが)親王(後醍醐天皇の兄の後二条天皇の皇子)が病死した事で、持明院統の光厳天皇(当時は量仁親王)が皇太子となりました。
ところが、ご存じのように後醍醐天皇が倒幕を企て、失敗して隠岐に流罪(3月7日参照>>)・・・当然、天皇ではなくなりますから、幕府の要請で、皇太子の光厳天皇が即位したわけです。
しかし、これまたご存じのように、後醍醐天皇に味方した足利高氏(後の尊氏)、楠木正成、新田義貞らの倒幕チームによって鎌倉幕府は倒されてしまします(5月22日参照>>)。
この時、光厳天皇は、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)の長官=北条仲時(なかとき)らと行動をともにしていましたが、仲時が自刃した後に捕えられ、京都へと戻されました(5月9日参照>>)。
勝利した後醍醐天皇は、ただちに天皇の座に返り咲き、建武の新政に着手(6月6日参照>>)・・・光厳天皇は太上(だいじょう)天皇という尊号を贈られ、事実上の引退となります。(ややこしいので、以下、このページでは光厳院と呼ばせていただきます)
しかし、今度は、その天皇の親政に不満を持った足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえします。
この時、一旦、敗れて、九州へと落ち延びて再起をはかる尊氏に、光厳院は新田義貞追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を与えて味方しました(4月26日参照>>)。
おかげで、その後、力を盛り返して京都を制圧した(6月30日参照>>)尊氏によって、光厳院の弟の光明天皇が天皇となり、光厳院は治天の君として院政を敷く事になります。
・・・が、その一方では、尊氏とかりそめの和睦を結んでいた後醍醐天皇が吉野へと脱出し、この後、50年に及ぶ、南北朝の動乱の幕を上げたのです。
その後、正平五年・観応元年(1350年)に起こった観応の擾乱(じょうらん)というややこしい足利家の内紛(10月26日参照>>)・・・この時に、兄弟でモメた兄=尊氏とその弟の直義(ただよし)が相次いで南朝に降るという事態となり、ここで一時的な和睦が結ばれて北朝は一時廃絶・・・
父=後醍醐天皇の後を継いで南朝97代の天皇となっていた後村上天皇は、父が光厳天皇に尊号を贈った先の例にならい、北朝2代の光明天皇と北朝3代の崇光(すこう)天皇に太上天皇の尊号を贈りました。
・・・と、ここで、このドサクサをチャンスと見た後村上天皇・・・幕府を相手に挙兵するのです。
京都にいた光厳院・光明院・崇光院とともに皇太子の直仁(なおひと)親王を連れ去って、楠木氏の拠点=河内(大阪府南部)にて幽閉し、自らも京都の南の玄関口=男山に籠ります(3月24日参照>>)。
しかし、何と言っても相手は幕府・・・長期に渡る籠城に耐えかね、河内へと脱出する事となり、再び北朝が京都を制して南朝は追いやられるのですが、この時、後村上天皇が三種の神器を持って逃走した事で、やむなく北朝は、前代未聞の神器なし指名なしの後光厳(ごこうごん)天皇を、北朝4代の天皇に据える(1月29日参照>>)事になりますが、こうして、無理やりにでも天皇を立てた事で、南朝は上記の光厳院ら・北朝側の方々を幽閉している意味が無くなり、光厳院らは、やっと彼らから解放され、京都に戻る事ができました。
実に正平十二年・延文二年(1357年)、光厳院は45歳となっていました。
すでに幽閉先の河内の地で出家をしていた光厳天皇・・・その後は、俗界を離れて、ただひたすら仏道に励む日々を送ります。
しかも、すごいのは、ただ一人の僧を供に連れただけの一介の僧侶として各地を行脚する旅に出かけた事・・・
高野山を参詣したり、激戦となった金剛山の地で、自らの関わった乱世を悔いてみたり・・・時には、光厳院の身分を知らぬ荒くれ武士に、橋から突き落とされた事も・・・
この時の武士は、後に光厳院の正体を知って後悔し、光厳院のもとに「弟子にしてください」と言って来たそうですが、光厳院は「私のような者に弟子はいりませんよ」とやさしく諭したとか・・・
吉野を訪れた時には、つい3~4年前まで争っていた後村上天皇に会い、丸一日、語りあったと言います。
なぜ、出家したのか?と問う後村上天皇に対し、光厳院は・・・
「ここしばらく、天下は乱れて、1日として心休まる時もおませんでしたね。
元弘のはじめには番場まで逃れて、500余人の北条の武士が自害する中で、その血生臭さに意識も朦朧となりましたわ。
正平には、この吉野に幽閉されて・・・世の中っちゅうもんは、これほどまでにツライもんかと、初めての経験に驚く事ばっかりでしたわ。
せやよって、もっかい天皇になりたいとか思うはずもないし、政治にも関心はありませんでしたんやけど、幕府とのしがらみもあって、自分の好き勝手にするわけにもいきませなんだ。
いつか、山深い小さな住みかで雲を友達に松を隣人にして、心安らかに生涯を終えたいなぁ、と思てましたところ、やっと、こんなチャンスに恵まれましてん。
長年思い悩んでいた事が、たちまちのうちに晴れ渡って、今は、こういう姿になりました」
と、語ったのだそうです。
尽きぬ話に浸りながらも、やがて帰路につく光厳院・・・
後村上天皇が、馬を勧めるのを丁重に断り、再び、簡素な草鞋(わらじ)ばきで旅の僧に戻り、途中、自らが幽閉されていた館が、草むす廃屋となっているのを目に留めた光厳院は、
「今なら、きっとこの場所でも、心安らかに過ごせる事やろな」
と、思い出に浸りつつ、吉野を後にしたと言います。
その後、丹波(たんば=京都府)山国荘の廃寺を再興して常照寺(じょうしょうじ・常照皇寺)と改めて、そこで隠居生活を送った光厳院は、正平十九年・貞治三年(1364年)7月7日、望み通りの静かな場所で、心安らかに、その生涯を終えた.という事です。
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コメント
いやあ、よい話ですし、日本の歴史が救われる思いがします。
北条方の滅亡に立ち会われた光厳天皇さん、出家に当たっては、やはりあの事件が大きく影響したのでしょう。
またその話になって恐縮ですが、今の政治家に、このような澄み切った心境で、人生の終わりを迎えられる者が一人でもいるでしょうか。
投稿: レッドバロン | 2012年7月 7日 (土) 22時57分
レッドバロンさん、こんばんは~
やはり、あの出来事は光厳天皇にとってショックな出来事だったでしょうね。
>今の政治家に…
ホントですね~
以前に、途中でやめたお遍路を、また、やってる方もおられますが、光厳天皇の行脚とは、ずいぶんと違う気がします。
投稿: 茶々 | 2012年7月 8日 (日) 01時11分
歴史って面白いですね^^
南北朝~、いつだったか!?平成の今、南朝系の天皇さまが三種の神器を携えて現れましたよね。
歴史って~難しくもあります(^^;
投稿: tonton | 2012年7月 9日 (月) 08時45分
tontonさん、こんにちは~
おっしゃる通り、歴史は楽しく、それでいて難しい部分もありますね。
特に南北朝は…
唯一無二の存在である天皇家が二つに分かれてしまったのを、後世の人が、どちらかを正統に定めるのは、かなり困難かと…
投稿: 茶々 | 2012年7月 9日 (月) 15時08分